プロローグ - ここから受難は始まった - <3>
「せぇーのっ!!」
下を見て歩いていた為、不覚にも反応が一瞬遅れちまった。両手をポケットに突っ込んでいたのも敗因だ。
後ろから聞こえたその声にギクリとしながら振り返ろう……としたが間に合わなかった。
一気に背中に感じたのはズシリと少々重い感触。だが妙に柔らかい感触が背中に当たる。
「おっはよ──っ! 柊兵!」
「美月ッ!?」
背中にしがみついているある一人の女を見た俺は後ろに向かってそう叫ぶ。
白い歯を見せニッコリと笑い、俺の背中に子泣き爺いのように取り憑いたのは風間美月。
スポーツ好きなせいで日に焼けた肌と、背中の中心までの長く麗しい黒髪、そして抜群のキュートな笑顔が最大の魅力(本人談)の、天真爛漫といえば聞こえがいいが、有り体に言っちまうととにかくうるせぇ女だ。
「なっ、何してんだよ、お前は!!」
と叫びながら後ろを向いたせいで前方の防衛面がついおろそかになった。重ね重ね不覚。
今度はすかさず俺の胸に目掛けてトンッと何かがぶつかってきた。
感じる軽い激突感。こちらの感触も同じように柔らかい。
「おはよ、柊ちゃんっ」
「れ、怜亜ッ……!?」
今度は真下に向かって叫ぶ。
勝手に胸の中に飛び込み、はにかみながら俺を見上げている女は森口怜亜。
透き通るような白い肌に黒目がちの大きな瞳、そして薄茶のショートボブが一際可憐で愛くるしい(美月談)、華奢な女。美月に比べると少々控えめな性格だ。
後ろに一人、前にも一人。
二人の美少女(繰り返すが美月談)に抱きつかれ、場所でいうなら三色サンドイッチのど真ん中、頼りない薄っぺらな合成添加物たっぷりのロースハムの位置に置かれた俺は、通りの向こうにまで突き抜けるような大声で咆哮する。
「お前らぁっ! 俺から離れろぉぉぉ────ッ!!」
「へ? なんで?」
俺の腹の底からの絶叫に背中の美月はケロッとしているが、怜亜はほんの少しだけ驚いたようだ。小さな口に手を当ててキョトンと俺の顔を見ている。なぁ、頼むから俺の真下でそんな顔すんな。
「お、お前らな、いい加減にしろよ! この間転校してきたかと思ったら俺にベタベタしやがって!」
「いいじゃん、あたし達、白樺小時代のかつての同級生なんだからさ。チクワの友ってやつよ」
「竹馬でしょ、美月」
美月の言い間違いを優しく怜亜が訂正するがそれも激しくどうでもいいことだ。
くそっ、それよりもこの、この前後の柔らかい感触……ッ! 脳内水銀温度計が急激に上昇中。沸点百度は軽く超えていそうだ。
……駄目だ!! 何も考えられなくなってきやがった!! おかげでただでさえ口が悪いのに余計に拍車がかかる。
「うるせぇっ! チクワでも竹馬でもどっちでもいい! たっ……、いっ、いいから俺の側に来んじゃねぇ!」
── 危ねぇ、うっかり「頼むから側に来るな」と言いそうになっちまった。こっちが下手に出てどうすんだ。
「こんな朝っぱらからそれだけ大声出せるってことはちゃんと朝御飯食べてきてるね、柊兵!」
俺の背中から飛び降りた美月は前に回り、怜亜と共に俺の正面に立つ。
「そういえばこの間新聞の記事で読んだんだけど、十代の男の子って朝御飯を食べて来ない人がとっても多いんですって。朝はちゃんと食べないと脳が活性化しないのに……。えらいわ、柊ちゃんっ」
「怜亜! お前は俺の事を柊ちゃんって言うのも止めろ!」
「だって柊ちゃん……」
「呼ぶなっつってんだろ!」
「ちょっと柊兵! 怜亜をイジめたらあたしが許さないからね!」
ひゅっ、と空を切る音がして美月の正拳が俺の鼻先三寸の所で止まる。
「美月、お前まだやってたのか?」
殴りつける真似をされて反射的に脳内温度が下がり、逆に冷静さを取り戻せた。
「ううん、ここを引越して以来、道場にはもう通ってない。自己鍛錬のみ!!」
こいつはかつて俺と同じ道場で空手を習っていたことがある。
「その割にはいい動きしてるな」
「えーっ! そう? ありがとっ!」
俺に対して激怒しかけていたはずなのに、ちょいと褒めてやったらもうニコニコと笑っている。
しっかし昔から変わんねぇよな、その単純な所……。
「柊ちゃん、一緒に学校に行きましょっ」
ほれ見ろ、こっちも全然堪えてねぇし!
