二人分の紅茶を上手に淹れる
恋をしたのかと言われれば首を横に振り、愛があるのかと問われれば首を縦に振る。
きっとそれであっている、と思う。
実際のところ自分自身が分かっていないから、確かな答えは未だに生まれない。
ぼんやりとテレビを眺める横顔を眺めているのにも飽きて、立ち上がれば視線が向けられる。
仕事?なんて問い掛けに首を横に振った。
在宅ワークのような作家には、別段決まった時間にする仕事はない。
締め切りはあるけど。
「ミルクティー作るけど、飲む?」
お昼少し過ぎで軽食を食べ終えて、のんびりと進む時間に身を任せているのも良いが、それなら少しの贅沢を挟みたい。
キッチンに足を向ける私に、お願いします、と酷く楽しそうな声が投げられた。
結婚が女の幸せ、なんて古臭い考えなのか、現状を最高級の幸せと呼ぶのかは不明。
少なくとも毎日同じようなことを繰り返し、ただただ流れるような時間に身を任せている。
怠惰、と言われればその通りかも知れない。
何も無いこの現状こそが幸せ、と言われればそれもその通りかも知れない。
耐熱のボウルを取り出して、ヤカンに水道水を注いで火にかける。
ミルクティーはミルクティーでも、牛乳で茶葉を煮詰めるロイヤルミルクティーだ。
知的好奇心旺盛、と言えば聞こえがいいのか、昔から何か気になれば手を出したがった。
その結果が牛乳で茶葉を煮詰めたり、珈琲豆を挽いて珈琲を淹れたり、に繋がる。
凝り性、なんて幼馴染み達からは揶揄されていたけれど、そうして用意したものは何だかんだで気に入ってくれたから続けられるのだ。
後は個人的な味覚の問題で、そっちが美味しいから、なのだが。
戸棚からアッサムの茶葉を取り出し、ティースプーンに山盛り二杯。
ばっさばっさと耐熱のボウルに入れて、ヤカンの中身が沸騰するのを待つばかり。
それを待っている間に手鍋やカップを出していると、いつの間にかテレビ近くのソファーに座っていた彼が、リビングの椅子に座っていた。
少しだけ身を乗り出すようにこちらを覗きながら、はぁ、と溜息を漏らす。
なぁに、彼の方も見ずに問い掛ければ、凄いなぁって、と答えが返ってきた。
視線を上げた先にある、へにゃりと締りのない笑顔は、出会った頃から変わらない。
「未だに覚えられないんだよねぇ」
「レシピでも書いて置いておこうか。自分でも用意出来るようになると、少し贅沢な気分になる」
沸騰したヤカンが早く火を止めろ、と言わんばかりの音を立てる。
火を止めてヤカンを耐熱のボウルに傾けて、茶葉がひたひたになるまで熱湯を注ぐ。
それと一緒にティーカップに湯通しをして温める。
手間、実に手間な作業だが、茶葉の葉を開かせるのに大切なことで、これが美味しさを際立たせるのだ。
一連の動作を眺めていた彼は、少しだけ眉を寄せて「ごめん、いいや」と首を振る。
確実に面倒そうだと思っている顔だ。
実際のところ私が用意しない限り、彼が飲む紅茶はティーパックだし珈琲はインスタントなのだから、当然と言えば当然の反応か。
「俺としては嫁ちゃんが淹れてくれたのが、一番だからさぁ」
冷蔵庫から牛乳を取り出す手を止めて彼を見れば、彼は何も気付いていないのか、鼻筋に沿って落ちてくる眼鏡を押し上げていた。
「嫁ちゃん」とオウム返しをしてみれば、その指先がピクリと動いて止まる。
牛乳を取り出してバタンと音を立てながら冷蔵庫の扉を閉めた頃には、じわじわと彼の顔に熱が集まっていた。
久々に見たよその顔、なんて笑って見せれば、椅子から転げ落ちる彼。
もうお互い良い歳なんだから落ち着こうよ、なんて思いながらも口に出すことはせず、計量カップに牛乳を注いだ。
「ちが、違う!」
「え、何が?って言うか、椅子、倒したならちゃんと戻してね」
「あ、うん」
牛乳を計量カップに三百ピッタリに入れて、今度は手鍋にそれを流し込む。
それから軽く計量カップを水洗いしてから、水を百入れて、同じく手鍋へ。
そうしている間に彼は、慌てて椅子を直し、ノリツッコミの勢いで又してもボクに「違くて!」と怒鳴った。
そんなに声を荒らげるのは珍しいことだが、何もそんなにムキになることはないだろう。
肩を竦めて彼の方を見れば、顔を真っ赤にして、ふわふわの茶髪を掻き乱していた。
ボクよりも感情表現が豊かな彼だか、こんなに恥ずかしがる?照れる?とは付き合うことを承諾した以来か。
いや、結婚を申し出た時以来か。
――何にせよ、それくらい前かな、と思ってしまうくらい珍しいものを見た。
「いつもっ、いつも作ちゃんって呼んでるから!」
「うん、知ってるよ」
学生の頃から呼び方は変わらなかった。
数回名前で呼ばれたこともあるが、はにかみながら頬を掻き、作ちゃん、と呼び直すのだ。
実際のところ私もあまり変わらずに彼のことを苗字で呼んだりするので、呼び方に拘りはない。
学生時代に、幼馴染みとしての小さな世界を守る時にはあったけれど、夫婦間では特になし。
「だから、その、外では、つい……」
「嫁ちゃんって呼んじゃうと」
ふむふむ、と頷きながら手鍋を火に掛ける。
