11月1日(火) 豆腐と胃薬を受け取る西崎
ザバザバと無駄に盛大に顔を洗う。
無駄にタオルでガシガシと拭く。鏡の自分と目が合う。
しけた面だ。生気ってものが無ぇ。ただその眼の奥に、こぶりついた魂が光っていた。
目をそらし、タオルを放り投げる。胃が痛ぇ。
この胃に居座ってるやつが何なのか知らん。たが痛みのシグナルが何かしらの存在を主張する。と同時に、痛みによってもたらされる己という存在の理解、そして罰を受けているような感覚。それによって「俺はまだ生きている」と強制認識させられる。
「くそが」
誰に言うとでもなく、自分自身に言うとでもなく、
ましてや世の中の不条理だとか、そういう不確かな存在に言うとでもなく、
俺はここ最近の口癖と化した3文字を呟く。
あぁ、その通り。
俺は見えない何かに悪態をついて生きていた。
一人前に、いやもしかしたら一人前以上に年齢の数ほど恋に落ち、
そのうち10%ぐらいは恋愛として成就し、「その数」引く1ぐらいは本当の大恋愛をしたと思う。
その恋愛の最後で結婚し、驚くことに二人の子供に恵まれ、
想像以上に俺は自分の娘たちを溺愛し、
そして、
全くどういう経緯か、決まっていた運命のように離婚し、
「ふりだしに戻る」みたいな感じで、
また孤独になった。
元嫁と呼べばいいのか元妻と呼べばいいのか。
別れて3年は過ぎようかとしていたが、いまだその呼称は定まらない。
ちょうど3年前。
俺はうちの会社の先鋒たる営業一課から、今となっては「苦情処理センター」あるいは「雑用係」と呼び名高い三課へ、立ち上げと同時にそこへの異動を願い出た。
一課はその名に恥じぬほどに過酷な修羅の世界だ。営業成績に比例する定期的なボーナス。そしてそれを維持するための残業&休日出勤。やればやるほど、結果さえ出せば応えてくれる実力主義な世界。相性でいえば俺にマッチしていた。どこまでも走り続けることが出来る気がしていた。
対して三課はフォロー係の集団。定時定刻定日出勤を信条としたホワイトな側面。
走るのが嫌になったわけじゃない。むしろ、その手応えを求め走っていた。だが俺は、娘の
「お父さんは今日もお仕事なの?」
その一言で、俺の何かが打ち崩された。その顔を直視できなかった。
1~2か月悩み考えた末、タイミングが重なったこともあり、俺は異動を願い出た。
気づくのが遅かったのだろうか。それとも気づいたのが悪かったのだろうか。
その数か月後のことだ。
「あなたのことが……
嫌いになったわけじゃないです。でも好きじゃなくなりました。
もう私は、あなたのために頑張れません。」
元嫁はそう言って別れ話を切り出した。
俺には言ってる意味が理解できなかった。あいつに頑張らしてきたのだろうか。
いや頑張っていたのは知っている。無理もさせてきただろう。だが意味が分からない。脳が、いや心が追い付かない。
俺にとっての恋愛、そういう感情の基本は「自分が好きか」だけだ。
愛されてる、尽くされてる。そういうことを求めなくはない。だが俺にとってそれは付加価値だった。
元嫁を愛していたのは、あの日だって愛していたのは嘘じゃない。間違いじゃない。
だが元嫁がそう切り出したのだ。覆しようがない。
恋愛も結婚も、相手が居なくては成立しないのだ。いくら俺が好きだろうと。愛していようと。
元嫁とは長い付き合いだ。結婚する前も含めれば、付き合う前も含めれば15年以上の付き合いだ。
否定、回生、逆転。説得などが無理なことは理性で理解した。
人のことは言えないが、あいつは頑固だ。決断は揺るがない。
俺は離婚届にサインし、印を押し、協議離婚にレ点を打った。
娘たちは、当たり前のように元嫁についていった。
そこは娘たちの意思を尊重した。今はたまにラインするだけの仲だ。
別に文句はない。
恋愛も就職も、出世も出産(俺が生んだわけではないにしろ)も、
親の死も離婚も、成人病も白髪も、
標準的な経験は、この一度きりの人生ですでに体験させてもらった。
別に今更、自分の人生に後悔や未練などはない。
あとはなんだ。
「死ぬまでにしたい事リストを10個書いてみましょう」
で、してないことはスカイダイビングぐらいか。
いやま、10個も思い浮かばず、4個ぐらいしかなかったのだからハードルは低いにせよだ。
むしろ、リスト外のことを体験させてもらっているのだ。
俺は十分に満足のいくはずの人生を送ったと思う。
心残りなのは2週間前に買ってしまった、ローズマリーの苗に水をやることぐらいなものだ。
どうせ、胃に何かできたぐらいで死ぬような崇高な人生は送っていない。
明日もまた、同じセリフを吐くに違いない。
「何か問題か。」
問答無用に、カップ焼きそばにお湯を入れたタイミングで後輩、部下、生田桜花から電話がかかってきた。
「問題も問題す!
