柊兵くんの過激で追憶な週末 <5>
夕闇せまるベンチの後方に細く長く伸びる果歩の影。
小さく揺れている。
微かにだがしゃくりあげる声も聞こえる。
眼鏡を外し、手で顔を覆い、ひっく、ひっく、と両方の瞳から大粒の涙を零し、だがそれでも懸命に泣くのを堪えようと努力しているその姿が痛々しくて、それ以上側に近づけなかった。
眼鏡を外したせいでますます怜亜そっくりに見える。
……いや、もう今の俺には目の前ですすり泣くこの小さな女が怜亜本人にしか見えない。
それぐらい今のこの光景はあの時の光景とよく似ていた。
悔恨の情にかられ、苦い記憶が脳裏に甦る。
……あれは小学六年の修学旅行直前に怜亜が発作を起こした次の日の出来事だった。
出発を明日に控え、怜亜は昼過ぎに学校に出てきた。
「美月、柊ちゃん、ヒデちゃん」
怜亜は笑っていた。笑いながら言った。
「あのね、お医者さんが今回は大事をとって修学旅行に行かないほうがいいっていうの。だから私は修学旅行に行けなくなっちゃった。だから明日からみんなで旅行を楽しんできてね」
「う、うそでしょ、怜亜?」
一緒に行けると思っていた親友が急に行けなくなり、それを信じたくない美月の顔が大きな驚きの後に歪む。今にも泣きだしそうな美月に怜亜は優しく言った。
「私の分まで楽しんできて美月。そして帰ってきたらいっぱい修学旅行の話をして。私も行った気持ちになれるように。……ね?」
美月は泣くのを堪えて何度も頷く。
俺とヒデも旅行先で面白いネタがあったら怜亜に一番に教えようと誓い合う。
── その日、怜亜は「図書室に用があるから」と言い、俺達に先に帰るよう促した。
「皆が旅行に行っている最中、退屈になると思うから本をたくさん借りようと思って」
俺達も付き合うと言ったが、怜亜に頑なに拒まれた。
「皆は旅行の最終準備があるでしょ? 早く帰って準備して。じゃあ気をつけて行ってきてねっ」
そう最後に言い残し、怜亜は扉の向こうに一人消えていった。
残された俺達は図書室の前で立ち尽くす。
全員が怜亜の胸中を察していた。だからこそ怜亜をこの場に残して帰りたくなかった。
「……帰るぞ」
だがそう最初に言い出したのは俺だった。
歩き出してすぐにヒデの足音が続く。だが美月がついてくる気配が感じられない。
振り返ると美月はまだ図書室の前で立ち尽くしていた。
「美月!」
俺の声はガランとした廊下を向う端まで突き抜け、そのルート上にあった美月の体を貫く。美月の体がビクンと震えた。
「行くぞ!」
「う、うん」
俺の催促で石化が解けたのかようやく美月もその場から離れた。美月は途中で何度も何度も後ろを振り返っていたが、俺もヒデも敢えて何も言わなかった。
その後、校門を出た俺らに会話は一切無かった。
ただ黙々と歩き、それぞれの家路への分岐点に近づくと「じゃあな」「じゃあね」とだけ声をかけあって別れた。誰も「明日な」とは言わなかった。
しかし美月やヒデと別れた後、俺はすぐに踵を返した。走って学校に戻り、真っ直ぐに図書室に向かう。
人気のほとんど無くなっていた廊下には古びた幽霊屋敷のような空気が漂っていた。そのせいなのか、知らず知らずのうちに足音を殺し、気配を消して廊下を進む。
図書室に着いた俺はゆっくりと扉を開けて中を覗いた。
中には怜亜以外誰もいなかった。
…………泣いていた。俺の予想通り怜亜は泣いていた。
思えばこの頃から悪い予感はよく当たっていたんだ。
窓際の机に突っ伏している怜亜の小さな背中が、窓から差し込む燃え上がるような紅い夕陽で朱に染まっている。
かすかな泣き声に引き寄せられるように足音を立てずに室内に入り、すすり泣いている怜亜の前に立った。
俺の背が夕陽を遮り、自分の周囲が急に暗くなったことに気付いた怜亜が涙で濡れた顔を上げる。目の前に俺がいたので怜亜の顔が驚愕の表情に変わった。
柊ちゃん、とその唇から小さく涙声が漏れる。
でも俺は。
ただ怜亜の顔を見つめるだけでなんの言葉もかけてやれなかった。
