11月17日(木)トトンと空振りする音を聞く並河
トン トトン トン トン
私は長ネギを切っていた。
早朝の台所。11月も半ばとなり、部屋はまだピリッとした寒さが残っている。
フライパンで魚を焼くジュウという音。その傍らでクツクツと静かに音を立てる小鍋。フードレンジの音。
隣に立つママが静かにフライパンへと視線を落とす。台所を奏でる朝の音。そこから流れる日常の香り。今日という目覚めを迎える香り。
その中でママは静寂だった。淡々と日常を始めていた。
その横顔は、この時間を愛おしく想っているかのように微笑みをたたえている。
ママの一日の始まり。そして世界の一日の始まり。
長ネギひとつ切るにしても、こんなにも難しいものなのか。
不揃いな太さの輪切りの長ネギ。所々が繋がり、所々がほどけている。
まるで私みたい。
「長ネギはね、甘みが欲しい時は引き切り、辛みが欲しい時は押し切りよ。」
ママが静かに、フライパンを見つめ、微笑みながらつぶやく。
「あら? 今朝は早くに出勤なの?」
ママが手を動かしながら振り返り、訊ねた。
「ううん、いつも通り。でも、
朝食の手伝いをしようかな、と思って。」
私はいつもより1時間早く起きてリビングへと降りた。
すでにママの朝は始まっていた。パパが亡くなっても変わらず続くママの朝。休むことなく、変わることなく続く朝。
「そう。」
短く答えたママの背。
毎日続く作業のようなことなのに、いつも通りの当たり前なことなのに。でもママの背は明るかった。朝日だった。そこに在るのは、これから始まる日常を迎え入れる崇高な儀式とさえ思えた。
「朝ごはんぐらい、自分で作れるようにならなきゃ、と思って。」
「うん、……そうね。
じゃあ、お味噌汁に入れる長ネギを切ってもらおうかしら。」
私は嘘をついていた。でもママはそれ以上のことは聞かない。
聞かれていないから私は答えない。でもなんだか見透かされてる気がする。なんだか急に恥ずかしくなる。
そんな気持ちを洗い流すように、私は台所で手を洗った。
長ネギを切りながら、ふと、オウカさんとの会話を思い出す。
「当たり前にある日常って、でも「当たり前には無い日常」だと思うんです。」
私はオウカさんに頼まれ、溶き卵を作っていた。
まず生卵の割り方から苦戦した。力加減も正しい割り方も分からなかった。「切るように混ぜる」とか「空気を含みながら混ぜる」とはどうすればいいのだろう? これは箸二本で出来るものなのだろうか。
オウカさんが豚肉を湯通しする手を止め、一度混ぜ方のコツを見せてくれる。
シャカシャカと軽快に鳴る音。中断し箸で挟むような仕草。手際と言えばいいのかその動きは、小川のせせらぎのように、そよ風が頬を撫でゆく様に、自然な流れだった。
「切るというのはこうやって、白身を挟む感じです。
そして混ぜる時は箸を少し開きます。」
「難しいですね……、私に出来るでしょうか。」
「大丈夫、料理ってやり続けていれば覚えられますから。」
箸と卵が入ったボールが手渡される。
「当たり前にやり続けていたら、当たり前に出来るようになります。
そして、それは「当たり前じゃなかった」ことになるんです!」
「?」
そう微笑む彼女に、私は理解が追い付かない。
「当たり前に来る朝って幸せじゃないですか。
朝ごはんを食べて一日が始まるんです。ちょっとぐらい作るのに失敗しても「朝だからな」って許せちゃう。笑顔で始められる。
でもそれは「当たり前」じゃないんです。
あっと、ほら! 人権って今は当たり前じゃないですか。でも先人たちがコツコツと積み重ねてきたから今は当たり前になってる。当たり前ではなかったのに。
あれ? かえってわかりづらいですね!」
「いや、……なんとなくわかった気がします。」
私はその「当たり前」を彼に届けるために、当たり前に朝ごはんが作れるようになろうとしている。きっと。
「当たり前」のことは当たり前じゃないから。だから「当たり前」にネギを切れるように私は今、ネギを切っているんだと思う。
