11月26日(土)色は匂へど林さん、と森岡
色は匂へど 散りぬるを
花々が香り高く、色鮮やかに咲き誇っていた夏は疾うに過ぎ、いつしか季節は晩秋となった。
四季の恩恵はこの秋に全てを降ろされ、これからは厳しい冬への備えに入る……
最近、PDCAという言葉を聞いた。
計画、実行、……次はあぁ、確認だったか。
そして改善。それを繰り返すというビジネス用語らしい。
だがそれは日本古来、本来はずっとやってきたことなのだ。この四季折々豊かな日本。春には田畑を耕し種を植え、炎天の夏、冷夏に台風に水不足。様々な自然の猛威から試行錯誤を繰り返し作物を守る。結果、豊作凶作如何に関わらず、秋にはその恵みと自然に感謝する。たとえ実りが少なくとも。
そして、厳しい冬を迎える。
その何も出来ぬ冬にせめて出来ることを、考えられることを、やれることをやり、春を待つ。
春夏秋冬の繰り返し。その中でずっと、ずっと脈々と。繰り返し繰り返し我々が行なってきたことなのだ。
四季折々の中で先人達が培ってきた不屈の精神性。それがこの国の民衆の気質であり、そしてそれが日本という国を成長させてきたのではなかろうか。
「今日は……、豚汁を作られていないのですね。」
「ん……、あぁ。
つい読み耽ってしまったな。」
はて今は何時だろうか。自宅で本を読み始めるとついつい時間を忘れてしまう。時計を見る。そうか、もう16時を回っていたのか。
読んでいた「弟子屈村歴」を閉じ、声の主であるサラちゃんへと視線を移した。
いつだったか。サラちゃんには色々と便宜を図ってもらっているので自宅の合鍵は預けていた。もっとも自分が在宅の時は鍵を掛けていないので、鍵が無くとも自由に出入りしてもらっている。彼女が自分が居ない時に訪れたのは、忘れ物などを取りに行ってもらった時ぐらいかもしれない。
ここは、彼女にとって第二の家と扱ってもらって構わないと思っていた。兄弟の家だとか別宅だとか。そういう類いで良いのだ。
だがなんだろう。桐島に余計なことを言われたからだろうか。
ここにサラちゃんが来るのは当たり前と思っていたのに、なんだろう。妙に「それは当たり前のことでは無い」と感じてしまう。この部屋に彼女がいることが、どうも不自然というか、切って貼り付けたような違和感を感じる。
どうにも心が落ち着かない。
「ちょうど良かったです。
今夜はハヤシライスを食べましょう。」
「はやし……」
「以前お店でしたけど、教授が食べた時に美味しいと仰ってたのを思い出しまして。
今日は私が作りますね。」
どこの林さんなのか記憶は曖昧だか、サラちゃんが言うのだ。きっと美味しいものを食べたのだろう。以前に。
「ただ……
私、まだ野菜を切るのが不慣れなので、少し時間がかかってしまいます。待っていてもらえますか?」
「あぁ、それは構わないよ。」
サラちゃんが買ってきた食材を次から次へと冷蔵庫へとしまっていく。なかなか沢山あるようだ。どうやら某料理の材料は多岐にわたるようだ。
「どれ、野菜は自分が切ろう。
いつもやってるから、切るぐらいの手伝いは出来るからね。」
「はい、ではお願いします。
とは言っても切るのは玉ねぎとマッシュルームと、牛肉だけなんですけどね。」
隣に並び立つ。
それは以前からもあった。色々と助けてもらっている。だがうちの、いや台所に共に立つというのは初めてのことかもしれない。
指示通りのサイズに玉ねぎを切っていく。
「むむ、やはり玉ねぎは目にしみるね。」
「あぁ……
目は擦らないで下さい、……お兄ちゃん。」
包丁を起き眼鏡を外し右手が、そして左手に玉ねぎ。両手が塞がっていたので腕で目元を拭おうとしたその時、不意に静止させられた。つぶった目元、涙を流すその瞼に何かが当てられる。ゆっくりと目を開けるとサラちゃんがハンカチを当ててくれていた。
「うん。ありがとう。」
彼女を近くで見つめる。眼鏡をしていなかったが、この近距離なので表情はわかった。サラちゃんと目が合う。
その瞬間に稲妻に撃たれたような、いや実際に撃たれたことはないのだが、脳天から背筋を通り足先まで何かが走り抜けた。
『繊細で儚い、この両腕で包み守りたい。』
揺り動かされ、眠っていた感情が起こされるのを感じる。心の中に。
並河教授に似て聡明で物静かで、そして奥様にそっくりだ。陰日向に支えてくれる健気さ。野に咲く一輪の秋花、そんな健気で儚い美しさを彷彿とさせる。
出会った幼少の頃から見たら、とても立派な女性へと成長なさった。今は実に自立した一人の女性。きっとどの世界でも活躍出来るであろう期待がやまない。だがあの時に感じた儚さ。可憐さと言えば良いのだろうか。
自分は今でこそ並河教授のお陰で、この世界では権威とまで言われている。だがそれは単に狭い世界、とりわけ日本に限定された小さな世界での話だ。
