春の始まり
家に帰ると、家中のものがひっくり返っていた。姉が春を探していたのだ。
「あちこち探したけど、見つからなくて」と帰ってきたぼくに、姉は言った。
「外に行かないとないよ。たぶん」とぼくは言った。「それにきっとまだ早いよ」
「やっぱり、そうかしら」と姉が答える。「そうそう、あのね。お父さんとお母さん、今日二人とも仕事で帰れないのよ。でも、春を探していたからまだ夕飯の支度も何もしていないの」
「いいさ、外で食べよう」
「何にする?」
「久しぶりにそこの定食屋でいいかな」
「いいわよ」
外はまだ寒い。防寒のためマフラーをしてジャケットを着こむと、嵐が通り過ぎた後のような状態の家を出た。道路に出ると、凍てついた風がぼくと姉に吹き付け、ぼくたちはそれから身を守るように身を寄せ合って歩いた。
いささか唐突だが、ぼくと姉は実の姉弟ではない。さらに言ってしまえば生き物としての種類さえ違う。そう、人間ではないのだ。姉が。
姉の正体は蝶だ。
目の前のテーブルに生姜焼き定食が置かれた。ぼくはご飯、味噌汁、豆腐、鯖の煮つけ、キャベツ、豚の生姜焼きという順に一口ずつ食べ、肉を食べ終わると残った肉汁をご飯にかけて美味しくいただいた。姉の方はというとまだヒレカツの背中側の身を半分ほど食べ終わったところだった。
ぼくは肉汁ご飯の味を噛みしめながら姉の話を聞いた。
「わたしもね、変だとは思ったのよ。まだ冬も終わらないし、家の中で春をさがすなんてね。でも、この時期になるとどうしても居ても立ってもいられなくなっちゃうのよ。わかるでしょ? ちょっとずつだけど近づいてきているな、っていうのがわかるの。今日もね、あなたが出かけた後にね、お布団を整えてたたら感じたのよ。かすかな春を。ふわって感じでそこに乗っかっていて…。わたし、感動しちゃって布団の上に飛び込んだの。ずっとそうしていたかったけど寝てしまいそうだったし、掃除も洗濯もしなくちゃいけないから起きて済ませたの。でも、全部終わった時には布団の上の春は消えてしまっていて、―一度放したらダメなのね―わたし必死で探したのだけれど見つからなくて…。家中滅茶苦茶にしてごめんね。明日お父さんとお母さんが帰ってくる前に全部片づけるから。でもね、本当に春があったのよ。またあの季節が来るのか、って嬉しくて堪らなくなってね」
ぼくは、部活で疲れていたこともあり、姉の話にどう答えたらいいのかわからなくなっていた。食事をしたこともあって身体があったかくなり、ほんの少し眠気も感じる。しかし、こういった公共の食堂では寝るべきではないという観念が働いているのか、今すぐ眠りにつきたくなるような本格的な睡魔はこない。
「まあ気持ちはわかるけどね」なんとか答える。(だからといって冷蔵庫の中身までぶちまける必要性はないと思うが)
姉のこの不可解な行動は、昨日今日始まったことではなかった。ぼくが小さい頃からそういうことはあった。小学生の頃、突然近所の森に連れていかれて春を探そうと言われ、夜の8時になるまでつき合わされたのだ。心配して探しに来た両親に見つけ出されてやっと家に帰れたのだが、まだ寒い時期に夜まで外にいたのでぼくは見事に風を引いてしまった。
「確かにすぐそこまで来ているとは思うけどね」
姉はわずかに残ったヒレカツから顔をあげた。「もうそろそろ見つかるかしら?」
「たぶん」
「明日には見つかるかしら」
「どうだろう」
「山とかに出かければ見つかるかな」
「出かけなくてもあるよ。庭先とか…」
姉の食事が終わるのを待って店を出た。
