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生と死の積は

作者: タロイモ

「生と死を掛けたら何になると思う」


 唐突な問い掛けに疑問符が浮かぶ。

 脳内を瞬く間にハテナが席巻し、ただでさえ少ない許容量を越えたところで口から溢れ出た。


「はっ?」


 窓辺から茜色の光が差し込む図書室は静寂に包まれている。生徒の姿はまばらで、その誰もが熱心に頁を捲っていた。

 そんなものだから俺の発したハテナは静寂をでかでかと切り裂いた。

 どこからか飛んできた咳払いに、慌てて口許を押さえる。


「生と死だよ、生と死……まさかこの年になってまで生き死にが分からないってことはないだろう?」


 小馬鹿にしたような表情を浮かべる山田の顔色は、夕日の朱に染まっている。

 分からない。

 生と死が、ではなく生と死の積が。

 掛けると言えば普通に思い浮かぶのは数字だ。

 そして生と死は文字である。数ではない。


「クイズか?」


 脳みそを雑巾のように絞って滴り落ちた言葉は、そんなものだった。

 聞いた山田はなにやら落胆にも似た表情を浮かべて、額に手を当てる。


「分からない奴だな君は」


 分からないのこちらも同じだ。

 が、それを口に出すことはしない。

 出せばどうなるかなど、日頃を思えば目に見えている。

 演算能力が凡百を凌駕するほどに乏しい俺の頭では、その後に続く口喧嘩で圧倒的なまでの敗北を喫することになるだろう。


「私はだね、その……生が私で、死が君だと思っているんだ」


 何か胸の内の秘密を漏らすかのように言い淀みながら、山田は指先をこねくりまわしている。

 さてどうしたものだろうか。

 字面だけで受けとるなら、遠回しに死ねと罵倒されているように思える。


「俺、なんかお前に悪いことしたっけ?」


 言いつつも体勢は既に土下座へと速やかに移行出来るように整える。

 そんな俺の姿に山田は呆れたような表情を浮かべた。


「プログラム言語だよ。調べておきたまえ。……明日、答えを聞く」


 山田は書棚に埋まっている本を一つ指差して足早に図書館を出ていった。

 頭の中にもう一個増えたハテナが、喉に零れ落ちて突っかかっているのを感じながらも、書棚に埋まっている本を取り出すとC#の文字。


「これを読めばいいのか」


 人を殴れば病院送りに出来そうな厚みである。

 万年床で惰眠を貪り食らっているのが常である我が脳みそで、読み下せる代物なのか怪しいところだ。

 それでも試しに表紙を捲ると『猫でも分かる』との売り文句。

 猫に教えるにはこれほどの文量が必要なのか、それとも俺の脳みそが猫の額ほども無いのか。

 前者であることを願わんばかりだが、恐らくは後者である。


「はぁ……」


 本を閉じて小脇に抱え、荷物をまとめる。

 貸出手続きを済ませて図書館を出た。

 廊下は人気がなく、先程よりも赤みの増した陽光がリノリウムの床に落ちている。

 パソコン室で作業することも考えたが、時間を考えるに自宅の方が良さそうだ。


 億劫になりながらも、俺は猫の額一冊分の重さが増した鞄を背負って自宅へ戻った。帰宅早々に母へ晩御飯を要求し、即座にかっ込んで風呂へ浸かる。烏の行水もかくやとばかりに雑事を済ませ、自室へ戻った頃には外はすっかりと藍色だ。