慰めの言葉も、
労わりの言葉も、
何も、何一つも思いつかなかった。
それならせめて元気を出せ、というメッセージ代わりに頭を撫でてやるぐらいのことをしてやりたかったが、それも気恥ずかしくて出来なかった。
ただ黙って見つめるだけの俺としばらく目を合わせていた怜亜が急にまた机に突っ伏する。そして今度は大声で泣き出した。
その胸が張り裂けるような大きな泣き声はあまりにも切なくて、痛々しくて、堪えきれない辛さが伝わってきて、聞いていると逃げ出したくなるようないたたまれない泣き声だった。だがそうさせてしまったのは俺だ。
……結局、あの時の俺の行動はただ悪戯に怜亜を更に悲しい気持ちにさせただけだった。より深い絶望の淵に落としてしまっただけだった。
それが今でも俺の中でこんなにも尾を引いている。
現在目の前で声を殺して泣いている果歩の姿を怜亜に勝手にオーバーラップしている俺は、その思いを苦々しく噛み締めていた。
果歩はまだ泣き続けている。
ゆっくりと側に近づき、缶をベンチの端に置くと隣に座る。
顔を手で覆っていたが、気配で俺が戻ってきたことに気付いた果歩の体がピクン、と反応した。
もう泣くな怜亜……いや、果歩。お前らが泣いているのを見ると、マジで辛い。
手を伸ばし、果歩の小さな頭を優しく撫でてみる。
……だがこれは果歩の為じゃない。
当時の俺が怜亜にしたかったことを、今の俺が果歩を代役にして勝手にやっているだけなんだ。自分が楽になりたい、ただそれだけの為に。
「柊ちゃん……」
いきなり頭を撫でられたので果歩が両手を外し、驚いた目で俺を見る。
……悪ィ、子供をあやすみたいなこんな撫で方じゃ、お前の自尊心を傷つけちまったかもしれねぇな。
「ふぇぇ……っん……」
果歩の目にまた大粒の涙が浮かんでくる。
よし分かった。
好きなだけ泣け、果歩。
気が済むまで泣いていい。泣き終わるまでずっと側にいてやるから。
今日一日が完全に潰れてしまったが、俺はもうそんなことはどうでもよくなっていた。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
軽く三十分は泣いていたな。
「ご迷惑かけてすみませんでした……」
ようやく涙が枯れた果歩が俺に丁寧に頭を下げた。可哀想に、完全に鼻声になっちまってる。
「気を落とすな。世の中いい男は一杯いる。お前は可愛いから大丈夫だ」
と口下手な俺なりに精一杯慰めてみる。怜亜の時もこんな風に何か言葉をかけてやりたかった、と強く思いながら。
俺に可愛いと言われ、眼鏡をかけようとしていた果歩の頬がみるみるうちに赤くなる。
「あ、ありがとうございます……。しゅ、柊ちゃんってそういうお世辞が言えるんですね、ちょっと意外でした……」
お世辞だと? いや果歩それは違う、と否定しようとしたが、
「あ、あの、柊ちゃんっ!」
果歩はベンチの上で俺に大きく身体を向けると勢い込んで捲くし立ててきた。
「あのっ、すっごく、すっごく失礼なことだとは思うんですけど、これを貰ってくれませんか!?」
顔の前に本来は別の男に渡されるはずだった包みが差し出された。
返品すればいいだろ、という言葉が喉元まで出掛かったが、果歩の気持ちを考えるとそれは言い出せなかった。
「お店に返すのも、お店の人に迷惑かけちゃうからしたくないし、でもこのまま捨てちゃうのも服が可哀想だから……」
果歩の声のトーンがまた沈む。
だがそれを振り切るように果歩は俺に再度強く懇願する。
「だからお願いです! これ、柊ちゃんが貰って下さい!」
果歩が思い切り抱えこんだせいで、たくさんの折り皺がついてしまった青色の包み紙をしばらく眺める。果歩の受けたショックがこの折り皺の一つ一つに分散されている。
「お願いです!」
果歩の必死な声が俺を突き動かした。
「……本当に俺が貰っちまっていいのか?」
「はい! 服も喜びます!」
「分かった。じゃあ今着る」
「エッ!? 今着るんですか!?」
