第3章 再会。そして、出会い
神奈川県の藤沢市に出現したB・Nはそのまま内陸に侵攻し、長野県を通過して日本を横断。多くの街を破壊したのち、暗い日本海に潜って行った。
幸路はといえば、学校のテストも終わり夏休みが始まったばかりで、自宅で無為に過ごしていた。初めはやる気だったソフトテニス部も、辞めてしまった。パイロットになれないと分かり、体力をつける意味がなくなったのだ。なんだか変わってしまったな、と自分でも思っている頃だった。
「幸路ぃー、電話ー」
ベッドの上に寝転がっていると、いつものごとく一階から響く母親の声。
「誰だよ。めんどくせぇ」
幸路は、よっこらせとベッドから降り、下へ降りた。携帯ではなく自宅の電話に掛けてきたあたり、元部活仲間ではないだろう。
母親の握っていた受話器をかわる。
「はい、何でしょう」
『あなたが、丹波幸路君ですか?』
返ってきたのは物腰の柔らかそうな男の声。聞いたことのない声だ。
幸路はやる気なく答える。
「そうですけど」
『おお! いや、先日は本当にありがとうございました。なんと言えばいいか分かりませんよ』
男はへこへこした口調の一方で、明るい話し方をした。受話器越しに笑顔が見えそうだ。
……誰?
隣に居た母に目を向けると、なぜか怒ったような顔をされた。
悪い事でもしただろうか。それにしては、電話の相手は嬉しそうだが。
話を聞こうと、受話器に耳を傾ける。
『ご連絡が遅れてすみません。私も、住居を変えたり、知り合いに連絡を取ったりで、忙しかったものですから。それでもなんとか都合がつきましてね』
男はハハハと笑ったが、幸路は困惑するばかりだ。仕方ないので、こちらから尋ねる。
「で、あの、どちら様ですか?」
男は今さら気付いたらしく、「あっ」と言ってから名乗った。
『これはどうもすみません。ついつい勢いで話してしまって……そうです、伊藤です』
「あっ」
幸路は思い出した。伊藤。一週間ほど前、崩壊したアパートの中から救い出した男の苗字。あのとき、男はほとんど話せる状態ではなかった。それで、今はじめて、はっきりと声を聞いたのだ。そうと分かると、あの白髪混じりのパーマ男が笑顔で話しているのが目に浮かんだ。
『本当にご挨拶が遅れてすみません。こちらも、色々とやらねばならない事があったもので。ところで、ぜひまたお会いしたいのですが、明日は大丈夫ですか? 急ですが、できればご家族もご一緒に』
「明日……」
幸路は家族の予定までは知らない。ただ、平日なので父が居ないのは確実だ。
「俺は何も無いんでいいですけど、父が来れないと思います」
『残念ですが、それでも構いませんよ。できればお母さんにも来てほしいのですが……』
「ちょっと待ってください」
幸路は受話器を耳から離し、母親に突き出した。
「代わって」
母は受話器を取り上げてから、普段より一段高い声で通話を始めた。
「……そうなんです。うちの子ったら、ねぇ。いえいえ。本当、良かったです。ええ……」
話はずいぶんと長引いた。相手の奥さんとも話したのだろう。結局は明日会うことになったようだ。
「では明日、よろしくお願いします」
母はそう言って受話器を置くと、幸路を睨み付けた。
「あんた、なんでこんな大事な事黙ってたのよ! そういう事はすぐに言いなさい」
「んなこと言われても」
遺伝研究センターに行った日、夜遅くに帰宅してから、ニュースで怪獣再出現を知った親には散々心配された。本当の事を話すといろいろと面倒なので、直接の被害には会わなかったと嘘をついておいた。それが、今の電話ですべて知れてしまったわけだ。伊藤の妻に訊かれるまま自宅の電話番号を教えたのが失敗だった。
「とにかく、明日はご家族で挨拶に来られるそうだから、部屋の片づけを手伝いなさい。客間が無いんだから、食堂を徹底的に掃除しないと」
「えぇーっ」
嫌な顔をして拒否するが、効果がないようだ。
「あんたが招いた事でしょうが」
「なんだよそれ。悪い事したみたいじゃんか」
そのまま二階に逃げ帰ろうとしたところ、後頭部を鷲掴みにして捕えられてしまった。
「今すぐ」
その日、やけに張り切る母に遅くまでこき使われることとなった。
翌日の寝覚めはあまり良くなかった。昨日の夜、トイレの隅から椅子の脚、電灯のカバーの中に至るまでを掃除させられ、全身が激しい筋肉痛に見舞われたのだ。
幸路は肩を手で揉みながら起き上がると、壁の時計はもう8時を指していた。学校に行く習慣がなくなるとついだらけてしまうなぁ、などとぼんやり思うも、予定を思い出してベッドから飛び降りた。伊藤一家が来るのは10時ごろだったはずだ。
「起こせよ、もう」
目の前に居ない母に文句を垂れ、さっさと一階におりた。
脱衣所に行くと、母が鏡に向かって念入りに化粧をしていた。
