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9.金曜日午後3時
犯人かもしれない男の家は、そこからしばらく歩いた場所にあるボロアパートだった。いったい築何年になるか見当もつかないほどに古ぼけている。もし巨大地震でも起これば、真っ先に倒壊しそうなたたずまいだった。
てっきり駅をめざしていたようだから、電車に乗るのかと予想していたが、その考えは見事に裏切られた。尾行を警戒してのことだったのかもしれない。
男の部屋は、狭いながらもガランとしていて、食べ終わったカップラーメンの容器がそのままになっていることを除けば、それほど散らかってはいなかった。というより、最低限の物しか所有していない。生活には困窮しているようだ。
男を部屋につれてくると、畳の上に寝かせた。イメージとはちがい、万年床ではない。布団を敷こうとも思ったが、さすがに他人の家の押し入れを開けることはためらわれた。
「大丈夫ですか?」
男は荒く息をしているだけで、返事をしなかった。ここまで来るあいだに、悪化してしまったようだ。
「やっぱり、救急車を呼びましょう!」
携帯電話を取り出そうとする翔子の腕を、男がつかんだ。
その眼が、やめろ、と脅していた。
「どうして、病院をイヤがるんですか!?」
「む、むだ……なんだ……」
絶え絶えに、男は言った。それからすぐに瞼が落ちて、男はなにも言わなくなった。一瞬、最悪の事態を覚悟したが、眠りについただけのようだ。
このまま出ていく気にもなれず、翔子はしばらく居つづけた。犯人かもしれない男の部屋にいることへの恐怖はなかった。もし過去にそういう罪を犯していたとしても、いまは、ただの老人だ。
十五分ほどで、男は眼を覚ました。
「まだいたのか……」
普通にしゃべれるまでには回復したようだ。
「ほってはおけません」
「……どうせ、野垂れ死にさ。もう助からん……」
「病気なんですか?」
「病名は忘れた。あと、二、三ヵ月しか生きられない……」
「治療はしてないんですか?」
「どうせ死ぬなら……必要ない。次に病院へ行ったら、出てこれないだろうしな……」
人生の最期は病院ではなく、自宅で……そう考えることは不自然でない。だが男の生活ぶりからは、そうまでして日常を守る必要性は感じなかった。
幸福には思えない。
もちろんそれは、翔子の主観でしかないのだが……。
「ご家族は?」
男は答えなかった。いるのだと直感した。
「そのご家族に……お金を残したいんですか?」
翔子は切り込んだ。いまの彼には、自分に危害を加える力も、その気もないだろうという判断だった。
「やっぱり、刑事か……」
「ちがいます。刑事には見えないって言ったじゃないですか」
「だが、久我とかいうやつの仲間だろ?」
仲間じゃないです──そう否定しようとしたが、この男には通じない。仲間でなくとも、知り合いというだけで同じことなのだ。
「安心してください。あなたが犯人だとしても、必ず懸賞金は支払われます」
「俺はな……クズだ。人間のクズだ」
それまで溜めていたものを吐き出すように、男は言った。
「……あなたが、やったんですか?」
勇気をもって、たずねた。
「やった」
驚くほどあっさりと、男は認めた。
「金が欲しかったんだ……罪悪感なんてなかった。知り合った男といっしょに、やった。殺すつもりは……どうだったかな、最初からあったのかもしれん」
普通は、「なかった」と答えるところも、男は正直に告白している。死期が近づき、隠す必要もなくなっているのだ。
彼が逮捕され、死刑を宣告されたとしても、執行のまえに命は尽きている。いや、二、三ヵ月という余命が本当だとしたら、裁判がはじまるまえに亡くなっている。
この男にとって、減刑は意味をなさない。捕まるか、捕まらないか──そのどちらかでしかないのだ。
「いまになって、後悔してる……ちがう、あのことから、ずっと後悔してるんだ。俺の人生は、最低だった……」
許されない罪を犯した人間が、不幸な人生をたどる。遺族がそれを知れば、自業自得だと罵声を浴びせるかもしれない。が、翔子には、とても憐れに感じられた。
「都合がよすぎることはわかってる……だが、これまでなにもしてやれなかった娘に、残してやりたいんだ」
「全部話してください。わたしが、代表の久我さんに伝えます」
堰をきったように、男は話しはじめた。翔子のことを信用したというより、話すことで安心を得ているようだった。
男の名は、片桐茂男。年齢は見た目よりも若く、五九歳ということだった。別れた妻とのあいだに、娘が一人いる。別れた妻はすでに故人となっていて、娘は今年で三〇歳になるという。結婚し、子供もさずかっていると。