姉の春好きには彼女が蝶であることが関係しているのだろうか? 蝶がみんな春好きかどうか知らないが。夏に羽化する蝶もいるくらいだからみんなではないのだろうか。
姉が蝶であることを知ったのは小学校に入学する前のことだった。その頃には人間の家族はみんな人間であるというくらいの常識は持ち合わせていたが、当時のぼくはそれを疑うことも驚くこともなかった。
どういう経緯でこうなったのかは知らない。両親とも血の繋がりはないわけだが、蜘蛛の巣に捕まっていたのを助けられたのがきっかけらしい。本当かどうかはわからないし、確かめる術もない。
とにかく姉は蝶で、春が大好きなのだ。そしてこの季節になると春の訪れを証明するものを探し始めるのだ。
学校から帰ると、姉が家の玄関先に立っていた。買い物帰りらしくスーパー袋を提げていた。こちらに気付くこともなくドアの横のある一点を見つめている。
「ただいま」と言うと姉はこちらに気付いた。
「おかえり」
「どうしたの?」
「これ」
そう言って姉が指差したところを見ると、ドアノブのすぐ横にあたる場所に物体がとまっているのがみえた。蝶の蛹だった。アゲハだろうか、綺麗なパステルグリーンだった。少し大きめなようだ。
「春だね」
「ううん、春ではないの。でももうすぐ春になるの」
姉は嬉しそうに笑った。
そのままにしておくと風で飛ばされてしまうかもしれないと思い、ぼくが小学校の時に使っていた虫かごを引っ張りだしてきて、そこに細い木の枝を差し込んで止まらせてやった。
姉は家事をしている時以外はずっと、虫かごの前で蛹の様子を眺めていた。乾燥している時は霧吹きで水をやったり、なにかを語りかけたり、虫かごを抱いて寝てみたり、姉は一日のうちのほとんどを虫かごの傍ですごした。そんな姉を見ながらぼくは、蛹と一緒に冬眠しているみたいだと思った。昔の、蝶だった頃の自分を思いn出すのだろうか。
昔、姉に蝶だった時のことを訊いてみたことがある。
お花畑の中を飛び回るのはどんな感じだった? どんなことを考えていたの? 花の蜜は美味しかった? どうして人間になったの? また蝶に戻りたいと思うことはある?
幼いぼくの質問に、姉はなにも答えず、ただ微笑んでいた。
ぼくはそんな姉を見て、幼心に不安を感じた。姉がどこかへ行ってしまいそうな気がした。蝶に戻ってどこかに飛び去っていってしまいそうな気がした。
蛹を見ながらこんなことを考えた。
なにかの本で読んだのだが、蝶は蛹から羽化する前に中でドロドロのスープのようになるらしい。幼虫から一度液状になって、蛹の中で成長し、成虫となって蛹から出てきてあの美しい姿で飛び回るのだ。
姉にはその話をしたことがない。話しても仕方がないし、第一ぼくが知っていて姉が知らないわけがないのだ。
蛹を発見してから一週間以上経過したある日の早朝、蛹が黒く変色し始めているのを姉が発見した。羽化の兆候だった。
「たぶん今日中に羽化するよ。あと数時間ぐらいじゃないかな」
姉は虫かごの中を食い入るように見つめて、片時も目を離さなかった。
それから一時間が過ぎた。朝のニュース番組を見終えたぼくを姉が興奮したように呼んだ。
「もう羽化するみたい」
虫かごをのぞき込むと、黒ずんだ蛹が身じろぎするように蠢いていた。ぼくは虫かごの蓋を開け、窓を開けると羽化した成虫がいつでも外に飛び立てるように窓際の方へそっと虫かごを運び、姉と一緒に蠢く蛹に見入った。初めて見る蝶の誕生の瞬間だ。
やがて微かなパリパリという音とともに蛹が割れ始めた。ばたばたと小さく動く足が見え、小さな顔がひょっこりと顔を出した。
