芦沢教授
豊田市に着いた2人はWi-Fiの利用できるカフェに入った。店内にはパソコンで作業をしたり、勉強をしていたりする人が多い。
市川と大垣は2人がけのテーブル席に着いた。店員が注文を尋ねると市川はアイスコーヒーを、大垣は少し迷って同じものを頼んだ。
注文を済ませると、大垣はリュックサックからノートパソコンを取り出す。それを机の上で開き電源を入れた。
パソコンの起動を待つ間に大垣のメモを見せてもらった。メモには「東三河の原風景 芦沢邦裕」と書かれている。
「あしざわくにひろ?」
「多分それであってる」
市川がスマートフォンを起動し、存命であることを祈りながら名前を検索していると、グラスに注がれたアイスコーヒーが二杯運ばれてきた。大垣のパソコンが机を専有しているせいで置き場所に苦労する。
起動が完了したらしく、大垣は慣れた手つきでキーボードを叩いた。市川がアイスコーヒーを啜って検索結果を見るとトップには浜松文化大学という大学の教員紹介のページが表示されていた。
それをタップすると芦沢邦裕が教授として紹介されている。どうやら存命であるようだ。
さらに詳しく読んでいくと彼が民俗学を研究していること、71歳であることなどがわかった。Eメールのアドレスも公開されている。
「大学教授だったのか」
大垣も同じサイトを見ているらしい。
「そうみたいね」
「同姓同名の別人ってことはないよな」
そう言われて市川は教員データベースの研究業績を見た。すると三河地方の文化を研究した論文を発表していることがわかった。あの本の内容と一致する研究だ。
「研究してることからして間違いないと思う」
「そうだな、じゃあメールを送るか」
「なんて書く?」
「本当のことを書いて、助けてくれって書けばいいだろ」
「信じてくれるかな?イタズラだと思われるかもしれないし」
「信じてもらえないならそもそも会う意味が無いし、緊急性が伝わらないだろ。あと3日でどうにかしないといけないんだぞ」
「わかった。それで、大垣君が書くの?」
「そうだ」
大垣はキーボードを叩き始めた。聞こえてくる音からしてかなり速いタイピングだ。市川はその間にアイスコーヒーを飲み干した。
「これでいいだろ」
3分も経たずにそう言って、画面をこちらに見せた。
四輪村について
浜松文化大学 教授 芦沢邦裕様
突然の連絡を失礼します。愛知県立深見ヶ丘高校一年生の大垣毅です。
この度私は四輪村に関わることで自力だけでは解決できない問題に直面し、三河地方の民族研究の権威である芦沢教授のお力添えをいただきたく連絡をしました。
私の友人達が干上がった九連ダムの底にあった四輪村に足を踏み入れたところ、身体から水分が失われていくという事態に見舞われました。
私自信も村に行ったところ、尋常でない事態に出会いました。そこで四輪村について調査をしたところ教授の書かれた『東三河の原風景』を読みました。そして設楽町へ行き四輪村の方にお会いしたのですが何も教えてもらえませんでした。
このままでは3日後に私の友人達は死ぬと医者に言われています。できる限り早くお会いし、四輪村について教えていただきこの事態を解決したい所存です。
愛知県立深見ヶ丘高校一年生 大垣毅
Eメール XXXXXXXXXX
電話番号 XXXXXXXXXX
住所 XXXXXXXXXX
市川はこれを読んで思わず笑ってしまった。大垣がこんな丁寧な言葉使いをしていることがおかしく感じたからだ。
「なんかおかしいか?」
大垣はむっとした感じで言った。
「いや、なんでもない。これでいいと思う」
「じゃあなんで笑ったんだよ」
「こんな丁寧な文章が書けるとは思わなかったからつい」
「おれだって建前を繕うことぐらいできる」
「そうみたいだね」
「じゃあ送るぞ」
送信をクリックした。
「返信があったらすぐに連絡する」
2人は会計を割り勘で済ませて店を出る。家までは大垣が送ってくれた。
「ありがと、送ってくれて」
「ガソリン代もらったからな」
「じゃあね」
「またな」
彼が走り去るのを見送ってから家に入った。時刻は既に10時を回っている。
親にいろいろと聞かれたが、友達と遊んでいたと言っておいた。疲れていたのですぐにシャワーを浴びて布団に入ったものの、なかなか寝付けない。
本当にあと3日で異変を解決することができるのかと考えると、寝ることなどできないほどの不安に駆られる。結局このまま何もわからずに3日が過ぎて唯明は死に、そして自分も死んでいく。そんな想像が頭の中を支配する。
いつ大垣から連絡が来てもいいように布団の中でスマートフォンを握りしめていた。そして12時過ぎ、市川が眠りに落ちようとしているときにLINEの着信音が鳴った。
一瞬で覚醒し、メッセージを確認する。大垣からだ。
「明日の8時半に浜松文化大学で会えることになった。7時頃にそっちに迎えに行く。
あと制服で来るように。その方が信用されやすい」
明日は月曜日で本来ならば登校しなければいけない。しかし今は話が別だ。友人の命のタイムリミットが迫る中で悠長に授業を受けている場合ではない。
「了解」
市川は返信を送った。とりあえずひとつの壁は超えられた。そうしてなるべくポジティブなことを考えるようにして眠りにつく。
翌日、5月19日月曜日。市川は6時に目覚まし時計のアラームで起床した。服を着替え、いつもより早い朝食を食べる。親には部活の朝練のためだと説明して家を出た。
家から少し歩いたところにある公園で大垣を待つ。家族に家の前でスクーターに乗るところを見られるのはまずいのでここに来ることを彼に頼んだのだ。
7時の5分ほど前になってスクーターに乗った大垣が現れた。
