カイ
顔の横を風が切っていく。
浮遊感はあったがさっきほど怖くはなかった。
「ごめんね」
「え?」
耳元でルイトがささやいた。
「……ごめんね。怖かった?」
「ううん、大丈夫。それよりルイト」
「なあに?」
「ルナって、何? わたしはなぜ狙われたの……?」
一瞬の沈黙。
風の音がいやに耳についた。
「ルナって言うのは月の力を持つ人たちの中で一番強い人に与えられる称号だよ。つまりは君がルナってことになる。それで」
言葉がそこで途切れた。
同時に風の音がやんだ。
「ついたよ。ここ、僕が借りてる部屋だから……多分、まだ誰にも知られてないはずだから安心していいよ」
おろされたのは、あるマンションのベランダだった。
天を見上げると三日月は既に地平線の向こうに沈みきっていた。
「カイはどこに行ったんだろうね? あいつがミアを置き去りにすることなんて考えられないのに」
「……」
どういうことだろう。
やっぱりいまいち状況が飲み込めない。
「ごめんね。ほんとにごめんね、ミア……僕には何もできないんだ」
ルイトはベランダの手すりに突っ伏して、そうつぶやいた。
「ルイト? どうしたの? わたしは大丈夫だよ?」
「うん。わかってる。君は、いつだって強いから」
顔を上げずにルイトが言う。
いたたまれなくなってミアは必死で呼びかける。
「わたしの世界にはまだルイトしかいないんだよ? だから、教えて。いろんなこと。悲しいことも、つらいことでもみんな聞くからさ。お願いだから一人で悲しまないで、ルイト……」
しばらくしてやっとルイトは顔を上げた。
「なんか変だなあ。優しいミアなんて」
「変? なぜ?」
「だってミアってばいつも強くて、はっきりしてて、僕にはまるっきり容赦なくて……」
「……」
いったいどういう顔をすればいいのだろう。
先ほどからの話からするとミアという少女はかなり気性の激しい人だったらしい……何も覚えていないが。
「ごめん、こんなこと言われても困るよね。何も覚えてないのにさ」
ルイトはまた少し悲しそうに微笑んだ。
が、それは本当に一瞬で、ルイトはすぐにまっすぐな瞳を向けた。
「それよりも、だ。カイは、どこに行ったんだろう?」
「……カイ」
ざわり、と心が波立つ。
その名を聞くと、心拍数が上がる。
「どんな人だったかは、覚えてないよね」
こくりとうなずく。
ルイトは嘆息した。
「まったくあいつ、どこに行っちゃったんだろうね……? 困ったやつっ」
「カイって、その……太陽で一番強い人のことだったよね」
「そう。君よりひとつ年上で高校3年生。あ、ちなみに僕は大学生だよ。二十歳で、今年3年生♪」
「あ、ルイトって結構年上だったんだ」
「そ♪ でも気にしないでね~」
「……たぶん、しない。」
今さらできない。
ミアはベランダの手すりに頬杖をついたルイトの横顔を見つめた。
綺麗な淡い茶の瞳。手触りのよさそうな黒髪。つねに微笑をたたえた表情は、整いすぎて近寄りがたくなってしまいそうな雰囲気を取り去っている。
本当に綺麗な人だ、と改めて思った。きっといくら見ていても飽きないだろう。
「どうしたの?」
じっと見つめるミアに、ルイトは少し首を傾げてたずねる。
「ううん、ルイトってほんとキレイだなあと思って」
ルイトは一瞬きょとん、としたがすぐに笑って答えてくれる。
「ありがとっ! でもね、ミアも十分かわいいよ♪」
「……わたし?」
そこでやっと自分の姿を知らないことに思い至る。
「わたしって、どんな顔? 髪の色は、黒?」
「えっとねえ……」
ルイトはじーっとミアを見つめ返して、こう表現した。
「髪の色はね、黒と見せかけて実は濃ーい青。昼間見ると青っぽく見えるからすぐわかるんだけどね。長さは耳くらいかな? うーん、いつものことなんだけどけっこうぼさぼさ。ミアってばあんまり見た目のこと気にしないから……」