「徹夜かなあ……これ」


 うっすらと埃の積もった机に借りてきた本を置き、デスクトップPCの電源を入れた。

 明日答えを聞くと言われたからには、明日答えを返さねば酷いことになる。少なくとも経験上酷い目に合わなかった試しがない。


 肉体的に責められるならまだしも、山田が責めるのは主に精神だ。

 鼻っ面を赤らめて気落ちしたような声でそうか・・・と呟き、早急に答えを要求した私が悪かったと謝られる。

 こちらは一分も悪くないが、こちらが全部悪いような気さえしてくる。良心が悲鳴を上げ、自らを怒声でもって罵倒するのだ。

 そんな状況に陥るのだけは勘弁したい。


「よし、やるか」


 俺は肩をならして気合いを入れた。

 プログラムの実行環境をPCに構築しつつ、本を幾らか読み進めると簡単にではあるがいくつか収穫があった。


 そもそもPCにおける文字は厳密には文字ではないらしい。

 画面上で文字として表示しているだけでその内部は一意のコード、つまりは数値だ。

 プログラム環境であれば文字はコードとして計算が出来るということになる。


「あいつが言ってたのは……えーと、生と死を掛けたら何になるか、だっけ」


 本に書かれている類例を元に見よう見まねではあるものの、生と死を計算するプログラムを作っていく。

 一通り書き終えて、エラーの確認も済ませてプログラムを起動する。

 鮮やかなデスクトップには不釣り合いに無骨な、黒色のコンソールウィンドウが表示される。そこにつらつらと演算過程やらが文字として出力されていく。


「こ、れは……」


 瞬く間に計算が終わり、明滅するアイコンの横には生と死の演算結果が出力された。それは―――


「愛?」


 愛。そのただ一文字だ。

 生と死の文字コードを計算に掛けるとたまたま愛の文字コードに一致するのだろう。

 かちりと頭の中のピースがはまったような気がした。

 顔がみるみるうちに熱くなる。

 鏡こそはないが、今の俺の顔はリンゴのように赤く染まっているに違いない。

 山田のあの妙な問い掛けは、彼女なりの酷く迂遠な告白だったのだ。


「分かり辛いって……」


 元より徹夜のつもりだったが、何時もより活発に鼓動を鳴らすこの心臓を抱えては安らかに眠れそうもない。


 大方の予想通り、一睡も出来なかった俺は何時もよりも早く身支度を済ませて学校へ向かった。

 山田の下駄箱の中へ、返答を綴った手紙を仕込むためだ。

 早朝の空気は肌寒さを覚える程度には冷たいものだったが、山田の問い掛けを思い出す度に熱を帯びる顔には丁度良い。


 学校へついて間もなく山田の下駄箱へ直行し、飾り気のない封筒を乱暴に突っ込む。

 生徒の少ない時間帯ではあるが、誰かに見られでもしたら茶化されるのは日の目を見るより明らかだ。

 見られないに越した事はない。


 ―――夜七時、公園の入口にて待つ。

 山田の家から程近い、公園への呼び出しを手紙には綴った。

 迂遠な告白にはこちらも遠回りな返答をしてやろうとちょっとした考えもあってのことである。


 手紙を読んだからだろうか、今日の山田はこちらを避けているかのようだった。

 いつもは何かにつけて突っ掛かってくるので、ちょっとした寂しさを覚えながらも俺は授業を受けた。


 放課後も取り立てて何か用意することはないので真っ直ぐに家へと帰った。

 日が暮れなずむ頃合いになってから、服を着替えて家を出る。

 身だしなみに若干の気合いが籠ったような気もするが多分気のせいだ。


 公園へ着いた頃には空に大きな満月が浮かんでいた。俺が着いた後に程なくして山田がそろそろとこちらにやって来た。


「その……わ、分かったんだよな?」


 山田の声は僅かに上ずらっていた。

 月明かりの下でも分かるほどに耳が赤くなっている。併せるように俺の心臓の鼓動も、何だか早くなり始めた。


「ああ。随分と分かりにくかった」


「それで、その……こ、答えを聞きたいんだが!」


 心積もりを決めたように山田が詰め寄ってくる。

 俺はそれを宥めるように肩へ手をおいた。


「ま、取り敢えずせっかく公園に来たんだしちょっと見ていこうよ」


 山田は憮然とした面持ちながらも、俺が手を引くと渋々と着いてきた。

 住宅街の中心をくり貫いたように存在している公園なのでけして面積は広くない。

 子供の頃に山田と遊んだきりだったのもあって拍子抜けするほどに狭く感じた。

 くたびれた遊具を横目に木製のベンチへ腰掛け、山田にも座るように促す。


「で、答えはどうなんだ? 別に断ってくれても……」


 返答を迫る山田に向き直りつつ、俺は空へ浮かぶ月を指差す。


「『月が綺麗ですね』」


 山田が数学的に迂遠な告白を投げ掛けるのなら、俺は文学的に答えを返そう。

 問い掛けの意味を汲んだときに考えたものだが、そもそも俺はあまり本を読まない人間だ。

 夏目漱石の逸話も知識としてしか知ってはいない。

 しかしそれでも彼の訳した婉曲的な愛の言葉は、俺の思いを託すに十全だと思えた。


 暫しの静寂が俺と山田を包む。

 心臓が早鐘を打つ。その音が山田に聞こえやしないかともどかしく感じた。

 ひどく緩慢とした時間の流れを切るかのように山田が口を開いた。


「月は……綺麗だが、その……それが今となんの関わりがあるんだ?」


 困惑した表情で山田は俺に問いかける。


「へ?」


 俺は思わず間の抜けた声を上げた。

 夜の闇と同化するかのような黒い毛並みをした猫が、素知らぬ顔で公園を横切る。

 名も無き猫は俺を見やると、嘲るかのように一言にゃあと鳴いた。


 その後どうなったのかは言うまでもないだろう。

 一つだけその後の変化を取り上げるのなら、この日を境として、俺は満月の夜が訪れるたび山田にからかわれるようになったのである。

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