11月15日(火)進化と変化を説く森岡
コン ココンッ
教材整理のための資料目録を作成していたが、ドアノックの音で中断される。
「どうぞ。
ここはいつでも開かれた場所です。」
ガチャリと扉が開かれる。
「失礼いたします。
百合野商事で御座います。百合野商事、の八洲、で御座います。」
「ん、あぁ……。」
そうだった。ユリノ……、ユリノさんが訪問するのだった。
時計を見る。そうか、もうそんな時間か。
そうか、今日はニシ……、ニシさんではなかったのか。
「そちらにお掛け下さい。」
ひとまず応接ソファへと促し、打ち込んでいた資料目録の「ここまで完了」というところを赤文字に変えて目印として残し保存する。パソコン画面から視線をあげると、ユリノさんの彼が折り目正しく立って待っていた。
その姿を見て思い出した。彼は今までも座ったことが無い気がする。あれだろうか、座るのが厳しいのだろうか。もしかして痔疾なのだろうか。
痔疾という病はけっして目新しいものではない。
人が人として二足歩行を始めた時代からあったものだろうことは推察できる。特にその状況から、馬に「またがって乗る」という行為から拍車がかかったことだろう。
だがその疾患の特異性、疾患する場所が恥部に類するものであったことからか、残された文献等の情報は少ない。むろん医療や薬学の分野には少なからずある。が、疾患した人物の資料は少ない。言わずもがな、記録に残すには抵抗があったことは容易に想像できる。
その数少ない疾患者が残した情報の中で、著名な人物の代表例としてあげるならまず「乃木将軍」だろうか。乃木神社や乃木坂という名は彼がルーツであることは有名。その乃木将軍は痔疾だった。
彼は明治天皇の崩御の後を追い夫人と共に自殺しているわけだが、その遺体の様子は詳細に残されている。「臀部ニハ肛門ニ当テタル一物アリ。……蓋シ宿痾ノ脱肛ヲ防クノ用意ナルヘシ」と記録されている。
そして文豪、夏目漱石。
「…僕の手術は乃木大将の自殺と同じ位の苦しみあるものと御承知ありて、崇高なる御同情を賜はり度候」とは、痔疾の手術で入院中の漱石が友人に当てた手紙の一節である。
ちなみに彼の遺作「明暗」は、主人公が痔を治療しているところから始まる。
さらには歌人、正岡子規。
「僕も男だから直様入院して切るなら切って見ろと尻をまくるつもりに候」と漱石に手紙を書いている。
痔疾が彼らと共にあり、そして苦悩をもたらしたであろうこと。
心中を察してやまない。
ユリノさんの彼、ここに不動で立っている彼もさぞかし苦悩していることだろう。
座ることままならず、そして飲み物を出すことが出来ない状況。
こういう時は必ず助けてくれるサラちゃんがいない。となれば取り得る最善策は……
「今日は天気が良いですね。中庭を見たことは?」
「え?
えぇっと、まだ行ったことがありません。」
「では少し散歩しましょう。」
もしかしたら席を開けている間にサラちゃんが来るかもしれない。
『ユリノさんと散歩に出ます〇』そう書置きし、彼を連れて部屋を出た。
1階に着いた。ふと視線の先に自動販売機を発見する。おお、そうだ。これなら飲み物を出すことが出来る。文明は発達している。
「なにか、飲みますか。
好きなものを飲んだらいい。」
これはいい。自動販売機なら好きな飲み物を選択することが出来る。そうだ、珈琲やお茶を出すのが定番だがこれは相手の好みもあろう。また熱いのも冷たいのも選べるのだから完璧だ。
しいて言えば茶を振舞うのだからお茶請けも出さねばならないわけだが、自動販売機にはお茶請けは売っていない。ついてもこない。実に惜しい。
返答は無かったが彼が後ろからついてきてるのがわかった。ポケットに手を入れる。ん? あぁ……、どうやら財布を置いてきてしまったようだ。これでは振舞うことが出来ない。
はて、どうしたものか。
「あぁ先生! 僕がお出ししますよ!」
「そうか! すまないね、ありがとう。」
彼が慌てて自動販売機に、定期入れのようなものをあてがう。「どうぞ」と選択ボタンを押すのを勧める。いまや身分証明だけで無料で飲み物を買える時代になったのだろうか。
自動販売機の前には久方ぶりに立ったが、なかなかのラインナップだ。
珈琲、お茶。この辺りは定番だが刺激物が多い。野菜ジュース、これは悪くない。これ一本で一日の半分の野菜が取れるとは! これは素晴らしい。だが残念だ。冷たいものしかない。これでは体が冷えてしまうだろう。
これは……、なんだろう? 「麦茶ラテ」とは?
