表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

アイダとトキの方程式

作者: 竒為りな


 手が挙がるたび、見慣れぬ名前が書き加えられていく。総勢四十名となるクラスメイトと初めて顔を合わせたのはたった一週間前なのだから、黒板に列挙された名に浮かぶ顔は少ない。


 また誰かの手が挙がった。自分の斜め前に座るひどく健康的な彼は、このクラスで唯一同じ中学校から進学してきたクラスメイトだ。彼の他に手は挙がらず、このクラスの男子体育委員は彼となった。

 つい先ほど決まったクラス委員長は、次の委員会への希望者を募っている。各委員会に男女一人ずつ選出することになっているも、今度は誰の手も動きはしない。


(保健委員か、だるいだろうなぁ)


 委員長や担任が繰り返し呼びかけている。保健委員になったからと言ってベッドに寝っ転がれる訳でもなし、自分も面倒くさそうだとしか思わない。

 ぼうっと、チョークの白線を眺めていると、一瞬担任と目があった。


「じゃあ、立川。お前どうだ?」


 一度教卓へ視線をやった担任が顔を上げて放ったのは、やはり自分の名字だ。


「あ、はい。じゃあやります」


 名指しで聞かれ、立川(たちかわ)陽菜乃(ひなの)は辟易としながらも頷いた。嫌なら嫌と通しても全く構わないのだが、断る理由も面倒の二言程度だ。美化委員よりはマシだろう。


「よし、女子は立川だな。じゃあ次、男子でやりたい奴、いるか~」


 感情のこもらない拍手の中、書記係が陽菜乃の名を黒板に記す。その隣に記される名の持ち主が、これから一年間の相棒となる。

 適度に気概のない担任が問いかけ教室を見回すも、気だるい空気が流れるだけ。また始まった呼びかけの後、担任は名簿を開いた。


「小峰。お前やらないか」

「あっ、えっとあの……えっと……」


 呼びかけられた男子は相変わらず上手く言葉が出てこないようだ。

 小峰(こみね)優矢(ゆうや)。彼は最初のホームルームで設けられた自己紹介の場でも、ほとんど名前しか言っていないようなものだった。恥ずかしさか緊張か、真っ赤になった顔で机に向かって声を出していた彼の姿は強く印象に残っている。


「どうだ。やってくれるか?」

「あ……は、はい」


 ずるい聞き方をしたものだ。暗に頼まれる形となって、案の定小峰は否を唱えなかった。


(あーあ、これなら美化委員の方が良かったか)


 正直、小峰のようなタイプはどう接したらいいのか、わからない。陽菜乃は割と気が強い方だ。びくびくと常に怯えて震えている小峰に、怯えさせない言葉選びが出来るとは到底思えないし、彼と一緒に作業をしても効率化なんぞ図れそうにない。


 とんだ貧乏くじを引いた。例え小峰の()()()()が、クラスで断トツに良いのだとしても。



―――



 保健委員の仕事は、授業中や学校行事の際に、具合の悪い生徒が出た場合の付き添い等の介助がほとんどと言える。月に一回開かれる委員会でも、することは少ない。

 今年度初の委員会で、各学年のまとめ役を決めた後に今月の目標を定め、簡単な介助の講習を受けた。それで終わりかと思えば、ある仕事が待ち受けていた。


 ちゃぷんちゃぷんと、よく見かける緑色をした液体が容器の中で波打っている。希釈する前の液体せっけんが、四リットルほどの容量を持つポリタンクに入れられていた。


「ちょっと小峰」

「あ、な、な、何?」

「……この階段上がるんだけど」


 校内の各所にある手洗い場のせっけんの補充。陽菜乃たちの持ち場はまだ見慣れぬ実習棟の三階だ。


「っ! ご、ごめん!」


 構造が把握し切れていないのは当たり前だし、行き慣れない保健室から出発すればわからなくなるのは最早当然のこと。


「別に謝んなくていいよ」

「う、うん。……ごめん」


 結局謝りの言葉を口にした小峰は、立ち止まって完全に俯いてしまった。何か声を掛けた方がよいのだろうか。


(ダメだ。何言ってもごめんって返ってくる気しかしないんだけど)


 聞こえないよう心の内でため息を吐く。陽菜乃が階段を上り始めれば、かすかな足音がついてくる。耳を澄ませなければならないほどに音を殺して、気配を殺して。踊り場でちらと彼を盗み見ると、彼はつむじを見せながら、手に提げていたはずのポリタンクを胸元で大事に抱えていた。

 目的の階まで上り切ると、すぐ近くに物悲しげな手洗い場があった。元から馴染みのない場所にある手洗い場など、意識しなければ認識もしなかっただろう。


「小峰。容器に水入れて。あたし蓋開けとくから」


 極めて希薄な背後の気配に、振り返らずに声を掛ける。そのまま手洗い場に設置された石鹸液を溜める容器へ歩み出した時、消え入りそうな相槌が聞こえた。


(ちょっと冷たかった? 顔見て話した方が良かったのかな。あーわからん)


 恐ろしく小さな相槌は彼を怯えさせた故なのか、元々のものなのか。自分は彼をちゃんと意識して接してやった方が良いのか、それとも彼はあまり自身に触れてほしくないと思っているのか。もう全然わからない。


 細長い手洗い場の少し奥まった所に設置されている容器に手を伸ばす。一体どれほど年数が経っているのか、蓋や容器のあちこちに緑の液だれの跡が残っている。避けた所を触れてみても心なしかぬめっているようだ。

 隣で蛇口が開き水音が鳴り出した。特に窺うことなく蓋を取ろうするも、いくらか体勢がきつい。手洗い場の縁に片手を置いて、もう一方の手で蓋を掴むことは出来るのだが、取り払うにも腕の長さが足りない。一生懸命につま先を立て背伸びするが、隣でバタバタと水がタンクへ注ぎ込まれる音が鳴るだけ。


 諦めて洗い場の縁で膝立ちをしてようやく蓋を取ると、丁度良く水音も止んだ。陽菜乃は蓋を持ったまま無言で場所を開ける。小峰も何も言わずに石鹸水でいっぱいになったポリタンクを横移動で目的の容器の前へ。後は持ち上げて注げばいい。


「うっ、……重ぃ」


 そう、重いから男子に任せた。しかし小峰の細い腕では彼の胸までで精一杯。せめてもうひと踏ん張りしてもらわなければ、とても容器には注げない。


「もうちょっとじゃん。頑張ってよ」

「ご、ごご、ごめっ……うっ」


 こちらとしては応援したつもりだったのだが、小峰の肩を大きく跳ね上がらせてしまった。焦ったのか無理に持ち上げるも、限界が来たらしい。ポリタンクを一度完全に下ろし、肩で息をしている。