片桐は、これまでに窃盗と強盗で、二度刑務所に入っている。三鷹の事件で奪った金は、共犯の男と折半したそうだ。三〇〇万の半分だから、一五〇万ほどになる。その金も、すぐに使い果たしてしまった。二〇〇万にも満たない金額のために三人の命を奪ったなんて……翔子は、心のなかで大きく嘆いた。被害者が気の毒で、犯人がとても愚かだ。
その後も同様の犯罪を仲間と計画したようだが、実行には至らなかった。死刑が怖かったのだ。下手に犯行を繰り返して、証拠をつかまれるわけにはいかない。これまでおとなしくしていた甲斐あって、捜査の手はおよんでいない。
いつしか仲間だった男とは会わなくなり、片桐自身も犯罪行為からは遠のいていった。このアパートは、知り合いになった大家から、ただで借りているものだ。仕事は、たまに日雇い労働をしている。住むところさえあれば、わずかな収入でもどうにかなる、と彼は語った。ただし、病気がわかってからは仕事をしていないという。だからこそ、娘に懸賞金を残すことと交換に、逮捕されることを望んでいるのかもしれない。
おそらくいまの彼には、捕まることの恐怖も、死刑に対する畏怖もない。金さえ娘に残せれば……。
「お金が支払われるためには、事件の犯人だという確実な証拠がいると思います」
ひと通り聞きおわってから、翔子は核心に入った。自分の役目を逸脱している──それはわかっていたが、胸中を抑えることができなかった。
「証拠って……どんな?」
「たとえば──」
警察官でもない人間がすぐに思いつくようなことではなかった。指紋や毛髪は検出されていないはずだから、犯人しか知り得ない情報を教えてもらうしかない。
脳裏に、あるワードが浮かんだ。
「凶器! 拳銃は、どうしたんですか!?」
「仲間がもってる。もともと、やつが用意したものだったんだ」
「撃ったのは、どっちなんですか?」
一縷の望みをもって、そうたずねた。
「俺だ。三人を撃った」
儚くも、断たれた。もし殺害したのが仲間のほうだったとしたら、彼の罪が軽くなったかもしれない。せめて、死刑は回避できたかもしれない……。
ダメだ。翔子は自覚していた。この男に感情移入している。相手は、凶悪犯だ。いまはその片鱗がなくなっているとしても、強盗殺人犯なのだ。
「仲間は、いまどこにいるんですか?」
「わからない」
「かばってるんですか?」
「ちがう。本当に知らないんだ……」
嘘を言っているようには思えなかった。
「その人の名前は?」
「樺島、といった。下のほうは知らん」
「樺島ですね?」
翔子は、メモ帳に記入した。
「おい、俺は金さえ娘にいけば、捕まってもいいが……樺島はどうなるんだ?」
「心配ですか? わたしは警察官ではないので、ハッキリとは言えませんが……たぶん、その人は普通に逮捕されると思います。もちろん懸賞金がその人にいくことはありません」
自分で口にしていて、あたりまえのことだと実感していた。懸賞金は、犯人だからもらえるのではない。有力な情報を提供してくれた人間にいくのだ。
「いや……心配などしておらん。俺が言っても説得力がないかもしれんが、罪を犯せば、その報いをうけるべきなのだ」
それはつまり、樺島という共犯者が逮捕され、死刑になったとしても、仕方がないと考えているということだ。
「だが……やつからは、恨まれるだろうな」
* * *
なんとか、竹宮翔子とは連絡がついた。
驚くことだが、いままであの犯人かもしれない男といっしょにいたというのだ。
いまから財団本部へ電車で帰るということだったので、長山はさきに車でもどった。久我に、これまでのことをかい摘んで報告した。翔子が犯人かもしれない男と接触したことも、久我の動揺にはつながらなかった。長山自身は、一般人である彼女を危険にさらしたことに責任を感じている。電話では詳しいことまで聞けなかったが、はたしてあの男は再び接触してくるだろうか?
しばらくして、翔子がもどってきた。
彼女から事の顛末を耳にして、長山は空いた口がふさがらなかった。驚きを通り越して、呆れていた。翔子は、男からの自白を引き出していたのだ。ベテランの刑事といえど、簡単にできることではない。さすがの久我も、驚きに表情が固まっていた。
すぐ笑いに変わった。
「ははは、お見事」
男の名前は、片桐茂男。五九歳。
共犯者の名は、樺島。
「どうですか? 調査できますか?」
「樺島という共犯者が、凶器である拳銃をもっているんですね?」
「そう言ってました」
樺島という男が特定できたとしても、拳銃を現在でも所持しているのかは疑問だ。が、片桐には前科があるそうだから、その線から樺島にはたどりつくだろう。
片桐は逮捕できなくとも、共犯者の樺島には、このルールは適用されない。
なんとしても、未解決事件の一つを解き明かすのだ。