第2章 崩壊―①―
パイロットになりたかった。理由は二つある。一つは多くの志願者が抱く願望と同じで、自分の手で機体を操縦してみたいというものだ。もう一つ、幸路には特別な理由があった。それは、青が好きだということ。なぜなら、他の色よりもきれいに見えるから。
色覚少数派という言葉がある。他の大多数の人間とは色の見え方が違う人たちの事を指す。幸路もまた「少数派」に含まれるらしく、専門の人間によれば、そのなかでもかなり重度なほうだという。幸路の目にはイチゴや山の木々、それに絵の具などの多くのものは黄土色、茶色、灰色といった、暗く味気ない色に見えてしまう。だが、青は違う。それは鮮やかで、どこまでも広がるような印象を与える。幸路にとって、青は特別なのだ。
だから今、幸路はとんでもなく死にたいと思っている。
発端は、もう中学生になったのだからと数日前に親が買った携帯電話だった。いつか来る悲劇が幸路を襲ったのはつい今、ベッドに転がって携帯を操作している時のことだった。
中学生になった幸路は、自分の夢をかなえる方法を考え始めていた。
パイロットって、具体的にどうやったらなれるんだ?
将来の夢について決めたのは周りより早かった。一番は空軍の戦闘機乗りになりたかったので、小学校高学年あたりからは貧弱な体を鍛えたり、苦手な持久走に取り組んでいた。だが、具体的な進路計画については知識がない。
携帯電話を手に入れて数日、ある程度の使い方をおぼえた幸路は当然思いつく。携帯にはインターネット機能が付いているのだ。これを使って調べれば良い。
そうして操縦士に要求される身体基準を目にした時、希望は打ちのめされた。
『航空業務に支障をきたすおそれのある色覚の異常がある者は不適合とする』
一瞬、ヒヤリとした何かが頭のてっぺんを横切って行った。その感覚は頭の上の方から下に向かってじわじわと広がっていき、目の前の画面に映し出された現実が実感となっていった。
……操縦士に……なれない?
よくページを見返して、表記が間違いではないことを確認する。
『業務に支障をきたすおそれのある色覚の異常がある者』
幸路は以前、どこかの病院で色覚テストを受けたことがあった。似ていると思う色を順番に並べていく様式の検査だったが、結果は見事にバラバラ。その後の精密な検査を経て、出た結果は「特に重度の色覚異常が認められる」とのことだった。色だけでなく、感じる光の明るさも一般人に劣るらしい。ということは『業務に支障をきたす』ことに当てはまるのではないか。
こんな事をネットで調べなければと後悔した。だが、その後悔も意味がない。気づくのが遅かろうが早かろうが、なれないのだ。操縦士になれない。
「嘘だろ」
喉からは、力の抜けた声しか出なかった。
目指していたものになれない。軍に入るには体力が必要だろうと思って苦手な運動を乗り越えて部活動にも励んでいたし、面倒な学校の勉強にもついて来た。退屈な授業を受けに毎日わざわざ通学しているのは、未来に夢があったからなのだ。
長いもみ上げをわずかに揺らして起き上がると、うな垂れるようにしてベッドの脇に腰掛けた。ふとした念が自分を責める。
……俺、今までなにやってたんだ。
携帯をベッドの上に投げ置き、呆け面で天井を見上げた。賃貸住宅の二階。窓から見える空は暗い黄色に染まっている。幸路にとってのこの色は、普通の人間が見れば赤……もう夕暮れだ。
不意に、部屋の扉がノックされた。返事も待たずに開け放たれる。
「ちょっと、今、お隣の今井さんからお菓子貰ったんだけど……」
入ってきたのは母だった。反応しないでいると、四角いクッキー缶を差し出したままやって来て幸路の顔を覗き込んだ。水色のエプロン姿が白い蛍光灯を遮る。
「生きてるー?」
幸路は無視した。
それどころじゃないんだ。今話しかけないでくれ。暗にそう伝わるよう、目線すらくれず徹底的に相手が視界に映っていないふりをした。
「ねえ、聞いてる?」
どうやら伝わらなかったらしい。仕方なく、できるだけ無愛想に「いらない」とだけ答えた。
「あっ、そ」とだけ言って、母は部屋を出て行く。足音が階段を下りて行くのが聞こえた。
幸路は、固まったまま白い天井を見上げ続けた。
突きつけられた事実をもういちど頭の中で確かめる。
「マジかぁ……」
しばらくぼーっとしていると、希望にすがろうとする気持ちが頭の中に一つの問いを生じさせた。
……俺の目は本当に、『特に重度の色覚障害』に当てはまるのか?