そういいながらルイトはミアの髪をなでて髪を落ち着かせようとする。
「目の色がね……すっごくキレイな青色なんだ。サファイアだね♪ グリーンランドの湖の色だよ」
「グリーンランド?」
「そ」
ルイトは淡い茶色の瞳を細めてにっこりと微笑んだ。
「氷河の上を流れる水の色。氷が光を反射するから、水が深い蒼色に見えるんだよ。それと、おんなじ色♪」
「そうなんだ……」
「顔もかわいいのに、ミアはいつも気にしてないからもったいないっ。服だっていつもこんなだし……」
言われて改めて自分の姿を見る。
薄汚れた黒のTシャツに黒っぽいGパン。しかも裸足。……とてもじゃないけれど高校2年生の女の子がする格好ではない。
そして左手にこびりついた血に目が行く。
「ああ、忘れてた。シャワー浴びる? 疲れてるでしょう?」
気づいたルイトはそういったが、とても動く気力は残っていなかった。
「ごめん、シャワーもいいけど、わたし休みたい……」
もう手足が動かなくなりそうだった。
自分の状況をもっと考えたかったし、『カイ』という人についてももっと聞きたかった。でも……
「そうだね♪」
ルイトが促して、二人でベランダから部屋に入った。
意外にもこざっぱりとした部屋に少し驚いた。
右手奥のほうに一人暮らしにしては大きいキッチンと食事用のテーブルが設置してあるリビング。左手には、3人がけのソファと低い机、それにとってつけたようにテレビが置いてあるだけだ。テレビの上に乗っているのは大学の教科書らしい。他に特筆すべき物はなかった。観葉植物のひとつや壁にかける絵画があってもおかしくない広さはあったのだが。
ルイトは左手の壁にある二つのドアを指して言った。
「手前が寝室で、向こうがバスルームとトイレ。出口も向こう。どうするミア。もう寝る?」
「うん、寝たい……」
頭がぼんやりとしてきた。
「じゃ、全部明日にして……」
ルイトは寝室のドアを開けた。
一人用のベッドがひとつだけおいてある。後は勉強用と思われる机と本棚、それにクロゼット。
「ここで寝ていいよ。僕、そっちのソファで寝てるから」
ミアをベッドに座らせ、クロゼットを開けて毛布を2枚取り出すと、ルイトはにこっと笑った。
「疲れただろう? いろんなことは明日考えればいいよ。だから……」
毛布の一枚をミアにふわっとかける。
「今日はゆっくり寝なよ?」
「……わかった。」
「よしよし、いい子だね♪」
そういってルイトはミアの頭をなでる。
子ども扱いされたことはわかったが文句を言う気にはなれず、むしろやさしい手のひらの感触が心地よかった。
「もうおやすみ、ミア」
「うん」
そう言いながら、体を傾ける。
とん、と枕に頭をあずけた……と、そこまでで意識は急速に沈み込んでいく。
「おやすみ、ミア」
ルイトはミアが眠りについたのを確認してから部屋のドアを閉めた。
ぱたん。
きっとこれから忙しくなるから。
きっとこれからつらいことがたくさん待っているから。
だから、今日はゆっくりおやすみ。
月のお姫様――
夢を見た。
長い銀髪の美しい女性がゆっくりとかがんで自分の頭をなでた。あまりに美しい瞳の若草色に吸い込まれそうになり、釘付けになった。
「この子が、次のルナよ」
そこでようやく自分がまだ幼い子供だということを知る。
女性の隣に控えていた黒髪にすみれ色の瞳の少年が慌てたように諭す。理知的な切れ長の瞳が印象的だった。
「ルナ様。ですが……」
「大丈夫。この子なら大丈夫よ」
女性はにこりと笑う。
「ねえ、そうでしょう?」
女性の笑顔が少しずつかすんでいく。
まるで古いビデオテープのように画像が乱れていき、ミアは深い眠りのそこへと誘われた。
――ドクン
心臓が大きく脈打った。
「ミア……?」
男はすでに三日月が地平線の向こうへ姿を消し、星の輝きのみが残る天空を見つめた。
