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東京都新宿区、歌舞伎町のビル「一条ビルディング」の四階にある法律事務所、看板に「柳沢法律事務所」がある。所員は所長含めて四人と言う小規模企業である。これが、柳沢の主催する法律事務所だ。この事務所は三回代表が変わっている。初代代表の耕助は多くの法曹家を輩出した聞こえた法律家で、二代目代表である泰輔は検察官出身の人権派弁護士だった。つまり、柳沢は三代目と言う事になる。
オフィス入口のドアの上部に、横長方形で埋め込まれた中を窺えないプライバシーに考慮した型板ガラスに黒文字で書かれている。他人に触れられたくない依頼も多い法律事務所、しかもの完璧主義により、プライバシーを重視されたオフィスである。無関係な人間に、興味本位で中を覗かれてはたまった物ではないと言う所長の考慮だ。
30坪(100㎡)の間取り。入口の付近に観葉植物を二つばかり置き、そのすぐ近くに病院の待合の如くパイプ椅子が二つばかり置かれ、そのすぐ真向かいには会議室があり、その隣は依頼人を招く応接室がある。まっすぐ進むと、中を伺えないようにフィルム加工がされたガラス戸があり、関係者以外立入禁止と書かれていた。その中に入ると、ディスクが迎え合わせに並び、そこには司法修習生で、非常勤職員として預かっていると、もう一人の弁護士で、旧知の間柄でもある望月裕子がそこに座っている。
前にある机は、うるさ型の秘書であるが座っている。阿部のディスクの後ろに所長室があり、そこに代表弁護士たる柳沢の部屋がある。これがこの法律事務所の全体だ、どこにでもある一介の小規模事務所と言った感じだ。
つい二三時間ほど前まで下の階にある店で酒を飲んでいたが、うるさ型の秘書に強制的に呼び出され、嫌と言う程に何杯も水を飲まされ、菓子類は苦手なのだが阿部の監視下で我慢してブレスケアを噛み、完全に酒の匂いを消した後だった。しかし、昨今店だとか役所等応対が少しでも悪いと、口穢く叩かれる風潮にある。ついさっきまで酒を食らい、どこか頭の中がぼーっとして、ちょっとした動作の違いをなまじ勘の良い依頼人に「こいつ酔ってる」と勘繰られでもしたら、事務所の品位を貶める可能性もあるのだ。そこで柳沢は、しこたま摂取したアルコールを少しでも抜くために、応接室に完備している長いソファーに横になって仮眠を取っていた。
「えー!?」
急に素っ頓狂な大声を上げた牧野弘明の声が、事務所中に充満し阿部と望月は椅子から落ちそうになってしまった。
「ヒロ君、どうしたの?」
「これ見てくださいよ。」
と、ディスクを望月達の方に見せた。
牧野が見ていたのはネットニュースの一つで、それにはこう書いてあった。
『朝比奈美紀、物の怪の村降板へ。過去の失言が原因か?~女優の高城美紀(18)が、ゲスト声優として出演していた「物の怪の村」を正式に降板する事となった。代役は声優の城戸あかね(27)が内定している。高城は最近、誹謗中傷のコメントが多数寄せられており、制作本部にはキャスト降板を求めるデジタル署名が100通以上寄せられ、最近では主演である榎本省吾(23)の元に剃刀が送られたり、スタジオ内でボヤ騒ぎが発生したりと、事態を重く見た製作スタッフ一同の考えが一致しての決定とされている。高城は去年の職業蔑視ともとれる失言を機に批判が集中し、近年では嫌われ女優のレッテルが張られつつあり・・・』
「あー、キャスト代わるんだ。これ、放映近い奴だよね?」
「そうですよ。」
「この朝比奈美紀って女優、ずっと批判されてたけどついに製作スタッフにも見放されたんだ。」
さっき阿部が淹れてくれた紅茶を啜りながら、望月の批判に耳を傾けていた。
すると険しい顔をしながら、牧野は髪をくちゃくちゃにかきながらぶつくさと自分の意見を言い始めた。何時に無く、憤慨した様子だった。
「えー、ミッキーがゲストで出るって楽しみにしたのに変わんのかよぉ~。」
回転いすがガタガタ言う程に両足をジタバタさせながら、望月は記事についての文句を述べていた。その姿は、欲しいおもちゃを買って貰えない駄々っ子の様だった。その光景は、どこか滑稽だった。
「ヒロくん、朝比奈美紀好きなの?」
人生の先輩として、大人の対応で望月は牧野に話しかけた。
「だってえ~、ミッキー超絶可愛いじゃないですか!あの初々しい感じ、マジ萌えですよ!」
「そうなんだ・・・・、私には解らないな・・・。」
あまりのオタク対応に圧倒されながら、阿部がギャグマンガの青筋の様な汗をかきながら返答した。
「でも近頃は、嫌われ女優だとか低視聴率タレントだとか叩かれてるわよね。」
「はあ!?何でですか!?」珍しく牧野が、大先輩たる望月に食って掛かった。
「何でって言われても・・・。」
望月も牧野の剣幕に圧倒されながら、闘牛の様な牧野を宥めた。
すると後ろから、阿部が「これじゃないですか?」と助け船を出してきた。あるサイトをスマートフォンに表示し、牧野に見せた。
『嫌われ女優、朝比奈美紀暴言集~今炎上の渦中にある高城美紀、特に視聴者の怒りを買っているのは、先日お笑いコンビ松竹梅が司会を務めるバライティー番組での一言だった。当サイトではその中の代表な一言を掲載します。
①ロケバスの運転手って、毎日送迎するばかりで飽きないのかな?