「あ、やっと起きた。おはよう」
手を止めてこちらを振り返った顔は、ファンデーションやらなんやらで茶色のような灰色のような変な色に見える。
「飯、ある?」
「パン、焼いたから。でも、お腹空いたからってあんまり昨日の残り物とか食べないで。昼は伊藤さんが〝超〟高級レストランに連れてってくれるんだから。んっふっふ」
気持ち悪い笑いを浮かべたまま、母は顔のシミを隠す作業に戻った。声の調子がいいのは、伊藤が幸路たちを東京のホテル内にあるレストランに招待すると申し出たからだ。なんでも、世界でも一流のホテルだとかで、休日はレストランの予約が取れないらしい。が、幸路は夏休み。そして、伊藤は巨大生物に自宅を破壊されてから仕事の休暇を貰っているので、平日であるこの日に直前で予約が取れたのである。
……ったく、昨日あんだけ怒ってたくせに、調子いいぜ。
幸路は脱いだ服を洗濯機に放り込んでから、母が昨晩アイロンがけをしていた襟付きのシャツに着替える。その後、食堂に行って食パンを2枚だけ食べた。
伊藤夫妻が家を訪れたのは、予告通り、ちょうど10時ごろだった。
「ごめんください」
玄関から声が聞こえた途端、自室で音楽を聴いていた幸路のところへ外出用の服に着替えた母が駆け込んできた。
「来たわよ。早く降りなさい」
「分かってるよ」
なにをそんなに慌てるのかと思いながら音楽を切り、引っ張られるようにして一階に連れて行かれ、玄関に立たされた。今度はチャイムが鳴らされる。
「はーい」
答えながら、母が急いで入口のドアを開ける。
外には、燃える部屋の中で出会った一家が並んでいた。白髪の目立つもじゃもじゃ頭のメガネ男とその妻、それにまだ幼い娘。高級そうな黒の紙袋を手に提げている。ぴっちりと正装をした彼らを見ていると、さっきまでなんとも思っていなかった幸路もだんだん緊張してきた。
……俺、何すりゃいいんだ。
戸惑っていると、伊藤が母に向かって恭しい挨拶を始めた。
「初めまして、伊藤潤と申します。この度は息子さんに助けて頂きまして、お礼に参りました」
「幸路の母です。丹波宮子と申します。わざわざお越しいただいてすみません」
「いえ、とんでもない!」
伊藤は慌てて手を振る。
「息子さんには大変な御恩がありますので、お気兼ねなく」
幸路が伊藤夫妻を観察していると、彼らとは正反対に、母が怖い顔を振り向けてきた。
「ほら、挨拶して」
そう言われ、ぎこちなくアゴを突き出しながら「丹波、幸路です」と答えた。
母は後ろ振り返ったままうんざりした顔を幸路に見せた。
「もっと、ちゃんとしなさいよ。もう十四なんだから」
そしてすぐにニコニコ顔で前を向き、伊藤夫妻に頭を下げる。
「ホントこの子、礼儀が出来てなくてすみません」
「いえいえ。突然お邪魔したのはこっちなんですから」
「立ち話もあれですから、どうぞ上がってください」
「では、お邪魔します」
夫妻に続き、娘もまだ舌足らずの声で「おじゃまします」と言いながら入って来た。躾ができているらしい。幸路は、「あんたも見習いなさい」とか後で言われそうだなあ、と思いながら最後に食堂へ入った。
食堂では、住居を失くした伊藤家がどこに転居しただとか、六年前にも幸路がちょうど怪獣に遭遇したことだとかを話した。それだけなら良かったが、幸路が伊藤氏を助けた時のことを夫人が身振りを交えながらやけに詳しく、幸路の勇敢さを当人が思う以上に強調して母に説明するので、横で聞いていた本人はだんだん小っ恥ずかしくなってきた。幸路がゲンナリした顔で「もういいよ」と言うと、なら話はそれぐらいにして、予約の時間に間に合うよう出発しようということになった。
伊藤にもらったお礼の品を部屋に残して外へ出ると、駐車場に銀のセダンが停まっていた。スポーツカーのような見た目のその車は良く手入れが行き届いているようで、車体がキラキラと輝いている。
どうも伊藤さんには似合わないなぁ、と思っていると、
「いやぁ、実は、住処と一緒に車もなくなってしまいまして。レンタカーなんです」
と本人が笑いながら運転席に乗り込んだので、納得した。
幸路は助手席に、幸路母と伊藤夫人、伊藤家の娘の結が後ろに乗り込み、東京に向けて出発した。
道路は特に混雑するということもなく、車は順調に道を進んでいった。東京は、数日前に襲われた藤沢市とは逆方向だ。周囲のビルは何事にも動じなさそうにして、晴れた空に向かってそびえている。だがつい先日、少し離れた町で、それらは一瞬にして崩れ去った。
あの町は今、どうなっているのだろうか。
幸路が後部座席の談笑を聞き流しながら後ろの景色をちらちらと見ていると、隣で運転していた伊藤が話しかけてきた。
「気になります?」
「えっ」
見透かされたようで驚いたが、明らかにそう見えたのだろう。こちらから訊ねる。