少年と呼ぶか、青年と呼ぶか微妙な年頃。髪は漆黒。瞳は灰色。くっきりとつりあがった双眸は勝気な印象とともに強い意思も表している。
今は影を落として漆黒にも見える瞳に、その男は悲しみとも苦しみともつかぬ表情を浮かべた。
妙な胸騒ぎがする。今すぐにでも彼女のもとへ向かいたい。
だが……身体がいうことをきかない。
服にはべっとりと赤い液体がついていた。それが自分の血であることは疑うまでもない。腹部にあてた手に感じる冷たさも、痛みも本物。
太陽の力を使う彼が夜に使える力は昼間から格段に落ちる。今も腹部に負った深手の治癒のため、すでにかなりの時間を割いていた。
「まったく……手加減なしで攻撃しやがって……」
ビルの路地裏。それほど大きな街ではないここでは、夜の人通りはほぼないといっていい。それが男にとっては幸運だった。人目を気にせずに力を使える。
早く 早く
逸る気持ちを抑えて、男は治癒に全力を注ぐ。とりあえず、これを治さねば動けない。
「痛っ……」
傷の痛みに耐えながら一点のにごりもないサファイアの瞳を思い出す。
気性の激しい彼女がこのままおとなしく終わらせるはずがない。後戻りできないことになる前に止めなくては。
だから――
「おはよう、ミア♪」
寝室を出ると、ルイトが満面の笑みで迎えてくれた。
窓から光がいっぱいに差し込んでいた。夏の太陽は今日も燦然と存在していた。
「おはよう、ルイト」
ミアも笑顔で返す。
まだ昨日今日あったばかりの関係なのだが、なぜかルイトといると気が安らぐ――そうやって考えずに信用してしまうことがどんなに危険か、頭の片隅ではわかっていたが。
信じたいという心と信じては危険だという理性の間でいまだミアは迷っていた。
「どうする? ごはんにする? それとも二度寝?」
「……ごはんがいい」
「了解♪」
ルイトはにこっと笑ってキッチンに向かう。
着替える服があるはずもなく、ミアは昨日から薄汚れた服のまま。せめて手についた血くらいは落としてこようと思った。
「顔洗ってくる。」
「はーい♪ ごゆっくり♪」
キッチンのほうからの返事を待たず、ミアは洗面所に向かっていた。
乾いてしまっていた血は水で流さなくてもぱらぱらと剥がれ落ちた。
それでもしっかりと洗い流してから鏡の中の自分を覗き込んでみる。そして、昨日ルイトが言っていた言葉を思い出した。
――髪は黒と見せかけて実は濃い青。
確かに。
――長さは耳くらいかな?うーん、いつものことなんだけどけっこうぼさぼさ
うるさいなぁ。余計なお世話だよ。
――目の色がね……すっごくキレイな青色なんだ。サファイアだね♪
サファイア。
そう例えたルイトの気持ちがよくわかる気がした。
「グリーンランドの湖、か……」
小さくため息をついてもう一度鏡の中の自分の瞳を見てみる。
自分の目とは思えないくらい、綺麗だ。まるで、本当に宝石のよう……
「ミアー。ごはんできたよーっ」
ルイトの声にはっとする。
「今行く!」
そして、一瞬だけ膨らんだ畏怖をかき消した。
――生きている人間の瞳じゃないみたいだ
リビングに戻るとすでにテーブルに朝食が用意されていた。
「ああ、そうだ。着替えなんかがないと困るね。あ、そうだ。ユリアに連絡しておくから、もうちょっとだけ我慢して♪」
「ユリア、さん?」
「うん。僕のいとこ。普通の人間なんだけどよく事情を知ってて味方してくれるんだ。でも最近結婚しちゃって頻繁に呼び出すと怒られるんだけどねえ……まあ、ミアの緊急事態だし許してくれるよ♪」
そういうとルイトは携帯電話でどこかに電話をしはじめた。
その間にミアは朝食に手をつける。
「たぶんユリアはすぐにくるはずだよ。ミアの一大事だって言ったからすっ飛んでくるさ、きっと♪」
「?」
「ミアはユリアのお気に入りだからね~♪」
嫌な予感がするのは、ミアの気のせいだろうか?
