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ハナコトバ

作者: 春日部 水鳥

     彼岸花~ヒガンバナ~ #1


 今日も野良犬が一匹、私の部屋のベッドを占領している。

 裸のままで、掛け布団を蹴散らして、たまに「ぅいっくしゅっ。」とくしゃみをする。

 ぶるると体を震わせるので、布団をかけてやる。

 今は午前六時。

 私はインスタントコーヒーを飲みながら、じっと考えていた。


 この野良犬のハルヲと出会ったのは、同級生の集いと称された、ただのコンパだった。

 お互い二十六歳で、ハルヲは自己紹介の時に「えっと、適当な感じでイラストレーターしてます。ヌードモデルしたい人、大歓迎です。」とおちゃらけていた。

 ああ、コイツ遊び人だ。わかってたはずなのに。

 ただひとつ、計算外だったのが、彼女がいるという事。

 遊び人という事と、彼女がいるという事を除けば、私のタイプの男だった。でもその二つは男女の関係としては致命的な障害だった。

 長身で、色白で、筋肉がほどよくついていて、目がまん丸で犬コロみたいなの。タバコも酒も大好きで、性格はドがつくほどの面倒くさがり。そのクセ仕事はストイックにこなす。

 あのコンパの時、ベロベロに酔っ払ったハルヲを放っておけなくて、かなり引いていた女友達の中で、面倒見がいいの私、的な仮面をまた被ってしまったのが、間違いの始まりだった。

 何度呼びかけても、うーとかあーとかしか言わないハルヲ。

 ハルヲがどこに住んでいるのかもわからなかったので、うちに連れ帰った。

 そして、寝た。ただ、寝た。

 目覚めたハルヲは「やっべ、またやっちった。」とか呟きながら、私には目もくれずベッドサイドにおいてあった財布やらタバコやらの中から迷わず携帯を取り、どこかに電話した。

「おはよー。二日酔いで頭痛ぇ。ミキ学校は?そうなの。気をつけてな。今?多分、友達の家。起きたばっかで、誰んちかわかんねぇ。はいはい。ミキ大好きー。バイバイッ。」

 まるで私なんていないみたいに、他の女に電話するなんて。昨日、道に捨てて帰った方がよかったか。呆れた顔で眺めていると、くるりと顔を向けたハルヲはもう、ちゃんと私を見ていた。

「ここが道端じゃなくてマジ助かった。いっつも俺、記憶飛んじゃうから。ツレには愛想つかされて、先に帰られちゃうの。でもさー、俺、なんかコンパウケいいらしくて、呼ばれるんだよね。」

 ニヤニヤした笑いには、モテる事を自覚してますって事が含まれているように思えた。

「あんたさ、私の名前覚えてんの?」

 覚えているように見えないから、わざと意地悪く聞いてやった。ハルヲはニャハッと笑うと、私の上に覆いかぶさってきた。

「じゃあ、あんたさ、男と寝るのにいちいち履歴書でも提出しあうの?」

 そのままキスをされ、流された。だって、ハルヲの目が、燃え盛っていたんだもの。欲望という名の情熱を宿した、目。

 事が終わった後、「安い女。」と呟くと、ハルヲは「じゃあ俺は安い男。冬物最終バーゲン中だからちょうどいいんじゃん。」と、ふざけて言った。裸のまま抱きしめられると、ハルヲの体があまりにも熱くて、鼓動が速くて、このままずっとこうしていたいと思う。でも。

「やめてよ。」

 突っぱねるように言うと、すぐにそれは離れた。ハルヲの携帯を勝手に拝借して、自分の連絡先を登録し、ハルヲの連絡先を自分の携帯に送信した。

「あんた、彼女いるんでしょ?ていうか、他にもいっぱいいるんでしょ?面倒なの。恋人ごっこ。」

 せめてもの、抵抗だった。このまま終わりたくないから、繋がりを自分から作ったのに、深みにもはまりたくはない。

「ああ、彼女ね。さっき電話したミキって女がそうなんだけど。確かに他にもいるよー。えっと、アカネとルリとホナミとーたまにしか連絡取り合わない女とか覚えてねぇや。」

 あっけらかんと言われ、眩暈を覚えた。ハルヲは携帯を少しいじると、私を見た。

「あんた、フジコってんだね。俺、ハルヲ。まぁ、適当に遊ぼうよ。」

 適当に遊ぶ、の言葉には、何が含まれているのか。どうせ、その意味はひとつなのに、考えてしまう。

「あんたの名前なら、コンパの時に聞いたから知ってる。」

「へぇ、覚えててくれたんだ。じゃあなんで、名前で呼んでくれないの?」

「ムカツクから。」

「乱れてるフジコも可愛いけど、怒ってるフジコも可愛いね。」

「馬鹿っ。さっさと帰りやがれ。」

 からかわれてる気しかしなくて、突き飛ばすと、ハルヲはベッドから転げ落ちた。あまりに見事な落ちっぷりに、思わず爆笑してしまった。ハルヲはずるずるとベッドに体を乗せると、笑っていた。

「つうか、ここどこだかわかんねぇし。腹も減ったし。で、案外バイオレンスな感じなのね。フジコ。」

 二人して、爆笑した。恋愛じゃない男女の関係の始まりなんて、こんなものだ。色気なし、感情なし、何もなし。

「朝ご飯食べたきゃ服着なよ。コーヒー入れるし。何でも食べれる?」

 私は下着を拾って身に着けると、台所に向かった。

「コーヒーはブラックでー。」

 ちょこちょこ後をついてきたハルヲは一緒に冷蔵庫を覗き込んでいた。

「じゃあスクランブルエッグとー、ヨーグルト。」

 あつかましくメニュー指定をされても、不思議と嫌な気にならなかった。野良犬に、餌をやるくらいの気持ちしか、なかったからかもしれない。簡単な朝食を作る間に、ハルヲは服を着ていた。クラッシュが広がりすぎたジーンズと、ピンクのスネーク柄シャツ。ポケットに財布やらを入れて、古びたライダースジャケットを椅子にかけて座っていた。金色に近い髪の毛の先が、白く痛んでいるのがわかる。テーブルに頭を乗せて、目を閉じている。

「ハルヲ、邪魔っ。」

 テーブルにお皿を運ぶあたしが怒鳴ると、ハルヲはしゅんとして、椅子の上で三角座りをした。私達は、そこから何の会話もなく、ただ朝食をすませた。お互いタバコに火を点けて、気だるく煙を吐き出す。きっとこの男、これが吸い終わったらこの部屋を出て行く。でも、それでいい。同時にタバコをもみ消すと、ハルヲが立ち上がった。玄関でボロボロのコンバースのハイカットスニーカーを履いたハルヲは、下着姿の私を抱きしめた。