「あのあと、どうなったんですか? 街は」
伊藤はさっきまでの笑顔を曇らせる。
「うーん、まさに、瓦礫の山。当分は住めないでしょう」
「やっぱり、前と同じ感じですか?」
「そうですが、全体で見れば今度のほうが被害は大きいでしょうね。なにせ、前回出現した時のUターンと違って、今度は日本横断。さっさと帰ってくれればまだ良かったんですけどねぇ……」
伊藤は悩ましそうに眉をひそめた。
ホテルのレストランでは、結を子供レストランという預り所に預けてから中に入った。案内されたのは、窓際の明るい席。場所は四十四階。広いガラス窓の向こうに東京タワーをはじめとした都会の景色が広がっている。
席に着いてメニュー表を渡されたものの、『魚のブランマンジェと~』とか、『40時間かけてじっくり火を通した牛の~』とか、幸路にとっては聞いたこともない料理ばかりでさっぱり分からない。結局、何度か来ているという伊藤にオススメを注文してもらった。
席に着いてからは、家での会話の続きがなされた。
「科学のご研究をなさってるんですかぁ」
幸路の母は目を見開き、伊藤の顔をまじまじと見つめた。
確かに、伊藤には今着ているスーツよりは白衣のほうが似合いそうだ。
「なら、ここへは何度も来られてるんですか?」
母の問いに、伊藤は謙遜して答える。
「いえ、そう頻繁に来るわけではないんですよ。数年前にようやく研究の成果が認められたばかりで、浪費できるほど余裕があるわけではないので。なくなった家もアパートでしたし、つぶれた車も軽ですからね。ただ、こういう特別なことにはお金を惜しまない主義なので、記念日なんかにはよく利用しているんですよ。いや、ハハハ」
「へぇ~」
声を出して何度もうなずく母は羨ましそうだ。父は仕事のつきあいで忙しいので、そう感じるのも無理はないと幸路は思った。
ほかにも話を聞いていると、伊藤は生物素材科学という学問の研究をしており、まだ四十一歳だということが分かった。
大人同士の会話がはずむ横で、幸路は食事に夢中だった。パプリカやレタスなどの野菜は黒みがかった色に見えてしまい、残念なことに幸路の目には食欲をそそる効果が無い。だが、その匂いだけでも十分な唾液を分泌させた。おいしい、というより、初めて食べる味に好奇心をかき立てらる。母にあまりがっつくなと言われつつも、一気に食ってしまった。
「ごゆっくりお召し上がりください」
だいぶ料理を堪能したころ、ウェイターに出されたのはメインらしい肉料理だった。肉が寝かせられているのではなく、ニンジンや玉葱の上にカットケーキのように立てられているのが幸路の興味を引いた。そんなことを気にしながらも一切れで味が気に入り、ぺろりと平らげてしまった。
大人たちが肉料理を食べている間、幸路はぼんやりと外を眺める。左側に東京タワーが建っている。だがそれよりも、その向こう、ビルに囲まれた東京湾と水色の空が目に焼きつくほどきれいだった。ただ、海をじっと見ていると、不吉な感情に襲われた。
……あの青黒い海の底に、アイツが潜んでる。
全身を伝うそわそわした感覚を抑え、幸路は親たちの会話に注意を戻した。
デザートを食べ終えると、最後にコーヒーが運ばれてきた。
食事が終わる前に母が謝辞を述べる。
「今日はこんなにしていただいて、ありがとうございました」
「いえいえ。これだけでお返しになったとは思っていません。こちらこそ、本日はお付き合い頂いてありがとうございました。幸路君も奥様も、わざわざお昼に出てきてくださいまして」
頭をさげた後、伊藤は急に真面目な顔になって幸路たち二人の方を向いた。
「ところで、急で大変申し訳ないんですが、お二人にお話が」
そこまで言うと、夫人が小声で伊藤をたしなめた。
「あなた、こんなところでお仕事のお話ですか?」
「こういう事は、早いほうがいいんだよ。でなければ、騙すようなことになる」
伊藤は夫人を黙らせ、幸路たちに向き直る。
「幸路君。私を助けてくれた日、遺伝研究センターの西田という研究員に会いませんでしたか?」
「えっ」
幸路は声を上げて驚いた。
「そうですけど……」
「やはり君でしたか。あの夜、遺伝研究センターは無事でして、西田君は助かったんです。彼から君の話は聞きました。そんな幸路君に見て欲しいものがあるんです。それで、ぜひこの後すぐ、一緒に来て欲しいのですが」
幸路は伊藤の柔和な顔の裏に何かあるのではないかと疑った。
見せたいものとは何だろうか?
数秒考えてから頭のなかで話がつながり、全身に悪寒がはしった。伊藤の研究は、生物素材科学だという。ということは、このおかしな体を持つ自分もまた研究対象ではないのか? これから自分は、どこかへ連れて行かれ、科学の発展とやらのために体をすり潰されるのだろうか?