 華奢な肩だ。背丈は高くもなく低くもなく。肉付きもあるにはあり、なくはない。少しばかり色素の薄い黒髪は適度に切られてセットはされず自然である。鏡に映っている彼の顔は鼻までかかる前髪に隠れているが、愛らしいとまではいかずとも造形の美しい少年。しかしながら常に何かに怯え震える頼りのないクラスメイト。


「あーもう、貸して」


 完全なる配役ミス。このまま任せても終わりそうにない。


「えっ! で、でも、立川さん、お――」


 また肩を躍らせ顔をあちこちに向ける彼を放って、陽菜乃は手洗い場の縁に手を掛ける。それで今度は足をかけ、上履きを履いたまま堂々洗い場に降り立った。驚いたのかピタリと固まっている彼に手を突き出す。


「いいから貸す!」

「は、はぃ」


 彼がポリタンクを手放し一歩下がったのを横目に両手でタンクを持ち上げる。手洗い場の只中に立ってしまえば容器は腰ほどの高さ、微妙な奥行きもない。一瞬ならばなんとかなる。一息に胸まで上げ抱えるように持ち替えて、ようやく緑の液体が移っていく。髪や制服に液が跳ねないようにだけ気を払い、どんどんと嵩増す緑を眺めた。

 補充をし終え、半分になったポリタンクを小峰に渡す。


「これで軽くなったし、次はよろしく」

「……ご、ごめん」


 申し訳なさ全開で、彼は恐る恐るタンクを受け取った。一応は陽菜乃より背も大きいのに、野兎と話しているようだ。


「いーから。よろしくね」

「う、うん」


 答えつつ、彼は下を向きながら逃げるように廊下を歩みだす。いつの間にか差し始めた夕陽が照らす彼の背中は、光を拒絶する影に見えた。



―――



 月にたった一回の委員会。二度目となる今日も、保健委員会で話し合われた内容は取り留めのないものだった。しいて上げるとすれば、六月に行われる体育祭についての話くらい。

 委員会に出て最も仕事らしい仕事は、やはり石鹸の補充である気がする。


「はい、貸して」

「う、うん。……で、ででも、たち――」

「いーいーかーらーかーすーのー」

「……はぃ」


 陽菜乃は今、手洗い場の中である。持ち場は前と変わらず実習棟。人が少ないのを良い事に、シンクの中に堂々と仁王立ちをしているところだ。

 保健室からの道中は全く静かなもので、小峰は陽菜乃に付き従うようにして付いてきた。手洗い場に着いてから、二人それぞれに作業をしてようやく交わした会話がこれだ。


 前回を活かし早々に手を打った陽菜乃に、小峰は動揺を隠せない。一応は男子のプライドでもあるのかもしれないが、彼のスポーツテストの散々な結果は気を向けないまでも聞こえてきたのだ。最早問答の必要もない。

 陽菜乃の有無を言わさない圧力を受けて、小峰は沈痛な面持ちでポリタンクを差し出してきた。彼の表情を慮ることなく早速作業に移る。


 前回以降、陽菜乃と小峰が言葉を交わすこと、何かで関わりを持つことは一度もなかった。ただ、彼を全く意識しない事は出来なかった。彼はある意味目立つのだ。授業中、休み時間、ホームルーム。彼は注目を集めることを何より恐れているように見えるのに、恐れているが故に言動や行動は奇異になる。そうなれば増々萎縮する。

 この約一か月で分かったことは、小峰はなるべく一人になりたいらしいこと。善意であれ他人が関わってくると、途端に全てが狂ってしまうらしいこと。作業が遅く手伝おうとすれば、逆に彼は失敗を生み出してしまうのだ。


 手に持ったポリタンクの中身が、どんどん減っていく。半分を切らない内に、容器の方がいっぱいになった。陽菜乃は補充をやめて降ろしたポリタンクを小峰に渡すと、蓋を閉めてシンクを降りた。


「次、行くよ」


 スカートを叩きながら突っ立ったままの小峰を促すと、彼は一つ頷いて歩き出す。特に思うところなく後ろを歩いていると、小峰は背中に棒でも刺さっているか直立不動でぎこちない。時折首がほんの少しこちらに回ってくる。どうしてか陽菜乃を気にしているようだ。


(別に何もしないっての)


 ただ後ろを歩いているだけなのに、なぜここまで警戒されなければならないのか。


「小峰」


 前を行く背中に、自然と声が出た。


「あっ、ひゃ、はいっ!」


 見てきた中で最も体をびくつかせた小峰は、返事をしつつも一時停止したまま固まっている。


「あたしってそんなに怖い?」


 悪い癖。思ったことを言ってしまう陽菜乃の悪癖。


「つっ! え、あのっ。あ、あの……その……」


 猫背が更にひん曲がっていく。小峰の上体が小刻みに震え、ポリタンクの液体が激しく揺れている。


「こ、怖いとかじゃ……」

「じゃあ、何?」


 小峰の顔先が床から彼自身のつま先に向く。表情は全くもって窺えず、じっと動かなくなってしまった。


 答える気がないのか。いや恐らく、恐ろしいのだ。


 どんな回答をしたところで、彼にとって事態は全く変わらないのだろう。私の機嫌を損ねてしまったと思っているのだとすれば。


「あのさ」


 語り出しに、小峰の反応はない。


「そうやって変に気を遣うのやめてくんない」

「何かわかんないけどさ、怖がってんの丸わかり」

「なのにちらちら見てくるし。ウザいんだけど」


 勢いで全て言ってしまった陽菜乃。いくらか小峰にはキツイ言い方になったかもしれない。この状況を作り出したのは陽菜乃だが、あの小峰がピクリとも動かなくなってしまったのでは流石に心配になる。


「……はぁ。別にあたしが怖いのはいいのよ」


 元より陽菜乃は万人に好まれるタイプではない。きつい印象を持たれることも、物腰や言動がハッキリし過ぎて敵を作りやすいことも、承知している。


「怖いなら()()()()()()()()じゃん」


 陽菜乃はそう、腰に手を当てて宣言した。


「――――――へ?」


 良かった。一応は話を聞いていたらしい。

 顔を上げるとまではいかないが、小峰は長く垂れた前髪越しに陽菜乃を窺いみてくる。


「あたしさ、怖いなら怖い、嫌いなら嫌いってはっきりしてほしいんだよね。怖がられたって全然怒んないから、あたしの()()()()はしないでくんない?」


 ずっと気になっていた彼の視線。それは相手が怖いゆえに顔色を窺っているのではなく、自分の態度を見て相手がどう感じているのか機嫌を伺っている類のものだ。あからさまに怖がっておいて、人様の様子を見ている。