朝食を向かい合って食べながら、ミアはふと口を開いた。
「ねえ、ルイト。せっかくだから、もう少しその『力』のことについて教えてくれる?」
「うん、もちろんだよ。これから知らなくちゃいけないことだ」
ルイトはにこりと笑った。
「んじゃあ、何も知らないミアのために最初から教えるよ」
「うん」
「世間ではあんまり知られていないけど、この世には僕らみたいに『力』をもつ人間がいるんだ。その始まりがどこで、いつ、どのようなものかはわからないけれど、僕らの祖先は大昔、何らかの理由で日本に来たんだ。『力』を持っていることを隠してね。だから、僕らみたいな『力』を持つ人間が、突然生まれるんだ。先祖がえりってやつ?」
そう言いつつルイトは『力』を使ってミルクの入ったカップを宙に浮かせる。
それはふわりとミアの手に収まった。
「日本だけなの?」
ミアは受け取ったカップのミルクを口にしながら問う。
「うん。ほとんどそうらしい。島国だったから、遺伝子は大陸から隔絶されて伝えられた。あ、そうそう。ミアって目の色、青だよね?」
「うん。さっき見た。」
「でも、普通の人――『力』を持たない人間にはちゃんと日本人と同じ黒色に見えるんだ。普通の日本人として、ね。髪の色もそうだよ?僕も他人から見れば生粋の日本人ってわけだ♪」
「それはなぜ?」
「先祖たちは『力』を隠していたからね。その名残だって言われてる。だから、『力』を持たない人間には僕らを見分けるすべがない」
唇に人差し指を当てて、ルイトはそう言った。
「いいでしょ。仲間にだけ分かる目印だよ」
「黒髪で黒い瞳の『力を持つ人』っていないの?」
「うーん、一応いるんだけど……まあ、それは後で話すよ。大事なのは、その仲間たちが少しずつ集まりはじめちゃったってこと。それは『学校』という形で世間には知られている。小学校から大学までエスカレーター式の名門校として、ね」
「そうなんだ……」
「そう。『力』を持ってる子供たちはそこに集められる。そうして……」
ピンポーン
そのとき、突然チャイムが鳴った。
「……誰だろ?」
ルイトの表情が引き締まる。
整った顔立ちだけに、真剣な表情のルイトは近寄りがたい雰囲気をまとう。
ルイトは足音を消し、ドアに忍び寄る。そして、気配を探るように目を閉じた……が、それも一瞬で。
「カイ!」
ばたん、と騒々しくドアを開け放って外に飛び出していった。
残されたミアは、ただその開け放たれたドアを見つめたままぼんやりとしていた。
「ミア!」
開けられたままのドアから一人の青年が部屋に飛び込んできた。灰色の瞳は、意志の強そうな光を灯している。
ドクン
鼓動が大きくなる。
「カイ……」
ルイトのときと同じ。
勝手に口から言葉が滑り落ちる。その響きに、意味はこめられていない。きっとこの人が『カイ』なのだ。心のどこかに残る記憶。
「大丈夫か? 怪我はないのか? 左手おかしくならなかったか? あ、お前なら自分で治すか……」
必死な様子でミアに駆け寄ってくる。
「左手……?」
言われて、やっと昨日痛んでいた左手首のことを思い出す。
今まで忘れていた分、痛みが一気に襲ってきた。
カイは思わず顔をしかめたミアを見て横に立てひざを突いた。そうして椅子に座るミアと目線を合わせてから、仏頂面で手を出す。
近くで見ると、髪の色は黒ではなく非常に濃い赤だった。強い光を当てれば、もっとはっきり赤だということがわかるだろう。