幸路は疑念を頭から振り飛ばした。これまでの伊藤の態度から、そのような事をする人物ではないと思われたからだ。
「どういった事なんですか?」
母が尋ねる。
「来ていただくのが一番よくお分かりになると思います。行き先は、横須賀にある陸軍の研究所です」
「はい?」
幸路は訊き返す。
「軍?」
「助けていただいたうえでお願いをするのは不躾も承知です。しかし、出来るだけ早くお知らせするのが礼儀だとも考えています。是非、お願いします」
なぜそこまでするのか、どういうわけか分からない。陸軍という単語から、ここでは話しにくい事のようだ。隠されると、逆に気になる。
「なんか、行った方がいいんじゃねぇの?」
戸惑っている様子の母にそう促すと、「じゃあ、行くの?」と疑問形で返された。
「行ってみれば、分かんじゃねぇの?」
幸路がそう言ったのは、頼みごとを受け入れたからというよりは、好奇心からだ。
母は伊藤の方を向いた。
「でしたら、お願いします」
その言葉を聞いてすぐ、伊藤はスッキリした顔にもどった。
「ありがとうございます。研究所までは、私が車でお連れします」
食事の支払いを済ませ、一同はレストランを出た。一階まで来てから、伊藤はタクシーで帰るという夫人と娘を入口の外で送り出した。
「少し待ってください」
ホテルのロビーで、伊藤が携帯電話で話し始めた。研究所とやらの関係者に事前連絡をしているのだろう。
数十秒ほどで通話を切り、こちらに顔を向ける。
「では、行きましょうか」
三人は、地下に預けていた車に乗りこんだ。
発車してすぐ、助手席の母が伊藤に尋ねる。
「それで、どういったご用件でしょう?」
伊藤は運転しながら「できれば、実際に見ていただきながらご説明したいのですが……」とはぐらかし、幸路に話を振ってきた。
「ところで幸路君」
「はい」
「何かを操縦するのとか、興味がありますか?」
「えと……まあ、そうっスね」
少し前まで、飛行機の操縦士になりたかったのだ。旅客機はもちろん、戦闘機なんかは特に興味がある。陸軍の戦車や武器なども好きの範疇だ。
「なら、気に入ってもらえるかもしれません」
……一体何なんだ?
伊藤が運転に集中し始めたため、それ以降はほとんど会話が無かった。
一時間半ほどで、車は横須賀に着いた。六年前のB・(・)Nによる襲撃で横須賀周辺は壊滅したが、復興した現在では交通に差し支えはない。
いくつも並んだ灰色のアパートを横目に、久々に伊藤が口を開く。
「ここが、私の新しい住居なんです。実は、職場はこの近くにありまして」
「さっき言ってた、研究所ってとこですか?」
「ご明察です」
アパート群を抜けると、一気に視界がひらけた。フェンスに囲まれた山際の広い敷地に、白い建物がいくつか並んでいた。幸路の注意を引いたのは、なかでもひときわ目立つ巨大な黒のドームだ。
あの中で、何が……?
まもなく、車は入口の門の前で停車した。
「少々お待ちください」
伊藤はそう言って運転席から降り、門の横の守衛室へ小走りで向かっていった。入講証らしきものを守衛に見せてから戻って来る。そして車に乗り込み、開いたゲートを抜けて敷地内の駐車場で車を停めた。
「お待たせしました。到着です。どうぞ、降りてください」
伊藤の後に続いて二人とも車から降りた。
伊藤はリモコンキーで車にロックをしてから、説明を始めた。
「ここには以前も研究所があったのですが、六年前に上陸した怪獣によって焼き払われ、更地にされたんです。今では新しく建て直され、私も新職員として呼ばれました」
母が問う。
「ここで、どんな研究がされているんですか?」
「おもに、防衛兵器や未発表技術の開発研究です。付いて来てください」
歩き出した伊藤に続いて、幸路たちは奥に見える巨大ドームへと歩いて向かった。
ドームに入ってすぐのところに、小柄な女性が灰色の制服姿で立っていた。ふわりとしたショートヘア。若いキャビンアテンダントという感じだ。
「こんにちは」
三人に向かってにこやかに挨拶をした女性に、伊藤が話しかける。
「西原さん、わざわざすみません。お母さんをお連れしてください」
「分かりました」
西原と呼ばれた女性は母の方を向いて滑らかに述べる。
「西原と申します。本日はわざわざお越しくださって有り難うございます。今日お連れした事情をご説明いたしますので、あちらの部屋へ付いて来てください」
母もその笑みには逆らえないようで、キョトンとしつつも「分かりました」と従った。
西原はこちらに向かってにこやかに一礼をしてから、母を連れて行った。
「私たちも行きましょう」
伊藤に促されて、つかつかと後に続く。白い壁の廊下を進んだ突き当たりに、厳重そうな銀の扉が道を閉ざしていた。その前に警備員が立っている。
伊藤が警備員に軽く一礼してから「西原さんからお話があったはずです」と言うと、警備員は「うかがっています。どうぞ」と言って道をあけた。