 ご機嫌取りの視線。それは陽菜乃が最も嫌うものでもある。外れてはいまい。


 ずいと陽菜乃は顔を寄せた。前髪に隠れる彼の瞳を覗き込む。男子にしては大きめの瞳が見開かれている。互いに動かず相手を直視する時間が続く。猫背で俯いていた彼と身を乗り出すような陽菜乃との距離は、とても近い。


「――あの、普通、怖がられる、方とか」

「普通とか関係ないじゃん。あたしはあたし」


 体勢も変えずに、一点を見続ける。


「――その、怖がられるって、嫌じゃ、ない?」

「そりゃ怖がられない方がいいけどさ、どうすんの」

「え、どう、するって」

「怖いとか苦手とかって、今すぐどうにかなる訳ないじゃん。だったら今関係なくない?」

「関係ない、って……じゃあ僕……」


 二人の口元だけが動く。それ以外はまるで時が流れていない。



「あたしの前ではただ怖がってればいいのよ」



 他人が怖くて、どう思われているのか怖くて、常に相手を伺う小峰。

 とても人付き合いが良いとは言えず、特に機嫌取りを嫌う陽菜乃。


 堂々と、あまりにも堂々とした陽菜乃をしばらく見つめていた小峰は、目を丸くしたまま頬を膨らませた。


「――――――――――ぷっ」


 小さく鳴った、笑い声。


「ぷ、くく。あははっ」


 久々に上体を起こして、肩を揺らして彼は笑う。


「なんで笑ってんの」


 小峰の笑ったところを見るのは初めてだ。それは良い事なんだろうけども、笑われるとは夢に思っていなかった陽菜乃は、努めて不満をあらわに詰め寄っていく。平時なら絶対に動揺させえる態度だが、彼の笑みは消えてくれない。


「だって、なんか、可笑しくて、あはは」

「おかしいって、意味わかんないんだけど」

「だって、だって変なんだもん」

「何が?」


 笑わせるつもりなんて全くなかった。ただ何となくムカついて、言い放ってやっただけなのに。


(なんだ、ホント普通に笑えるじゃん)


 空いた手の甲で口元をわずかに隠し、猫背を小刻みに揺らす。下がりっぱなしの口角は上がって、青白かった顔色に血色が戻っていて。


(……イケメンだわ)


 もっと詰め寄ってやりたいのに、陽菜乃の瞳は彼の笑顔を見つめるばかりだ。


(こんなの女子がほっとくはずないのに、なんでこいつドコミュ障なんだろ。笑ってるだけで勝ち組じゃん)


 小峰の顔は、どこぞのアイドルグループと比べても遜色ない。街に出ればすぐにスカウトがかかるだろう。何もしなくても彼の世界は回っていける。それなのに――もしかして、それが理由で?

 学校一のイケメンクラスメイトの笑顔を、胸をときめかせることなく見つめ続けられる女子生徒は、もしかしたら陽菜乃だけなのかもしれない。


「あの、立川さん」


 ひとしきり笑い終えた小峰はほんの少し背を伸ばした。


「ごめん。僕、もう怖がれそうにないよ」


 微笑と共にまたまた想定外だ。


「いきなり苦手克服とか、なんなの、もう」

「あはは。僕もよくわかんない」


 気を遣わず、ビクビク怯えていろと言ったはずなのに。彼は陽菜乃の前で真っすぐ立っている。

 色づき始めた空模様に促され、楽し気な男子生徒と不満気な女子生徒は歩き出していった。



―――



 六月。梅雨の到来をほのめかす雨模様は、仕方なく校内で活動する生徒たちの熱気に曇った窓の向こう。

 どんよりした憂鬱な天気に引きずられた実習棟のとある手洗い場の前で、一組の男女が何やら揉めていた。


「ちょっと、なんでまた元に戻ってんのよ!」


 両手を腰に当てて仁王立ち。堂々と苛立ちを露わにしているのは、立川陽菜乃である。

 対し、


「ご、ごごごめん、なさぃ」


 肩をすくめ、ポリタンクを胸元に抱きかかえて小刻みに震えているのが、小峰優矢だ。

 先月の出来事で、優矢は陽菜乃への恐怖心を克服したかに見えた。しかしながらひと月経って久しぶりに委員会へ赴いたらば、彼の態度はすっかり元に戻り、ここまで来る間もおっかなびっくりついてきたところで、陽菜乃の不平が爆発した。


「もう怖がれない~とか言ってなかったっけ?」


 またまた目を合わせようとしない優矢の瞳を、彼の前髪越しに無理やり覗く。明らかにうろたえる彼の事などお構いなしである。


「ち、ちが。……こ、怖いんじゃ――」

「どう見たって怖がってるじゃん!」


 陽菜乃と優矢がクラス内で会話することは全くないとはいえ、陽菜乃としては彼との距離は多少縮まったと認識してしまっている。更に腹が立っている今、彼に対する口調はかなり強い。

 強烈に噛みつかれた優矢はこれまでとは違った、意外な反応を見せた。いつもなら大きく体を震わせるはずが、陽菜乃の言葉に被さる速さで幾度も頭を振ったのだ。横に大きく、ブンブンと。


「ち、違って……立川さんは、こ、怖くなくて」


 目の前で振られた首の勢いに、陽菜乃は彼の次の言葉を待つほかなかった。


「その、あの、……ゆ、勇気が、出なくて……」


 発言は後半に行くにつれ声量が尻すぼんでいったが、


「勇気が出ない?」


 拾い出せば、彼はこくんと小さく肯いた。

 優矢の言葉を陽菜乃は考えなければならなかった。勇気が出ないと言われても、一体どうゆう事なのだろうか。


「僕も、ま、前みたいに、話したいんだけど……」


 ここでようやく気づく。


「勇気が出ない?」


 優矢は怯えているのではない。


「う、うん」


 どこか、モジモジしている。

 所在なく体を揺らし、ちらちらとこちらを見てくるのだ。


「ごめん。意味わかんないんだけど」


 恐怖がないとはなるほどわかったが、それなら尚のこと勇気を持ち出す必要はないだろう。


「あ、僕、あんな風に喋った事、あんまりその、なくて、その、あの」


 なるほど。人間関係以前の問題か。

 詰まる所、彼にとって普通に、スムーズに会話すること自体が、大きなハードルを越えた先なのだ。そのハードルが、どんな感情心情で形成されているのかは全く定かでないが、彼が今高い壁を前にしてかつ越えたいと思っているのは、鈍い陽菜乃でも察せられた。


