行き先ぐらい教えやがれ
そろそろHRが始まる時間だが、教室内はいまだに騒がしい。そしてクラス内がここまで浮き足立っているのにはれっきとした理由がある。
季節は四月。
まだ新学期が始まったばかりだというこの時期に、銀杏高校ではドでかい行事の開催を控えているからだ。
その一大行事とは三年対象の修学旅行であり、明日出発の二泊三日。日程が少々短いような気もするが、以上。
『行き先は何処か?』
と問われれば、その質問にはたった一言、こう答えるしかない。
── 全 く 知 ら ね ぇ 。
俺がただひたすらアホのように教室の窓外を眺めていたのでHRの話を聞いてなかった、という間抜けなオチではなく、旅行先はまだ俺らにも一切伝えられていない。それだけのことだ。
しかしこの高校は以前から何かがおかしい、とは常々思っていたが、最早ここまで来ると、もうどこまでも脱力するか、ひきつった乾いた笑いしか浮かばない。
大体、修学旅行の当事者、いわば重要人物だ、なぜそのメインである俺らが修学旅行の行く先を未だに知らないのか。普通にありえん。
「はぁ~い♪ みなさぁ~ん、グッドモォ~ニ~ン~♪」
来やがったな……。
去年からの腐れ縁、男のくせに気持ち悪い口調で喋る事で有名な俺らの担任、毛田保が教室内に入ってきた。
明日の出発を控え、今日は全ての授業を中止し、クラス委員長の選出や、修学旅行に向けての最終ミーティングが予定されている。毛田は身体をくねらせながら教壇に立つと、一枚のディスクを俺達に向かって恭しく掲げて見せた。
「では皆さぁ~ん! あなた達の楽しい楽し~い修学旅行は、いよいよ明日から始まりますぅ~! その輝かしい旅立ちに向けて、なんと娑戸芭理事長より皆さんにDVDレターが届いておりますのよ~! ではご一緒にありがた~く拝聴いたしましょう~!」
毎度のことだが毛田の媚びた声を聞く度に、百匹のナメクジが横並びで一斉に上に向かって這い上がってくるかのような気色悪さを背筋に感じる。
しかし俺の反応とは裏腹に、毛田が手にしているものが【 娑戸芭理事長のDVDレター 】だと知ったクラスの女共が急に活気づき、騒ぎ出した。
「やったぁ! 久々に理事長のお姿が見られるわ!」
「ねぇ毛田先生! 早く見せて見せて!!」
「またあの痺れるようなお声を聞けるのねっ!」
机の上に頬杖をついてその女共の騒ぎっぷりを見ていたシンが急に斜め後ろを振り返り、俺に向かってボソリと呟く。
「……しっかし、永遠のタキシードの人気はいつもながらスゴイよな、柊兵くん?」
シンに向かって「あぁ大したもんだな」とだけ答えると、俺らのやり取りを聞いていた尚人が、笑いを堪えた声で右横のシンに視線を送る。
「さすがは銀杏高校一の華麗なレディキラーだよね。さしものシンも潔く敗北を認めて白旗を上げた、ただ一人の相手だし!」
「チェッ、からかうなよ尚人」
口を尖らせたシンは面白くなさそうな顔で前に向き直ると机に頬杖をつく。
「そもそも土台が違うだろっつの。あの完璧に近いまでに熟成された渋みを持つ理事長様の前じゃ、俺の女への気配りなんて淑女上位とすら言えないさ。敵うわけねーよ」
── 銀杏高校理事長、娑戸芭真純。
とにかくこの人物には数多くの仇名が付けられている。
今シンが言った【 永遠の燕尾服紳士 】 に、尚人発言の 【 華麗な女生徒悩殺 】。
その他に俺が耳にした限りで覚えている仇名は、 【 静かなる英雄 】、【 渋味な低音男爵 】、【 英国生まれの貴公子 】、【 乙女座の銀髪紳士 】、【 銀杏高の司令塔 】、 ……最後がよく分からんが、ざっとこんなところか。
「当然、例のあの訓示はやるんだろうな」
ヒデが愉快そうに呟き、将矢が、 「絶対やるに決まってんじゃん! 今日は何を叫ぶんだろうな!?」 とはしゃいでいる。
娑戸芭理事長はいつも各行事の前に必ず俺らに訓示をする。
その訓示は非常に特徴のあるもので、巷でよくありがちな「諸君は学生としての本分を守り、新たな発見を見つけよう」とか、「日々の精進を己の糧としてさらに一回り大きく成長することを期待する」などの紋切り型の訓示ではない。
とにかく娑戸芭理事長の訓示は出だしがすべてだ。
聞く者の腹の底にまで響いてくる、その渋い低音ヴォイスで重々しく言い放つその最初の言葉。その一文で、該当行事を端的に、しかも的確に言い表してくる。
俺らが娑戸芭理事長の訓示を初めて聞いたのは入学式の時だった。
蝶ネクタイに燕尾服という、まさにこれから日本アカデミー大賞の授与式でもやっちまいそうな少々場違いな服装に身を包み、颯爽とステージの壇上に現れた理事長は、がやがやと騒がしい俺達新入生に向かって開口一番、こう叫んだのだ。
『諸君ッ! 入学式はぁぁーッ! イッツ!! ファァーンタァァァスティィーックッ!!』
ざわめいていた体育館内は一瞬で葬式会場に強制変更したかのような静けさに包まれた。そんな俺らをほったらかしにしてすぐに壇上から降り、スマートな身のこなしで体育館を後にする理事長。
当時その場にいた毛田の話によると、あの時館内にいた新入生の瞳孔フルオープン人数はほぼ100%に近いものだったらしい。
その後も何か行事がある度に、娑戸芭理事長は「訓示」とは名ばかりの独創惹句を叫ぶためだけに、俺らの前に現れる。そしていつの間にかそれは銀杏高の生徒達の無類の楽しみの一つになっているようだ。
今回、久々にその娑戸芭理事長の訓示が聞けるとあって、教室内のボルテージは急激に上昇している。
いつもは教室の隅に追いやられている備え付けの小型液晶テレビを教壇の前に移動させ、毛田の手で娑戸芭理事長出演のディスクがセットされた。
「さぁ、お出でになりますわよ~!」
真っ青な画面が五秒ほど続いた後、唐突に娑戸芭理事長が現れる。
今日は燕尾服では無く、ダークグレイのスーツ姿だ。
噂によると理事長のスーツはどれも一着が何十万円もするイタリア製らしい。ゴージャスな背もたれ付き革張りの椅子にゆったりと座り、口には濃い飴色のパイプを咥えての登場だ。
さすが英国生まれのプリンスだな。様になっている。
その鈍く光るパイプをゆっくりと口から外すと理事長は鷹揚に椅子から立ち上がった。
娑戸芭理事長は年の割りに背が高く、がたいもいい。
その為、フレーム内に収まりきらなくなったカメラが慌てて後ろに下がったので画面が一瞬ブレる。
理事長の顔がアップになり、その口が開きかけた。
「来るぞ……!」
誰かがそう呟き、クラスのほぼ全員がゴクリと唾を飲み込んだ音がした。いよいよお待ちかねの訓示が始まる。
「諸君ッ! 修学旅行はぁぁッ…………!」
スピーカーさえもかすかにビリビリと振動させるほどの威力を持った、渋い低音が奏でる魅惑ヴォイスが教室内に炸裂する。それに魅き込まれるようにクラス全員が身を乗り出してテレビ画面を穴の開くほど見つめたその時、厳かに次回行事の内容が告げられた。