伊藤がドア横のカードリーダーにカードを通すと、扉はすぐに開いた。
扉の向こうにあったのは、建物の外見から想像されたとおりの広い空間だった。床はすべてが濃い青色をしている。ドームの中央には天井まで届く仕切があって向こう側が見通せない。
開いた入口のむこう側から、白衣の人物がこちらに近づいてきた。後ろで結った白髪に、白い髭。眼鏡。高齢の研究員のようだ。
その人物は伊藤を見るなり呼びかけた。
「おお、伊藤君。復帰したかね」
「お久しぶりです日高先生。今日はまだ休暇の予定でしたが、要件ができまして」
「ん?」
日高と呼ばれた男は、そこで初めて幸路に気付いて視線を伊藤からずらした。
「おお、おお。彼が君の言っていた子かな?」
「ええ」
「そうか! しかし、本当にそうなら、実現するかもしれん。楽しみだわ。わっはっは」
日高は笑顔のままドアを通って外へ出て行った。
待たされ続けの幸路は、もう一度伊藤に尋ねる。
「あの、結局なんなんですか?」
「お楽しみですよ」
伊藤は軽く微笑むだけで続きを言わず、そのまま歩き出した。
……なんでそんなに焦らすんだよ。伊藤さん、けっこう意地悪だなぁ。
頭の中で不満を呟くが、すぐに分かるのだからと、黙ってついて行く。
スーツ姿の伊藤に導かれ、白衣の研究員や作業着を着たスタッフが行きかう青い空間を奥へ進む。建物の天井はかなり高い。体育館など比ではないほどだ。廊下の左右には仕切りで分けられたいくつもの部屋が設けられ、見たところ数百人の人間が働いているようだった。
それらのブースを横切って歩いていくと、建物の天井まである高い壁に突き当たった。
「こっちです」
左折して、壁沿いに歩く。さらに突き当たりを右へ。
角を曲がって百メートルほど行ったところで、伊藤が急に立ち止まった。後ろをつけていた幸路は危うく背中にぶつかりそうになる。
咄嗟に瞑った目を開けると、伊藤は右を向いていた。
「これを見て」
幸路は体をひねり、その通りにする。
「……えっ?」
初めは、そこに黒い壁があるのかと思った。だが、違う。わざわざひび割れた壁を作るはずがない。幸路の前方に立ちはだかっていたのは、全体を見ることができないほどに巨大な―顔だった。乾燥した大地のようにひび割れた黒い肌。鋭い黒の牙と、黒光りのする攻撃的な二本角。ドラゴンと狼を混ぜたのようなその顔を、幸路は幼いころ、遠目に見たことがあった。
……こいつ、あの時の。
それは、六年前、幸路の家を焼き払ったB・Nを迎え撃ち、そして呆気なくも倒れてしまったあの怪獣だった。神奈川のどこかに運ばれたと聞いたが、そこへ自分が連れて来られるとは思いもしなかった。
目を閉じ、安らかに眠るような顔で床に伏せる怪獣。犬のようにべったりと伏せた体には何本もの太いチューブが取り付けられ、横に停まった大型のタンク車両から液体が送り込まれている。
言葉を失ったまま見上げ続ける幸路に、伊藤が同じく見上げながら告げる。
「君には是非、この怪獣のエンジンになって欲しいんです」
数秒の沈黙の後、幸路の口が小さく動いた。
「……はい?」
巨大実験場内の隅にある休憩室。伊藤に奢ってもらったコーヒーで口を湿らせてから、幸路はソファに腰掛けた。もう一度、説明の内容を確かめる。
「……つまり、その、俺にあのデッカイのに乗り込んで、動かせってんですか?」
「そうですよ」
「そうですよ」だなんて、笑顔で簡単に言うものだ。
伊藤の解説によれば、あの怪獣には『bicornis hadrocutis』―日本語で『硬い皮膚をもつ二角獣』―という学名が付いている。現代の生物とは遺伝子的に離れており、あえて挙げるならカバに近い遺伝子をもつ。栄養源は口から摂取するだけでなく、体内に保有する細菌類の分泌物質を取り込んでいることが分かっている。また、動力源として石油などの燃料を利用できる。6年前に山梨県の山の中から出現。それまでは数万年の間、仮死状態だったと考えられる。さらに、身体は巨体を支えるための丈夫な構造をもつ。こうした数々の特徴から、進化生物学、分類学、細菌学、建築材料科学などの数多くの分野から選ばれた研究者が調査研究を行っている。
そんなたいそうな研究施設に幸路が呼ばれたのは、B・Nとの闘いで焼失したバイコルニスの脳の代わりに、人間が接続して動かせるという事実が関係している。その接続を長時間行うためには、人間よりも高い体温をもつバイコルニスと同じ温度まで接続者の体温を上げる必要がある。その役に、幸路が適任というわけだ。
「……で、何回聞いても意味が分からないんスけど。なんで動かせるんすか」
「分かりやすく説明するのは、難しいですねぇ」
伊藤と幸路が意思疎通できずに頭を悩ませていると、さっき出くわした白髪の研究者がドアを開けて入って来た。