「いつでも連絡ちょーだい。来れたら来るし、無理なら来ない。言っとくけど、気に入らない女には、こんな事言わないかんな。」

「さっさと帰れ。」

 太腿に軽く蹴りを入れると、またハルヲは笑った。

「そーいや、フジコは彼氏いないの?」

 まさか、このタイミングで聞くの。もう一発、今度はさっきよりも力を込めて蹴りを入れた。

「彼氏いたら、彼氏しか見えない一途な女なもんで、残念ながら今はいません。」

「よかった。俺、彼氏いる女無理なんだよね。ほら、バレたりしたらコエーじゃん。」

 じゃあ彼女持ちのあんたはいいわけ?言いそうになったけど、言えなかった。それを言ったら、ハルヲが気を悪くするような気がして。

「道、わかんの?」

 少し心配になって聞いた。もう玄関を半分開けたハルヲは、ひらひらと手を振りながら、笑っていた。

「大人ですから。またね。フジコ。」

 パタンと玄関が閉まった瞬間、私はその場に崩れ落ちた。確かに彼氏はいないし、数人、彼氏にならずに終わっていった関係の男もいたし、若気の至りみたいな一夜の関係だって、何回かは経験してきた。でも、もう私、二十六歳だよ。普通に恋愛したいし、結婚だってしたいよ。こんな、回り道みたいな事してる場合じゃないんじゃない。こんな関係、不毛すぎる。


 私とハルヲは、そうして流れとかノリとかそういう類のふざけたものから始まった。切ろうと思えばいつでも切れる存在。でも、私はハルヲからの突然のメールにちゃんと返信をしてしまうし、やっぱり彼氏のいないさみしさを埋めたい夜もある。

 コーヒーを一口。苦いブラック。ハルヲがいつもここで飲んでいる味。もうすぐ出社の用意をしなければ。椅子から立ち上がると、ギッという音が鳴った。

「ぅいっくしゅっ。」

 またくしゃみか。と思ったけれど、ハルヲはむくっと上半身を起こした。寝ぼけているのか、目を細めてぼんやりしている。

「仕事、行く用意するから。ハルヲも出る用意して。」

 声をかけると、ハルヲは携帯を手に取った。何を思ったのか、いきなりベッドから飛び起きて、すごい速さで洋服を着て、洗面所で顔を洗い、私のワックスを勝手に使って髪の毛をセットしていた。

「やぁっべ。俺すぐ出るから。てか、マウスウォッシュも借りるー。」

 返事をしないうちに、洗面所の棚から取り出して、口をぐじゅぐじゅ言わせ、「かー、からー。」と悶絶していた。

「こんな早朝にどこ行くの。」

 あ、こんな事を聞いたら詮索してるみたい。でも、もう言ってしまった。

「えー、ミキがうちで待ってんだよ。学校行くまでに帰ってやんないと、合鍵ないから。って、面倒で作ってないだけなんだけどー。」

 彼女のミキちゃんを家に残して私の家で寝るとは、相当図太い男。そうか、ミキちゃんはハルヲの家に入った事があるんだ。彼女だから…

「今度さ、私もハルヲんち行くよ。どこか知らないけど。毎回同じ部屋じゃ飽きるし。」

 最後の一言は、口実だ。ハルヲの家に行くには、何か理由がなければ、と思った。ハルヲはこっちを振り返ると、玄関に一直線。

「やー、それは無理っしょ。ミキとブッキングしたら修羅場じゃん。それに俺、女部屋に入れるの好きじゃないんだよね。またね、フジコ。」

 ぐっと手を引き寄せられた。手首に落とされたキスは甘く、冷たく、あたしを上手にダメな女にする。

「女もんのワックス、バレないようにね。」

 ハルヲからは、私と同じ匂いがした。ミキちゃんは、それに気付くだろうか。そして、姿の見えない私の存在に、嫉妬するだろうか。そんな思いをさせるハルヲに愛想をつかしたりしないだろうか。

「大丈夫。俺、女もんのワックス日常茶飯事だから。バイバイ。」

 笑顔で去って行ったハルヲ。いつも通り、後腐れなく。でも、この部屋にはハルヲの痕跡がある。タバコの吸殻、ビールの空き缶、枕についた金色の抜け毛、小さいけれど、確かにそれは私の生活の中に入ってきたもの達。

 ハルヲの好きなもの。ブラックのコーヒー。缶ビール。柿の種。セブンスター。スクランブルエッグ。ヨーグルト。スティックパン。私の体。それは、ハルヲにとって餌でしかない。ここは餌場。それらが終われば去るだけの場所。

 ねぇハルヲ、あんたの家がどこだって構わない。餌を切らさないから、またここに来て。

 私があんたの手がけたイラストを本屋で探し回った事など知らなくていい。やっと見つけた本の表紙を飾っていた、思いがけず綺麗な抽象的な花の絵に心打たれて、こんなものを描ける男が、ロクデナシだなんて、思えなくなってしまっているから。

 でも現実を、見なければいけない。ただ、それを延期する私は、一人ではさみしくて眠れない夜を知っている、弱い人間だ。

 

     勿忘草~ワスレナグサ #1


 ハルヲがまた、来なかった。

 今日で何度目かはわからない。数え切れない。待ち合わせ場所でひとり、人波を眺めながら、ため息をついた。もう、冬も終わり。白い息は出ない。せっかく、ハルヲの大好きな画家の美術展に行こうって言ってたのに。本当は、あたし、そんなの見てもよくわからないのに。ハルヲが大好きだって言ったから、わざわざ探してきたのに。二時間もここで待ってるのに。何度ハルヲに連絡しても、あたしの携帯は沈黙したままだった。

 ドタキャンも待ちぼうけも、多すぎた。付き合って一年の間で、何度も何度も繰り返されてきた。でも、離れられないのはミキだけが俺をわかってくれるだとか、そういうベタな言葉が女心をくすぐるからだ。それに、二十歳の学生のあたしにとって、社会人でちゃんとイラストレーターとして生活を営んでいるハルヲは尊敬できる存在でもあった。

 今、どこで何してるのか。考えても仕方ないのに。わかるはずもないのに。

 携帯が鳴った。ハルヲだ。

「ごめんミキ。打ち合わせが長引いて、今日行けそうもない。マジごめん。でも、そのまま俺んち来てよ。会いたい。」

 仕事、だったのか。来れなかった理由が仕事で、連絡の一本もできなかった理由が仕事なら、責められない。怒れもしない。だって、ハルヲが描く絵は、あたしにとって大切なものだから。それに、会いたいって事は、ちゃんと埋め合わせしてくれるつもりがあるって事。

「わかったよ。お仕事、お疲れ様。」

「ミキだけだよ。俺の不規則な仕事わかってくれんの。ありがとな。大好き。じゃ。」

 そう、ミキだけだよって言われると、あたしは弱い。深いため息をまたひとつ。歩き出す。ハルヲの家に行くために。どうせ今から待ち合わせて美術展に行っても、閉館時間を過ぎるだけだもの。駅にあった美術展の広告を、握り締めた。