「あぁ。開けてくれ」
ここで完全に気持ちの踏ん切りをつけさせるために敢えて俺はそう言った。
俺が包みを開けるのではなく、果歩に開けさせようとしているのもそのせいだ。
包みを裏返し、果歩は少しの間だけそれを見つめていた。やがて店名入りのテープを小さな爪で剥がし出す。
そうだ、それでいい。そして今日限りで忘れちまえ。
中からプラム色のモックニットが出てくる。ベロアシャツを脱ぎ、代わりにモックニットを着ると、上半身はカーキからプラムの色に変わった。
「あ、柊ちゃんってこの色もよく似合いますね!」
「そうか?」
果歩にはそう言ったが、実は俺も内心この色は悪くない、と思った。プラムなんて今まで選ぶ色ではなかったが着てみるとまた違うもんだな。
外はかなり暗くなってきている。
携帯電話を取り出し、ディスプレイに目をやると時刻は午後五時半になろうとしていた。
「もうこんな時間か……。果歩、お前今日俺の所に行くって誰かに言ってきたか?」
果歩が首を横に振る。
「じゃあ心配しているとまずいから連絡入れろ。これから帰るからって。ほら」
携帯を手渡す。果歩は「すみません、お借りします」と言うと、おとなしく電話をかけ始めた。
「もしもし……あ、お姉ちゃん? うん。私。…………ごめんなさい……。うん、うん……ごめんなさい……」
怜亜が心配していたのだろう。怒られているようだ。あのおとなしい怜亜がどうやって果歩を叱っているのか興味が湧いた。
「うん……。え? あ、あの、その、え、駅前。……うぅん、一人じゃない。えっとその……今は公園にいて……」
果歩は言いにくそうに言葉を濁している。あの五十嵐という教師との今回の一件は言いたくないのだろう。「貸せ」と言い、俺は果歩から携帯を取り上げた。
「怜亜か?」
「え……? 柊ちゃん?」
携帯の向こう側から驚いた声が聞こえてくる。
「あぁそうだ」
「どうして柊ちゃんが果歩と一緒にいるの?」
「今日俺が駅前でぶらぶらしていたら果歩とばったり会ってな、ヒマだったからそのままあちこち連れ回しちまったんだ。こんな時間まで連絡入れなくて悪かった。俺が全部悪い。叱るなら俺を叱れ。それでこれから家までちゃんと果歩を送るから心配すんな」
「そうだったの……。ごめんね柊ちゃん、果歩が迷惑かけちゃったんじゃない?」
「いや、全然だ」
すると不意に怜亜がくすくすと笑い出す声が聞こえてくる。
「柊ちゃん、果歩とどこでデートをしたの?」
「……まぁ色々だ」
「今度は美月と私も連れて行ってね!」
おいそんな気軽に言うな。返事に詰まっちまう。
「と、とにかくこれから果歩を送っていくからな」
「うん。ありがとう柊ちゃん。じゃあ待ってるね」
「あぁ。じゃあな」
携帯を切ると果歩が唖然とした顔で俺を見ている。
「ど、どうしてですか柊ちゃん……? 柊ちゃんは何も悪くないのに『俺が悪い』って……」
「あぁいいんだ。そういう事にしとけ。怒られるのは一人でいいだろ」
「で、でも怒られるなら私です」
「いや、いい。果歩からこれも貰ったしな」
と言いつつ今着ている服に俺が一瞬目を落とした瞬間、
「柊ちゃんっ!」
と再び瞳を潤ませて果歩が俺の首っ玉にかじりついてくる。
「柊ちゃん! 私っ、お姉ちゃんが柊ちゃんを大好きなの、今日一日で本当に、本っ当によく分かりましたっ!!」
薄暗い公園に涙の乾いた果歩のでっかい声が響く。
姉さんに似てお前も結構切り替えが早いんだな。でも今はそれでいい。
「よし、帰るぞ」
ベンチから立ち上がり、暮れ始めた歩き出す。
何気なく紅い夕空を見上げると、ついこの間の時と同じように白い光を強く滲ませて浮かぶ一番星を見つけた。
── もし、今日『モーニング・スクランブル』が放映されていて、
あのおたふく&おかめコンビが今日の運勢を発表していたとしたら――。
ふとそんな事を考えた。
もしそうならTVから流れるBGMはたぶん運命ではなかったはずだ。
そんなほぼ確信に近い予感が俺の胸の中をよぎっていった。