確かに、色の見え方を調整する為のメガネですら、かえって視界を暗くするだけで使い物にならないレベルだ。だが、確かめてみれば案外問題ないかもしれない。
希望的観測ってやつだ。
自分の中の一つの声がそう告げる。それでも、分からない。いや、納得できない。
分からないなりに、自分なりに、とにかく頑張って来たのだ。知識と技術を持った人間に「あなたには無理です」と断言されるまで、夢は諦めてはならないのだ。
寝転がって、壁際に投げ出した携帯電話に目を向ける。目の前に転がる黒い物体はたった今、自分の夢を脅かした。でも、もう関係ない。いつかは分かったことだ。幸路はそのまま携帯電話に手を伸ばし、色覚の検査が出来る病院を探した。
*
土曜日。
幸路は住んでいる神奈川県横浜市から、東京にある大学病院へと赴いた。小さい頃に神奈川県内の医院で目の検査をしたことがあるが、そこはすでに無くなっていた。この国を震わせた六年前の夜、他の多くの建物と一緒に炎の海に沈んでいったのだろう。
太平洋から現れた芋虫型の巨大生物は横須賀から上陸して神奈川県を横断し、富士山の麓である静岡県を通って一晩でもとの海へと姿を消した。幸路の一家は家を失ってから二年間、多くの生存者たちと同様に街の跡地に設置された仮設住宅に住んでいた。現在は横浜で二階建ての賃貸住宅に住んでいる。
幸路は乗った電車のドア脇に立ち、緊張を抑えるために昼前の街をぼんやり眺めた。空の青は濃い。地面からは灰色の建物が立ち上がっている。
これでもダメなのか……。
空と地上の強い対比を見ていると、自分の目には何の問題も無いように思えてくる。ただ、夏なのに暗い茶色をした並木の葉が目に映るたび、自分は普通と違うのだという事実がわずかに胸を痛めつけた。
電車に乗って十分ほどで、景色に建物が目立ち始めた。さらに二駅も過ぎれば、灰色のビルが立ち並び、視界に人間が殺到する都会の風景へとすっかり変化した。
『次は、品川、品川。右のドアが開きます。The next station is ……』
放送が次の到着駅を告げる。街を眺めること数十秒で電車は駅に着き、幸路はホームに降り立った。目的の病院へは徒歩で十数分。あとは調べた通りの道を歩くだけだ。
幸路は人の行き交うホームの柱のそばに立ち止まって、頭の中で祈った。
自分は今まで特に悪い事はしていません。小学三年生のころから苦手な運動も頑張って部活も続けて来ました。もしパイロットになれたら一度も事故を起こすつもりはありません。だから神様がいるなら、どうかチャンスを奪わないでください。
とくに何かを信仰しているわけでもなく、何の神に祈ったのかも分からない。それでも、こういう時は神に頼るくらいしかできない。
幸路は一度息を吐いて覚悟を決め、人の群れに紛れて改札を探した。
色覚検査は昼には終わった。
幸路はもと来た道を駅に向かって歩き続けた。途中、スーツ姿の集団や私服の若者たちが飲食店に入っていくのが見えたが、何かを食べる気にはなれなかった。
結局、神は居ないらしい。
幸路は歩きながら、検査を担当した高齢の女医との会話を思い出していた。他人の人生にいちいち踏み入りたくないからか、ぶっきらぼうな声だった。
―これねぇ、難しいだろうねぇ……。
―難しいって、どういうことですか?
―だからね、君の見え方だと、飛行機の操縦は無理でしょう。見たところね、色弱に隠れて、光の明るさも捉えづらいみたいだね。夜なんかは滑走路の明かりが見えないかもしれない。これで運転は危険だよ。日本じゃともかく、海外でも許可は下りないだろうね。
気が付いた時にはすでに帰宅していた。「ただいま」は言わない。母が料理をしている一階を通りぬけ、力なく階段をのぼる。部屋に入り、電灯も点けずにベッドに潜った。
「はぁ……」
疲れから出た溜め息ではない。誰かこの苦痛を分かってくれ、とでも言うように、わざと息を吐き出した。実際は誰かが聞いているわけでもない。
もう一度、女医者との会話を思い出す。
―どうにか治せないんですか?
―そうは言っても、こういうのは遺伝だからねぇ。たぶん、君のお爺さんとかで、同じような症状があったんじゃないのかい?