 くるりと巻いた茶色い髪の毛が、風になびいた。ふわふわで可愛いのなーって、ハルヲが褒めてくれる髪の毛。今日のワンピースも、ハルヲが好きなシフォン生地のもの。ハルヲが好きなもの、ハルヲが褒めてくれるもの、あたしはそれがいい。たとえ、こうして放置に限りなく近い扱いを受けても。

 多分、ハルヲにあたし以外の女の人がいたとしても。


 手首を、握られた。突然の事に驚いて、体が縮こまった。

「あれっ、君、あれっ?人間違い。ごめん。」

 見上げたその人は、金髪にくりんとした目の、お世辞にも真面目には見えない服装の男だった。図書館の中に、こんな人がいるなんて。

「失礼します。」

 会釈をして、その場から立ち去ろうとしたけれど、次は小声で呼び止められた。

「すみません。」

 ナンパかと思った。警戒しながら振り返ると、まじまじと顔を見られた。

「あの、どこかでモデルやってますか?」

 モデル?あたしが?この人、何なんだろう。

「やってません。失礼します。」

「あのちょっと。じゃあ、モデルになってもらいたいんですけど。」

 新手の勧誘かと思った。でも、その男は自分が手がけた本の表紙やら、色々なイラストレーターが合作で出しているイラスト集の一部を見せ、自分が描いたのだと言う。全然、人物なんて描かれていなくて、抽象的な宇宙みたいな絵とか、花とかばかりだった。その男が言うには、知り合いのイラストの中にあたしそっくりな女の子が描かれていたので、びっくりしたのだと。図書館には美術書を読みに来ている事とかも話してくれた。人間違いという失礼をしてしまったので、お茶でも、と言われたけれど、何を話していいのかもわからないし、モデルにも興味がなかったので断った。

 もう二度と会うまいと思っていたのに、その男にはよく会った。話はしないけれど、図書館でよく見かけた。本当に分厚い美術書を読んでいる姿は、金髪やクラッシュジーンズやボロボロのスニーカーのせいで不似合いに見えた。でも、あたしには理解できそうもない小難しい美術書を真剣に読んでいる眼差しを見ていると、きっと悪い人じゃない。そう思った。

 あたしはわざと向かいの席に座り、その男のつま先をコツンと蹴ってみた。

 顔を上げた男は、微笑んでいて、あたしのつま先をコツンと蹴り返してきた。

 そんなやり取りが、数回あって、昼時に席を立った時、一緒に食事に行った。その時にお互いの名前や年齢や、色々な事を知った。ハルヲが仕事場を見せてくれると言ったので、あたしは単純な興味から、アトリエ代わりの家に遊びに行った。ただ、すごいと思った。ワンルームの部屋の半分が、画材や多分、創作に必要な書類やよくわからない仕事道具で埋まっていた。ソファーがなかったので、ベッドに座っていると、ハルヲはスケッチブックに何か走り書きをするように鉛筆を滑らせ、十分ほどたってから、それを千切り、渡された。そこにはあたしの笑顔が描かれていて、これは世界に一枚しかないんだと思うと、感動した。

「ミキちゃん。彼女になってよ。」

 照れ臭そうに言ったハルヲは、そのまま下を向いて、動かなくなった。よく芸術家って変わり者が多いって言うけれど、この人もそうなのかと思った。コミュニケーションのとり方が、いまいち普通の人とずれている。告白の方法も。ハルヲが描き出したあたしは、ゴツゴツした手から生まれたとは思えない繊細なタッチで、不真面目そうな雰囲気とは間逆の不器用な直球の言葉で、心が温かくなっていくのがわかった。

「はい。」

 あたしがそう答えてから、ハルヲとの奇妙な恋人関係が始まった。


 今も変わらないハルヲの部屋。あたしが着く前に帰って来ていたらしく、ハルヲはすでに画材を手にして仕事をしていた。

「今日も、徹夜?」

 声をかけると、バタンと床に倒れたハルヲは、小さい声で言った。

「ミキがいてくれたら頑張れる。」

 何かを生み出す事が、どれほど大変な事なのか、学生のあたしにはわからない。ただできるのは、そばにいる事。たとえ、ハルヲが女ものの香水や整髪料の香りを纏っていたとしても、この人には、あたししかいない。そう、思えるから。まだ、そう思えているから。

 深夜、眠気に負けたあたしはベッドの中にいた。どれくらいそうしていたのか。ハルヲが抱きしめてくる腕に反応して起きた。今までハルヲは仕事をしていたのだろうか。カーテンの隙間から、朝日が漏れていた。

「いつか俺もお前と落ち着きたい。」

 眠そうな声で発されたその言葉は、あたしの全てを満たしていった。待ちぼうけもドタキャンも、何もかも帳消しになるくらいに。


     紫陽花~アジサイ #1


 俺がミキに興味を持ったのは、花みたいだと思ったからだ。それ以外の理由なんてない。どうせ女を大切にできない事は自覚していたけれど、世の中に溢れている女の中から、花を探すのは、青い鳥を探すようなものだと思っていた。でも、自分から告白しておいて、大切にできない原因は何だ。

 それは、血のせいだ。と思う事にしている。

 俺の親父は俺が一歳になる前に女を作って母親と離婚した。大人になってから、父親のふざけた女関係を母親から聞いた。母親の前にも結婚していた女がいて、その家庭もまた、俺の母親と一緒になるために破壊した男。それ以外にも、女遊びが絶えなかったらしい。そんな男の血を引いている俺が、なぜ女を大切にしたりだとか、一途に思えるっていうのか。それに、自分の母親に対しても腑に落ちないところがあった。親父と一緒になるために、他の家庭をぶっ壊しておきながら、いざ自分がぶっ壊される側になると、あーだこーだと被害者面する。てめぇがやった事を、なんで他の女がやっちゃ駄目だっつー事になんのか。同じ穴のムジナってのはそういう事を言うんじゃないのか。どいつもこいつも自己中心的で、吐き気がした。そんな母親に女というものを教えられた俺は、女に対しても希望的観測を持てないでいる。

 でも、それを理由にしたところで、この虚しさは消えない。

 ミキと付き合って一年目の三月のある日、俺は心から結婚してぇなと思った。顔も見た事のない親父に対する反抗心なのか。自己中心的な思考の母親への反抗心なのか。俺なら幸せな家庭が作れると思いたかった。それに、どんな女と関係を持とうが帰るのはミキだった。いつもだったら、のらりくらり自分勝手にしか生きていない俺に愛想を尽かして去っていく女ばかりだったのに。ミキはいつもいてくれる。経済的な不安も何もない。ただ、他の女の顔がチラついた。フジコ、アカネ、ルリ、ホナミ。そっからミキとの幸せな家庭とか思い浮かべようとしたけれど、もちろんできるはずもなく。