「いやぁ、財布を車に置き忘れてな。はっは」
「日高先生。ちょうど良いところにいらっしゃいました」
「何か、あったのかね?」
「何故あのバイコルニスを人間が動かせるのか、彼に分かってもらうのに難航してまして。神経の分野は先生のご専門ですから」
「ああ、それなら簡単だ」
日高は幸路の顔を見ながらスラスラと説明を口にする。
「人間が体を動かすとき、長く連なった神経細胞で脳から筋肉に情報を伝えておるだろう? バイコルニスは体内の触手から針を出して人間の筋表面にある神経細胞同士のすきまに入りこんで、神経信号を横取りする。つまり、神経細胞間の領域であるシナプスに接続し、神経信号を伝達するシグナル分子を奪い取って……」
……ああもう、ダメだ。
鼓膜を通して入ってくる単語の意味が分からない。幸路は両耳から意識を遮断した。
「もしもし、聴いとるか?」
幸路はハッとして顔を上げる。
「いや、ちょっと……難しいっつうか、あの、俺には無理です」
「なんだそうか、残念だな……」
「彼はまだ中学生ですから、そこまでは学校で習わないでしょう」
伊藤が言うと、日高は「なるほど」と咳払いをし、より簡単に言い直した。
「つまり、接続した人間が体を動かそうとすれば、バイコルニスもその通りに動くというわけだな。しかし、もう一人の子は熱心に聞いてくれたぞ。同じくらいの歳のはずだが」
「ぶっ」
予期せぬ単語にコーヒーでむせそうになるのを堪えてから、尋ねた。
「もう一人?」
「言い忘れていましたね。君より先に見つかった、同じような特徴を持つ女の子が居るんですよ。彼女の前例があったからこそ、今言ったような事が分かってきたんです」
……女なのか……。
意外に思ってから、疑問が湧き上がる。
「え……じゃあ俺、要らなくないですか?」
「いえいえ」
伊藤は笑って続ける。
「実は、動かすのに二人必要なんです。脳にあたる部分が二つあって、そのどちらもが6年前の闘いでダメになったみたいです。脳の一つは、皮膚に覆われた筋肉を動かすための司令塔。もう一つはあの黒い外皮を動かす役割がある燃焼機関部で、そこへ君に入ってもらおうというわけです。あの生物は筋肉だけでなく、熱を使って丈夫な外皮を動かすことが出来るんですよ。あの皮は強靱でかつ軽量なので、あれほど巨大でも支えられる。生き物は凄いですよ、まったく」
伊藤は科学者らしく純粋に感嘆する。
「さて幸路君。出来れば是非、研究に協力して欲しいのですが。どうでしょう?」
「どでしょう、って……」
あの怪獣には未知が詰まっており、幸路が脳の代わりに接続して動かすことがさらなる理解に繋がるという。その研究に携わることは、誇るべき事なのだろう。
ただ、幸路は戸惑っていた。
……んなこと、急に言われてもなぁ。
沈黙する幸路に対し、伊藤は安心させるように明るい表情を向ける。
「どうするかは君の自由です。もちろん万全の体制で臨みますし、安全は確認済みです」
同様の事を遺伝研究センターの西田に言われた時は、そのときの気分で即座に否定した。けれど、今度は怪獣を動かすという話だ。小さい頃さっきの怪獣に強烈な印象を受けた幸路は、運命的なものを感じないこともない。
……どうしよう。
「あの、もうすこし後でもいいですか?」
「もちろん」
伊藤は微笑みながら頷いた。
幸路は実験場を出てドームの入口に戻ってから、まずトイレを済ませた。
トイレのドアを開けて外へ出た時、「あれ……?」という女の子の声がした。
横を向くと、女子トイレから出て来た少女が幸路のほうを向いて立っている。たぶん、歳は同じぐらい。背はそれほど高くない。セミロングの髪は後ろで一つにまとめてある。幸路はライターを目に近づけたときの色の記憶を頼りに、暗い黄色に見える女の子の髪を頭の中で鮮やかな栗色に変換した。
夏物の白い上着にジーンズ。この施設には不釣り合いな格好だ。
少女は不思議がるように幸路の体を見回してから顔を指差してきた。
「もしかして……『もう一人』って人?」
つまり、幸路から見て彼女が、さっき日高が言っていた「もう一人」の女の子ということなのだろう。
幸路がぎこちなく頷くと、女の子は急に喜ばしげな表情になって近づいて来た。
「おぉー。ホントに居たんだぁー。へー。思ったよりちっちゃい」
「いきなり何言うんだ」
「ごめんごめんー」
両手を擦り合わせて満面の笑みを浮かべる少女。
「良かったー。一人で寂しかったし」
この初対面の少女は、幸路の不快感をものともせずにへらへらしている。クラスで一番か二番目くらいにかわいいとは思ったが、いきなり台無しだ。
何だコイツ……。
「あ、なんていうの、名前」
「丹波幸路」
あえて素っ気なく答えたが、目の前の女のハイテンションにはなんの効果もなさそうだ。
「コージ。なるほどー」
相手は名前を憶えてから「烏頭原叶です」と右の手を差し出した。
