11月4日(金) 民俗学とコーヒーを見つめる森岡
「民俗学。それは、風習や風俗、伝承、民謡や民話あるいは迷信などを扱っている学問だと誤解する人も多いことと思う。だがそうではない。それは表面上の資料でしかないのだ。
民俗学と、一言にいってもその幅、奥行きは広い。歴史学というものが外殻や骨であるならば、民俗学は肉であり血であり、いわば細胞の一つ一つだ。歴史学が客観的視点で世の中の流れを見ている、俯瞰しているのであれば、民俗学はその歴史の間に消えていく庶民の生活様式から風習や道具、ありとあらゆる流れゆく痕跡から人々の心情を拾い上げている学問である。
ここからが線引きが難しい。何かしらの対象、そう「道具」というものを歴史学と同じように「あるがまま」に客観的かつ冷静に物事の発展や衰退を観察し分析するのは、民俗学に含まれるがそれは「歴史学」の一つだと言わざるを得ない。
例えば農具の発展と衰退だけを分析するのは歴史学だ。中間層に出てくるのが「なぜ、その農具は発展、あるいは衰退したか」に関わる人々の心情、言い方を変えれば当時の政策や風潮、流行り廃りを分析すること。だがそれも歴史学、また古いものを扱う場合は考古学というジャンルである。それは民俗学とは一線を画す。そこにあるのは記録を拾い上げているに過ぎない。
民俗学というのは有形・無形の民俗資料を基に、見ているのはあくまで「そこに生きていた人」であり、人生であり、生き様なのだ。そういう意味にあっては「文学」というものは有名、無名にかかわらず貴重な財産だと言えるだろう。
では我々民俗学に身を置くものは、いったい何を目指しているのか……」
コン コンッ
来週の講演会の練習をしていたが、ドアノックの音で中断される。
「どうぞ。
ここはいつでも開かれた場所です。」
ガチャリと扉が開かれる。
「ご無沙汰しております。西崎です。」
「えっと、あっと、
百合野商事の生田、ですす!」
ニシザキ……
あぁ! ユリノ商事のニシザキ氏!
「いやはや本当に、ご無沙汰だね。
まま、掛けて!」
「失礼いたします。」
ん?
横にいるのはどちらさんだろうか。この子は? ニシザキ氏の娘さんだろうか?
まぁいい。
「お忙しい中すみませんね、先生。」
「なにを言いますか。
いやちょうど良かった! 実はですね先日、北海道で非常に興味深い手記と出会いましてね!」
「ほぅ、それは気になりますね。開拓史のものですか?
いや実に、開拓史辺りはアイヌ文化の迫害、衰退。それは哀しいことですが、その裏、新興する本土文化、いやその実、あらゆる地域からの開拓民による複数の文化の融和。
当時の人々がどのように生き、どのように生き抜いてきたのか興味が尽きませんね。」
「だろう? どう思い、どう悩み考え、日々を生きていたのか。
そしてそれがどう後世に継がれてきたのか。
いや自分もだね……、えっと西、にし」
「西崎です。」
「西崎氏! そうなのだよ!
この非常に興味深い手記、吉山田五郎なる人物の日記のような手記にはだね……」
それから西崎氏と大いに語り合った。
語り合ったとは言っても10分程度だろうか。彼は興味深く相槌を打ち、時折鋭い質問をぶつけ、それに答え、互いの考察を展開した。
不思議なことだ。
一人で悶々と考えるよりも誰かと話しているときの方が考えが纏まったり、新たな展開や発見、新しい道が生み出されたりするのだから。
コン コンッ
我々の語らいが、ドアノックの音で中断される。
「……、どうぞ。
ここはいつでも開かれた場所です。」
ガチャリと扉が開かれる。
「失礼します。
? 御来客のご予定は3時ではなかったですか。」
そこに訪れたのはサラちゃんだった。
さっと室内の見るや否や、彼女は傍らにある電気ポットへと歩んだ。
「教授……、お客様にお茶もお出ししないで。」
「いやいや、結構ですよ。我々の方が早く着き過ぎただけです。それにお客様は先生の方ですから。
お久しぶりです、並河女史。」
「えっと、あっと、百合野商事の生田、ですっ!」
「お世話になってます、生田さん。ここのお手伝いをしている並河です。
西崎課長。並河、と呼び捨てで結構ですよ。父の威光でここにいるのではありませんから。」
「いやいや、
森岡教授が滞りなく研究なさっているのも並河女史の、
あなたの献身的な支えあってのものでしょう。」
ん? 三時?