「ありえねぇ。全然ありえねぇ。」

 ひとり床に転がりながら繰り返した。

 最近は、ミキよりフジコといる方が楽だった。好きとか何だとか言わなくてすむし、他の女といる事も隠さずにすむ。ただ、フジコは俺にとって花じゃないってだけで。花じゃないなら何だって聞かれても、女、の一言で終わるんだけれど。


 今日はホナミから連絡があったから、クラブに遊びに行った。ホナミはいわゆる尻軽と言われる部類の女で、まぁ、俺と大差ない遊び人なだけだけれど、昼間は保育士をしてるってんだから、世の中そんなもんだと思った。子供の前で清らかに微笑んでいるはずの女が、クラブで踊り狂って酒を浴びるように飲み、最後には俺とベッドインして乱れ乱れていくのだから。

「お前さ、俺のどこがいいの?」

 多分、求めている答えなんてないし、ロクな答えなど返ってこない事はわかっていた。

「あのさ、それってあたしのどこがいいの?って聞いてるのと同じでしょ?多分、ハルヲがあたしと会うのは、責任とか義務とか何もなくて、切ろうと思えばいつだって切れるからだよ。馬鹿じゃん。そんな事考えるなんてらしくない。」

 爆笑しながら言われて、一気に冷めた。何かが、終わった。

「じゃ、今切れる事にするわ。二度と会わねー。」

 踊り狂う人波を掻き分けて、俺はその場から立ち去った。

「マジで言ってんの?」

 追いかけるようにして聞こえたホナミの声は、大音量の音楽に溶けていった。


 クラブを出た俺は、後輩のやっているバーに行き、キープボトルのジンを飲みながらうなだれていた。

 愛してるって、どうやるんだよ。そんなものの答えさえわからない。五月はミキの二十一歳の誕生日。いっそ、プロポーズでもしちまえば、変わるのか。いや、ありえねぇ。でも明日、指輪でも見に行ってみるか。そんな事できんのか、俺。

 俺はミキからの着信も無視して、フジコに連絡をした。幸い、明日は土曜日。会社員のフジコは休み。フジコに付き合ってもらうか。

 フジコの部屋は、居心地がよかった。その体も、心地よかった。

「酒クサ。何か嫌な事でもあったの?」

 フジコは丸裸の俺に言った。ミキとは対照的なロングストレートの髪の毛を背中に流しながら。

「や、女ってさ、どんな指輪が嬉しいもんなの?」

 この時、フジコが顔を曇らせた事に気付くはずもなかった。

「プレゼント?」

「エンゲージリング。」

 フジコがタバコに火を点けた。少しの沈黙の後、先に耐え切れなくなった俺は、笑った。意味もなく。

「ありえねぇよな。俺が。」

 自虐的に言ってみた。フジコは少し笑って、俺を抱きしめた。こいつ、あったけぇな。こんなだったっけかな。

「ありえなくないよ。ハルヲの自由じゃん。それに、女ってさ、好きな人からもらうものは何でも嬉しいもんだよ。」

 そんなもんなのか。本当に?俺だったら、ミキからでも、もらっても嬉しくないものがある。元々、自分の好きなもの以外は受け付けないのだから、仕方ないといえば仕方ないと思う。でも、女は違うのか。俺が、違うのか。

「だったらフジコはどんな指輪が欲しい?彼氏がいたら。」

 じゃれるように背中に腕を回すと、振り解かれた。

「彼氏がいたら、なんて妄想ができるほど、おめでたい女じゃない事は知ってるでしょ。ダイヤモンドが一粒乗ってたら、いいんじゃない?そういうもんでしょ?エンゲージリングって。」

 はいはい。そうですか。やっぱあれですか。給料三ヶ月分とかいう定義はまだあるんですか。

「クソめんどくせー。」

 ぐるぐる布団を体に巻きつけながら、そのまま床にダイブした。大体、考える事が間違ってんだよな。多分。フジコが彼氏がいたらなんて妄想ができないように、俺も結婚したらなんて妄想はできない頭になってんだよ。きっと。今夜はミキからの着信を無視し続けて三回目。光る携帯がうざったくて、ジャケットを被せて視界から消す事にした。

 そして俺はフジコがくれるキスに溺れるわけだ。性懲りもなく。だから、愛してるってどうやるんだよ。な。


     彼岸花~ヒガンバナ~ #2


 ハルヲが彼女との結婚を意識していると知ったあの日、平静を装うのが精一杯だった。本命と呼べる彼女がいるにしろ、ここにもここじゃないどこかにも、平気で寝泊りする男の脳内で、そんな事が考えられるなんて想像もつかなかった。ただわかったのは、遊び人を地でいくようなハルヲも、結局はただの普通の男と変わらない思考なんだって事。

 その日、ハルヲは深夜に帰って行った。自分の家に帰ったのか、街をぶらついているのか、他の女の家に行ったのか、わからない。聞く理由もない。

 ハルヲの去った部屋で、ハルヲの香りが残ったベッドで、私は泣いた。

 ミキちゃんもこんなどうしようもないハルヲを思って泣くのだろうか。

 私とは違って、ハルヲとの結婚を夢見ていたりするんだろうか。


 数日、何の連絡も取り合わずに過ぎた。私は彼氏を作らなければという焦りに押されて、友達の紹介とかコンパとかで、数人の男と出会った。女友達は、やっと私が真面目に彼氏を作る気になった事に安心していた。人一倍、結婚願望が強かった私が、ハルヲと出会ってから、沈黙した事に違和感を覚え、心配してくれていたのだ。

 私はただ、ハルヲとの不毛な関係の終止符を探していただけ。

 誰かを好きになるとか、そういう純粋なものじゃないから、うまくいくはずもない。三十代の大企業に勤める、そこそこ男前とデートをしても、ハルヲだったらこんな事しないとか、言わないとか。少し年下のまだ純粋な男とデートしても、刺激や熱のなさにうんざりしたり。

 何が駄目だとか、そういう事ではないとわかっていた。相手が悪いんじゃない。私が悪いのだ。ハルヲに侵食されてしまっている私が。これを断ち切りたいのに、染み付いてしまっている感覚は消えない。

 今頃、ミキちゃんへのエンゲージリングでも買って、どうやって渡そうかなんてプランを考えたりしてるのか、あの男は。

 そんな事をしている間に、私が他の男を部屋に連れ込んでいても、平気だって言うのか。

 私は、ハルヲにとっていてもいなくてもいい存在。彼女じゃないから。それは私にとっても都合がよかったはず。彼氏ができたら、さっさとバイバイするつもりもあったし、できると思ってた。