②マネージャーさんって、自分も売れたいって向上心ないのかな?
③映像の人って、人を録るだけで満足なのかな? ETC
更に決定打となっているのは、あるドラマの記者発表にて願い事が叶うとしたらどうなりたいかと言う記者の質問に対し“もっと女泥棒だとか女スパイみたいな、色っぽい大人の女性になってみたい”と発言し、更に視聴者の怒りを買っている・・・』
「あらあら、酷い事言うのねこの女優。」
「こんなのデマですよデマ!叩かれてるのを知って、面白がってるだけですよ!!」
更にムキになった牧野は、今にも望月に食いつきそうな勢いで大声を挙げた。
すると、自室に籠ってソファーに寝転がって酔い覚ましに仮眠をとっていた柳沢が、首の後ろ辺りをかきながら、冬眠から覚めて寝ぼけた熊の様にのそっと出て来た。
「五月蠅いぞ弘明、何を騒いでるんだ。」
「先生、ごめんなさい。」
良く通る声で叱られ、牧野は塩を振りかけられて萎れた青菜の様にシュンとなった。
「何の話をしてたんだ?」
すると、さっきまで大騒ぎの犠牲になっていた、朝比奈美紀に関する批判がまことしやかに書かれている公式サイトのページを望月がスマートフォンを見せて来た。
「何だ?芸能ニュースか?」
「そうなんです、頭に来ちゃって。」
「で?何があったんだ?どっかの有名処が不倫でもしたってか?」
と柳沢は、見せられたスマートフォンをのぞき込んで首をかしげていた。
「そう言えば晴香、今回の依頼人もどこかの芸能人だとか言ってなかったか?」
「ええ、ですが依頼人の所属事務所がスキャンダルを恐れて名前を言わなかったんですよ。御前は、本人から直接話を聞くようにと申していました。」
「そうかい、なんて事務所だ?」
「確か、アースアカデミーだったかと。」
「え?」
と、阿部がアースアカデミーの名前を出すと反応した。
「弘明、どうした?」
「ミッキーも、アースアカデミー所属ですよ?」
「ミッキーって何だ?アメリカのネズミか?」
「違います!!女優の朝比奈美紀です!!!」
「知らねえよ。」
と、コーヒーメーカーを操作しながら柳沢は言った。
「こんな事ってあります?」
「偶然だな。」
「まさか依頼人って、ミッキーなんじゃ。」
「いやいや、いくら何でもそんな偶然・・。」
そう言いつつ、スマートフォンを見る柳沢の頭に何かが過った。まさか牧野の言うように、今回の訴訟の依頼人が火中の朝比奈美紀だったりして、と考えた。
「ふん・・・、まさかな・・・・。」
「でも、もしミッキーだったら運命の出会いかもぉ・・・。」
そう期待に胸を膨らませる牧野に、飽きれた眼差しを向けた柳沢。
「勝手にわくわくしていなさい。」
こいつのミーハーぶりは、まさに不治の病だなと、柳沢はおもむろにオフィスのTVを付けた。
すると、ちょうど全国ニュースが流れていた。
「次のニュースです。昨日未明、東京都品川区の廃倉庫にて女性の惨殺死体が発見されました。被害者は全身を焼かれ身元の識別も困難な状況にあるも、遺体に拘束され、ガソリンの様な危険物を掛けられた上から放火された痕跡がある事から、警察は殺人事件の可能性が濃厚であるとして、捜査を進めています。」
丁度報道されたての殺人事件のニュースに目が行き、柳沢はため息をついた。
「縛られて丸焼きか、気違いじみた事件だな。」
同じタイミングでニュースに目を向けていた望月も、険しい表情になりながら答えた。
「アメリカのスプラッター映画みたいですね。」
「季節外れのフェイクニュースじゃねえのか?」
そう言いつつニュースを見続けるも、これはどっきりとは無縁の至ってまじめなニュース番組だ。この凄惨なスプラッター映画もびっくりの凄惨な殺人事件のニュースは、紛れもなく現実だった。