「見せてみろ」
有無を言わさぬ口調。
ミアはおずおずと左手を出した。
「バカ! 腫れてるじゃないか! なんで治さなかったんだ!」
「そんなことできないよ」
「はぁ? お前何言って」
「カイ……ひどいよ~」
思い切り眉を寄せたカイの後ろから、ルイトの恨めしげな声がした。
「いきなり突き飛ばすなんて……ちょっとくらい話聞いてくれたっていいじゃない……」
ぶつぶつ言いながらルイトがリビングに入ってくる。
「なあ、ルイト。ミア、さっきから変じゃねえ?」
「さっきからじゃない、昨日からだよ。なんかミアってば、なあんにも覚えてないんだもん」
「は?」
カイはまたも眉を寄せた。
「だ・か・ら。ミアは記憶喪失らしいって言ってるの! 僕は!」
頬を膨らませてカイに向かって言い聞かせるルイト。
対するカイはきょとん、としてミアを見た。
「……ミア?」
「ほんと、だよ」
どういう顔をしていいのか分からなかった。
いまだにずきずき痛む左手はカイが握っている。その手をたどれば、呆けたように自分を見つめるカイの顔――光を帯びた灰色の瞳。
「俺の名前わかる?」
「……カイ」
「よかった。じゃ、いいや」
「……いいの?」
思わず眉を寄せたミアとは裏腹に、カイは両手で左手を包み込んだ。
暖かい光がカイの両手とともにミアの左手を包む。それに伴って、痛みがスーッと引いていくのがわかった。
「これでよし」
「あ、ありがとう」
ミアが素直に礼を言うと、カイはびっくりしたようにミアを見た。
「ルイト、聞いたか? ミ、ミアが素直に礼を……」
「うん。今のミアって、いつもの百倍くらい優しいんだ♪」
「あ、ありえねえ……」
カイはよろよろと立ち上がり、ミアの隣の椅子にとんと腰を下ろした。
「いいじゃない。僕はこういうミアもいいと思うよ♪」
「……」
ミアという少女は、どんな人物だったのだろう?
まあ、自分なのだが……
ミアの中で疑問は膨らむ一方である。
「へぇーえ。本当に何もわからねえんだ」
ルイトとミアが交代で昨日からのことを話すと、カイは納得したように頷いた。
「ま、俺としてはよかった部分もあるんだけどよ……んで、どうするんだ? これから」
「ちょっと待ってよ、カイ」
ルイトがストップをかける。
「君、逃げるとき何も考えなかったの? これからいったいどうしようと思ってたの?」
「いや、別に……何とかなるかな、と」
大きなため息……ルイトの。
「君ってばいつもそうだよね」
「悪かったなっ」
ミアは呆然としながら目の前のやり取りを見ている。
あんまり事態は深刻そうではない。そう見えるのはカイのせいか?
「じゃあ……」
「俺はしばらくここで隠れるってのがいい案だとおもうぞ」
「……」
「下手に動いても仕方ねえし、打開策を見つけるまでってので、どうだ?」
「……はぁ」
ルイトはため息をついた。
「残念ながら僕も同じ案。いいよ、少しくらいならここにとどまって。下手に動くと目立ってかえって見つかりやすいだろうからね」
「だろ?」
カイはにっと笑った。
「というわけで、しばらくここに住むことになったから」
唐突にカイがミアに向かって言う。
「……わたしも?」
「当たり前だろ? お前他にどこ行くっていうんだよ」
ミアはちょっと眉を寄せた。
この二人を信頼していいのか?