 コンパで知り合った男と夕食をとっていた時、携帯が鳴った。ハルヲからのメールだ。内容を確認せずに、バッグに入れたけれど、気になって仕方なかった。もしかしたら、今から来るとかそうじゃなくても今夜泊めてくれとか、そういう連絡かもしれない。でも、ここで携帯を開いたら終わりだ。彼氏候補の目の前の男を放り出して、私は帰る事を選んでしまうだろう。とにかく、この隙間を埋めなければ。食事の味も感じないまま、時間だけが過ぎた。夜の街を、手を繋いで歩いてみたけれど、違和感があるだけで何も感じない。立ち止まってじっと男の目を見ると、どうしたの?と言われた。

「抱いて下さい。」

 それを口にするのが精一杯で、面食らって顔を赤らめた男などどうでもよくて、ハルヲを打ち消すためだけに利用する自分の汚さを認めたくはないけれど、このまま抱かれたなら、認めざるをえなくなるだろう。男は動揺しつつも、ラブホテル街に足を進めていた。体が宙に浮いているみたいに、現実感がない。この男は、真面目なIT企業のサラリーマンで、年収もそこそこ。顔も悪くない。年は確か三歳上で、結婚するには文句のつけどころがない相手。ホテルの前で、本当にいいの?と、クソ真面目に聞かれて、答えられなかった。

 私は結婚したいの。結婚相手になるべき人といなくちゃいけないの。呪文のように頭の中で言い聞かせても、足が動かない。どうして。このままこの男に抱かれたなら、クソ真面目に付き合いましょうって事になるはず。わかりきっている事じゃない。どうして。

 動けずにいると、男はぐっとあたしの手を引いてホテルに入った。そう、そうして。もう私は動けないし、何も言えない。部屋のパネルが光るフロントで、立ち止まる。さっさと部屋を選んで、連れ込まれ、犯されたかった。ただ、結婚というものを掴むために。

 でも、でも、でも。

「泣くほど嫌なら、最初から言わなきゃいいのに。」

 顔を上げると、男の冷たい視線があった。頬に流れていたのは、涙。私、最低だ。ハルヲといい加減な関係でいる事よりも、もっと最低な事をしている。いつからこんな最低な女になったんだろう。

「嫌じゃないんです。ただ、自分が嫌なんです。」

 こんな事を言っても、無駄な事はわかっている。取り返しはつかない。進んだ時間は戻らない。ハルヲとの関係に取り返しがつかないように。何もかも、取り返しなどつくはずがない。男はごめん、と一言、私を置き去りにした。最低な私に相応しい光景だ。ラブホのフロントで泣いている寒い女。重い足を引きずるようにして、そこを出て、滲む街のネオンを見つめていた。バッグの中から携帯を取り出す。ハルヲからのメール。飲んでるから暇なら合流する?って。こんな状態で、行けるはずないじゃない。

 でも、そもそも私がこんな事になったのは、あいつのせいなんだよね。あいつさえいなければ、こんな事にならずに、さっきの男とベッドインしてたかもしれないんだよね。そう思うと、みるみる怒りが湧いて、ハルヲに電話していた。

「はいー。」

 ちょっと酔っ払っているのか、ハルヲは上機嫌な調子だった。

「あんたどこにいんの?」

「前に言わなかったけ?後輩がやってるバーがあるんだけどー。」

 そこまで言われて、言葉を被せた。

「すぐ行く。」

 一方的に携帯を切り、タクシーを拾って、ムカムカする胸の内の矛先がハルヲに向いているのが、悲しいほどわかった。バーの扉を開けると、ハルヲに向かって一直線。思い切りビンタした。わけがわからないままそれを受けたハルヲは、口を開けたまま、ヘラッと笑った。どうして、笑えるの。

「フジコー。俺、殴られて当然だよなー。彼女いるのになー。フジコに連絡したりしてさー。」

 ハルヲは相当、酔っ払っているらしい。こいつがどうしようもなければ、私もどうしようもないな。突然、怒りが笑いに変わった。一瞬、騒然としていたバーの空気が、二人の笑いで元に戻った。単なる痴話喧嘩、だと思われたのだろう。もう、それでいい。


     勿忘草~ワスレナグサ #2


 ハルヲがあたしをちゃんと恋人として見てくれていたと確信できたのは、いつか俺もお前と落ち着きたいって言われた時だった。ハルヲがそんな事を口にするなんて、意外だった。良くも悪くも、典型的なB型の男で、あたしがいたとしても、いつも自分のペースでしか生きていなかったから。

 何度か、ハルヲの携帯を覗き見しようとした事がある。でも、見てはいけないものがあるという確信が、それを止める要因だった。きっと、見てしまったら別れるしかなくなる。今ならまだ、女の影はあっても、目の前に現れたわけじゃない。あたしがまだ許せるうちに、ちゃんと帰ってきてほしかった。許せなくなる女の姿を見てしまう前に、その影を、消してほしかった。

 ただ、一緒にいたかった。イラストレーターをしているハルヲの、わけのわからない抽象的な絵が好きだったし、それを描いている時の真剣な眼差しが好きだったし、ごつごつした大きな手が好きだったし、二十六歳にもなってお風呂場でシャボン玉を作ってはしゃぐ子供じみたところが好きだったし、あたしの全部はハルヲで染まっていた。

 染まる事が嫌なわけじゃない。ハルヲがあたしの中に入ってきてくれない事がさみしかっただけ。あたしの好きなものとか、求めているものとか、興味を示してくれた事なんてない。それが、さみしかった。

 でも、そのさみしさも男女の違いだとか、感覚の違いだとか、理由をつけようと思えばいくらだってつけれるものだった。だから、ここまで一緒にいられた。

 それに、もうすぐあたしの二十一歳の誕生日。ハルヲはその日、絶対に仕事を早く終わらせてお祝いしてくれると言っていた。ハルヲが予定らしい予定を言ってくるなんて珍しくて、去年のクリスマスなんか、締め切りに追われるハルヲの背中を見つめるだけで終わった。かろうじて、一緒の空間にいたというだけ。でもそれも、仕事だから、と理由をつけて責める気持ちも怒りもなくしてきた。だから、誕生日が待ち遠しかった。プレゼントを選ぶのが苦手なハルヲが、もしかしたら何かくれるのかもとか、レストランとか連れて行ってくれるのかとか、期待ばかりが膨らむ。当日は、すっごく綺麗にして行こう。ハルヲがびっくりするくらい、ミキ大好きって何回も言われるくらい。


 誕生日当日、ハルヲからメールが来た。ハルヲの後輩がやっているバーに十時に待ち合わせ。少し遅い待ち合わせ時間だけれど、きっと仕事の都合があっての事だと思った。待ち合わせ時間ちょうどに、あたしは到着した。今日のために買っておいた、紺色のサテンワンピースで大人っぽく着飾ってみた。お化粧も、ベージュ系にまとめて、落ち着いた感じにしてみた。いつもと違う雰囲気のあたしに、ハルヲは驚くだろうか。ドキドキしながら、待っていた。もうすぐ来るよね。そう思って、ドリンクの注文も待つ事にした。

