不都合な事実:ルセイラ
偽ヴィンセントに連れられて、わたくしは広い食堂へと案内されました。
長いテーブルの先に、偽物が微笑みを浮かべて腰掛け、その反対側にわたくしが座っているという状態です。
片側の広い面には、おおよそ10人ぐらいは並んで食事ができるスペースがあるでしょうか。
やがて、虚ろな目をした若いメイドが、しずしずとやって来て、場の主人である偽ヴィンセントとわたくしの前に食器とグラスを置き、グラスにはゆっくりと水を注ぎ入れました。
そうして、その後は現れた時と同じように音も無く食堂から出て行きます。
棺の中に入れられてから何日過ぎているのかわたくしにはわかり兼ねましたが、不思議と喉は乾いておりません。
グラスの水を欲していないわたくしは、注がれるなりに口にしている偽ヴィンセントをじっと観察しておりました。
地下室からここまでの間に、残念ながら鈍器はありませんでした。
そうでなかったなら、今こうして優雅に水を飲んでいる偽ヴィンセントがいるはずもないのです。
「まさしく命の水と言えよう」
グラスの水を飲み干し、偽ヴィンセントが厳かに言いました。
わたくしは、それに曖昧に微笑み返します。
今のわたくしにとっては、目の前に置かれたフォークとナイフで、彼とどう戦うかの方を真剣に考えなくてはならなかったので、そちらに意識を向ける余裕がなかったのでした。
それに、小さな黒い粒がいくつか含まれたこの命の水からは、ほんの少し腐った水の臭いがしています。
これを飲むには、少しどころかかなりの勇気が必要かも知れません。
そもそもわたくしは、裕福な家に生まれ育っています。
このように怪しげな飲み物を、物心ついた時から数えて一度も口にした記憶などありませんでした。
「さあ、どうぞ。あなたもぜひ」
ぜひと勧められても、喉が渇いているわけでもなく、黒い粒にしろ腐った臭いにしろ、あまり好ましいとは思えない要素がたっぷりと詰まった水を、そう簡単に飲み干せるわけがありません。
お腹が痛くなるのは、御免こうむりたいのです。
これは、生きとし生けるものに備わった生存本能だといえましょう。
「いいえ、わたくしは結構ですわ。それよりも、ここはどこなのです?」
何もわからない様子を装って、これ見よがしに辺りを見回してみます。
ここに通された時に、部屋の隅々にまで鈍器を探すべく視線を走らせましたので、すでに頭の中にはどこに何が置いてあるといった情報が入っていました。
けれど、相手を油断させた上で有用な情報を喋らせる為には、少々のお馬鹿さんを演じた方が良いというのがわたくしの持論です。
少々のお馬鹿さん、つまりは情報を話しても、ある程度は理解できる力があるというのでないと、話しても無駄と判じられてしまうので、その加減には注意が必要なのですけれど。
「それに、どうしてわたくしは……棺などに入れられていたのでしょう?」
ああ、この震えた声と少し怯えた様子は、渾身の演技だと我ながら褒めてあげたいくらい上出来。
困惑の表情でテーブル手前へとゆっくりと視線を落とし、長い睫毛の影を目の下へと落としてやや間を取り、それからおずおずとテーブルの向こう側へと顔を上げて視線を向けます。
怯え、戸惑い、それから淡い期待に転じるという、このわたくしの名演技の連続技に騙されなさい。
演技しながらも偽ヴィンセントの様子を窺っていると、彼がゆっくりと椅子から立ち上がりこちらへと歩いて近づいて来るではありませんか。
この反応では、騙されてくれたのかどうかはわかりません。
騙されるどころか逆に勧められた水を断ったわたくしを怪しんで、無理矢理でも飲ませる為に近づいて来ているのかも知れません。
流石に髪を掴まれて上を向かされ、グラスから水を零すようにして顔を浴びせられ、強引に飲ませられたくはないのですが。
咄嗟に、テーブル上のナイフとフォークへと視線を走らせ、その位置を再確認しました。
どう足掻いたところで腕力では敵わないでしょうが、それでも何もしないよりは断然いいはずです。
ああ、もしこれが握力での勝負でしたら、まだ勝算はあったでしょう。
または、せめてわたくしの愛用の鞭があれば、こんな勝ち目のない戦いをせずに済んだことでしょう。
ですが、ここにない物を強請ったところでしょうがありません。
救いの手は差し伸べられないのです。
もしも今度死ぬような事があれば、それこそ死にもの狂いで、いっそのこと手の内側の肉に食い込む程強く鞭を握りしめて死のうと思います。
そうすれば、わたくしと鞭とを引き離す事が誰にも出来ずに、棺の中までも共に入れてもらえることでしょう。
手に馴染む武器さえあれば、こうして蘇ってしまった後の危機にも落ち着いて対処できるに違いないのです。
近づいて来る偽ヴィンセントの頬を、冷静になって鞭の先で払い退ける事だって出来たはずなのです。
ああ、ついにたった今わたくしの鞭の届く範囲にまで接近されてしまいました。
いつもでしたら、この距離で鞭を振るって相手を弾いているのに。
「ヴィンセントさん……」
声が震えます。今度こそ、これは演技ではありませんでした。
勝てない勝負をするのは、これでわたくしの人生において三度目です。
わたくしは、今まで勝てる勝負だけしてまいりました。
負けが見えている勝負をするのは、無意味だと思っているからです。
けれど、自らが望まずとも戦いの場に引きずり込まれる事だって人生にはあります。
わたくしにとっては、今回がその三回目でした。
不意打ちぐらいしか勝てる見込みがないとは、もう絶望的といえましょう。