「出てきた」
姉が緊張の面持ちになる。ぼくも姉につられるように緊張してくるのを感じた。
顔が出てきてから全身が出てくるまではあっという間で、一分とかからなかった。微かに毛に覆われているのがわかる胴体が見え、閉じた状態の黒い翅が見えた。完全に全身が蛹から出たようだった。あとは空に向かって羽ばたくだけだった。ぼくも姉も、その瞬間を目に焼き付けようと釘付けになった。
ところが一向に飛ぶ気配がない。そこまではスムーズにいっていたのに蛹を出てからぴたりと音沙汰なくなってしまった。
「どうしたんだろう」
「翅がうまく広げられないのかも」
ぼくはどうしたものかと思った。下手に手を出して翅を傷つけてしまったら大変だ。
しばらく様子を見たがやはり飛ぶ気配はなかった。羽化に失敗したのだろうか。姉はなにやら悟ったような顔をしている。
結局その日、蝶は飛ばなかった。時折羽を動かすような仕草を見せるのだが、数回動かしただけでやめてしまう。色も黒のまま変化はなかった。
とりあえず、餌として蜂蜜を水で薄め、脱脂綿に含ませたものをやった。それに止まるものの、吸っているのかどうかわからなかった。
次の日になっても蝶は飛ばなかった。それどころかだんだん弱ってきているようにも見える。ぼくは、もう駄目だろうなと思った。
不思議なことに、姉はこのことに関してなんの感慨も湧かないようだった。ただ淡々と家事をこなしている。ときどき虫かごを気にする素振りは見せるものの、昨日までのように虫かごをじっと眺めることもなく、なんだかボーッとしている感じだった。姉がなにも気にしていない感じなのが、ぼくには逆に心配だった。あれだけ待ちわびていた春が近づいているのに上の空だ。
きっと蝶の姿で舞っていた頃のことを思い出しているのだ、と思った。そしてまたどこかへ飛んでいってしまいたいと思っているに違いない。
次の日の朝、ぼくが目を覚ますと姉が消えていた。
家のどこにもいない。あの虫かごもなかった。
昨日の予感が的中したのかとぼくは動揺した。
しかし、姉はそれからものの数分で戻ってきた。手には空の虫かごを持っている。
姉は走ってきたようで、肩で息をしながら言った。「来て。見せたいものがあるの」
ぼくは姉に手を引かれて走った。姉は子供の時に春を探しに行った、あの近所の林へと駆け込んだ。
「なにがあるんだ」
「春よ!」
ぼくと姉は森の中を走った。池が見えてきた。姉はそこで立ち止まり、ぼくもそれに合わせて急停止した。
「見て」姉は池の真ん中を指差した。
池の上に十メートルほどもある巨大な蝶が止まっていた。
蝶は黄金色の翅をはためかせ、青色の目をしばたたかせ、触覚をピクピクと動かした。
蝶が翅を動かすたびに心地よい風がぼくたちを包んだ。
やがて巨大な蝶は翅を動かす速度を速めると、その風圧を利用して空気の上に乗った。激しい風が水面の上を乱反射し、蝶を上空へと押し上げた。
姉が歓声をあげた。
風は池を二つに割り、地面を削り、木々に激しくぶつかった。凄まじい衝撃の中なんとか目を開けると蝶は遥か上空へと飛び立っていくところだった。激しい風の波に乗って太陽に反射した虹色の翅の光と、甘い匂いがぼくたちを包んだ。それは春の温もりだった。光と温かさが支配していた。この世のすべてを包んでいた。
「ほら!」姉が手を広げ、叫んだ。「春なのよ、春でしょ」
「ああ、春だ」ぼくは答えた。
またまた、大学の課題で描いた作品です。
思いつくままに描きました。やはりちょっと意味がわからないかもしれません。
雰囲気を楽しんでいただけたら幸いです。