幸路が手を見てじっとしていると、「ほら、握手」と急かしてきたので、仕方なく握り返す。
……熱い。
今までに握った誰の手よりも熱かった。自分と同じ人種というのは間違いないようだ。
叶のほうも「ほんとだ熱ーい」と感心している。
なんか……面白い奴だな。
最初は馴れ馴れしいような気もしたが、他人と打ち解ける能力があるのかも知れない。
「で? いつから来るの?」
「は?」
「乗るんでしょ? アイツに」
どうやら、幸路がすでに研究協力に同意したと勘違いしているらしい。
「まだ、決めてないんだけど」
「なんで?」
「なんで、って、さっき言われたばっかだし」
「じゃあ、時間がたったら決まるの?」
「そりゃ、いつかは決めるだろ」
「いつかって、いつ?」
「自分で決心がついたらだよ」
「なにそれ、じゃあ、待ってたら勝手に決まるって事? 意味わかんないんですけど」
「は……はぁ……?」
攻撃的なほどにまくし立ててくる叶に幸路は困惑した。
幸路の決断を待つことなく、叶は話を先に進める。
「いい? コージくん、君はやるの。たんばコージは私と一緒に怪獣の中に乗り込みます」
「何、勝手な事言ってんだよ」
「嫌って言っても無駄ね。今からわたし、『コージ君もやるって言ってましたぁ~』ってみんなに言いふらして既成事実にして、後からじゃ断れないように外堀を構築しておくから」
「ひどい奴だな」
「ホラ、私が勝手に決めちゃっていいの? もう行くよ」
叶は勝手に歩き出した。
「ちょっと、待てよ」
叶は立ち止まって振り返ると「じゃあ待つ。自分で決めて」と、幸路の前に立ちはだかった。
なんだコイツはと思いながら、幸路は考える。部活はやめたし、研究に協力しなくたって夏休みの間はする事なんかどうせない。だったら、やってみてもいいんじゃないだろうか。
幸路は叶に向かって、ちょっとだけ〝仕方なく〟の感じを出しながら言った。
「分かったよ、ったく。やるよ」
「よろしい」
そう言った叶の横を避けて歩き出すと、叶も後ろから付いて来た。
「なんでついて来んだよ」
「逃げられたら困るもん」
恐ろしい女だ。幸路は諦めて、そのまま伊藤のいる待合室に向かった。
ドアを開けると、幸路の母と話をしていた伊藤がこちらに振り返った。
「おや、幸路君……と、叶ちゃんも来ていたんだね」
「ご無沙汰でーす。テストも終わりましたので、やって参りましたー」
次に、叶は幸路の母に興味を示したようだ。
「コージ君のお母さんですか?」
「そうですけど……」
ここで、伊藤が間に入って紹介する。
「さっき言いました、烏頭原さんです」
「あっ、あなたが。よろしくね」
母は立ち上がり、頭を下げた。
「烏頭原叶です」
叶も向かい合い、同じく頭を下げる。
「こうじ君がお世話になっております」
……なに言ってんだコイツは。
幸路は冗談を言っている叶を無視し、座った母に話しかけた。
「で、話、聞いた?」
「ええ。なんだか、全然分かってないんだけど」
母も良く理解できていないようだ。だいぶ困った顔をしている母に、幸路は告げる。
「なんか、やっても良いかなって、思うんだけど」
「そう……?」
母は複雑そうな顔をした。
たぶん、未だに納得できていないのだ。自分の息子がよく分からない存在だということに。
その横で、伊藤は歓喜した。
「本当ですか、幸路君」
「はい。別に、やっても損するわけじゃないし」
「良かった」
伊藤が立ち上がって握手を求めてきたので、そのやや冷たい手を軽く握り返す。
「いま、書類を用意しますから」
書類かぁ……面倒だな。と思っていると、叶が肩に手を掛けてきた。
「お母さん、こうじ君、ちょっとお借りしても良いですか? すぐお返ししますから」
「え、ええ……どうぞ」
「では、失礼しまーす」
物みたいなぞんざいな扱いに不満を漏らすヒマもなく、叶に引っ張られて部屋を出る。
「ちょっと、来て」
叶はつかつかと廊下を歩き出した。
幸路は早足で追いかける。
「さっきから何なんだよ、おい」
叶は受付を通り過ぎて外へ出た。空はもう、金色に輝いている。
ついて行くと、叶はドーム横の日蔭に回り込んでから、急にこちらを振り返って両手を合わせた。
「ごめんっ」
「へ?」
何の脈絡もない言葉に驚き、幸路は立ち止まった。
叶は顔を俯けて申し訳なさそうにしている。
「いいよ、別に。どうせOKしてただろうし」
「違うって」
「は?」
「そういう事じゃない」
「何のことだよ」
問いかけに、叶は下を向いたまま言葉を濁す。
さっきまではあんなに元気に、というか鬱陶しいほどにぺらぺらと喋っていたのに、急にウジウジし出すと面倒くさい。
「何だよ、はっきり言ってくれよ」
「だって…………死ぬかもしれないし」
「は……?」
「ホントごめんっ」
叶は手で顔をそらしたまま走り去ってしまった。
……死ぬ?