ただ、わたくしは勝てない勝負をする時は、被害を最小限に留める努力をしておりました。
今回だってそうです。
素早くテーブル上のナイフとフォークを手に取り、近づいて来る偽ヴィンセントの顔面に向かって投げつけます。
それを払おうと偽ヴィンセントが腕を上げ、顔を覆った瞬間にわたくしは立ち上がり、食堂の出入り口の扉へと身を翻しました。
この扉は、部屋の内側に開くタイプでしたので、体当たりをして出る方法が使えないのが難点でした。
ドアノブを握り、内側に開いている間に背後に迫られる可能性が高いのです。
そこでわたくしは心から願います。
どうか間に合え、と。
この部屋から逃れられれば、出た先の廊下の窓ガラスを体当たりでつき破って、そのまま外に転がり出る気でいました。
ですから、この部屋からさえ逃げられれば、ここから逃亡できるのです。
そして、本物のヴィンセントとどこかで合流さえできれば、この偽物を倒す事とて容易なのです。
だから、間に合え。
ここで捕えられたら、今度こそおしまいでしょう。
黒い粒入りの水を飲んで、あのメイドのように虚ろな操り人形と化すのは御免です。
わたくしの手がドアノブに触れた瞬間でした。
突然勢い良く扉が開いて、わたくしの顔面に直撃したのは。
鼻と額が熱くなり、痛みに涙を浮かべながら後ろへと下がります。
開いた扉から食堂へと飛び込んで来たのは、またもヴィンセントでした。
「お……」
「ヴィンセントっ!」
鼻を手で押さえたまま涙目で睨みつけるわたくしに、彼が反射的に円に巻いた鞭を投げて寄越します。
わたくしも、それを反射的に宙で受け取りました。
愛用の鞭の持ち手は手に馴染み、わたくしはほっと安堵します。
そして、すぐに巻いてあった鞭をしならせ背後から迫って来ていた追手へと払いながら、その塊を一気にほぐしました。
パシィ。
鞭先が、偽ヴィンセントの顔を払い退けます。
彼の左頬に、赤い線の傷跡が刻まれました。
「何とか間に合ったようだな」
わたくしの隣にやって来たヴィンセントが、呑気にそう言います。
そちらへと視線を向ける事なく、わたくしはただ目の前の敵を睨みつけておりました。
「貴方、助けに来るのでしたら、もっと早くに来なさいな。それに、死に際わたくしの仇を討つように頼んでおいたと言うのに、仇を討つどころかわたくしを盗み出されるとは間抜けにも程があります」
「おぅおぅ、そう怒るなって。いいだろう、ちゃんと間に合ったんだし。大体、お前のマルガレーテを囮にする案の方が、よっぽどひでぇと思ってたんだから、あの娘の安全を優先し、お前の方を疎かにするのは仕方がないことだと思うけどな」
「ええ、それに関しては致し方ありません。これでマルガレーテまで死んでいたら、貴方を鞭で百回は叩いていたところです。ですが、貴方でしたらマルガレーテも私も両方守りきれると思っていたので、宛てが外れてガッカリしていたのですわ。わたくしは、貴方を買い被り過ぎたわたくし自身の浅はかさと、貴方の無能さに対して怒っているのです。それに貴方、手を抜いたか、マルガレーテにかける労力をかなり多い目に配分しましたわね?」
ヴィンセントの手が、そろそろと尻の方へと回されるのを視界の端で見つけました。
この男は、どうやら自身に困った事が起こると尻を掻かずにはいられないようです。
「レディを守る方を優先させてもらった」
「貴方はお忘れのようですが、わたくしもレディです」
「いや、鞭を振るえるレディは、自分の身くらい自分で守ってもらおうかと思って」
「その鞭を、貴方は、棺の中に、入れ忘れていたのですっ! 丸腰で、わたくしに、どう戦えと言うのですかっ!」
「いや、相手が油断しているところを、後ろからガツンと鈍器で」
「ほほほ。そうですか。鈍器で後ろからガツンとですか」
まったく、考える事がこうも同じとは嫌になります。
どうにもこの男とわたくしは、本当に気が合うようです。
マルガレーテの方を死守して欲しいという想いも、わたくしの口から語られずともちゃんと汲み取ってくれました。
それはいいのです。
しかし、何故か納得できないのはどうしてなのでしょう。
彼が言う通り、こんな状況でも戦意を保てるわたくしと、この場に放り込まれれば戸惑うだけのマルガレーテでは、彼女を優先して守るのは当然のこと。
ですが、それをわたくしは、おかしな事に面白くないとも思っているのです。
わたくしは、本当はこの男にわたくし自身を優先して欲しかったのでしょうか。
この件とは、ほとんど無関係だったマルガレーテを死なせてでも。
背筋がぞくりとしました。
これ以上は、あまり考えたくはないことでした。
「まあ、いいでしょう。ギリギリ鞭は届けてくれましたし、わたくしを見捨てはしなかったのですから」
「ああ、そういう事にしておいてくれ」
パシィ。
再び鞭を振るい地面を強かに打ちます。
こちらへと踏み込もうとしていた偽ヴィンセントが、それで一歩後ろへと下がりました。
これで得物は、わたくしの鞭の届く範囲から外れます。
「さて、ヴィンセント。わたくしの鞭は、これ以上は役に立ちません。飛び道具は持ってきているのでしょうね?」
「当然だろう?」
「そうですか。今回は、欲張らず軽いのにしておいたでしょうね。まさかまた、撃つまでに時間がかかるとは言わないでしょうね?」
「大丈夫だ。前回と同じ失敗はしない。だから、私よりも随分と年下の相棒に庇ってもらうなんて間抜けな事態には、もうならない」
「そうですか。それならいいのです。さぁ、それでは狩りを続行いたしましょう」