いまだに自分のおかれている状況はよくわかっていない。ルイトとカイが言うことだけがミアのすべてだ――もっと多くのことを知らねばならない。
じっとしていれば不安がつのるだけだ。
今は、この二人を信じるしかないのだ――きっと。
ミアはきゅっと唇を結んだ。
「うん、わかった。でも……わたしにはまだ知らないことが多い。信じられないことも多い。分からないことだらけ。だって、ルイトが言うこともカイの言うことも本当だという保障はないから」
「な、ミア、お前何言って」
「だってそうだよ? わたしにはわからないことだらけだよ?」
カイが驚いたような顔をしている。ルイトは少しだけ悲しそうに微笑んでいた。
「だから、考えさせて。落ち着くまで待って。こんなのすぐに答えを出すのは無理だよ……!」
「ミア」
何か言おうとしたカイをルイトが止めた。
「わかったよ。君はまだ何も知らない。これから少しずつ考えていけばいい。でも、僕らは君の味方だよ。これだけは本当。だからさ、ここにとどまってくれると嬉しいな」
ルイトの言葉を否定も肯定もできなかった。
「さ、カイ、疲れてるだろう? 何か飲み物でもいる?」
「あ、んじゃ、俺ココア」
「この暑いのに?」
ルイトは苦笑する。
「じゃあアイスココア」
「わかった、わかった。……ミアは?」
「わたしはいいよ」
そう言った表情がぎこちなかったらしい。その様子を見てカイが思わず不機嫌な表情になる。
「おい、ミア」
が、ミアはその続きを言わせなかった。
何かを振り切るように目を閉じると、がたん、と椅子から立ち上がった。
「ごめん、わたしちょっと休む」
何か言いたげなカイを後に残し、ミアは寝室へと向かう。
「ルイト、部屋、借りるね」
「うん。いいよ」
振り向かずに答えるルイト。
その背にいったん視線を移してからミアは寝室へ入っていった。
一瞬カイのもの言いたげな顔が視界の隅に入ったが、それも見なかったことにした。
「おい、ルイト」
ココアを入れたグラスをもって机のほうに戻ってきたルイトに、カイの不機嫌な声がかかる。
「なあに?」
「お前はいいのかよ? ミアがあんな風でも」
「……僕は、今の時点では君よりもミアのことわかってるつもりだよ?何も覚えていない子が、突然こんな事態に巻き込まれてどう思うか……」
ルイトはふっと悲しげな笑みを見せた。
「それにね。いいんだ、僕は。ミアが生きてさえいれば」
彼女がとても大切だから。
これはきっと、恋愛感情とは違う。しいて言うなら、ミアの父親にでもなった気分だ。ミアが大切で、本当に大切で。
決して失いたくない存在だから。
「ほんと、俺はお前が考えてることよくわかんねーよ」
「うん、多分わからないだろうね」
君がミアに対して抱いている感情と、僕のそれは似ているけれど本質はまったく別のものだから。
「まったく……お前ってほんとムカつく」
「どうもありがと♪」
にこっと笑ったルイトを、摩訶不思議な表情でたっぷり一分間は見つめ、そのあとでようやくカイは嘆息した。
「よくわかんねぇ……」
「いいじゃん♪」
「ま、いーけどよ」
カイははぁ、とため息をつく。
「で。こっからはまじめな話な」
カイは表情を切り替えた。
「うん。ミアとどうして別れたかってことでしょ?」
「さすがルイト」
にっと笑うカイ。
「お褒めにお預かりまして。……で、どうしたの?」
「あんまりミアに聞かせたくなかったんだ。たぶん、あいつが記憶をなくしてることと関係してる」
「原因がわかるの?」
「たぶんな」
カイの表情が引き締まった。
そして、いくらか声を潜める。
「率直に言ってやる。『イレブンス』が出たんだ」
「!」
「しかも力がハンパねえ。ミアが一瞬で意識操作にやられた」
