剣の花③
―― ★ ――
ハルカがその場所を通過してから、小一時間が経っている。女教師の忠告を受けてなお『劣化因子』を受け入れた新入生が、入校管理室から学園敷地内へと向かって行った。
「……これで最後、か」
その背を見送った後、申し込み願書の数や他のゲートでの登録者数を照会する。間違いなく、今年の入学者はこれで全員――漏れなく、データ登録が完了した事になる。
「……つまり、入学した子たち全員の、輝ける未来が失われたって事なんだよな」
入学者への説明を行っていた教員、伊田秋保は大きな溜め息を吐いた。
「……誰か一人だけでもいいから、ぶん殴ってでも止めるべきだったか……?」
実際には出来もしないぼんやりとした妄想をして、自身の無力さに肩を落とす。
伊田はサステナ・カレッジの教職員科に所属する、いち研究員でしかない。数多くの『劣化因子』の被検体を求める、施設の方針に逆らう事など不可能だった。
ましてや、彼女が身を置く施設は国の未来の為に設立されている。それを否定する事は、自身の進退どころか、社会的地位の損失にすら繋がりかねない。
「……今よりはマシ、か。相も変わらず、若い内から夢も希望もない事を……」
齢二七を迎えたばかりの麗女が、年寄り染みた独り言を呟く。
大人になったように感じて、ただ現実の荒波に揉まれて削れただけなのかもしれない。
見えない未来と、暗がりの中にある可能性。不鮮明さに囚われた過去を想起する。
――学生たちの不安は、痛い程に分かるつもりだった。
「……確かな未来。その堅実な選択肢が、あの子たちの希望になってくれればいいが……」
『――あんたさあ。つくづく向いてないよね、この仕事』
「……っ!?」
一人で居た筈の部屋の中に、伊田以外の人間の声が響いた。
『だって、あり得ないじゃないか。有象無象の『異彩』や『量産才能』が希望になるなんて……そんな事、あんたも良く分かっている筈だろう?』
自身の声を塗り替えるその音は、呆れているようにも、楽しんでいるようにも聞こえた。
調度品や壁、床に使われる特殊素材『マスメタル』が共鳴して、遠い場所からの音声を伝えているようだ。
「……立ち聞きですか?」
『まあ、そうなるかな』
「私の独り言を聞いた所で、何も面白くないでしょう?」
『そうかもしれないけど、あんたは気にしないでいいよ。僕がどこで何をしようが、あんたたちみたいな凡俗には全く関係ないんだからさ』
「っ……!」
人を小馬鹿にしたような声音が嘲笑う。伊田は苛立ちを滲ませた歯軋りが、口外に出ないように噛み砕いた。
『しっかし、あんたも優しいよね。あんな風に、『量産才能』や『異彩』に対して夢見ちゃってる奴らの事を心配するなんてさ』
「そんな……確かに『最たる才能』が失われるのは残念な事ですが、生まれたものが何ももたらさないと言う事は……!!」
『ああ、そうだね。ただ、『もたらすものが微量過ぎる』ってのも考えものだと思うけど』
大切なものを失って手に入れた力に、どれだけの価値があるのか不明。そのリスクを示唆する程度の事ならば、いち研究員である伊田にも出来る。
しかし、放つ『異彩』の大きさと言う最重要機密に触れる事は許されていなかった。
『はは。しかしまあ、今年もこんなに何も考えてない奴らが――ただ『異彩』を目当てにぞろぞろとやって来たね。滑稽でしょうがないよ』
くつくつと笑った声は、無垢な少年のもののように弾んでいた。
やりとりをする二人の相性は、最悪と言っても差し支えがない。それでも、伊田は声の主を避けるような事はせず、相手もまた、伊田に対して嫌悪を抱いていなかった。
この特異な状況のやりづらさに顔を顰めた伊田は、マニキュアで彩った爪を弄っていた。
「……それで、私に何かご用ですか?」