―聞いたことないんですけど。
―そう? まあね、仕方がないんですよ。専用レンズでも上手く見えないんなら、今の科学じゃどうしようもない。これから人生長いんだし、前向きに考えればいいじゃないの。
―そう……ですか。
「幸路ぃー。ご飯できたよー」
幸路の頭に、一階から母の声が割り込んできた。いつも通りの声。こっちはどん底に突き落とされたばかりだというのに。何でもない様子がかえって苛立たしい。
「ご飯ですよ」
とうとう部屋の前までやって来た。ドアを開けて大声で呼びかけてくる。
「ごはーん!」
「うるせぇな。どうでもいいだろ」
強く言ったのに加え、相手に聞こえるように溜め息も追加した。幸路はもう声が低くなり始めているから、だいぶ突き放すように聞こえただろう。
母は黙り込んだ。さすがに雰囲気から察したらしい。幸路は親に自分の夢を話したことは無かったが、病院での検査料を出してもらうために事情を伝えておいたのだ。
母は部屋に入ってきて真顔で尋ねる。
「どうだったの」
「……無理、って」
そう告げると、母は同情したように肩を落とす素振りを見せた。
「大抵の進路は今からで十分間に合うから、いろいろやってみなさい」
幸路は横になったまま、すねて何も答えなかった。
「ご飯、置いとくから。冷めたら自分で温めてね」
「うん」
母はくるりと身を翻して一階に下りて行った。
今はなにも食べる気がしない。そんなことでいちいち呼びに来ないで欲しい。
幸路は仰向けになって天井を見つめた。
これから自分はどうすれば良いんだろうか。
―人生長いんだし、前向きにいろいろ考えればいいじゃないの。
あの女医が言っていた言葉を思い出す。
言われなくたって、幸路はこれまでも子供なりにいろいろ考えて生きてきた。小学生のうちにパイロットになりたいと決めた幸路は、軍に入るには運動の実績があったほうが良いと考え、陸上部に入った。実際はもくろみ通りにはいかなかった。生まれつきなのか、持久力がまったく無かった幸路はどうやっても大会には出られない。それでも、体力の向上をめざして練習についていった。
しかし結果はどうだ。
全部パーだ。
航空機の操縦に必要な条件をろくに調べなかったせいで時間を無駄にしただけ。とんだアホだったと、幸路は大学病院からの帰り道でずっと自分を責めつづけた。
「……ちくしょう」
薄暗い天井を眺めながら、幸路は歯を食いしばった。
目を開けると、窓の外はすでに暗かった。月明かりは弱弱しい。
あのあと、幸路は昼食を食べずにそのままベッドで眠ってしまった。
しかし、随分寝ていた。変な姿勢のせいで凝った首を回し、起き上がってベッドを出る。灯りを点けようとドアの近くに寄ると、一階から父親の声が聞こえてきた。仕事から帰って来たのだ。耳を澄ますと、母と一緒に自分の事を話し合っているように聞こえる。
気になって、下りてみることにした。
電灯は点けず、暗い階段を下りる。見つかるといちいち話しかけられそうだったので、音を立てないように食堂のドアに近づいた。耳をそっと近づける。
「もっと早いうちにさ、いろいろ説明しとくべきだったんだよ」
「だって、つい一昨日まで知らなかったのよ。そんな目標があったなんて」
「まあ、職業なんて今から考えることじゃないって」
「でも、ある程度は私たちの責任でもあるでしょ?」
「だからって、どうしようもないだろう。時間が経てば夢も変わるさ。考え過ぎだよ」
聞きながら、幸路は顔をしかめた。
母はまだいい。少なくとも、自分を心配してくれているのが分かる。だが、どうやら父はあまり問題に思っていないらしい。
幸路はその様子に身勝手さを感じずにはいられなかった。自分がパイロットになりたいと思ったのは、青以外が鮮やかに感じられないからだ。でもそのせいで、パイロットになれない。
全ての元凶は、親にあるはずだ。親が子供を欲しがったせいで、今の自分がある。それに今日、医者から詳しく聞いた話で分かった。生き物には遺伝子というのがあって、子供には親の特徴が受け継がれるのだ。隠れていた遺伝子が子供の代で特徴を現すこともあるという。幸路は、自分の目が他人と違うことのほかに、運動がまったく出来ないのも遺伝子が原因ではないかと疑っている。
「あの子、私たちに似て運動下手でしょう? あんなに頑張ってるのに。新しく入った部活も上手くいってないみたいだし。こんな事があって、グレるんじゃないかしら」
「スポーツなんて稼ぎにならんよ。あいつも男だろ。なんとかするさ」
