プラトン哲学と老荘思想の一口解釈 ニーチェと論語も少しだけ登場
すみません。第二回のラストで、次回は何を書くか予告したのですが、別のことを書きます。哲学と、それから少し宗教について。
哲学、宗教というものに関心を持たれている方というのは少数なのかな、と思います。
そういうのは、胡散臭いと思われるかもしれません。
特に観念的な哲学や、超常的な宗教というものは、ユートピアと同様、考えても仕方のないこと。深入りすると、かえって害毒になると思います。
が、それだけに、そういう考え方に対して免疫を付けておく、という言う意味でさわりだけでも知っておくことは、無意味なことではないと思います。
観念的な哲学ということでは、プラトン。
プラトニズムです。理想主義と訳されるようです。
プラトンは、理想、そして精神に重きを置きました。
プラトニックラブは、肉欲的な行為を伴わない精神的な愛ということになるわけです。
そして、理想、完全といったものにつながるイデアという概念を、プラトンは唱えました。
この現象世界は不完全な世界。世界の本質はイデアにあり。
だそうです。
だからどうした。
はい、もうこれでいいでしょう。
次に老荘思想について記述します。
これについては、既に単発で、本サイトに単独で投稿済なのですが、そのままここにコピペするには、不要な記述が多いので、それを除いて、まあここまでは良いかなと思える箇所をコピペします。元々は、相当以前に書いた文章です。
高校時代に哲学、思想に興味を持った。
だが高校時代に読んだ哲学書は、 新潮文庫の「ツァラトゥストラかく語りき」だけだった。
そのとき読んだのは、「超人」ということばに惹かれただけのことであり、またやはり高校時代にリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」を聴き(編曲されたものであったと思う)、えらく感激し、私が買った最初のレコードとなった。
「俺は、最も感激した本と音楽が同じだ」などと悦にも入っていた。
が、音楽はともかく、本については、その時点では「超人」ということばを カッコイイと思っていただけで、ニーチェの思想が理解できていたわけではない 。
(今も「超人」と「永劫回帰」以外はよく分からないし、この2つについても本当に 理解できているのかどうかは、専門家にこのサイト上にある ニーチェに関して書いた文章を読んで判断してもらうしかないが・・・)
高校時代は、とにかく、
「宇宙という限界を超えたもの:「超宇宙」
と、
神を 超えたもの :「超神」
について思考をめぐらした。
そして「俺はすごいことを考えているんだ」と悦に入っていた。
さて、大学に入学して初めてそういう関連の本で読んだのは「荘子」だった。そして、私の人生を振り返ってみたとき、このことは、さらに失敗を重ねることになったと思う。
荘子さらに老子を含めて、老荘思想のエッセンスとなる思想は 「万物斉同」と「無為自然」。
この世界には何の区別もない、優劣、美醜、善悪の別などは人間が 勝手に計らった相対的な価値観であり、絶対的なもの「道:タオ」においては、 そのような 相対的な価値観など何の意味もない。
人間が積極的に何かを成す、というのは無意味なこと。自らは何も成さずただ あるがままの 自然に任せよ。
たしかに、すごい思想と思う。だけど
「それを言っちゃあ、おしまいよ」という思想でもあろう。
さて、18歳でそういう思想にふれ、それにかぶれて仕舞ったら、どんな人間 が出来上がるだろうか。
もともと誇大妄想癖があった少年だ。
「この宇宙も、この世界もちっぽけなもの」
「これまでこの世界にあったどんな思想も、どんな出来事も それを超えたものの前ではくだらないこと」
こうして、今ここにある世界を、基本的には蔑視してみる、という馬鹿が出来上がってしまった。
馬鹿は死ななきゃ直らない。
初老とよばれる年齢(40歳)を前にして、やっとその馬鹿さ加減に気がついただけまだまし、
と自分をなぐさめたいが、いずれにしてもきちんとした思想が確立する前に「老荘」を読むのは危険なことだ。
若者は先ず、「論語」を読むべし。
・巧言令色少なし仁
・我、怪力乱神を語らず
・述べて作らず
・君子は窮すれども乱れず。
うーん、素敵だわ、孔子様。
「老荘」は、実生活に疲れたとき、宇宙や大自然のことを考えて 気分転換をはかる、それと同様な使い方をすれば有効であろう。