『いや。話し掛けたのはただの暇潰しだよ。ちょっと早くに着いちゃってね』
その言葉から、全てを察した伊田が溜め息を吐く。
「今年も、ですか……あまり、ご趣味がよろしくないようで」
『【あの瞬間】を楽しんでいる所があるのは否定しないよ。ただまあ、【今日は】自分の立ち位置を正しく認識する為だから何もしない。安心していいよ』
――いずれ、あんたが危惧している事態は必ず起こるだろうけど。
そう暗喩した物言いに、麗女はそう遠くない未来を憂い、心を痛めるばかりだった。
「……暇潰しなのでしたら、この辺でご容赦願いたいものです。勤務時間中なもので」
『ははっ。相変わらず真面目だよね、あんたは』
声の主は、器用に声音だけで感情を伝えている。その憐憫を感じ取った研究員は、不快を感じながらも装置のメンテナンスを始めた。
期待に満ちた入学生たちが、取り返しのつかない事態に陥ってしまう事を止められなかった――そんな、自分の不甲斐なさから目を背ける為だった。
『いいじゃないか。今年もたくさんのサンプルが自分から檻に入ってくれた事を、研究者として喜べば。あんたたちは、学生たちから多くのデータを集めるのが仕事なんだから』
「……そう簡単には、割り切れませんよ……! 外向けには聞こえの良い情報ばかりを提示して若者を誘い、希望を抱いた彼らを騙して利用しているようなものなのに……!!」
自身への呵責と過去への後悔。そして、悪意のある広報手段への憤りが悲痛を生む。
『……向いてないよねえ、ホントにさ』
しかし、それらに向けられたのは冷酷な嘲笑だった。
『あんたが悔いた所で、【劣化因子】の研究が終わる事も、国の方針が変わる事もない。だから、気にしたって仕方ないじゃないか』
「それ、は…………っ!!」
拳が机に打ち付けられる。その悲鳴のような殴打音は虚しく響き、やがてマスメタルに吸い込まれていった。
その様子をへらへらと笑った会話相手は、伊田ではない誰かに向けて呟く。
『……まあ、クソみたいな場所で使い潰されるぐらいなら、少しでも自分の役に立った方がモノとして価値がある。そう考える奴も、少なからず居るかもしれないけどね』
「……貴方のようにですか、『優秀種』」
『……口を慎めよ、【劣等種】……! どうしてあんたが、僕に対等な口を利いているんだ? 敬意を払えと、学園側に厳しく言われているんだろう?』
「……失礼しました」
相手に見えているかは不明だが、麗女は自分よりも高位にある相手に頭を下げて非礼を詫びた。鼻を鳴らした声の主が「まあいいや」とぶっきらぼうに呟く。
その時、扉の向こうから大きな音が聞こえた。悲鳴と、何かが破壊されるような音。時間的には、新入生への基本的な説明が終わった頃だろう。
『おっと、ようやく始まったみたいだ。それじゃあね――【伊田先生】』
待っていたものの訪れを察知した声の主がそう言い残すと、僅かに光を灯していた部屋中のマスメタルから存在感が失われた。
「……はあ」
今度こそ一人になった伊田が、装置のメンテナンスを放り出し、机に突っ伏す。
「……どんな時でも、スタートダッシュを切ろうとする子が出て来るなあ。それだけ、前を向いている子が居る、喜ばしい状況だと言う事なんだが……」
上を目指すのは、決して悪い事ではない。しかし、サステナ・カレッジに入学したばかりの『希望を持ったままの』若者に関しては例外だ。
「……壁の中も外も、世界は非情に満ちている」
不満を漏らして、学園内から聞こえて来る戸惑いや相談による喧噪に耳を傾ける。
「……昔より良くなった。全てを知ってなお、そう思える子が居れば……」
――地上で輝く、星になれるかもしれない。
『劣化因子』を新入生たちに注入した、失意の研究者が祈りを捧げる。
彼女は、科学でも技術でも生み出せない、希望の光を求め続けていた。