「おはよ」
スクーターを降りてヘルメットのシールドを開けながら大垣が言った。
「おはよう」
「昨日の23時半ぐらいに芦沢教授から返信があってな、ぜひ話をしたいって」
「信じてもらえたってこと?」
あの下手をすれば怪文書とも思われかねない内容のメールに対してそんなに前向きな返事があったことに驚いた。
「ああ、教授はおれたちに起きてることを詳しく知りたがってた」
「それは教授はあの村には異常なものがあるって知ってるってことなのかな」
「多分そうだろうな」
そうなると、教授がこの異変について何か知っている可能性はかなり高そうだ。
「1限が始まる前に会わないといけないらしいから早く行くぞ」
大垣はヘルメットを取り出して渡し、スクーターに乗る。
「わかった」
すぐにそれを被り後部座席に乗ると、2人は走り出した。
早朝だけあって走り出した直後は道が空いていたが、徐々に交通量は増えてゆき豊橋に差し掛かる頃には通勤ラッシュの真っ最中だった。大垣は車の間をすり抜けていくが、その後ろで市川はひやひやしていた。
豊橋市街を抜けてバイパス沿いの道を走りながら、市川はまだ学校に欠席の連絡を入れていないことに気づいた。
「大垣君」
「どうした」
「そろそろ学校に電話したいんだけど」
「そうだな」
彼は歩道にスクーターを停めた。2人はスマートフォンを取り出して学校に虚偽の体調不良による欠席の連絡をする。
あの村を詳しく知る教授に会い、友人たちを助けるための方法を知るという真っ当な目的があっても学校をズル休みするということには抵抗があった。
それと同時に2人で学校に対する嘘を共有しているという状況に奇妙な連帯感を覚える。
連絡を済ませて再び走っていくと浜名湖を通りががった。そうして浜松に入って少ししたところ浜松文化大学に到着する。
門から入ってすぐ左手に駐輪場があり、そこにスクーターを停める。それから降りて大垣が言った。
「芦沢教授とは東棟の昇降口で待ち合わせてる」
そう言われても、市川にはどこのことなのか検討もつかない。
「それってどこなの」
「ちょっと待て」
そう言って彼はメモ帳をめくった。
「ええと…こっちだ」
大垣が歩き出し、市川はそれについていく。そうすると建物の前で立っている人物が見えた。
「あの人が芦沢教授?」
「だぶんな」
近づくと、その人物もこちらに気づいたようだった。ブラウンのスーツに身を包んだ高齢の男性だ。
「芦沢教授ですか?」
大垣が訊いた。
「そうだ。君が大垣君かな?」
「はい、そうです」
「そちらが市川さん?」
市川の方を見て芦沢教授が言った。どうやら大垣は彼女のことも伝えているらしい。
「はい」
年齢の割にはっきりした喋り方だった。
「とりあえず、中に入ろうか」
「はい」
教授は彼らを建物の一室に通した。そこには壁じゅうに本が並べられ、事務机には書類が山積みになっていた。
「さて、君たちは私に四輪村について聞きたくて来たんだね?」
「そうです」
市川が答える。
「まず、私に聞こうと思った経緯を詳しく話してくれるかな」
市川は大垣と顔を見合わせる。
「私が話していい?」
「頼んだ」
市川は教授に向き直って話し始めた。
「九連ダムの水が枯れていたことはご存知でしたか?」
「ああ、知っていたよ」
「私たちの友人2人がそこへ行って、ダム湖の底に降りたんです。それであの村に入って金属片を記念に持ち帰りました。そして2人の身に異変が起きて、身体が干からびていったんです」
「そこまでは彼のメールで知ってるよ。それから?」
「2人はその金属片が異変の原因だと思って、私たちに村へ言ってそれを戻すように頼んだんです。それで私たちも村へ行きました。
私たちはそこで異常な現象に出会いました。何もないのに水たまりが揺れたり、変な音が聞こえたり、人のようなものに追われたりしました」
教授は黙って真剣な目でこちらを見ている。
「私たちは金属片を村に戻しましたが、2人の異変は終わりませんでした。そして私の身体にも異変が起き始めました」
そう言って、ミイラのような左手を見せる。教授の表情に驚きの色が現れた。
「そうして図書館へ行って村のことを調べました。そこで芦沢先生の書かれた本を読んだんです。
村の住民が設楽に移住したことを知った私たちはそこへ向かい、四輪村の出身の方に会うことができました。しかしその方は何も話してくれませんでした。ただ忘れたと言うばかりで。
それで他に村のことを知る人に話を伺いたくて先生に連絡しました」
市川が話し終えると教授は少しの間沈黙し、ゆっくりと口を開いた。
「それは君ら2人でやったのかな」
「そうです」
「それは関心だね」
「どういうことですか?」
「それだけのことを高校生2人だけで調べたというのは、大変優れた行動力だと言えるね」
「えっと…ありがとうございます」
唐突に褒められ、市川は少し戸惑った。
「さて、本題に入ろうか。君たちの話は常識的にはとても信じられないことだ」
やはりそうか。当然といえば当然の反応だ。市川だって他人からそんな話を聞かされてもまず信じないだろう。
「だが私は長い間日本の民族文化を研究してきた。その中で気づいたのは私たちが考える常識というものは極めて狭い世界でのみ運用される思考の型でしかないということだ。
これまで数え切れないほどの土地を訪れ、そこに住む人々の言葉を聞いて来た。彼らの語りは我々の常識では測れないものばかりだった。
確かに君たちの話は奇妙だ、でも私はそれ以上に奇妙なものをたくさん見てきた。あの村でもね。
それが知りたくて来たんだろう?」
「そうです」
「話そう、私があの村で見た全てを」