父親の口から軽々しい言葉がでるたび、恨みが募っていく。
……クソッ。他人事だと思いやがって。
「簡単に言わないでよ。思春期にポッキリ折れちゃったら、あの子どうなるの」
「思春期だからだよ。気にしないでも立ち直る。ほら、アレだ、会社の新人が言ってた、中二病ってやつだよ。あれくらいの年ごろは、自分を悲劇の主人公にしたがる」
幸路は聴きながら、奥歯を噛みしめる。
……コイツ、絞め殺してやろうか。
「そんなこと言ったって……」
母の言葉で会話が途切れたところに、ちょうど食堂の電話が鳴った。母が出たようだ。
「はい、丹波です…………え? 明日ですか? 明日は用があるんですが…………ええ」
「どうした」
「遺伝研究センターだって。ほら、幸路の血を調べて貰ったでしょう?」
「そうだったか?」
幸路は覚えていた。中学校の健康診断の時に測った体温が異常に高かったことを受けて、検査を勧められたのだ。小学校までは熱を出していると勘違いされて早退できたので、「ラッキー!」としか思っていなかったが、今回は違った。
「明日、親も同伴で来てほしいって。私はPTAの話し合いだから、アナタだけでも」
「明日は接待ゴルフだ。無理だよ」
「そう。あ、もしもし。ええ、いま呼びます」
どうやら自分が呼び出される番らしい。このまま出て行けば、話を盗み聞きしていたのがバレて気まずい雰囲気になりそうだ。
幸路は急いで静かに階段を上り、途中で振り返った。さも、今おりてきた風に見えるだろう。
「幸路ー、電話」
ドアから出てきた母と目が合う。
「あ……ちょうど良かった。降りてきて」
「誰から?」と、知らないふりをする。
「遺伝研究センター。この前検査したやつ。急いで」
幸路は階段を駆け下りて食堂の電話棚の前に立つ。
「もしもし?」
受話器を耳に当てると、いつか聞いたような声が返事をした。低く、しっかりとした男の声。
『夜にどうも。丹波、幸路君だね?』
「そうですけど……」
『覚えているかな。一か月くらい前、会ったはずだが』
「血液検査の時ですか? えっと……西田、さん?」
『そうだよ! さすが中学生、記憶力が良い』
感心されたところで、とくに嬉しくはない。とにかく要件が気になる。
「あの、それで?」
『失礼。以前、君の血を少し貰っただろう? それを調べていたんだが、気になることがあるんだ。電話だと伝えにくいので、明日、直接話したいんだよ。ご両親は無理そうだが、君だけでも会ってくれないか?』
頭の中で予定を思い出す。今日と明日は一学期の期末テストの前週間で部活は無い。
「問題ありません」
『なら良かった。場所はこの前と同じ遺伝研究センター。西田は私だけだから、部屋はすぐに分かるだろう。昼は用事があるんで、6時過ぎくらいがいいんだが、遅いかな?』
「それで構いません」
『なら、明日はよろしく。お食事中、お邪魔したね。失礼するよ』
通話はそこで終了した。
会いに行く約束はしたものの、一体なぜ呼ばれたのかはよく分からなかった。
幸路は受話器を置いて踵を返し、父の顔を視界に入れないようにしながら部屋を出た。
「ご飯は?」
「いい」
後ろ手に静かにドアを閉め、逃げるように階段をのぼった。
部屋へ戻っても、電灯をつける気にはなれない。自分の体の事が、実の親にあんな風に軽く受け止められるなんて。今日は嫌な事ばかりだ。テストが近いが、勉強する気は起きない。
幸路は机の引き出しからライターを取り出し、右手に持ってベランダに出た。熱帯夜になると食堂のラジオで言っていたが、外は涼しく感じる。街には弱い灯りがぽつぽつと輝いている。
幸路はベランダに立ったまま長い前髪を左手でかきあげ、火を灯したライターを右目に近づけた。まつ毛が燃えないようぎりぎりの距離を保ちながら、目の下側に持ってくる。焼けそうになった頬がじりじりと痛みだす。やがて、見えていた夜景が輝きを強めていった。赤、青、オレンジ、白、様々な夜の光。昔、炎の中で見たのと同じ鮮やかな色。今この瞬間は恐らく、普通の人間と同じ見え方をしている。
幸路がこの不思議な現象に気付いたのは随分前のことだが、頭の中でその仕組みを説明することは出来ていない。変人だと思われそうだから、誰にも話していない。
どうして常にこの見え方が出来ないのだろう。普通の見え方を知っているぶん、この色たちを素の状態で認識できないことがいつも苦痛だ。
条件さえそろえば、普通なのに……。
幸路はただじっと立ち、夜の景色を目に焼き付けた。