 十時半を過ぎた頃、携帯が鳴った。

「ちょっと遅くなるから先に飲んどけ。」

 急いでいるのか、命令口調で電話が切れた。こんなのは、いつもの事。きっと、仕事で、きっと、仕事で、何かあったんだ。それでもため息が漏れる。少しくらい、優しい声で、少しくらい、ごめんねって気持ちで、電話してくれてもよかったんじゃないの。でも、来てくれるんだよね。

「すみません。ハルヲのボトルお願いします。」

 店員さんに声をかけると、わかってはいたけれど、あたしの苦手なジンが出てきた。ジントニックを作ってもらい、ちょびちょび飲んでいた。どんどん気分が沈んでいく。こんな格好して、誕生日に待ちぼうけさせられて、美味しくもないお酒を飲んで、何をしてるんだろう。ねぇ、ハルヲ、どこにいるの。何してるの。今すぐここに来てよ。いつもみたいに仕事だったって言ってくれたら、嘘でも本当でも信じるから。誕生日おめでとうって言いにきてよ。

 ジントニックを二杯飲み終えた時、少し酔いが回ってきた。元々、お酒は強くない。飲みつけないものを飲んでいるせいもある。時計を見たら、もう十二時を回っていた。誕生日、終わっちゃった。帰ろうか、もうすぐ来るかな。カウンターにしなだれかかる。もう、考える事にも疲れてきた。でも、そろそろお店を出ないと家に帰れなくなる。ハルヲが来たら、いいのに。黙ったまま、ひとりでここにいると眠気も出てくる。どうしよう。携帯のメモリーをスクロールさせて、友達に電話しようかとも思った。でも。ハルヲが。迷っているうちに、十二時半を過ぎた。今からお店を出ても終電に間に合わない。ハルヲに電話しても、圏外で繋がらない。どうして。三杯目のジントニックは、半分も飲めなかった。空腹と眠気と虚しさと、色々なものが入り混じって、このまま倒れてしまいそうだ。

 携帯が鳴った。ハルヲの表示に、安堵した。

「ハルヲ。ね、」

 言いかけた途端、ハルヲの声が返ってきた。

「今日、九州行ってるツレが戻ってきてんだってさっき聞いて。飲み会やってるらしいから、悪いけど今日無理だわ。」

 プツリと切れた。

 あたしの心もプツリと切れた。

 待ち合わせ時間にハルヲがちゃんと来た事なんて一回もないし、たまにこういういい訳じみた電話が入った後に電話しても繋がった事もないし、いつも振り回されてばかり。でも、あたし今日、誕生日だったんだよ。日付変わっちゃったけど。泣き出しそうな気持ちを抑えながら、電話してみる。また、圏外。もうここに座っている意味もなくなった。今日、あたしが着飾った意味も、何もかも何にもなくなった。お会計を済ませると、終電が過ぎた人気のない夜の街を歩いた。暗い空を見上げる。ハルヲ、あたし達、本当に一緒にいられてるのかな。あたしをひとりにして、どこで何してるの。


 その夜、あたしはヒールで痛む足を引きずりながら、家までの道を歩いた。止まらない涙を拭いてくれる人は、いない。


     紫陽花~アジサイ #2


 エンゲージリングを買おうと、宝石が散りばめられたアクセサリーのショーウインドーを眺めていた。

 フジコに強烈なビンタをくらった夜、そのままフジコの部屋になだれ込み、寝た。朝方に目を覚ますと、無防備なフジコの寝顔を見てこのままではいけないと、強く思った。あのビンタ、マジで強烈だったよな。何でそんな事をされたのか、理由は聞かなかったけれど、自分でも言ったように、彼女がいるのにフジコに連絡してこんな事になっちゃってるのが、理由だってのはわかっていた。

 ガラスのドアごしに、女の店員が笑顔を投げかけてきた。俺はなぜか気が進まないまま、店内に入った。ショーケースをすっと流し見しながら、奥へと進んだ。指輪のコーナーで立ち止まる。

「エンゲージリング欲しいんだけど。」

 店員に言うと、とびきりの営業スマイルで駆け寄ってきた。どんなデザインのものですか?彼女は指輪は何号ですか?やっぱりプラチナにダイヤモンドがオーソドックスなんですけれど。店員が生き生きするほど、俺のテンションは下がっていった。いくつかミキに似合いそうなものを出してもらったが、指輪の号数なんて知らない。でも、こんなものプレゼントしたら、泣いて喜ぶんだろうな。あまりに容易に想像できる展開。

「ちょっと、考えます。」

 そう言って店を出た。ミキの誕生日にプレゼントしよう。そしたら、他の女とも切れよう。何度も心の中で反芻した。大体、いつもこうしようって意志が弱いんだよ俺は。目の前の事に流される方が楽だし、そうやってきて支障もなかった。でも、愛してるって、結局は一緒にいれば愛してるっていう風になっていくもんじゃないのか。ミキの事、好きかって聞かれたら間違いなく好きだし、な。


 ミキの誕生日当日、またあの店に指輪を買いに行った。指輪の号数なんてどうでもいい。大体の身長と体重を伝えると、九号でよろしいかとは思いますし、領収書をお持ち頂ければ同じ商品で号数交換も承れます、と店員が言ったので、

「じゃ、それ。」

 まるでタバコでも買うような気軽さで口にした。会計はカードで一括。箱やラッピングは適当に、あーそれで、の繰り返し。刻印ができるとの事だったが、サイズが合わなかった時の事をふまえて、無しにした。小さな紙袋に入ったそれを持って、ミキに待ち合わせ時間と場所のメールを送って、事務所に打ち合わせに行った。事務所では、次回の仕事がファッション誌に掲載される挿絵である事や、そのイメージなど、条件やギャラ、いつも通りの話。終わったのが夜の七時。

「重い、な。」

 小さな紙袋が急に鉛のように重く感じた。一度、家に帰り、出かける用意をした。明日からの仕事の画材一式を用意したり、できるだけ待ち合わせ場所に行く事を延期した。携帯の電源を切った。

 現実にエンゲージリングを買って手元にあるのと、買おうと思っているだけでは、全然違う。これを渡したら、婚約って事だよな。反芻するだけで、体が動かない。

「やっべ。もうすでに死にたい。」

 ベッドに倒れ込むと、そのまま目を閉じた。ああ、そうだ。これが目を背けたい現実ってやつか。俺はフジコのビンタで目が覚めたはずじゃなかったのか。ミキはいつも可愛くて、よく笑い、よく泣いた。レースやシフォンでふわふわの服装と、真ん丸い顔に桃色の頬。イラストレーターの俺の仕事なんか見ていてもつまらないはずなのに、じーっと見て微笑んでいた。どれだけ待たせても、ほったらかしても、一緒にいてくれた。こんな女、他にいねぇだろ。俺は、仕事のプレッシャーには耐えられるけれど、プライベートは弱いんだ。