「なんだって! そんな力を持つ『イレブンス』が……!」
信じられない、といった表情のルイトに、カイは着ていた服の裾を捲り上げた。
「……!」
かなり治ったとはいえ、ひどく痕が残る深い傷。右わき腹に何かが貫通したようなケガだったのだろう。痛々しい痕に、ルイトは思わず顔をしかめた。
それより何より、『アポロ』にこれだけの傷を負わせられるのは……
「意識操作のせいで、ミアが俺を攻撃した。俺は怪我で動けなくなったからその後はわからねえ。とりあえず俺は治療してここに来た。そしたらミアもここにいた。以上報告終わり!」
カイは残りを吐き捨てるように言った。
「『イレブンス』がその後ミアに何かしたんだと思う。……意識操作ができれば、記憶を消すことなんか簡単だったろうな。意図はよくわからねえけど」
苦々しい表情のカイ。
自分がそばについていながら、というのがあるのだろう。
「そう……『イレブンス』が攻撃を……」
ルイトの表情は険しい。
「こちらに攻撃を仕掛けてきたってことは、敵だと思っていいよね? やっかいだなあ……」
「そうだな。へたをすると、『セドナ』かもしれねえ」
カイは目を細めた。
あのイレブンスの、漆黒の髪と漆黒の瞳――闇をそのまま体現したような色。感情の読めない、しかしただの無表情とも少し違う愁いを帯びたようなあの顔。
ルイトが緊迫した、ぴんと張り詰めた空気をまとう。整った顔立ちなだけに怖い。
慣れているはずのカイでも、一瞬ゾクリとする。
「カイ。もう少し詳しく教えてくれる?」
「わかった」
カイはこくり、とうなずいた。
寝室に入ったミアは、そのままドアにもたれかかってずるずると座り込んだ。
内容は聞き取れないが、扉越しにカイとルイトの声がする。
「はあ……」
大きく息を吐いた。
少し、楽になった気がした。
あの二人を信じたくないというわけではない。むしろ、信じたい。少し話しただけでも分かっている。あの二人が悪意を持っていないのだろうということも、何より自分を大事にしてくれていることも――
ただ、怖いだけ。何も知らずに二人についていっていいのか。信頼してしまってもし取り返しのつかないことになったら……
「う……」
ぽろぽろぽろ……
昨日散々泣いたはずなのに。
まだまだ自分の中に涙は残っていたようだ。
得体の知れぬ恐怖が自分のなかを支配する。
『何もわからない』『どうしていいかわからない』ことが恐怖につながるなど、思ってもみなかった……
もうどうしようもなかった。
カーテンを引いた薄暗い部屋の中で、ミアはただただ涙を流し続けた。
ミアの涙でかすんだ視界に、かすかな幻影が映る。
たくさんの人がいる。しかし、自分からはかなり遠い。避けられているのだと直感的に悟った。
「あの子が例の……」
「全くルナ様は何をお考えなのか……」
「『力』を失うことを恐れはしないのか」
背筋に悪寒が走った。目の前の人々から発せられた敵意のせいだ。
――存在してはならないもの
そうだ。それが自分に与えられた称号。
そこでミアははっとした。
今の映像は夢か現か幻か。
「もう……わかんないよ……!」
ミアの瞳からまた涙が滑り落ちた。
どのくらい経っただろう。
ドアに体を預けたまま糸の切れた人形のように涙を流すミアを現実に引き戻したのは、ノックの音だった。
「おい、ミア。そろそろ出て来い」
カイの声だ。
「いい。ここにいる」
少し涙声だったかもしれない。
カイもそれを察したのか、一瞬沈黙があった。
「……入っていいか?」
「あんまりよくない」
多分見せられる顔じゃない。
そう言いつつも慌てて腕で涙のあとを拭いた。
「入るぞ」
「!」
ミアの言葉を完全無視したらしく、もたれていたドアが押される感じがした。
「あ! このやろ、押さえてやがるな!」