「じゃあなんで前は喋れたのよ」


 余計な事とは思ったけれど、ハードルを抱えているにしては良く喋れていたと素直に疑問が出てしまった。


「え、う、うーんと、んと、は、弾み、かな」

「弾み?」

「な、なんか、笑って、その、弾み?」


 相変わらず途切れ途切れ自信なさげな言葉ではある。でもそこに、怯えといったものはない。


「変なやつ」

「う、うぅ」


 しょんぼりと肩を落とした優矢に、陽菜乃は柔らかに笑いかけた。


「わかった。あんたは話すのに一々勇気がいる変なやつ、って事でちゃんと納得したげる」

「ふぇっ、それ、ひどいよ。た立川さん~」


 優矢が困った風体を見せても、はにかんだ口元は誤魔化せていない。

 空は変わらず雨模様をしている。


「はいはい。とりあえず仕事片付けちゃうよ」

「う、うん。仕事。……あ」

「どうかした?」

「た、体育祭……やだなって」

「あー、あんた運動苦手だもんね」

「ち、ちが……保健委員の仕事が」

「委員会の仕事? あ、けが人の介助か」

「うん。その、クラスのみんなまだ怖いし」

「それなら大丈夫でしょ」

「え?」

「あたし、あんたの介助する想定しかしてないから」

「えぇ!?」

「だって転ぶとしたらあんたしかいないでしょ?」

「ひどいよ立川さん! 僕だって転ばない時は転ばないよ!」

「ふーん。じゃあ転んだらジュースおごりね」

「僕が転ばなかったら?」

「あたしが奢るに決まってるでしょ」

「わかった。絶対転ばない」

「言ったわね。ジュース、覚えてなさいよ」



―――



 夏が来た。まだまだ明るい放課後の校舎を照らす白いカッターシャツは、青く広がる大空に浮かび行く雲に引けを取らない。

 暑さにより手洗い場などは使用頻度が高くなっても可笑しくないが、ある実習棟の手洗い場は変わらず寂れている。そんな放課後の一角を訪れる二人の生徒が、今月もポリタンクを下げながらやってきていた。


 健康的な男子生徒とはとても言えない、華奢で白い腕を短くなったシャツの袖から伸ばしているのは、対人関係難あり美少年の小峰優矢である。彼はポリタンクに水を入れ終わると、堂々と上履きを履いたままシンクに上がっている陽菜乃にそれを渡した。タンクを持ち上げる為に捲し上げた長袖の袖を気にしながら、陽菜乃は石鹸水を注いでいく。

 陽菜乃たちの学校では、男女共に夏用の半袖カッターシャツを用意している。陽菜乃は別段ファッションにうるさいわけではないけれども、デザインは似通っているはずなのにどうしてか女子の方はいまいちの評価を得ていた。


「――よいしょっと。はい、よろしく」


 人気の割に減る石鹸水の補充を終えて陽菜乃がポリタンクを優矢に突き出すと、彼はどこか神妙な顔つきで受け取った。陽菜乃はシンクから降りたいが、優矢がタンクを持ったまま目の前から動いてくれない。仕方なく横にずれようとした時に、優矢は大きく息を吸い真っすぐ陽菜乃を見上げた。


「た、立川さん。あ、あの……」

「ん。何?」


 優矢のハンデ。彼にとって会話ということの難しさは先月に納得済みだ。もうこちらから促しはしない。


「その、ジュース、奢るって約束……」

「そうそう、約束は守ってもらわないと。丁度のど乾いてたしラッキー」


 いたずらっぽく笑う陽菜乃と、悔しそうな優矢。彼の方は賭けの内容が内容だからか、恥ずかしそうでもある。


「でもどうする? 三回こけたし、三本にする?」

「えっ! そ、それはちょっと……」


 一週間前の週末に開かれた体育祭は、梅雨も明け素晴らしい晴天に恵まれた。そんな天気共々熱気渦巻く中で、優矢は綱引きに始まり二人三脚、クラス対抗全員リレーの三種目ですっ転んだ。挙句に軽い熱中症になったものだから、計四度も救護テントに陽菜乃が運んだのである。


「冗談だって。そんな飲めないし」


 一つ笑い飛ばしてやれば、優矢はほっとした様子で胸をなで下ろしている。そんな彼に構わずシンクから降りようと足を掛け、ようやく気付いて二、三歩下がった彼の前に立つと、陽菜乃はさっさと歩き出した。

 蝉の音を聴きながら優矢を従え廊下を進む。前よりは感じられる背後の気配が、足音を鳴らして止まった。


「た、立川さん」


 優矢から呼び止められるとは、珍しい事この上ない。間をおかず振り返った先で、彼は一生懸命に言葉を絞り出そうとしていた。

 ゆったりと時の流れに身をまかせる。窓からそよぐ風は何か瑞々しい爽やかさを放ち、彼の袖と前髪をなびかせていく。陽菜乃はただ流れ眺めるばかりで。


「じゅ、ジュース、は、あの。じ自動販売機、だ、だけ、なのかなって……」


 これだけの間をもってしても上手くいかないらしい。それどころか、今日交わした会話の中で一番ひどいかもしれない。


「別に自販機にこだわってないけど?」


 勢いで始めた賭けだ。無理に奢らせる気もないが、


「ぼ、僕の叔父さん、や、野菜とか、ちょ、直売所、をしてて……」


「その、お、お店で、野菜とか、果物とか絞って、その、その……」


 優矢は、床に向けていた瞳を持ち上げた。


「ジュース作る機械! あるんだ! だから……その……」


 ほんの一瞬だったけれど、真っ正面から投げかけられた懸命な優矢の表情と彼なりの誘い。返す答えは考える必要もない。


「なにそれガチじゃん。いいの?」

「う、うん。お店、駅の、その、道沿いにあって。そ、そこまで――」

「へぇ丁度いいね。じゃあさっさと終わらせよっか」


 くるり陽菜乃は廊下を蹴る。


「え、立川さん!」


 はっきりイエスと言わなかったからか、不安気な彼の呼び声を無視して陽菜乃はステップを踏む。わかっている。これは陽菜乃の照れ隠し。

 純粋に、ひどく純粋にうれしかった。


「早くしてよ小峰。あたしのど乾いてるって言わなかったっけ?」


 灰色の言葉が入道雲のように育っていく。キレのない自身の態度が気に入らない。

 保健室から並んで校門を出たのは、初めてだった。



―――



 夏休み。部活動に所属していない陽菜乃が校舎に足を運ぶことはほとんどない。保健委員の集まりも新学期が始まってからなのだから、当然優矢と顔を合わせるのもその時だ。


(二か月も空いたらどんだけ戻ってんのかな)