けっして誇るようなことでは無い。
むしろ後世に現れるであろう民俗学を継承する者へ、橋渡し出来れば自分はそれで良いのだ。
サラちゃんはこのままこの道を進むのだろうか。もしそうならば自分の全ては、この儚く美しい花のために捧げたい。
いや、そうでなかったとしても……
なんと言えばいいのだろう。
たとえ同じ方向へ進むではなくとも、その考えや情熱を尊重し、見守ることが出来るのではないか。並び立ち、共に歩むことが出来るのではなかろうか。
「……、玉ねぎを切り終えましたら、あとはここからは私がやりますね。」
くるりと反転し、サラちゃんが再び調味料を小皿に用意し始める。
手元にあるレシピらしいメモ紙。
そういう紙片ですら愛おしく感じてしまうのは、……職業病というものなのだろうか。
「あ、あぁ、
さて切り終えてしまおう。」
眼鏡をかけ直し、再び玉ねぎと対峙する。
いつも作る豚汁とは違い、思いの外、細切りだ。
ただ人参やジャガイモ、牛蒡のような根菜が無いので、その切るという行程に負担は少ない。
はてどうしたものか。
使い終えた調理器具を洗ってしまうか。
「あとはその……
炒めて煮込むだけなので。」
どうやら手伝えることはもう無いようだ。
サラちゃんを一人残していくのも気が引けるところではあったが、時として人は物事に集中する場合に、一人になりたいと思うこともある。
「では、
この辺で失礼するとしよう。あとはお願いするよ。」
とは言ったものの、この名残り惜しさはなんなのだろうか。リビングに戻ったものの、彼女の姿をつい眺めてしまう。
開こうかと思っていた書籍に手は置いたものの、開くことはなかった。
やがて部屋にバターの香りだろうか。そして玉ねぎを炒める音と共に食欲をそそる匂いが鼻腔へと届く。
あぁ、美味しそうな香りだ。
そして真剣な眼差しで料理しているサラちゃんの姿。全てが愛おしく感じる。
最終行程に入ったのだろうか。じっと鍋を見つめていた彼女がこちらへと振り返った。
慌てて手元の本を開き視線を落とす。
「もう間もなく出来上がります。」
「あぁ、うん。
ありがとう。……少し休んだらいい。」
「いえ……、底が焦げないよう混ぜますから。
洗い物ありがとうございました。助かりました。」
「いやいや、大した事ではないからね。」
言葉が続かない。
いや、いつもは感じた事が無かった。何か話さねばなどということは。
リビングに置かれた小さなダイニングテーブル。その上に散らかされた書類や本などを片付ける彼女。
邪魔になろうかと思い本を手にソファへと移動する。だがその本の文字は何も伝わってこなかった。ただ羅列された文字を追うだけだった。
サラちゃんを見るとなく、気配を追ってしまった。
配膳されていくテーブルに合わせ、そのまま促されることなく席についた。
空腹だ。考えてみたら今日はまだ何も食べていなかったかもしれない。
「これは……、素晴らしい。
ご馳走だね。えっと、はやし……」
「ハヤシライスですよ、お兄……いちゃん」
「うむ、さて
いただきます。」
「いただきます。」
嗚呼! なんと美味いことか!!
この酸味はなんだろう? トマトだろうか!
その上この玉ねぎの甘味、牛肉の甘味!旨味!
「これは……、美味いな!!」
「良かった! ……です」
全神経が虜となった。
こんなに美味いものを食べたことがあるだろうか。いやあるまい! これは美味い!!
「あの……
明日の朝食を作って良いですか?」
「ん?
あぁ、それは嬉しいな。豚汁を作っていないし。
でも大変だろう、サラちゃん。
早朝から来るというのは。」
「ですので……
今夜は泊まりたいと思います。」
「あぁ、それは構わないよ、
自由にうちを使ったらいい。ここはサラちゃんにとって開けた場所なのだから。」
そこでハタと気がついた。言った後に気がついた。
今まで過去に彼女が泊まったことは無い。
そもそも人が泊まったことなどうちは無い。
故に複数人が寝泊まりする要素は無い家だ。
「あ……、えっと」
そこで初めて皿から視線を上げ、サラちゃんを見た。
伏し目がちに食べている彼女。その微妙に見えている頬。髪の毛の合間から覗く耳。朱に染まっているのは食事中だからか、この部屋が暑いのか。
『抱きしめ包み守りたい』
テーブルを挟んで見るその彼女。
見た瞬間に呼び起こされる感情と熱。
暑い。
「それにしても、これは
林さんは美味いな!」
「……、ハヤシライス、ですよ。
お兄ちゃん。」
「うん……」
もう空になった皿を、こそぎ取るように撫でる。
カチカチとスプーンか皿を叩く音だけが響く。
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
越えられないからこそ
故に浅き夢とて手を伸ばす……
そうではないのだろうか、生きるということは
(@_@。