実はっすね……」
掛け時計を付けるのが面倒くさいから、床に立てかけてあった時計の針を読む。
僅かに傾いた時計に合わせ、俺も首を傾げる。
21時54分。こんな時間まで仕事をしてるやつじゃないのに。
そこからは、出だしこそ仕事の話だったはずだが、友達の相談に乗ってたけど素直な意見を言ってみたら微妙な空気になってしまっただとか、今週の天気の話だとか、ペット禁止のマンションだけど子猫を拾ってしまっただとか、どうにもならない話のオンパレードだった。
一々相槌を打ちつつも、俺は何とかカップ焼きそばが伸びきる前に食べ終え、使った箸を洗い、歯を磨き、寝床を整えた。
「それで、
結局のところ、お前はどうしたいんだ。」
「好きな人に告白しようか悩んでるっす!」
「挑戦することは結果いかんに関わらず、プラスになる。
当たって砕け散ってこい。」
俺はそう言って電話を切った。
挑戦することは素晴らしい。問題は挑戦に値するものを見出せるかどうかだけだ。
結果は結果。経過は経過。どんな結果だろうと得るものは必ずある。
挑戦すると決断した以上、途中経過に挫けず全力で取り組み、その上での結果であれば意味はある。七転八起。どんな結果だろうと得なければ報われないじゃないか。
我々は走っているのだから。生きているのだから。
そこから学び得なければ損だ。
結局、
生きていればどうにかなることしか無いのだから。
但しそれは、再び奴からの電話がかかってきたことを除く。
「先輩! あのっあの!
すすす、好きですか?」
「何がだ?」
「えっと、
豆腐、とか?」
再び電話を切った。
我が侭かもしれないが、俺は「起きたくないのに起きること」よりも「寝たいのに寝れないこと」の方がストレスだ。
「当たって砕けろ! って言ったじゃないすか!」
「わかった。
まずは豆腐の角に頭ぶつけて、どちらが砕けるか試してみてくれ。
話はそれから聞く。」
俺はさらにかかってきた電話の通話、いや電源を切った。
翌日、出勤すると俺のデスクの上に豆腐が置いてあった。幸いなことにパックからは出していない。
その横には胃薬と折りたたまれた紙があった。
紙は湯豆腐の作り方をプリントアウトしたものだった。
湯豆腐のレシピぐらい料理しない俺でもわかる。
豆腐と昆布とお湯があればできるだろう? あとは食べる時にポン酢だとかなんか、あぁ、柚子胡椒だとかあればいいじゃないか。
俺は「料理はしない。」とそのプリントアウトした紙に大きく赤いペンで書き、後輩、生田桜花のデスクに豆腐とともに戻した。出勤した形跡はあるが、今はトイレなのか席にはいない。
外勤・営業・直行直帰
自分の行動予定表の欄にマグネットを張り、コートを羽織り会社を出る。
「くそが」
俺は、ポケットに入れてしまった胃薬を取り出し見つめ、カバンに入れなおした。
三課に移ってからというものの、特別に急いで処理することも、どこか行かねばならないアポイントがあるわけでもない。それこそ外に出る理由があるわけじゃない。
だが俺はいつぞやの癖のように、逃げるように外へ出た。
あり余した時間の使い方を俺は、未だにわからないでいた。
あー、なんだその、
やりたい事を10個書くとか、
案外難しくないか?
(。-`ω-)