いつかの分かれ道:バンガム
バンガム=ウェスタニアの視点になります。
真夜中に近い時間、静かな書斎で書き物をしていた。
屋敷中が眠っているこの時間は音が最も少なく、ペンを紙の上で走らせている音と窓の外でしとしとと降り続いている小雨の柔らかな音しかしない。
けれど、そこへと微かな足音が混じり込んだ。
次いで書斎の扉をノックする音。
コンコココン。
彼女は、いつもノックの時にそういう音を出す。
扉の先にいるのが誰なのかを、入室の許可を出すよりも前にそうやって知らせてくれるのだ。
「どうぞ」
扉が開いて入って来たのは、やはり娘のルセイラだった。
つい先日、葬ったばかりの娘。
そして、その後ろから入って来たのは、古くからの友人であるヴィンセントだった。
目が合うなりにヴィンセントが視線を背ける。
葬るしかルセイラが助かる見込みがないとヴィンセントから聞かされた時、恥ずかしながらわたしは一瞬我を失い、怒りに任せて彼を殴り飛ばしてしまったのだ。
それ以来、彼との間では少しギクシャクとしている。
「終わったのか?」
穏やかに問うと、ヴィンセントが顔をこちらに向けた。
けれど、彼が口を開くより先に娘が頷く。
「ええ、終わりました」
「怪我は?」
「ありませんわ。ヴィンセントもわたくしも」
ヴィンセントへと一瞥をくれると、彼もそれを肯定するかのように小さく頷いた。
ルセイラが、小走りで駆け寄ってくる。
それに応えるべくわたしは椅子から立ち上がった。
「お父様、わたくし……」
「わかっている」
「いいえ、わかっていませんわ。どうか正直におっしゃって。わたくしが邪魔でした? いなくなればいいと思いましたか?」
突然、思ってもみなかった事を問われ動揺する。
感動の再会でお互いに抱きしめ合う事を予測していたというのに、この広げたままの両腕を一体どうしたものか。
「ルセイラ何を言って……」
ヴィンセントが、視界の隅で肩をすくめているのが見えた。
「あぁー、私に近づくなとお前が言ったから、ルセイラはわざわざ近づいてしまったのだそうだ。それでまぁ、いろいろあって死んじまったから、お前の策略だったのかと疑っているらしいぞ」
「わたしが愛娘を謀殺するわけがない」
「そうだよな。謀殺する気だったなら、私もお前に殴られていなかったはずだ」
ヴィンセントが、そっと左の頬を撫でる。
ルセイラが、背後にいる彼の方を振り返った。
「あら、貴方そんな目にあっていたのですか。それなら先に教えてくれれば良かったものを」
「感情のままに思いっきり殴られたってのに、コイツからの謝罪の言葉がまだでな。だから、ちょっとした復讐をすることにしたってわけだ」
ルセイラが、呆れたようなため息をつく。
「狭量の男」
「なに、嫌がらせで済ませてやっているんだ。充分心が広いと思うけどな」
「嫌がらせをしようと思う事自体が、心の狭い証拠です。ああ、何とも情けない男」
「やめてくれ。男ってのは、元々メンタルが弱いんだ。そんなに貶されたら落ち込んでしまって、しばらく浮上できない。日常生活にだって支障が出てしまう」
ヴィンセントの言葉に、わたしはぎくりと身を強張らせる。
娘を棺に入れて葬って以来、人前ではなるべく平静を保ち、隙を見せないようにはしているが、一人きりの時間はどうしても心が乱れて不意に涙が出てしまうような事が度々あった。
ヴィンセントからは、娘が一時的に死ぬだけだと聞いていたけれど、それでも年若い娘を失うのには心が耐え兼ねたのだ。
「ルセイラ」
呼ぶと娘が振り返る。
そうして、わたしの広げられた両腕を見て、正しく意図を察してくれたようで、ゆっくりとお互いに近づいて抱きしめ合う。
「お父様、ひどいお顔をなさっていますわ」
「ああ、ルイザには到底見せられない」
「お母様は、きっとお父様をなじったのでしょうね」
「ひどい父親だと泣いてわたしの胸を打った」
一人娘の葬儀の時も埋葬の時も涙ひとつ流さない非情な男に対してならば、それが正しい反応だといえる。
しかし、わたしはこのウェスタニア家の当主。
弱味は、誰にも見せられない。
わたしの代で、今まで築いてきたウェスタニア家の財産や信用を、隙あらば群がろうと窺っているハイエナ共に食い尽くされるわけにはいかないのだ。
「でも、お父様」
「わかっている。ルイザには言うつもりはない。一度、娘を失ったのに、更にもう一度失くすとはわたしの口からは言えない」
「違いますわ。それもそうなのですけれど、まずはわたくしに謝らせていただきたいのです。わたくしは親不孝者でした。ごめんなさい」
「わたしだって若い時分は、たくさんの親不孝をした。きみのおじい様が、泣きながらわたしを平手で何度殴ったことか」
「それでも、お父様は一度だっておじい様よりも先に死んだりはしなかったでしょう?」
「運がよかっただけだよ。何度も危ない目には遭っていた、せいぜい死ななかったというだけで……」
視線を感じて目線を向けると、ヴィンセントが後ろ手で尻を掻いているのに気付く。
感動の再会をどこまでも邪魔する無粋な男っぷりに、友人とはいえいささか呆れてしまった。
しかし、彼の言いたい事もわかる。