 携帯を開き、アカネに電話したけれど、仕事中なのか留守電になったので切った。アカネは看護士をしているから、タイミングが合わない事が多かった。ルリに電話すると、友達と食事中だからと言われ、すぐに切られた。たまらなくなって、フジコの家に行った。連絡もせずに。もちろん留守で、今どこで何してんのかも知らない。ただ、持って行かなければという責任感だけで小さな紙袋を持っている俺は、負け犬だ。負け犬以外の何者でもない。ドアの前に座り込んで、どれくらいたっただろうか、ミキとの待ち合わせ時間は過ぎていた。俺はもう、どうしようもなくなって、ミキに電話をした。長話する気もなかったので、遅くなるという事だけを伝えた。

「あんた、何してんの。」

 帰ってきたフジコは俺の肩を抱き、部屋に押し込まれた。

「現実逃避させて。もう、無理だ。」

 やっぱり俺には、こういうのがお似合いだ。父親からも母親からも、ロクな血を引いてない。という事にしておこう。

 スーツ姿のフジコをベッドに押し倒した時、紙袋から小さな箱が転がり出て、冷たい床の上で俺を嘲笑っているようだった。


     彼岸花~ヒガンバナ~ #3


 ハルヲが本当に野良犬のようにうちの玄関の前で座り込んでいた夜。様子がおかしかったけれど、部屋に入るなりベッドに押し倒され、そのまま流されるように寝た。事が終わった後、またミキちゃんにドタキャンの言い訳の電話をしていたけれど。ハルヲがそのまま眠りに落ちてから、シャワーを浴びに行こうとした時、床に転がっている紙袋と小さな箱を見つけた。大きさや形からして、この前言っていたエンゲージリングだろうか。そっとベッドサイドに置いた。

 翌朝、私達は相変わらずいつもの調子で、仕事に行くからと言って、まだ眠そうなハルヲと一緒に部屋を出た。お互い、ハルヲの手にしている紙袋やその中身については触れなかった。結局、ミキちゃんには渡さなかったという事だけが、わかった。どうしてハルヲは気が変わったのだろうか。わからないけれど、わからないままでいい。私はいつでもハルヲがここに立ち寄れるように、餌を用意していればいい。


「ハルヲ、二十七歳の誕生日には何をしてあげようか。」

 あれから数日後、またここに来たハルヲに言った。せめて、私のものだという証として、何かを渡したい。

「俺、物はもらわない主義なんだ。」

 ハルヲは裸のままベッドでタバコをくわえながら、冷たく言い放つ。予想通りの答えに、無理に笑顔を作った。

「知ってるよ。思い出に残らない、消耗品でいいじゃない。飲み物、食べ物、ティッシュペーパーとか?」

「冷蔵庫にいつもビール冷やしてくれてたらいいよ。あと、ジンおいといて。」

 この男は、本当に残酷だ。こうして私の部屋にある種のマーキングをしておきながら、自分には触れさせない。きっと、ミキちゃんにはそうじゃないのだろうけれど。

 ハルヲの携帯が鳴る。特に隠す事もなく、寝転がったままハルヲはそれに出る。

「あー、今、友達んとこで酔っ払っちゃってんだ。今日は帰れないかも。みんなグダグダだし、片付けもあるし。俺はミキだけだっつってんじゃん。またな。」

 よくすらすらと嘘をつけるものだ。多分、私の知らないハルヲは沢山いるんだろう。ミキちゃんの他にも女がいるとも言っていたし。ただ、もうそれを見たいと望むことはあきらめた。あきらめていたら、こうしてハルヲはいてくれる。くるりと向き直ったハルヲが突然話し出す。

「多分さ、俺とフジコは似てんだって。責任とか義務とかで縛られた関係とか、しんどいじゃん?このままが一番楽だし、一番居心地がいいじゃん。」

 だからあの夜、エンゲージリングを渡さない選択をしたの?責任も義務も、ハルヲは負うつもりがないから。でも例えば、私がルパンの峰不二子みたいに賢くてセクシーな女なら、ハルヲは責任も義務も抱えてくれたのだろうか。

「わかるけど、私、ハルヲの彼女がちょっと羨ましい。」

「ミキは彼女って肩書きがあるだけじゃん。フジコは知ってんでしょ?俺が嘘つきのどーしよーもねー奴だって。」

 知ってるよ。少なからず、ハルヲは私に嘘つかない。彼女じゃないから、つく必要がない。他の女といるとか、彼女といるとか、誘いのメールに平気で返してくるんだもん。それでも好きって言われてみたい。ミキちゃんみたいに、嘘つかれていいから、一度でもいいから、ハルヲの部屋に行ったりしたい。


 私は野良犬のために、ビールとジンを買った。餌を食べるついでに、私も食べてもらいたいから。

 ビニール袋が手に食い込んで、その重みがいつからかハルヲに好きと言いたがっている自分の気持ちのように思えた。いつか私が餌を用意しなくなったら、悲しい思い出として、ハルヲは過去の人になるのだろう。泣きながらビールを冷蔵庫に入れて、新品のジンをボトルのままゴクゴク飲んだら、あまりに喉が熱くて頭が朦朧として、もっと泣けてきた。ハルヲは誰のところにも留まらない。わかってる。わかっているけれど、結婚も幸せな家庭もあきらめたら、ハルヲはいてくれるの?スーツのままベッドに倒れこみ、ハルヲの残していった吸殻を灰皿から拾い上げた。煙のようなこの関係に終止符を打つ事ができなかった私は、ハルヲがどんなエンゲージリングを買ったのか、想像もしたくなかった。

 

 言える事はただひとつだけ。

 大丈夫。餌は、まだある。


「愛してるから、愛されたいと、願うの。」


     勿忘草~ワスレナグサ #3


 もう、終わりにするしかない。きっとハルヲはあたしがいなくても大丈夫。深夜、メールを送信した。明日大事な話があるという事と、あてつけにウエディングドレスショップの前に待ち合わせ場所を指定した。きっとまたドタキャンか遅刻してくる事を覚悟して、時間は昼間に指定した。大丈夫。言えるよ。それに、すぐに忘れられる。誕生日も祝ってくれないような男となんて、もうやっていけない。もう、待つのも疲れたし、もう、さみしさに耐えられない。