……麦茶か、うん麦茶はいい! カフェインは入っていない! そしてこれは温かい飲み物だ!
迷わずその「麦茶ラテ」のボタンを押し、出てきたものを彼に手渡す。
続けてカフェオレのボタンを押した。うん、たまには缶のカフェオレを飲んでみよう。熱すぎなければ良いのだが。
中庭に出た。温かな日差しが心地よい。たまには散歩もするものだな。時折ふくそよ風がかえって心地よいぐらいだ。
通りすがる学徒の会釈に手を挙げて応える。
時代は進化している。文明文化の発展は目まぐるしい。だが変わらないものがある。それは人の心だ。学び舎に集う学徒の真摯な眼差し、探求心という輝き。
と、言いたいところだが、これもまた変化し続けている。精神性というべきか根源的なものは同じだが、時代や地域によってものの考え方、価値観、そういったものが絶えず変化し続けている。一本の幹から枝葉が伸びるように多様性をもっていく。やがて淘汰の果てにその一本がまた幹となっていく。
変化を受け入れてこそ、その先がある。
温かな陽光を受けたベンチがある。ちょうどいい、あそこで……
いや、彼は座らない。座れないのだった。しかたがない、立ち話もなんだし私だけ失礼しよう。
「秋の庭園というのも良いものだろう。」
「そうですね……。」
ん? 君も座るのかい?
「その……、無理しなくても良いのだよ?」
「!! 無理などでは!
……いえ、正直に言えば僕の不徳の致すところです。」
「そんなことは無いよ。」
そうだ、そんなことは無い。そんな悲しい目をするな。痔疾など珍しい病ではない。偉人だろうと文豪だろうと、庶民だって同じだ。病は等しく我々に襲い掛かる。
雀の一団が弧を描きながら飛び、我々の前を旋回していった。
「ユリノ君、我々の歴史はね。
障害と挫折、苦悩と悲壮。それにめげず先人たちが挑戦し築き上げてきたものだ。これは個人、一個人でも同じことなんだよ。
覚悟を決め、乗り越えるしかないのだ。一時の恥などはあるだろう。だが乗り越え進まねば慢性的な痛みから逃れる術はない。
先人たちはそう、教えてくれている。」
泣くな! ユリノ君!!
「……有難う、御座います!」
「そうだな。うちの医学部には附属病院がある。そこの教授は少しいけ好かないやつだが腕は確かだ。
紹介状を書こう。行ってみたらいい。」
「いえ先生! 紹介状など!
御口添えだけ頂ければ結構です! これは僕が覚悟を決めてご訪問いたしますから! 必ずや乗り越えて見せます!」
「そうか……、そうだね。君のプライドを尊重しよう。」
「本当に! 本当に有難う御座います!」
ユリノ君が立って最敬礼する。
「その代わり……、
その代わりと言っては何だが、少々相談に乗ってはもらえないだろうか。」
「!!
ハッ! 何なりと!!」
「君は歳は幾つだろうか。」
「? えぇと、先々月27になりました。」
そうか、27歳か。
サラちゃんとも年齢が近い。これは有益な情報が得られそうだ。
「かなり私的な相談ではあるのだが……
最近ね、師事していた娘さんの話なのだが……
進化を忘れてしまえば衰退しかないではないのか
進化の原動力は興味や好奇心と思うに
君はどう思われるだろうか?
(@_@。