 先月は優矢の叔父の店で搾りたてのジュースを馳走になり、一緒にいた時間も会話の量もこれまでと比べ物にならないが、せっかく色づいた時間も空白の時間に喰われるのだろう。


 充実した夏休みを過ごす、こともない陽菜乃の夏休みは色味のないものだ。数日に一度くらいは友達と遊びにいくが、他は特に何かした記憶もなかった。

 盆明けの週末にわざわざ優矢の事を思い出しているのは、委員会が開かれるのが今日のような月の中頃だからなのか、それとも部活動に勤しむ生徒たちが奏でる音を聞きながら一人校門に立っているからなのか。考えるまでもない。


(これからどうしよ。もう帰るか……)


 慣れない浴衣の中でも帯と下駄が気にかかって仕方がない。


 陽菜乃の暮らす市内で最大規模の花火大会が開かれる今日に、通う学校の近くでこじんまりとした神社の祭りがあると陽菜乃を誘ったのは、クラスで最も関りを持つ友人だ。待ち合わせに決めた校門で友人を待つこと三十分。仕方なくチャットから切り替えた電話に出たのは、なんと友人の母親で、夏風邪を引いて熱でダウンしているとのことだった。

 母親から代わって出た彼女の様子は中々辛そうで、何度も謝られたところで心配が募るだけである。


 さて困った。折角浴衣を着ているのだし、他の友達を誘ってみたけれども皆花火大会に出向いているらしい。ここから行くにはかなり遠く、交通手段も噛み合わない。検討する理由も、浴衣がもったいないからであって特に行きたい想いはなかったりする。


(浴衣なんて小学校以来だったのになぁ)


 祖母が引っ張り出してきた紺の生地に艶やかな花が咲く、少しばかり味のある浴衣。子供のころに母が着ていたのをよく覚えている。


 珍しく肩を落として陽菜乃は校門を後にした。何かに後ろ髪を引かれながら、俯き加減で下駄を引く。


「あれ、陽菜乃ちゃん? やっぱりそうだ。お祭りに行くのかい?」

「あ、小峰の叔父さん」


 とぼとぼと駅に向かっていた陽菜乃。いつの間にか優矢の叔父の店まで来ていたようで、丁度出てきた優矢とは対照的な彼の叔父が人懐っこい笑みを浮かべていた。


「いやぁ女の子の浴衣姿はいいねぇ。ほらうちの子らはみーんな男だからさ。うーーん陽菜乃ちゃん、良く似合ってるねぇ。いやホントかわいいなぁ、ユウにも見せてやりたいわ!」


 相変わらず良く喋る人である。優矢の母親の弟で、母親似という優矢と同じく細身の男性だが、中々お茶目な人物で本当に血がつながっているのか不思議に思う。


「おだてても何も出ませんよ」

「いやいやほんとだってぇ。陽菜乃ちゃん元々可愛いのにお化粧までしちゃって、まぁ~こりゃこりゃ大変だ。この前はいないとか言ってたけどさ、やっぱり彼氏と行くんでしょ? こりゃ男がほっとくわけないもんねぇ」


 まぁペラペラとよく喋りつつ陽菜乃に寄ってくる。


「本当にいませんよ。あたしもう帰るんで」


 気落ちしている所にこれだけ話しかけられると少しばかり気も滅入る。言葉少なに暇を告げて踵を持ち上げた陽菜乃に、ここまでとは打って変わった柔らかい笑みが向けられた。


「ありゃ元気ないね。どしたのかな?」


 軽い口調ではあるけれど、叔父は膝を折って腰をかがめる。小さな子供をあやすように下から覗き込まれて、陽菜乃は気恥ずかしさにたじろいだ。


「いやその、友達が来られなくなっちゃって。一人じゃ面白くないし、帰るとこなんです」


 改めて言葉にしてみれば大したことではないなと余計に顔が火照ってくる。慌てて苦笑いを浮かべるも、叔父はバツが悪そうに目を流した後だった。


「そっかぁごめんね。僕余計なこと言っちゃったんだねぇ。でも勿体ないなぁ、他に誘ったりしないの?」

「みんなもう花火大会行っちゃったって」

「そういえば今日か。ん~確か交通規制かかってるし今からだとちょ~っと厳しいかぁ」


 野菜直売所の店先で、俯き加減の陽菜乃とあごを擦りながら宙を見上げる叔父。どうしようもない間が続く。その間を叩いたのは、いつもの笑みに戻った叔父だった。


「じゃあちょっと店においでよ。ウチの特製ジュースで元気モリモリになるから、ね?」


 陽菜乃に向いたまま叔父は店内を指さす。いきなりの提案に迷う隙も与えられずに手を取られ、有無をいう暇なく誘われる。


「ほらほら、今日ちょっと蒸し暑いじゃない? こんな日はね、セロリとかを入れちゃうとスカーっとするんだなぁこれが。陽菜乃ちゃんも気に入ってくれちゃうよぉ~。そうそう、昼間には優矢にも作って持ってってやったんだなぁ。でね、優矢、今日何してたと思う? あいつねぇずーっと漫画読んでたって言うんだよ。夏休みだっていうのに全然遊びに行かないでさ……」


 息継ぎなく喋り続けられては、有無のうの字もない。

 気付けば店内の小さな飲食スペースに到着していた。もう断るのは無駄だと悟って優しい木目の丸太のような椅子に座ったところで、叔父が静かになっていると気づく。せわしなく動いていた口はポカリと開いたままだ。


「――そうだ。陽菜乃ちゃん、うちの優矢はどうかな」


 そうだそうだその手があったか、と叔父は手を当てて陽菜乃を振り返る。


「はぁ。小峰……ですか」

「いやぁあいつ本当にどこにも遊びに行かなくってさぁ。姉さんも義兄さんも仕事仕事で忙しいしうちが面倒見てんだけど、ちょっと心配になるんだよねぇ。陽菜乃ちゃんさえ良かったら、遊んでやってくんないかな」


 優矢の状態や両親のことに触れてあくまで優矢の方から聞いてくる叔父。まぁ優矢の心配もある事だろうが、まだ陽菜乃を気にしてくれているのだ。


「別に、あたしはいいですけど」

「それじゃあ早速用意させるから、ジュース飲んでゆっくりしてて~」


 そう言うなり携帯端末を取り出した叔父は何処ぞへ電話を掛けながら、色鮮やかな野菜や果物を手早く刻んでジューサーに放り込んでいく。


「ユウ? お前今すぐ出かける用意しな。んじゃ」


 この人は相手の都合を考える思考を持ち合わせていないのだろうか。


「もうちょっと説明してあげた方がいいんじゃないですか?」

「いいのいいの、どうせ家に籠ってるだけなんだし。はい、どうぞ」


 手渡された薄いライムグリーンが揺れるグラス。仄かな香りは初夏の風を思い起こし、グラスに付いた水滴だけでも涼が漂ってくる。


(いいのって、どこ行くか知らずに用意とか出来ないでしょ。……美味しい)