「世の中恐ろしくなったもんだ、おちおち眠れんな。」
と冗談交じりにぽつりと言うと、事務所のインターフォンが鳴り響いた。
「依頼人だな、晴香。」
そう言うと、阿部に声をかけた。すると、言われなくても解っていると言わんばかりに無駄の無い動きで入口まで向かった。
「弘明、これも勉強だ。応対してきなさい。」
「はい。」
と、牧野は阿部に付いて行った。柳沢は、法曹家計の御曹司だ。法曹界で「御前」、「鬼の平蔵」と呼ばれている関東弁護士理事長、大久保平蔵を祖父に持つ司法学生である。勉強家と言うよりも、おたくの気質が強くそれを心配し、大久保の教え子であり昵懇の知り合いである柳沢の元に預けられ修業を積んでいるという次第だ。
所長と言うよりも師として時に厳しく、時に優しく接しており牧野には心から尊敬されている。
「ふう、あんなフワフワしてて司法試験受かるのかねえ。」
「大丈夫ですよ、先生が何時も教えてるじゃありませんか」
「伝わってるかねえ・・・。」
そう心配げな表情を浮かべる柳沢に、望月は言った。
「でも先生も物好きですねえ、ライバルの親族を育てるなんて。」
「恩返しだよ。」
と、柳沢は言った。
「恩返しですか。」
「うん、二十目前で両親を亡くした俺を面倒見てくれたからな。俺も親父さんを困らせたくねえから出来る限りの事をしてやってるつもりだが、心配もある。」
「案外心配性なんですね。」
「案外ってなんだ。」
「いや、深い意味はありません。」
「気に掛けるのは、当たり前だろう。」
そう思わず呟いた柳沢、この想いは雇い主と言うよりはある種の親心に近かった。無論の事、秘書の事も、所属弁護士の事も、バイト職員でもある牧野の事も大事な家族として心から想っている。気に掛けるのは当然だ。
「それにしても、誹謗中傷事件だとかTV番組への理不尽なクレームとか最近増えましたね。」
「そうだな、うるさ型の視聴者が増えたせいか映画もドラマも薄っぺらい気がするな。昔はコンプライアンスを大切にしつつも、俺たち視聴者を満足させる物を放送していたんだが、今はクレームに根負けして当たり障りのない物ばかりになって、テレビ離れも進んでいるな。」
「私もそう思います。最近じゃ、映画館で直接映画を見るお客さんも減ってるみたいですし。」
残った紅茶を啜りながら、望月も同意した。
「ああ、最近じゃ無料の映画配信だとかDVDの復旧だとか、最近じゃ動画投稿サイトに少しばかり見づらく加工してフルで投稿する者もいるらしい。有難いと言えばありがたいが、映画業界からすれば一種の営業妨害だな。」
「それちょっと、言い過ぎじゃないですか?」
「そうか?」
笑顔を見せながら、柳沢は答えた。
わりと多趣味な方の柳沢、その趣味の中でも映画鑑賞は特に気に入っている。幼少期はアクション系の洋画を愛し、数多い作品の中でも截拳道の創始者たるブルースリーと並び自己流の武道流派「春谷道」を創設したチャック・ノリスのファンでもあった。他にもミステリーやサスペンス、コメディーなんかも好んで鑑賞していた。
今でも自宅に近い映画館に足しげく通っては、気に入った映画を見ているも、最近では好みの映画が無く仕方なく口では批判しているDVDに世話になっている。
空気の入れ替えに窓を開けると、賛否の分かれる煙草の匂いが窓の隙間から侵入し鼻腔を刺激した。
外から流れるたばこのにおいを嗅ぎ、柳沢は煙草が吸いたくなって無意識に胸ポケットのマルボロに手が良くも、自分の部屋以外と応接室以外には灰皿がない。ここで吸ってもいいのだが、望月も阿部も非喫煙者で男性の牧野も吸うがあまり吸わない。分煙の騒がれる今、ここまで煙草の煙を充満させるのも気が引ける。自室の部屋も、匂いが漏れないようにプラズマクラスターを充満させ、更に隙間を殆ど除外する様に加工してある程だ。