「意味が分からん」
そう呟いて、幸路はもう一度建物の中に入った。
待合室に行くと、伊藤と母が話の続きをしていた。叶の姿はない。
幸路の姿に気付くと、母は話を中断した。
「伊藤先生、そろそろ帰らないといけないので」
幸路の言葉を聞いた伊藤は立ち上がってから二人に向かって深く頭を下げる。
「本当に有り難うごさいました」
母も立ち上がって礼を言うと、幸路のほうを向いた。
「帰ろっか」
「うん」
言ってから、幸路は伊藤にたずねる。
「訊いても良いですか?」
「なんでしょう」
優しげな伊藤の顔に、幸路は躊躇した。騙しているとは思えない。それでも訊いておいた方が良い気がしたので、言葉を続ける。
「本当に、危険とか無いっスよね?」
伊藤は隠し事などなさそうな表情ではっきりと答えた。
「心配するのはご尤もですが、安全性は確保済みです。これも、叶ちゃんに何度も手伝ってもらったおかげです。もし仮に危険があれば、即座に中止します」
そう言う伊藤の態度にはなんの怪しいところも見当たらない。自分で思うのも変だが、幸路は一応、伊藤の恩人なのだ。わざわざ危険な事をさせるとは考えられない。
「分かりました。変な事きいてすみません」
「いいえ。不安になるのは当然です。準備ができたらこちらからご連絡しますから、その時はよろしくお願いします」
三人は施設を後にした。伊藤が送ってくれるということで、そのまま車に乗り込んだ。
家に着く頃には、もう暗くなりかけていた。
家先で車から降りた幸路たちは、そこで伊藤に別れを告げ、車を見送った。
父が家に帰ってきたのは、母が夕食の支度をしている時だった。こんなに早く帰ってくるのは珍しい。
「ただいまー」
明るい声が響く。帰宅時はいつも嬉しそうだ。
幸路は二階の部屋で携帯の無料ゲームをしていたが、母親に呼ばれたので下へ降りた。食堂に入ると、真剣な顔の母と不思議そうな顔をした父が顔をテーブルを挟んで向き合わせていた。
「本当に大変だったのよ」
「ホテルに行ったんじゃなかったのか?」
「行ったけど、伊藤さんが研究者の方で、その後に横須賀の陸軍研究所に連れて行かれたの」
父は両目を見開いて驚く。
「軍? なんでまた」
「ちょっと幸路、説明してあげてよ」
急に助けを求められて、面倒事がいやな幸路は拒否してみせる。
「えっ、俺が? 母さんが説明してよ。生物得意って言ってたじゃん」
幸路は二人から離れてキッチンに行き、から揚げのつまみ食いを始めた。頬張りながら、二人の会話に耳を傾ける。
「幸路の事よ。なんでも、今やってる研究に必要な身体の特徴を持ってるんですって」
「研究って、なんの?」
母はやや迷った後、小声で答える。
「……怪獣」
「なんだそりゃ?」
父は、トチ狂ったんじゃないかと疑う目つきで母を見た。
「本当よ。六年前に見たでしょう? ゴリラみたいな体にワニみたいな尻尾が生えたやつ。あれが、陸軍の研究所に保管されてるのよ」
「へぇー」
父は目を丸くして幸路の顔を見た。
「凄いじゃないか」
その研究に必要な特徴があるせいで夢を遮られた幸路の気持ちを、父は知らない。
「それで今度、私たちにも検査を受けて欲しいですって」
「どうして」
「遺伝子を調べたいからって。幸路の体に影響を与えている可能性が大きいだろうから」
「なんだか難しくてよく分からんな」
父は、それ以上はもういい、といった様子で椅子にもたれかかって目をつむった。大きなあくびから察するに、今日は疲れているらしい。父は保険会社の社員だ。最近は世間が大きな災害に敏感なことや、怪獣が出た時は保険にでも入っていないとどうしようもないと考えられていることもあり、仕事も多いという。怪獣のせいで仕事があるのはなんだか喜べないが、幸路もそれで食わせてもらっているのだから、文句は言えない。
「幸路、今度から研究所まで通うかも知れないから。書類も貰ったし、あなたもサインして。あと、協力したお礼にお金も貰えるそうよ」
「ほぉー」
父は幸路の方を見てなんだか嬉しそうにする。
「良かったな。何かの役に立つんだろう。もしかしたら、ノーベル賞が貰えるかもしれんな。今度ヒマが出来たら、見学させてくれ」
「ちょっと、もぉ。真面目に聞いてよ」
「書類にサインね。夕飯の食器片付けたら、テーブルに置いといてくれ」
「まったく。ちゃんと聞いてないんだから……」
母は深く考えない父に呆れて息を吐いた。
幸路は父の様子を見ながら、やっぱりそこまで興味ないんだ、と半ばあきらめた気持ちでいた。仕事で疲れていて、意味の分からない話を聞きたくないのかもしれない。
まあ良い。特に反対も無かったのだから、今度から研究所に行くことになるだろう。
幸路は研究施設を思い出した。青い壁に囲まれた、様々な装置が設けられた広い部屋。何人もの研究員が行きかい、捕獲された一匹の巨大生物を対象にあらゆる視点から調査を進めている。もう一度あそこへ行くのだ。想像したら、純粋にわくわくしてきた。
そして、うずはらカノ。突き抜けるような女だった。また会うのも楽しみではある。
ただ、やはり気になる。カノは一体、何を懸念していたのだろうか。
考えれば考えるほど、分からずに頭を悩ませるだけだった。