 無茶ぶりに心の中で苦言が止まらないが、口に運んだ特製ジュースは流れ込むとハッカにも似た清々しさをパッと開かせた。それは濃厚とは正反対の瑞々しさを持ち、儚い甘みが舌を過ぎていく。喉を落ちた後には周りの気温やじっとりした汗の気持ち悪さを忘れさせた。

 美味いと、ただ一言でも伝えようと店内を見直す。


「陽菜乃ちゃーん、ちょっと優矢迎えに行ってくるから、待っててねぇ~」

「え、ちょっと! ――――行っちゃったし」


 腕を大きく振り笑みを振りまいて叔父は颯爽と店を出ていってしまう。すると直ぐに車のエンジン音が聞こえ、一度アイコンタクトを送ってから走り去っていった。


(凄い遠いとかじゃないよね。てか、お客さん来たらどうすんのよこれ)


 個人経営で店舗の奥や二階部分は叔父一家の自宅だそうだから、呼びに行けばいいのだろうけども不用心すぎやしないか。

 陽菜乃が呆気に取らたまま固まっていると、奥の扉が開き一人の女性が出てきた。


「もう、店出てからじゃ遅いっていつも言ってるのに。――――あら?」

「あ、どうも。お邪魔してます?」

「あらあら、ごめんなさいね」


 中々苦しい苦笑いだ。状況説明も求めずに謝ってくるとは、苦労が目に浮かぶ。

 案の定、この女性はあの叔父の奥さんで優矢の叔母にあたる人物で、詳しい話をすれば叔母は何度か謝りつつも色々ともてなしてくれた。聞けば優矢の家は車で行けば数分のところだと言う。


「そろそろ帰ってくるかしら。優ちゃんじゃ頼りないかもしれないけど、お祭り楽しんできてね」


 乾いた笑いを返答にする。頼りないかもしれないではないだろう。実際に頼りないのだから、誤魔化すしかなかった。


「お待たせぇ~。ほら、ユウ」


 飛び込むように戻ってきた叔父に連れられて、困り顔をした優矢が入ってきた。


「ほらって、叔父さんどうした、の――うぇえっ、たたた立川さん!? な、なななんで、なんで――」


 何が何だかといった様子の優矢は、叔父に背中を押し出された先で座っている陽菜乃に気づくと、飛び上がって叔父に詰め寄り喚き始めた。初めて聞いた彼の大声にも驚いたが、なによりも、


(まだ説明してなかったのか。車の中でいくらでも言えたでしょうが)


 いい加減な叔父への呆れが勝る。


「あれ? 陽菜乃ちゃんとお祭りに行っておいでって言わなかったっけ?」

「き、聞いてないよ!」

「ありゃごめんごめん。ユウ、陽菜乃ちゃんとお祭りに行っておいで」

「それはもう聞いたよ!」


 あの優矢ですら抗議をさせる叔父に任せたままでは進みそうもない。陽菜乃は立ち上がると、必死に抗議する優矢の袖を引いた。


「今日お祭りに行こうって言ってたんだけど、一緒に行く友達が来れなくなってさ。良かったら、一緒に行かない?」


 困惑しているからなのか、久しぶりであるのに優矢は顔をそらさない。ぱちぱちと目を瞬かせ、なるべく簡潔にと陽菜乃が選んだ言葉を吟味しているようだ。


「え、えっと……僕?」

「他の子達みんなもう花火大会に行っちゃって。丁度叔父さんに会ったから、小峰はどうかなって思って連絡、してもらった感じ?」


 強く言い切れなかった陽菜乃を見て、優矢は何か察したのか一瞬叔父へと視線だけの抗議を送ってから向き直る。


「あの、僕で、いいの?」


 優矢の瞳には不安と少しばかり疑念も見える。


「いいからこうして待ってたんじゃない。なによ、あたしじゃダメ?」

「だ、だ、ダメじゃない!」


 必死に首を振る優矢の腕を、陽菜乃はパッと掴んで引く。


「なら行こ。叔父さんありがとうございました!」

「いってらっしゃーい。ユウ、しっかりエスコートするんだぞぉ」


 無茶を言う叔父に見送られて陽菜乃と優矢は店を出た。状況の整理がつかないのかおっかなびっくり歩く優矢の腕をしばらく引いて、夕陽も落ちかけ人気の少ない通りまで来たところで腕を離した。


「家近いって聞いたけど、この辺地元なの?」

「う、うん。そうだよ」


 隣に並ばせた優矢は、質問の意図が分からないようで首を傾げて陽菜乃を見てくる。だいぶ落ち着いたらしい。


「じゃあ、野木山神社ってどこかわかる? 地元の友達に任せてたから場所知らないんだよね」


 陽菜乃の家は電車とバスを乗り継いだ先だ。入学して五ヵ月にはなるだろうが、まだ通り沿いの店舗しか覘いたことがないのだから、地区の神社など知るはずもない。


「わ、わかるよ……。小さいとき、よく、お祭り、行ったから……」

「じゃあ道案内よろしく」


 そんな重大事項ではない頼みだが、優矢はくっと引き締めた表情で真剣に頷いてくる。今から力まれては先行きが不安だが何も言うまい。

 陽菜乃の胸中を知ってか知らずか、いや知らないのだろうが、優矢は少しばかり眉を顰めた陽菜乃を心配そうに見返してくる。


「なんでもないから、行こうよ」

「う、うん。えっと、こっち」


 先導をする優矢の後を半歩遅れで歩く。垂れ下がった前髪の奥から時折見える瞳は光を宿し、立ち姿は堂々としている。それにしても、


「ねぇ小峰。あんたそんな服持ってるのね」


 叔父に出かける用意をしろとしか言われていない優矢の服装は、かなり決まっていた。無論、いい意味である。

 流行り物に疎い陽菜乃でもわかる今時のファッション。暗めのサマーニットから白いティーシャツの裾が見え、黒いパンツと革の質感を持つ靴。首から紐製のネックレス。


 優矢を上から下まで凝視して、ようやく陽菜乃の頭にデートという単語が浮かんだ。


「僕のお母さん、その、ファッション関係の、仕事で……。こ、これ全部お母さんが、買ってきたやつ、で」


 そういえばこの間、あのお喋りな叔父が語っていた気がする。それにしても、母親に買い与えられた服でここまで決まるなど、親の影響とは恐るべきものだ。


「ふぅん。結構似合ってんじゃん」

「えっ、あ、えと、あの、ぅん」


 素直に褒めてみせれば途端に優矢は落ち着きをなくす。良いと言ってやったのに片腕を身体に回し、そっぽを向くように顔を背けられてしまった。

 褒められ慣れないにも程がある。


「……暗くなっちゃうから早く行こ」


 そっと優矢の背を押して、案内を再開した彼についていく。地元の人間でなければ通らないだろう人気のない住宅街を照らすのは電柱の灯りだけ。前を行く優矢の顔が赤く染まっていることに、陽菜乃は気が付かない。