ふと灰皿のある応接室に目が行くと、煙草の事よりもさっき応接に向かわせた牧野が中々帰ってこない。
「弘明の奴、いつまで応対してんだ?」
一服がてら応接室の応対をする為に、応接室へと足を運んだ。応接室の戸を叩くと、「先生ですか?」と言う阿部の声が聞こえ自分の「俺だ。」と答えて戸を開けた。
「おい弘明、何時まで掛かってるんだ。終わったなら早く戻れ。」
と目を向けると、ホワイトのカジュアルなスーツを身にまとった三十路近い女性と、その隣に、白いシャツワンピース、肩に掛けたカーディガンにパンツのレイヤードが可愛らしい二十代前半の女性がうつむいて座っていた。
柳沢は、隣の若い方の女性に見覚えがあった。
「どこかで見た顔だな・・・・。」
少しばかり考えをまとめると、さっき阿部達が見せたスマートフォンに移っていたタレントの顔が浮かんだ。
思い出した、タレントの朝比奈美紀だ。
弘明の奴め、どうりで帰ってこない訳だ。
「センセ、オキャクサン、キマシタ。」
さっきからカタコトに近い言動で応対をしているが、まんじりとも動かず、まるで石の地蔵の様だった。
“そりゃ憧れの芸能人が、今回依頼人として事務所に来たのだ。平常心を保てって言う方が、無理と言うものだ”と、今の牧野の心理を理解した柳沢。
そろそろ所長として、応対をしなければならない。と、「弘明、もう戻って良いぞ。」と柳沢を促し、ソファーに座った。
「初めまして、代表弁護士の柳沢健介です。」
「初めまして、高城美紀のマネージャーをしております篠原洋子と申します。」
と、篠原が挨拶をしても俯いたまま何も言わない美紀。
すると篠原が、肩を揺らしながら挨拶をする様に促した。
それに反応して、美紀も答えた。
「た、朝比奈美紀です。」
「誹謗中傷に関する訴訟の依頼ですね、お伺いしております。」
と、阿部が変わって答えた。
「は、はい。」
「そうなんです、近頃朝比奈に対して悪質な誹謗中傷のコメントや嫌がらせが続いており、いよいよ危機を感じ、当社の専務を介して今回依頼に訪れた次第です。」
「は、大久保理事長より伺っております。」
「左様ですか。」
と、応対は篠原が担当し美紀はうつむいてむっつりとしたままだった。よほど精神に答えているのか、それとも会話も挨拶も出来ない高飛車な娘なのか。みんながみんなと言う訳では無いが、最近の若い女性は挨拶もしない無礼な者が多いと聞く。しかし、今回の依頼から察するに、後者の可能性は極めて低い。精神的に来ていると言う前者の説の方が確実だと思われる。
どれほど酷い目にあわされたのか。芸能界の事はあまり知らないが、芸能人だとか表現する者には誹謗中傷だとか批判は付いて回ると聞いた事がある。取るに足らない中傷であれば、馬耳東風と言うことわざもある様に聞き流せばいい話だ。だが、この落胆ぶりは馬耳東風と言う訳にはいかない。下手すると、血みどろの嫌がらせを受けたのだろう。
非情かもしれないが、本人からも話を聞きたいと柳沢は美紀に声をかけた。
「朝比奈さん。」
「は、はい。」
柳沢の声掛けに、少々びっくりした様子で返答した。
「出来ましたら、朝比奈さんからも情報をお聞きしたいのですが。」
「先生、お話は私が。」
と、会話を遮ろうとする篠原だったが美紀が止めた。
「篠原さん、いいの。」
と、出されたコーヒーを飲み落ち着いた様子で言葉を発した。
「私が誹謗中傷され始めたのは、もう二か月近く前になります・・・。」
と、篠原は柳沢へ事件の顛末を説明し始めた。