私の頷きに、あああああ!!と変な雄叫びを上げた彼は、フローリングに突っ伏す。
額を打ち付ける鈍い音がしたけれど大丈夫だろうか。
覗いた先には額が痛いからか、恥ずかしさや居た堪れなさからか、悶絶する彼がいた。
「いや、別にいいんだって。可愛いと思うよ、嫁ちゃん。何なら普段からそう呼んでくれたって良いし」
些か夫婦間で交わされるような会話ではない。
もしかしたら新婚ならあったかも知れない、夫婦じゃなくて恋人同士なら良くあるかも知れないけど、私達は夫婦になってそれなりの年月だし子供もいるから、そんな初々しさはないはず。
顔を上げた彼は子供みたいに不安そうな顔をしていて、つい笑ってしまった。
あぁ、やっぱり、どうしても甘ったるさはないし、エロチックさもないし、男と女らしくない。
手鍋の中身が沸騰するよりも前に火を止めて、くすくすと笑い声を漏らしながら、茶葉の広がったそれを手鍋へと投入する。
牛乳の白がミルクティー色になるのを見て、ほぅ、と感嘆の吐息を漏らせば、もそもそと彼が起き上がって私の手元を覗き込む、
「まぁ、何にしても偶には夫婦らしさを演出するのも良いとは思うんだ」
「らしくなくても夫婦だよ」
未だに赤みの引かない頬を膨らませた彼が、自身の左手を差し出した。
私よりも一回りは大きい手の薬指には、シンプルな鈍色が輝いている。
それよりも細身の華奢な鈍色が、私の左手薬指に輝いているけれど。
「そうだけどね、周りから見れば些か夫婦らしくはないのだよ。自分でもそう思うから間違いないね」
ぐるりと手鍋の中身を掻き混ぜてから蓋をする。
置いておいた砂時計を引っ繰り返してから彼を見れば、まるで叱られた子犬のようにベッタリとリビングのテーブルに頬を擦り付けていた。
うー、なんて唸り声が聞こえてくる。
「そんな顔をしない。自分が幾つか分かってる?」
童顔だからって、と続ければ直ぐ様起き上がる当たり、本当に扱いやすいと思う。
昔はもう少し距離感とか取りにくかった気がするが、年月の問題かそれとも関係性の問題か。
笑い声を漏らせば、作ちゃん、と呼ばれる。
「俺のこと好き?」
「嫌いじゃないけど、愛してはいる」
結婚はしたけれど恋愛はしてこなかった。
私が彼を好きになったのではなく、彼が私を好きになったのだ。
長きに渡る彼の片想いに終止符を打ったのは私だが、恋愛感情があったかと言われれば少し違う。
あったのは彼への信頼や信用だった。
恋はないけど愛はある。
勿論愛の形にも色々あって、私のは友愛だったのだろう。
だからこそ、信頼や信用の方が前に出る、先に来る。
彼は少しだけ不満そうに、そっか、と頷く。
「……恋は下心、愛は真心、なんて言うもの」
チラリ、砂時計を見やれば、中身は既に半分以下。
絶えずサラサラと細かな色付きの砂を落とすそれは、普通の時計と同じように時間を感じさせた。
どれだけのんびり過ごしても、確かに流れていってしまう時間を。
「確かに、あったかも知れない……」
「下心?まぁ、高校生だったもの。それが健全でしょう」
「や、でもさぁ。流石に過ぎた過去って思ってても、実際にそういうのがあったのは変わらないし、事実だし、申し訳なくなってくると言うか」
気まずそうに視線を逸らして、居心地が悪そうに眼鏡を押し上げる彼は真面目だと思う。
作り掛けのミルクティーよりも濃いめの茶髪はふわふわしていて、実年齢よりも若く見られる童顔が、可愛いという言葉を良く似合う容姿にしていて、性欲とかそう言うのとイメージを結び付けるのが難しいところは確かにある。
そわそわと体を揺らす彼を見ていると、砂時計の砂が全て落ち切った。
手鍋の蓋を取れば茶葉の香りが広がって、私は深く息を吸い込む。
ぐるりぐるり、中身を掻き混ぜて温めて置いたティーカップに茶こしを設置してミルクティーを注ぐ。
香りに釣られたのか彼も私の手元を覗き込み、すんすんと鼻を動かした。
それを見ながら確か貰い物のクッキーがあったはず、と戸棚を探る。
「クッキーなら右側の棚だよ」と彼が笑うので、その言葉に従って覗けばお目当てのものを見つけた。
クッキーを持っていって貰おうと思ったのに、彼は既に二人分のカップを持っている。
それに眉を下げながら、使った手鍋や耐熱のボウルを水道水に漬けて、クッキーと一緒に彼の元へ向かう。
三人掛けのソファーの右半分に彼が座り、左半分に私が腰を下ろす。
「特別な甘さもエロチックさも、ボクには必要ないかな」
クッキーの缶を開けて、ガラスのローテーブルの中央に置いた。
彼はソーサーごとティーカップを持って、ふわりと湯気を吹き飛ばしている。
それに習い、私もティーカップへ手を伸ばす。
「同じペースで流れる時間と同じように、のんびりとミルクティーが啜れるなら満足。そんな時間を共有出来る相手を夫に選んだのは、間違いなくボクなのだし。幸せだよ。愛してる」
ふんわりとしたピンク色にはなれない空気は、ミルクティーの色に染まって、紅茶の香りを纏う。
体を傾けた先にある体温に笑えば、彼が頬を染めながら笑うから、やはり幸せだと思った。
恋はなくとも愛があれば、生きていけるのだ。