また怜亜が俺の名前をちゃん付けで呼びやがったが、もう俺は叱りつける気力を完全に削がれていた。返答する間も与えられず、即座に両腕にこいつらの腕が絡みつき、ずっしりと重力がかかる。
「ではでは、れっつごー!」
能天気な美月の声が気分をさらに落ち込ませる。
覆面パト内に連行される犯人の心境はこういう心境なのだろうか……。
◇ ◆ ◇
── クラスを見渡せば何人かは必ずいるはずだ。
“ 男の中にいればまったく平気なのに、女の前だと途端にグダグダになる奴 ”。
俺はまさにこのタイプだ。
…………って自分で言ってて情けねぇな。
仲間の一人によく言われているのだが、それでも女が 【 嫌い 】 のカテゴリーに入っていない所がミソなんだそうだ。ほっとけ。
でもその指摘は確かに当たっているのかもしれない。女は嫌いでは無く、あくまで苦手な存在だ。
周囲の奴らには硬派と思われているらしいが、別に硬派を気取っているわけではない。緊張のあまり、単純に女と何を話していいのか分からなくなるだけだ。
だから仲間とつるんでいる時は、極たまにだが冗談も言い、時には突っ込まれ、口下手なりに口数も増えるのだが、自分から女に話しかけることは一切無い。
逆に女から話しかけられると、≪直径十センチ級の特大正露丸≫を思いっ切り噛み潰したようなしかめっ面になっちまう。
女の他に苦手なのはネコだ。
この小動物が苦手なのも、どことなくネコは女っぽいところがあるせいだと思う。ミャア、と可愛らしく鳴かれ、澄んだ目でこっちを見上げてその何ともいえないすべすべした毛並みを身体になすりつけられでもしたら、背中にゾゾォーッと悪寒が走る。
ネコを愛でる気持ち自体はたぶん俺の根底に脈々と流れているとは思うのだが、その上に、
『 悪寒 』
『 動悸 』
『 息切れ 』
『 眩暈 』
『 冷や汗 』
以上の断層が何層にも渡って次々に厚く覆いかぶさっているので、どうしても及び腰になってしまう。
ネコでこれだから女が側にくるとこの症状は更に増し、身体が硬直する。気つけ及び平静を保つ為に、救心一ビンの中身を全部口に放り込みたいくらいだ。
……おい、それよりも美月に怜亜。
お前らが俺を両脇から連行するのはまだ我慢する。耐えてみせる。
だが、だがな! そんなにぐいぐいと身体を押し付けないでくれ! 腕にな、お前らの片胸が時々当たってきやがるんだっての!
しかしそんな俺の内心の叫びを知ってか知らずか、美月の奴が、
「う~今日は寒いよねーっ! ねー怜亜、ちゃんとあったかくしてる? 寒かったらさ、柊兵にもっとくっつけばいいよ!」
「えぇっ!」
「じゃっせっかくだからあたしもーっ!」
おいおいおいおいっっ! お前ら待てってッ!
── だが容赦の無いWサンドイッチ攻撃再び。
頬を染めてそっと俺に擦り寄り、腕をさらに絡ませてくる怜亜。
二の腕が鬱血するんじゃねぇかというぐらいの力でしがみついてくる美月。
両腕にでっけぇマシュマロをムギュッと強引に押しつけられたような柔らかい感触がまたしても俺を襲う。
……くそっ、一旦は静まった動悸がまた激しくなってきやがったじゃねぇか!
このままだと次々に襲い掛かる激しい動悸に耐えかねて、その内冗談抜きでぶっ倒れそうな気がする。そんな醜態を晒したら末代までの恥だ。マジで救心が欲しい。今なら一ビン飲み干してみせる。
あぁ畜生、そんなことよりもやっぱり今日もあのおたふく占いが当たりやがったか……。
ミミ・影浦、恐るべし。
……なぁミミさんよ、俺にとっては有難迷惑だが、あんたの恋愛占いとやらがよく当たるのは分かった。大したもんだ。褒めてやる。
だからその占いで教えてくれ。
俺がこの生き地獄から抜け出すには一体どうしたらいいんだ!?