貴族と奴隷の起源 ノブレス・オブリージュについて
貴族と奴隷の起源については、人が生きるために争ったとき、生命をかけて戦い勝利した者が貴族となり、生命をかけて戦うことはできなかった者がと奴隷となった。
こういう考え方があるようです。
その戦いに敗れた者も奴隷となったのかな、とも思いますが。
そうであれば、貴族のひとつの定義として、生命をかけて戦うことのできる人。というのがあるのかな、と思います。
ノブレス・オブリージュ。高貴なる義務。
人の上に立ち権力を、持つ者には、身を挺しても果たさなければならない義務がある。
かつてのイギリスをはじめとするヨーロッパ社会では、そのような道義感はあったようです。
第一次世界大戦の際は、兵よりも将校のほうが死亡率は高かったということを読んだ記憶があります。
より大きな危険は、命令する側が負う。
こういう倫理があったのかな、
と思います。
であれば、国家対国家が戦争するのであれば、その当事国家のトップは、最も危険な場所に立つべき。それが出来るものだけが、生命をかけた戦いを実施する命令を発することができるのでは、と考えますが、この理屈の実践はなかなか難しいようです。
さて現状はどうでしょう。
多くの犠牲者が出た事故が起きても、その事故を起こした企業のトップは、ほぼ無罪を主張しますし、政府関係部署で、誰かが明確に責任を取るというようなことも無さそうです。
その組織で下にいる者が、上司の気持ちを忖度する。
上にたつものは、何かあれば部下に責任を負わせ、自分は責任を取らない。ノブレス・オブリージュを実践している人というのは、あまり見聞きしません。
でも、ノブレス・オブリージュというのは、そういう立場にある人、ひとりひとりが自分でどう考えるか、どういう生き方を選択するかという個人的な問題で、それが上にたつものの義務だと声高に主張することではないかなと思います。
しかし、であれば、仕事に生命をかける、などという類の言葉を軽々しく使ってほしくはないし、仕事の上で、ひとに命令する権限を持った立場の人は、いざというとき、自分はどれだけの責任を負うのか、負うつもりなのかということを自覚した上でそれを行ってほしい、と思います。
組織を運営していく上で、必要だから命令、指示している。
であれば、それだけのこと。
命令する側も、命令される側も、淡々とそれを行い、それを受ければよいだけの話。
そこに過剰な思い入れ、ストーリーを付随させる必要はないと思います。