トン トトン トン トン
いつの間にか長ネギを切り終えてた。
トトン……
空振りする包丁の音。
空振りする私。空振りし続ける私。
私はずっと空振りだった。
ずっと背伸びし続け、その背に追いつこうと上ばかり見て来た気がする。
でもこうして手元を見て、今するべきことを見て、自分を知る。
自分を知った上で、それでも繰り返す。日常を積み重ねる。
長ネギを切り終え、包丁とまな板といくつかあった調理用具を洗う。
ママはいつの間にか、料理の盛り付けを始めていた。手際の良さは、やっぱり自然だった。「当たり前」を当たり前に。
「それが終わったら、配膳をお願いね。」
「うん。」
手早く洗い物を切り上げ、手を拭きながらたずねた。
「ねぇママ。
私が手伝うようになったらさ、
朝ごはんの準備を始める時間はもう少し遅くなるのかな。」
「ふふ、そうね。
でもママのこれは癖みたいなものだから。起きる時間は変わらないと思うわよ?」
ママが柔らかく微笑む。
「そっか……。」
箸とご飯茶碗と、お椀を用意する。盛られた小鉢をテーブルへと運ぶ。
そういえば、
動きながら思い出したことがあった。
『ユリノさんと散歩に出ます』という、あの置手紙は何だったのだろう。
いつも通りに研究室に行ったものの教授はいなかった。やりかけのPC作業はデスクトップに立ち上げたまま。使ていたであろう資料は開いたまま。そこに居ないのは森岡さんだけ。
そんな「さっきまで居ました」みたいな様相で、彼だけいなかった。私がいつもデスク代わりに使っているところに1枚の書置きが置いているだけ。
「ユリノさん」とは百合野商事さんのことだろう。
オウカさんだろうか。いやオウカさんなら「これから行きますね!」という連絡が来ててもおかしくない。そんな連絡は無かった。じゃあ西崎さんだろうか。いや西崎さんも必ずアポを取ってからくるタイプ。それはない。
ふいに「ユリノさん」は百合野商事の誰かのことなのではなく、「ゆりの」という女性のことなのでは? そんなことを思ってしまう。
10分、20分しても戻ってこない彼。
あの時も「ゆりの」なる女性、一瞬だけそんな架空の女性が頭の中を掠めた。でもあの時は「他のやること」に思考が流れたから、それ以上は考えなかった。
彼の研究室を出てからは、そのことを忘れていた。
昨日は取っていた他の講義をこなすだけでいっぱいだったし、隙間時間は自分の論文を書くことに費やしていた。だから森岡さんには会っていない。
なんでそんなことを今、思い出したのだろう。
「パパはね……」
ふいにママがそんな私の背に声をかける。
「食卓にたくさん並んでるのが好きな人だった。
ひじきとお豆の煮物、干し大根と人参と油揚げの煮物。
納豆とかお漬物とか、佃煮とか明太子とかね。小鉢が好きな人だった。
簡単なものとか作り置き、お惣菜で買ったものとかだったし。
難しくはないのよ? でも数を用意する方は大変だったわ、ふふ。
でもね。」
ママがお味噌汁をお椀によそい、私が切った長ネギを散らす。
「こうして作りたての焼き魚とお味噌汁を添えるの。
そして炊き立てのご飯を一番によそう、お茶碗に少しね。」
ママが少女のような笑みで私に言った。
「言葉にすることは少ない人だったけれど、
美味しいって食べてくれるのよ、あの人は。
それだけのために作ってたかな。」
私はその想いに、言い知れぬ想いに打ちのめされ、抵抗する間もなく泣いてしまった。感情が決壊し泣いてしまった。ただ泣いてしまった。
悲しいとか悔しいとか、そういうことではなく、わからないけれど涙が出た。
「ねぇサラ。
誰かのために作る。そんな素敵なことはないわ。
頑張りなさいね。
男なんてね、案外単純なものよ?」
優しく撫でてくれるママの手。
私は未だに生かされてる。未熟に歩んでいる。
でもきっと、絶対に。
私はこの想いを届けたい。たとえ空振りし続けていたとしても。
明日は晴れるでしょうか
一日一日と秋が深まっていきますね
( ^^) _旦~~




