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15.木曜日午後5時
夕刻になって、天気が急変した。
最上階からの風景を、無機質に久我の瞳が反射している。
長山の報告では、反町純一は、恋人と主張する女性が本当は恋人でもなんでもないことを、ちゃんと認識しているという。それを承知で、彼女に懸賞金を託そうと考えた。
「……」
これで、三鷹の強盗事件、上野の通り魔殺人が解決したことになる。いや、本当の解決はこれからになるということも、久我はわかっている。そこまで傲慢ではない。そして遺族にとっては、永遠に解決の時が来ないということも。
残りは二つ……。
雷光が、夕闇を白く染めた。
思い出す。土の感触。このような雨が、あのときも降りだした。
「……来るのか」
このマネーゲームにも終わりが……。
雷鳴が轟いた。
この世の終わりを告げる猛獣が、低く吠えたようだった。
* * *
久しぶりの夕立が去ると、同時に夜の闇がおとずれた。
長山は、外の空気を吸うために財団本部から離れた。都心にひっそりと存在する小さな公園に足を運んだ。
夕立が降りはじめたころに、上野署から財団にもどっていた。反町の報告を久我にしてからは、持ち場の席について、退屈な時間を過ごしていた。
虚しさのようなものが、ここにきて膨れ上がっていた。これまでの警官人生が、ひどく無駄に思えてきたのだ。足を棒にした聞き込みも、証拠集めも、取り調べでの犯人との心理戦も、結局は金の前に無力となる。
金をかけることが、なによりも勝る。
これまでにも懸賞金制度というものはあった。だが金額は、ずっと少ない。億を超える金額を提示されれば、だれもが血眼になるだろう。しかも、犯人自身も受け取れる。残りの二つも、じき解決する──漠然とだが、長山はそう考えた。
公園のベンチに腰を下ろしたとき、園内に知っている顔がいることに気がついた。遊具は、滑り台と砂場、ブランコがあるだけだ。ブランコに乗っている女性がいた。
杉村遙だった。
常夜灯が明るいから、視線が合ったこともわかった。おたがいが会釈する。
「休憩ですか?」
彼女のほうから近づいてきたので、長山は声をかけた。
「はい」
彼女がとなりに座った。財団本部のなかにも休憩室は設置されているが、そこで休んでいる人をあまり見たことがないから、こうして外へ出る職員が多いのだろう。
「長山さんも?」
「そういうことになりますね」
長山の場合、明確な職務時間が決まっているわけではないし、作業に形があるわけでもない。休憩といえば休憩だし、推理のための気分転換だとしたら、仕事中であるともいえる。彼女をはじめとするオペレーターの女性たちの職務時間もまちまちで、朝から夕方までもいれば、夕方から深夜まで、朝までの夜勤もいる。同じ女性でも、その日によってちがうことがあるようだ。ある意味、自由に勤務時間を選べる。
「どうですか、仕事のほうは? 慣れましたか?」
とくに話したいこともなかったので、ありきたりなことを口にした。
「ええ、おかげさまで」
彼女のほうも、ありきたりに返した。
「……もし、あなたが莫大な懸賞金をだれかにあげるとしたら、だれにしますか?」
ふと、そんなことを訊いてしまった。きっと、疲れているのだ。
「わたしが……ですか? もし犯人だとしたら、ですね?」
曖昧に長山は笑った。さすがに、そんなことを仮定させるのは失礼だと感じたのだ。
「そうですねえ……」
しかし彼女は気分を害したふうもなく、考え込んだ。
「わたしには家族もいませんし……とくに、だれかにあげようと思える人は……」
「ご両親は?」
「……」
訊いてはいけないことだったのだ。
「申し訳ない」
「いいんです。母は、わたしが高校生のときに、病気で亡くなりました」
想像どおり、重い内容だった。
「ずっと病弱でしたので……。父も行方不明で……」
かなり複雑な事情があるようだ。
「ですから、わたしには……」
恋人は? と会話を続けることもできた。だが、そんなことを言えるような雰囲気ではなかった。容姿端麗で、知的な女性だ。モテないはずはない。しかし、彼女自身がそんなものを望んでいないのでは……それは、長山の考えすぎだろうか。
「……もう、もどらなくちゃ」
彼女は立ち上がった。本当に、時間に急かされていたのかはわからない。が、長山にはこの場の空気を嫌ったのだと感じられた。
杉村遙が去って五分ほどしてから、長山も財団本部にもどった。
コールセンターに入ったとき、ただならぬ緊張感が漂っていた。オペレーターの何人かの視線が、長山に集まった。現在、応対しているのは、ただ一人だった。休憩から帰って、すぐに受けたのだろう。
その一人──杉村遙が、眼で合図を送ってきた。長山は、急いで自分の席についた。
すぐさま電話が音をたてた。出る。
「もしもし?」
『服部です……』
練馬一家殺人の犯人かもしれない服部幸弘だった。だが長山はここにきて、それを偽名だと思いはじめていた。その名前の人間は、たしかに実在している。それでも、この電話の主が服部ではないような気がしてならないのだ。
『ぼくが……犯人です』
それまでは、犯行をほのめかすだけにとどめていたが、ついに犯行を認めるような言動になった。
「本当ですか?」
信じていなかった。
「あなたは、本当に服部幸弘さんですか?」
電話の声は、押し黙ってしまった。
「私が調べた服部幸弘という人物は、当時中学生でした。十五歳というのは、事件発生時の年齢じゃないですか?」
『そうです……』
中学生が残虐な罪を犯すこともある。過去には、それで何度も世間を騒がせたではないか。
「一度お会いして、本人確認させてもらいたいのですが」
『少年法……適用されますよね?』
声は言った。
『少年法です……』
犯行当時十五歳ということは、少年法が適用されるのはまちがいない。それから時が過ぎ、犯人が成人になっていようとも、少年法で守られることになる。一九九九年に発生したということは、少年法はまだ改正されていない。十五歳では、刑事事件としてあつかうことすらできない。二〇〇〇年の改正後は、刑事責任を問える年齢が十六歳から十四歳以上に引き下げられた。が、その場合でも、十五歳では何人殺そうと死刑判決は絶対に出ない。
彼の目論見は、そこらへんにあるのか……長山は思った。
「そうですね。少年法は適用されますね。しかしそれには、あなたが本物の犯人であるという証拠と、本人確認が必要になります」
『どこにいけば……』
「どこへでも行きますよ。そちらで指定してくださってけっこうです」
『……』
「東京にお住まいですか?」
無言が続く。
「東京周辺ですか?」
『……はい』
いま訊きなおしたのは、東京在住であることを限定されたくないと、声の主が考えるかもしれないと思ったからだ。
「渋谷はどうですか? それとも新宿がいいですか?」
『……どこでもいいです』
「では、新宿にしましょうか?」
声からの推定年齢は二〇代後半だが、もし本物の服部幸弘だとしたら三〇代ということになる。杉村遥の指摘でもそうだった。若者の多い渋谷より、まだ新宿のほうが馴染みやすいだろうと考慮した結果だ。
『そちらでも……いいです』
最初、どういう意味なのかわからなかった。
「……ここに来てもらえるんですか?」
『はい』
長山は、財団本部の住所と、大まかなアクセス方法を教えた。
「いつでもいいですが、周辺にはマスコミの人間がいるかもしれませんので、できれば事前に連絡をください」
『明日……十時に行きます』
「わかりました。お待ちしています」