 待ち合わせ場所に、胸を張って勢い良く歩いた。予想外に、ハルヲはそこにいた。目の前で立ち止まると、

「別れる。」

 意志が鈍らないうちに、素早く強く言い放ったあたしは、道行く人達の好奇の目に刺された。それでもいい。ハルヲはタバコを咥えながら、いつものボロボロのコンバースのハイカットスニーカーに、クラッシュが広がりすぎたジーンズと、柄シャツで、ダルそうに首を傾げた。ハルヲは背中をショーウインドーに預けて、しばらく何も言わなかった。昨日メールで大事な話があるなんて、別れ話を切り出す気満々の内容を送ったからなのか、反応は薄すぎる程、薄かった。あたしの頭の中には、出会った頃の笑顔の絶えなかったハルヲや、真剣に仕事をする眼差しや、抱きしめられる温もりや、あたしにべっとりこびりついたハルヲがいた。

「そ。じゃ、帰るわ。」

 無表情に近かった。多分、お互い。どうしてとか、聞かないの?たったそれだけで終わっちゃうの?ぐるぐる巡る考えは、喉に詰まって言葉にならない。ハルヲは直立不動のあたしの横をすり抜けるようにして足を踏み出した。

「お前、こないだ誕生日だったじゃん。プレゼントな。」

 胸に押し付けるように渡されたのは、残り少なくなったタバコの箱だった。あたし、タバコなんて吸わないじゃん。言いたいのに声にならなかった。ハルヲは何の未練もなく、あたしを置き去り、人波に消えた。 

 引き止めてくれる事を、期待していた自分が、いた。ミキだけだよって、いつもみたいに言ってくれる事を望んでいた。それを言われて、別れない事を選択したかどうかはわからないけれど。馬鹿だ。別れを決心した日に、ちゃんと先に待っていたハルヲ。こんな日こそ、またいい訳じみたドタキャンの電話とか、いつもみたいに二時間待ちぼうけさせられるとか、そういうのだったら、諦めもついたかもしれないのに。本当に、冷たい男。最低な男。思考が停止し、何もわからなくなったあたしは、ショーウインドーを覗くふりをしていた。ウエディングドレスのショーウインドーの前なんかで待ち合わせするんじゃなかった。こんな幸せ、来るはずがなかったのに。握り締めたタバコの箱が歪み、手が震えた。これで、よかった。よかったよね。いい加減な男はこっちから捨ててやればいいんだもの。

 思い出も何もかも吹っ切るように、顔を上げた。梅雨雲の切れ間から、夏の始まりを予感させるような、嘘みたいに綺麗なキラキラした陽が降り注いでいた。

 バイバイ、ハルヲ。

 心の中で呟くと、あたしの目から綺麗なキラキラした涙が幾つも零れて、アスファルトに染み込んでいった。

 きっと、ハルヲと次に恋をする相手も、あたしと同じように、ハルヲに染まっていくだけでしょう。あたしはイチ抜けた。多分、これが正しい選択だから。そして今度こそ、心から笑える恋愛をするのだ。ドラマチックな出会いじゃなくてもいい、運命の相手だと思えなくてもいい。穏やかで、幸せな恋愛をするのだ。最後まで、ハルヲが何を考えているのかわからなかった。いつかあたしのところに、帰ってくるような気がしてたけれど。もう、夢は見ない。現実を歩いていくんだ。


「ただ、愛したくて、愛されたくて、それだけだったんだよ。」


     紫陽花~アジサイ #3


 せめて、今日だけは、ミキの指定した場所で、指定した時間に、待っていようと思った。別れ話を切り出される事がわかっていたから。でもこれが単なる自己満足で、今まで自分から別れを言い出さずにいた自分のズルさも、わかった上での事だった。別れの瞬間、しばらく見つめ合ったが、言葉が出てこなかった。お前には俺みたいな男より、いい奴がいるはずだよ。とか、歯が浮くようなことは言いたくなかった。本当はいつも、そう思っていたのに。優しい言葉も冷たい言葉も、どうせこんな終わりには必要ない。

 そして、ミキがタバコを吸わないのは知っていたのに、誕生日プレゼントという口実をつけて胸に押し付けるように渡した。自分の痕跡を残しておこうとするのは、男の習性なのか。それとも未練なのか。そのまま、人波に紛れた。迷いなく。どちらも引き止める隙を作らないように。

 歩きながら思い返していたのは、いつか俺もお前と落ち着きたいと言った自分。嘘じゃなかったけど、今日、それが嘘になった。今頃、あいつは泣いてんのかな。いつもの泣き顔がちらつく。俺はミキを想い携帯を取り出したけど、ルリからメールが入っていた。

「ハルヲー、家に遊び来てよ。」

 あぁ、俺は今からこいつんちに行っちゃうんだろうな。そう思うと、自分がとんでもなくロクデナシに思えて、事実、そうなのかもしれないが、女からの呼び出しにも嫌気がさすほど、自分に嫌気がさして、真っ直ぐ家に帰った。


 俺は靴のまま家にあがり、スケッチブックと鉛筆を手に取ると、床にあぐらをかき、ただひたすらミキを描いた。何枚も、何枚も、色々な表情、色々な体勢、色々な服装、沢山のミキを。やがて外が暗くなり、白んできた。描き続けて鉛筆で黒くなった手と、筆圧で赤くなった指。それを見て気付いた。

 あー、俺は多分、すげー大好きで、すげー大事な人をとんでもなく傷つけて失ったんだって。

 そして、スケッチブックと共に眠りに落ちた俺は、きっと、明日からもロクデナシな毎日を変えるつもりもなく、こんな気持ちを抱えたままやってくんだって思った。今更、また傷つけることをわかっていて、ヨリを戻そうなんて言えないし、言わない。だからせめて、将来、とびきり綺麗なミキの絵を世の中に送り出してやろうと思った。出会った時に、花みたいな女だと思った事は嘘じゃないし、モデルになってもらいたいと言った事も嘘じゃない。

 俺の花が散った。大切にできなかったから。ちゃんと見ていなかったから。痛んでいた事も知らずに。

 ポケットに入れたままのエンゲージリングの箱を壁に投げつけた。どうして俺は、こんな風にしかできない。いや、できないんじゃなくて、してこなかっただけだ。ミキの誕生日の夜、この箱さえ渡せれば、今も一緒にいたかもしれないのに。

「安い男。負け犬。死んじまえ。」

 ひとり喚いても、しんとした部屋に響くだけだ。俺は勢いに任せて関係を持っている女に結婚しますというメールを一斉送信した。どうせ全員切れればいい。俺のまわりから、誰もいなくなればいい。携帯は、不気味なほど沈黙していた。これが自分の選んだ結末だ。

 笑いが込み上げてきた。どうしてこんな時に泣けもしないのか、俺には涙もないのか。ベッドに潜り込み、その日見た夢は、俺が一番望んでいた、明るくて幸せな家庭だった。可愛い嫁と、小さな子供。温かいご飯の並ぶ食卓。誰も俺に、教えてくれなかった、当たり前の家族の形。


「愛したい。愛されたい。ただそれだけが、伝えられない。」


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