「無理に入ろうとしないで!」
もちろんミアの力ではかなわない。
ドアを無理やりこじ開けたカイが部屋に滑り込んできた。
「何するの!」
「入るな、とは言わなかっただろうが!」
めちゃくちゃな理由を言い、カイは腕を組んでミアを見おろした。
その灰色の瞳にはかすかな怒りが浮かんでいた。
「何で、出てこない?」
静かな声。
「俺たちのこと、そんなに信じられないか?」
……違う
そう言おうとしたが、喉がからからに渇いていて声にならなかった。
「お前が何も分からないっていうなら、今から知っていけばいいだろう?」
それがいったいどうしたというのだろう。
この喪失感を埋めるには、そんな言葉では軽すぎる。
「なんでだよ……! ルイトはルイトでそれを受け入れようとするし!」
ルイト? ルイトはきっと知ってるよ。私が何を考えているかなんて……
「あいつがかわいそうじゃねえか。あんなにお前のこと大切にしてるのに……っ!」
カイは額に手を当てて、視線を床に落とした。
ああ、カイはルイトがすごく好きなんだな、と思った。ルイトのためにこんなにも怒ったり悲しんだりできるんだから。
そう思ったら、微笑がもれた。
「……なんだよ。何がおかしいんだよっ」
カイがさらに不機嫌さを増して言う。
「……違うよ、カイ。きっとルイトはわかってる」
「何がだ?」
「わたしが二人を信じたいと思ってることも、わたしが今なぜ二人の前に出て行きたくないかも。何を心配しているのかも」
よくわからないが、突然に、勝手に言葉が滑り出た。
頭の中はぐちゃぐちゃなのに、言動の妙な冷静さはなぜか理解できた。そしてそれをおかしい、とも思えた。
「どうしていいかわからないんだ、わたしは」
頬にまた涙が伝った感覚があった。
「これからどうなるのかもわからないし、どうしていいかもわからない……怖いよ、すごく。だってわたしの中にはまだ『なにもない』んだから――」
この喪失感は、いったいどうしたら伝わるのだろう。
空虚なこの心には、いったいどうしたら光が差し込むのだろう……?
「怖い?」
「そうだよ」
ミアはいっぱいに涙をためたサファイアでカイを見上げた。
「『何もわからない』ことがこんなにも怖いとは思わなかった――」
何を言っているんだろう、わたしは。
信じるかどうか迷っていたはずの相手にこんなことを言ってしまうなんて……
その答えは分かっている。わたしはとっくにルイトとカイを信じている。魂が覚えている信頼。大切な仲間なのだと、心のどこかで何かが叫んでいる。
「……ミア」
「何?」
零れ落ちる涙をふこうともせず。
まっすぐに見上げてきた紺碧のサファイア。
「悪かったよ」
珍しく素直に謝れた。いつも自分はミア相手だとむきになって言い返すのに。
どれもこれも、ミアのせいだ。
いつもと違う、優しくて弱いミアのせい。
「だから、あんまり泣くな」
『怖い』とという自分の気持ちを、はっきりと言葉にしたミア。その弱さの裏には、その恐怖を受け止められるだけの強さを秘めているはずだ。
ゆっくりとしゃがんで目線を合わせ、手を伸ばしてミアの頬に伝う涙をぬぐう。
驚いて目を見開いたミアのサファイアの瞳がまっすぐに自分をつらぬいたのがわかった。
なぜだろう。
なぜみんなこんなにも優しいのだろう。
ルイトも、カイも。
私はこんなにも二人を傷つけているのに――
そう思うと涙が止まらなかった。
さっきまで怒りをはらんでいた灰色の瞳が、今は心配そうに自分を見つめている。
「カイ」
「なんだ?」
「私、ちゃんと元気になるよ」
「ああ」
「二人のこともちゃんと信じるよ」
「ああ」
「だからさ……」
頬に添えられたカイの手に、自分の手をそっと重ねて目を閉じる。
――今は、少しだけ泣かせて。
そっと、つぶやいた。