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楽しい毎日を送るために  作者: 恵美乃海
5/11

ヒロイズムについて

 ここまで、毎日を楽しく送るためには、ユートピアに対する幻想。観念的な哲学、超常的宗教は、心の中から排除したほうがよい、という意味のことを書きました。

 しかし、できれば無縁でいるよりもさわりだけは知ったうえで、深入りはしない、敬遠するのがよい、という趣旨のことも合わせて書きました。


 ヒロイズム。すなわち英雄主義。

 私は、この概念も同様であると思っています。


 物語におけるヒロイズムは、その物語を面白くするうえで重要な要素だと思います。

 ストーリーを面白くする上でのヒロイズムまで否定しているわけではありません。


 しかし、それはあくまでもフィクションとしての物語。

 そして歴史を物語として語る場合のヒロイズムです。


 ヒーローに憧れる。自分自身を離れて、ヒーローになった自分というものを痛切な思いで憧れる。

 そういう心情からは、本物の楽しさは生まれないと考えます。

 大切なものは、本当の自分。周りにいる普通の人たち。

 現実にある普通の場所を愛おしく思うこと。

 そういう心情を持てれば、劇的なことではなく、ごく普通の日常をもっとも大切に思う。

 そういう心情が生まれるのではないでしょうか。


 そのとき、その人の普通の人生の、あらゆる瞬間が輝き始めるのではないかと思います。


 さらには、フィクションとしての物語も、ヒロイズムとは無縁の、普通の人の物語が、好んで創作され、読まれる。

 そのようになっていけばより良いのでは、と思います。

 心の中が、ヒーローを求める心情が無くなっていけば、自然とそうなるのではないかと思います。


 もう余計なことかもしれませんが、歴史について以前書いたことを転載させていただきます。



 そして私が考える最高の学問とは、様々な時代において普通の人(常民)の衣食住はどのようであったか、どういうことを日常考えていたのか、その考えの元にどのような人生を送ったか、それを掘り起こしていくことではないかと思う 。  


 別のタイトルにおいて私は、歴史において好きな時代、好きな人物について書いた。


 英雄が去ったあとの時代、その時代を担った人物にシンパシーを感じる、と書いた。  


 しかし、英雄の在、不在によってイメージされる時代、あるいはそのイメージ の元に象徴される人物などというものは単なる記号である。 


 いかなる時代においても、 その時代を代表する有名人の下に、大変な深さ、厚みをもった無名人の層が存在する。

 その層を研究せずしてその時代は語れないはずだ。  


 歴史学自体、過去に語られた有名人の歴史を脱却して、社会史と総称される無名人の研究にそのウェイトを移そうとしている。


 それこそ本来の姿であろう。   


 歴史をその本来の深さ、厚みをそのままに研究しようとすれば、それは必然的に庶民史であり、郷土史すなわち村里の歴史となるであろう。  


 それを超えてしまえば、歴史は皮相化、記号化、象徴化、概念化の道をたどらざるをえない。  

以下はウィキペディアで、「資本主義」を検索すると、後半に記載されている文章です。

味読していただければ

と思います。


自由主義・民主主義・平和主義


自由民主主義は、商業国に最適な政治制度とされている[48]。このシステムでは競争し合い、利益の相違は交渉・妥協を通じて解決することが前提となっている[48](当然、そのような制度は「英雄的」ではなく、反民主主義からは「卑劣」「軟弱」「凡庸」「腐敗」等と見なされてきた[49])。一例はアメリカの民主主義であり、アレクシ・ド・トクヴィルは以下のように論じている[50]。


もしも人間の知的・道徳的活動を現実の生活の必要性に注ぎ込み、生活の向上に役立てたいのならば、

もしも理性の方が天才よりも人の役に立つと考えるならば、

もしも英雄的美徳ではなく穏やかな習慣の創造を望むならば、

もしも政府の主な目的が、最強の力や国家全体の栄光の獲得ではなく、すべての個人に最大の幸福を提供することであるならば、


条件の平等を整えて民主的政府を確立するのが良いだろう。

19世紀中頃のアメリカ訪問中には、こう述べている[51]。


すべての人が積極的野心にみなぎるこの国では、崇高な理想は希薄である。

実際には民主主義と戦争の相性は悪くなく、近代史では、民主主義国家が独裁政権にことごとく勝利している[52]。しかしトクヴィルの見解によると、民主主義下の市民(ゾンバルトの言う「ブルジョア」や「商人」)は、生命をかけて戦闘することを簡単には受容しない[52]。


自由民主主義や資本主義は、「英雄的」信条とは異なり、自由思想リベラルに近い[53]。観点によっては、リベラル社会は「凡庸さ」を奨励さえしている[53]。ナチス・ドイツの国家主義者アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは、リベラル社会では自由が与えられ、「際立った人生よりもありふれた日常」に重きが置かれると見ており、その点ではトクヴィルも類似している[53]。すなわちリベラルな資本主義社会では、大多数の人々は「普通の生活」を送る[54]。ピューリタンの伝統に則り、リベラルは普通に生きることを受け入れた[54]。そして17世紀のオランダ絵画やイギリス文学(ジェーン・オースティンの小説)が描いたように、凡庸な日常生活にも威厳があり、それは嘲笑するのではなく大切に育むべきだという考えも確立されていった[54]。英雄主義や結束主義ファシズム等は、これに対立する[。

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