 照れ隠しが苦手な男女二人は言葉少なに互いを知覚する。同じ委員会に入らなければ認識することすらなかっただろう。同じ委員会に入らなければ、互いの世界の背景になっていたはずだ。そんな二人が相手を認識し、理解し、感情を揺らしていく。


 色のない日々に、色のない世界に、大きな花が咲こうとしていた。


「立川さん、ここだよ」

「うへぇ。これ昇るの?」


 優矢に案内されて見えてきたのは、鳥居と階段。階段を見上げた先から賑やかなお囃子が聞こえてくる。

 山ではなく小高い丘の上にあるらしい神社へ導く階段はかなりの段数がありそうだ。勾配も大きく見えるというのに、訪れた宵闇に対する灯りはか弱く頼りない。

 躊躇する陽菜乃を促すように優矢は階段に足を掛けこちらを振り返る。階段を上るのに一々文句を垂れる陽菜乃ではないが、今は履き慣れぬ下駄が憎らしい。足元を注視しながら一段一段ゆっくり踏んでいく。それでも石畳で構成される階段は手ごわい。


「わっ!」


 整えられているとはいえ、石の隙間に下駄が引っかかる。前に倒れそうになっても捕まる手摺もない。したらば陽菜乃の腕は、優矢へ伸びる。


「わわっ。だ、だ大丈夫?」


 いきなり掴んでしまったが、優矢は巻き込まれる寸前で持ちこたえてくれた。


「ごめん小峰。ちょっと引っかかって」


 勢いでずれてしまった鼻緒に指をかけ直す。体勢を整え再び上ろうとした陽菜乃に、遠慮がちな掌が差し出された。その不安気な優矢の手をしっかりと握る。


「ありがと」


 礼を述べれば、優矢はほっとしたようでいて且つ嬉しそうだ。陽菜乃も表情がほころぶ。誰かを頼る事の心地よさを久々に感じて心地がよかった。

 遅い時を使って一段を越えていく。時折、後から来る人たちが容易に自分たちを追い越していく。その中にはカップルと思しき男女が仲良く手をつないでいたりもするが、段差ばかり見ている陽菜乃たちの目には留まらなかった。


 長々と続く階段を半分ほど登ると小さな踊り場に出た。相当時間をかけたのではと時計を確認したが、針はたった数分しか刻んでいない。隣で息をつく優矢を陽菜乃はただただ眺める。彼の時間は短いものだったろうか、同じものだったろうか。


 センチメンタルな時間。残念ながら陽菜乃はそういったものに疎い。


「小峰。ちょっとしゃがんで」


 踊り場の隅っこで、陽菜乃は言われる通りにしゃがみ込んだ優矢の正面にかがむ。何本ものピンで飾り立てた髪型が崩れずに済みそうなものを選び出し、一本だけ引き抜いたピンを持って優矢の前髪に触れる。驚いて固まる彼の前髪を片方に流す形で留めた。


「はい、いいよ」

「え、え、あの……」


 階段を上がる時に優矢もかなり苦慮していると気が付いた。それは純粋に長く下がった前髪が邪魔になっていたからだ。

 前髪のなくなってしまった優矢は怯え始めている。それだけ重要な役割を持っているのだろう。


「階段上る間だけでいいから。見えづらかったんでしょ?」

「あ、うん。で、でも……」


 優矢は俯いた状態を維持して立ち上がろうとしない。


「まだ下りてくる人いないんだから誰にも見られないって。あたしも見ないし」


 陽菜乃は顔をそっぽ向けて優矢に手を差し出す。それが握り返されるにかかった時間は思ったより早かった。

 手を繋ぎ何人かに追い越されながら登る。お囃子が良く聞こえるだけでなく、集まった人々の笑い声も聴こえてくる。

 一段を踏むに要した苦労は大幅に減っていた。見通しの良くなった優矢は、彼自身の足下だけでなく陽菜乃を気配る余力が出来たらしい。歩調をピッタリ陽菜乃に合わせたりグッと引き上げてくれたりと見事なエスコートである。


 長かった階段の終着を告げているような鳥居をくぐった陽菜乃と優矢を出迎えたのは、お社まで続く縁日の賑わい。多様な出店が並び映え、出店が備える電飾と店の間を埋める提灯の灯りが辺りを照らして回る。

 楽し気な会話、表情、笑顔。鼻をくすぐる甘い匂い、香ばしい香り。人々はせわしなく動き回って手に手に食べ物であったり風船であったり何かを持ち歩く。


「友里子が穴場だって言ってたけど、凄い人じゃん」


 一緒に来るはずだった友人曰く、花火大会に隠れて穴場になっているお祭りとのことだった。だが見たところ地元の神社で開かれる小規模の縁日だ。しかし大きなイベントが近くにあるにも関わらず、規模を考えると人が多い印象を持つ。


 一通り辺りを観察し終えて後ろを振り向くと、控えるように傍にいた優矢と目があった。


「あ、ごめん。ピン取るね。――――小峰?」


 あれだけ怯えていたのだからピタリと固まってしまうのは当然だ。呆然と立ちすくんでいた優矢へ慌てて伸ばした手は、優矢が肩をびくつかせて後ろへ下がった為に届かない。

 距離を取った先でも優矢は顔を上げていた。体を震わせることなく彼の瞳は陽菜乃を捉え続けている。


「どうかした?」

「…………あ、ああの、その。……っ!」


 大袈裟に優矢を覗き込んでみる。それで問うてみれば、ようやく優矢は反応を返した。何かを誤魔化すように目を逸らした彼の前を人が通っていく。目があったわけでもないのに、彼は激しく怯えた。


「ほらピン取るよ」

「…………。」


 怯えさせないようゆっくりと手を伸ばす。動揺甚だしい優矢に届こうとすると彼はまた離れてしまった。自分でピンを取ろうとはせず、離れながらふいと背ける顔の向きに陽菜乃は違和感を得た。