「行くのだろう?」
ルセイラを抱き締める腕を緩める。
すると、娘がわたしを真っ直ぐに見上げた。
「ええ、なるべく早くに発ちます」
「そうか、ヴィンセント」
こっそりと部屋から抜け出ようとしているヴィンセントを呼び止める。
彼が、ぎくりと身を強張らせて動きを止めた。
一度葬った娘を、何事もなかったように戻す事は不可能だとわかっている。
そして今、娘が旅立てば、この先もう会う事など出来ないかも知れないと知っている。
これが今生の別れだ。
一応それに配慮して、部外者として彼が部屋から出て行こうとしているのはわかっている。
ただし、それ以外にもまたわたしに殴られるのではないかと、そうなる前に退散しようとしているのだという事も同時に知っていた。
「今まで通り手紙を送ってくれ」
「当然そうするさ」
背中を向けたままヴィンセントがそう言う。
わたしは、娘の肩にそっと手を置いた。
「ルセイラ」
「はい」
「ヴィンセントを頼む」
それを聞いたヴィンセントが、勢い良く振り返る。
「いや、それおかしくないか? 普通は、私にルセイラを頼むと言わないか? なんで私に頼むのが手紙の方なんだ?」
「残念ながら、わたしはきみよりも娘の方がしっかりしていると思っている。何というか、きみには昔からどこか抜けたところがあって、そのせいで我々は何度か死にかけただろう? その欠点が、未だに解決できていないように見受けられたから、そこは娘にフォローを頼んだ方がいいと判断したのだ。娘は年若いが頼りになる。任せて安心だよ」
「いいや、バンビィそれは親の欲目なんじゃないか?」
「なに?」
ヴィンセントが、後ろ手でドアノブを掴む。
いつでも部屋から抜け出せる状態になって、わたしを窺うように見つめた。
「おい、私に怒るのはお門違いもいいところだぞ。お前が愛娘を神格化しているからいけないんだからな。正しい判断をしろ、正しい判断をな。お前だって、いつもそう言っているだろ?」
「わたしは、客観的な視点で公正に判断したつもりだ。きみこそ自惚れが過ぎるのではないか? 他者の優れているところは素直に認めろ。大体、判断力にかけては、優柔不断なきみよりも圧倒的にわたしや娘の方が優れているのだからな」
「おぅおぅ、お前こそ自惚れてやがるぞ。それにお前は昔」
トス、とヴィンセントの頬の隣をすり抜けてドアの硬く分厚い木の板へペーパーナイフが突き刺さる。
机の上にあったものを、頭で考えるよりも早く左手ですくい取り、そのまま彼の方へと反射的に投げつけたからだった。
ヴィンセントが、顔を歪める。
「相変わらずのキレっぷりだな。なにが判断力が優れているだ。考えるより先に体の方が動いちまうくせに、よくも言ったものだ。そういう所、お前ら親子は本当にそっくりだ。嫌になるくらいそっくりだからな」
「次はペンがいくぞ」
ヴィンセントが、ぐぅという音を喉で鳴らして黙った。
その代わりにルセイラから明るい声が出る。
「あら、お父様お見事ですわ。ただ、わたくしの記憶が正しければ、お父様は右利きだったはずですが、左手でもあのくらいならいけますの?」
「これぐらいの距離ならばわけない。老いて鈍ったのは感情のコントロールだけだよ」
「大丈夫です、お母様はわかってくださいますわ。お二人でいる時に、お父様もたまには我慢などなさらず泣いてしまえば良いのです。お母様の前で格好の悪い事をしたくないというお父様のお気持ちはわかりますが、少しぐらい格好悪くなって甘えてみたらいかが? 毎度では呆れてしまいますが、たまの涙は女心をきっとくすぐってくれますわよ」
「きみには何でもお見通しだな」
「ええ、お父様の娘ですもの」
「ああ、きみはわたしの自慢の娘。遠くにやるのが、会えなくなるのが悲しいよ」
「あら、会いたくなればいつでも会いにいらっしゃれば良いのです。お父様は、わたくしにモニカをつける気でいるのでしょう? ですから、またどこかで会えますわ」
「いいのかい?」
「ええ、お父様の腕前でしたら危険地帯でも難なくやって来られるでしょうからね」
「そうだ、バンガム。何ならお前も現役復帰したらど……」
ドス、とペンが、ヴィンセントの顔の隣に突き刺さる。
丁度ペーパーナイフの刺さっている所の反対側となる場所だ。
ヴィンセントが、ぽつりと呟いた。
「お前、昔から結構好きだよな、シンメトリー。芸術がどうのとか、対称こそ美しいとかって言ってさ、妙なこだわりがあって、くだらな……」
「ヴィンセント、すまないが外してくれ。もうインク壷しか残っていないのだ。これをきみに投げつけたら、部屋が汚れてしまう。後片付けが大変になる」
「へーへー、わかったわかった」
ヴィンセントが、ドアを開けて部屋から出て行く。
ルセイラは、笑っていた。
「お父様、わたくしお父様の代わりに心残りをやってきますわ。子は、親が残した財産を受け継ぐもの。ですから、立派に勤めを果たしてまいります」
「うん、すまない。それから、ありがとうルセイラ」
微笑む娘が、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。