もうそんなに時間なのか。
西カワ……ニシザキ氏とサラちゃんのやり取りを横目に改めて時計を見る。
もうかれこれ、2時間も経っていたのか。
「ところでですね、森岡教授。先日ご発注された防腐防虫剤なんですけどね。
あれはおそらく世界レベルの高品質。当社としてもそれなりにご用意するのが難しい商品でしてね。」
西ザキ氏が私に視線を戻した。
「そうなんだよ! やはりね、防虫対策とはいえ人体に影響強いものはね。
これでは本末転倒じゃないか。保存できても調べることが出来ないというのはね。
その点から考えるとね、あれはいい。」
「なのでですね教授、あれを100個用意するのは弊社としても、甚大なコストと労力があるわけですよ。」
「ふむ、なるほど。
でもねぇ、10個しか必要ないんだよねぇ。
そもそも10個程度しか保存したいものがないわけだし。」
「いや、そうでしょう。
そんなに保存したいものが多数見つかるのは稀ですからね。」
「その通り! そこまで発見が得られればと、自分も夢のように願うよ!
はっはっはっは!」
西カワ氏と話すのは実に楽しい! 建設的、発展的会話がそこにある!
先日訪れた彼のところの人は、名前は忘れたがずっと首を垂れ、陳情を述べていた。言っている意味はわからなくもなかったが、必要ないものは必要ないのだ。
「……、教授。」
サラちゃんが我々の前のテーブルにホットコーヒーを置きながら声掛ける。
このコーヒーはいつも通り、すでに砂糖を入れたものだろう。そして来客の彼らの前には砂糖とミルクが添えられている。
コーヒーが日本国内に初めて伝わった時期は、江戸時代の初期、鎖国をしていた日本において唯一開かれていた長崎。その出島に駐在するオランダ人からだろうと推察できる。
だがこの独特なコーヒーの香りと苦味。コーヒー文化が日本に広まり始めたのは明治時代からだ。
そこにあるのは文明開化、あの当時の日本人は西欧文化に対し……
「あれほど言っていたのに、もしかして発注を教授自身でなさいましたか?」
「ん? ああいやぁサラちゃん。最近ちょっとサラちゃんは論文作成で忙しいじゃない。
だから煩わせるのもなぁと、おも」
「西崎課長。もしかして、いや発注数に間違いがありましたか?」
なんだろう。
サラちゃんの機嫌が急に悪くなった気がする。
「いやいや、うちの確認不足が原因ですから。」
「はぁぁ。
……、発注は手書きのFAXなんですね。」
「えぇ、まぁ。」
「教授? 一般的に数字には句読点、〇は打ちませんからね?
まして教授の〇は大きいですから、10が100と解釈されても、それはこちらに落ち度がありますよ?」
サラちゃん、本気で怒ってるっぽいなぁ。
「いや、どうもね、メールより直筆のFAXのほうがだね、
パッとやれると思うし、なんというか直筆の記録が残ると」
「いやそうですよね! やっぱり直筆っていいっすよね?」
えっと、誰だっけ、この子は。
「なるほど……
西崎課長、少々お待ちいただいてもよろしいですか?」
サラちゃんがデスクの横、いつものところに座り、カタカタとパソコンを操作する。
「200個オーダーですと、3%ぐらいまで値引きは可能ですか?」
「いやいや、5%は勉強させて頂きますよ。」
「とりあえず、森岡名義で同業に500通ほどDMを発送しました。
こんなんですが、業界では権威ですので半分以上は反応があるかと。
念のため3%引きで値段告知してますが、あとはそちらで対処できますか?」
「有難うございます。その後の処置はこちらで責任もって受け持ちます。」
う~ん、なんだろうか。
自分の知らないところで、彼らはこんなにも親密になっていたのだろうか。
「教授。二つほどお願いがありますが。」
サラちゃんの目がいつも以上に冷たい。
「はい、なんでしょう。」
「発注は私がやりますから、必要なものは私に言ってください。いつでも。
それと、仕事場での名前呼びは……
いいです、後でお伝えします。」
西カワ氏はその後、サラちゃんが短い打合せを行い、娘さんと共に去って行った。どうもこの後、サラちゃんに怒られる気がするのだが。彼との会話で多くを得られたが、と同時に多少の何かが損なわれた気がする。喪失感が僅かに心に残る。
どうも心細い。
うむ、
我々は何かを得た時にほど、そこで何かが失われたことを知るべきなのかもしれない。
ところで君は直筆についてどう思うだろうか?
(@_@。