「取りたくないの?」


 優矢は上目遣いで首を縦に振る。

 一体全体どうしたのか皆目見当がつかないが、とりあえず優矢はピンを取りたくないらしい。その癖周りに誰かが通るとひどく怯えるのだ。


(わけわかんない。つか、知らない人なんか気にしなきゃいいのに)


 そんな風に思いながらも彼にとって簡単ではない事は重々承知している。


「どうせ誰もあんたの事気にしてないよ。それでも怖いんなら、



――()()()()()見てればいいじゃん」



 思い違いでなければ、ピンを取る以外に彼が陽菜乃を拒む様子はない。周囲の誰ぞと陽菜乃が区分されているのなら、見ていられるものを見ていればいい。今この時に、関わり合わぬ者を捉える必要はない。


 大きな音と共に、満開の花が灯る。


 しかして背を向けている陽菜乃は気にも止めず、見る的はここだと袖を広げて主張する。


「あ……」


 見開かれた優矢の瞳は、一体何を映したのだろうか。眩しさに目を細めるようにしてはにかんだ彼は、陽菜乃との間にあるほんの二、三歩の距離を小走りに詰めた。


「た、立川さん。手、繋いでもいい?」

「どうぞ」


 それはつい先程までとは異なっていた。おっかなびっくりで、優しくて、柔らかい。もう、支え合うことが目的のものではないのだ。


「あ、花火!」


 陽菜乃が空いた手で空を指す。さっきは背を向けていたために見えなかったそれは、手を取り参道を歩き始めた二人の正面に。遠くで打ちあがっているはずの花火の鱗粉が見事に映えていた。


「ここ、花火見物の穴場、なんだ」


 隣で同じように夜空を仰いだ優矢は、そっと陽菜乃に向き直りながら少しばかり誇らしそうに小首を傾げた。なるほど、友人が穴場だと言ったのは確かであったか。


「立川さん、こっち」


 微笑を振りまいて彼は陽菜乃を引っ張っていく。辺りの子女が騒ぎ回っているも、彼の瞳は揺るぎない。


「ちょっと、どこいくのよ」


 優矢が向かう先には、鬱蒼とした木々の立ち並んでいて人気がない。陽菜乃が眉をひそめて止まろうとしても、彼はぐいぐいと進んでいく。


「立川さん、見て!」


 木々の間を抜け、先を示した優矢を見越していたかのように、何も遮ることのない大輪の花々が二人を照らした。


「うわ綺麗。なにすごいじゃん」

「うん。穴場の穴場でしょ?」


 小高い丘の一角で、手を繋ぎながら同じものを見て、届くものを一緒に受け取る。空間も時間も共有する二人の間に、遮るものはあるだろうか。


「ねぇ立川さん」

「ん? 何?」

「ありがとう」

「いきなりなによ、照れるじゃん」

「何となく言いたくなった」

「変なの」

「うん」

「でもまぁ、あたしの方こそありがと」

「え、えっと……」

「なんでもない。何となく言いたくなったから」

「うん」


 照れ隠しが苦手な陽菜乃と優矢。けれど、隠す必要はなかった。互いに笑い合えば良かったのだから。




―――




 春。何ものも息吹を始めるように、毎年やって来るにも関わらず新たな門出を生む季節は、新入生でなくとも特別だ。進級しクラスメイトも変わり、どれもが区切りをつけられる。


 春休みが終わり早一週間が経ち、新たなクラスも落ち着きを持ち始めていた。登校して早々に気だるさに任せて机に覆い被さっていた陽菜乃は、教室の扉付近で上がった黄色い声と、誰かが自分を呼ぶ声に身をもたげた。

 視線を送ったそこには、様子を窺う女子生徒たちを気に掛けまいと必死に陽菜乃を注視している優矢の姿がある。


「おはようユウ、どうかした?」

「ひなちゃん、おはよう! あの、あのね……」


 互いに名前で呼び合うようになったのは、冬に入ってからだった。夏休みの花火大会から、優矢と陽菜乃は連絡先を交換し、学校でも関わり合うようになっていった。そうして一緒に初詣に行った辺りから、会話で優矢がまごつくことはなくなった。


「えーっと、そのぅ」


 優矢は、二年生になっての初登校日から前髪を留めた。留めているピンが花火を見に行った時のもの、という点は気恥ずかしいのだが、元々容姿を気に掛けられていた優矢が女子生徒の目に留まらぬはずがない。流石に視線が降り注ぐ中では未だ言葉に詰まることもある。


「あのね、ひなちゃん今年委員会入るのかなって」

「あー、委員会ね。迷ってるとこ」


 意味ありげに肩をすくめると、優矢は難しい顔で思案しているようだ。


「でもさ、同じ委員会に入ってもあんま意味ないと思うけど?」


 おそらく考え事の中身はこれであろう。どの委員会も同じということはないだろうが、基本はクラス単位だ。

 優矢と陽菜乃は、別のクラスになった。それは前々からわかっていたことで、優矢は文系、陽菜乃は理系を専攻することになりクラスも文理でまず別れるからだ。


 陽菜乃が答えを示せば、優矢の表情は悲しさに悔しさが上塗りされていく。別に委員会については、もはや二人の関係性に与える影響は左程ないのだから、入る必要はないと言い切っていいだろう。


「一個だけ、クラス関係ないのあるじゃん」

「え、ホント?」


 それでも、二人を繋いだあの時間は価値のあるものであった。ただ単純にあの居心地の良さを、大事にしていきたいのだ。


「――()()()

「えぇっ! いや、えぇっ!」

「なによ、他にないんだから仕方ないじゃん」

「いやぁちょっと違うっていうか、生徒会は違うかなぁと」

「じゃあどうするのよ」

「うっ……でもぉ」


 狼狽える優矢が面白くて、陽菜乃はいたずらっぽい笑顔を浮かべて彼を覗き込む。


「でも、生徒会って選挙とかあるでしょ?」

「そうね。ユウはいいとして、問題はあたしか」

「えっ、僕はいいってどうして?」


 目を丸くする優矢に、陽菜乃はきっぱりと、


「ユウは顔で行けるから大丈夫よ」

「ちょっとひなちゃん!?」


 冗談だと笑ってやれば、彼は困り顔をしながらも微笑みを返してくれる。今となっては、周りに誰がいようとも関係はない。二人でいれば、周りは背景でしかないのだ。


 あとは、優矢が陽菜乃を落とすだけである。




ありがとうございました(*ˊᵕˋ*)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