柊兵くんの過激で追憶な週末 <3>
一夜が明け、昨日美月から受けたダメージも回復の兆しを見せてきた。
外も晴れているし、今日こそは駅前でもぶらつこう。そう決めた。
昼飯を食い終わった後、再び支度をする。
今日は何を着ていくか考えていると、また来客が来ている気配がした。昨日といい、珍しく今週は訪問者が多い。
カーキ色のベロアシャツを身につけ、携帯電話と財布を手にする。そして出かけようと部屋の扉を開けた途端にゴン、という鈍い音が響いた。
「いったぁ~い……」
驚いた。
見知らぬ女が廊下で頭を押さえていたのだ。
丸い眼鏡をかけ、萌黄色のワンピースに白のカーディガンを羽織ったミディアムヘアの小柄な女。見覚えは無かった。
だが妙な既視感を感じるのは何故だろう?
俺が開けた扉に頭をぶつけた衝撃で眼鏡がずれてしまっているこの女の顔を凝視してみた。
「あ、あの、こんにちは。お久しぶりです……」
丁寧にペコンとお辞儀をされたが、駄目だ。相変わらず思いだせない。
……でもなぜこんなにもこいつに懐かしさを感じるんだ?
「お前、誰だ?」
「あ、あの、私、森口果歩です。覚えてないですか……?」
「お前、果歩かっ!?」
名前を言われてようやく思い出した。
果歩は怜亜の四つ下の妹だ。……とすると今は十二歳か。大きくなったな。
そういや、よく見てみると小学生の時の怜亜によく似ている。眼鏡をかけてはいるが、体つきの細い所や、大きな黒目がちの瞳なんかそっくりだった。
その果歩が眼鏡の奥の瞳をうるうると潤ませながら俺に向かって両手を組む。その表情はこれ以上ないくらいの真剣さに満ちていた。
「あ、あの……、じ、実は、柊ちゃんにお願いがあって来たんですっ」
── おいおい、四つも下の果歩に「柊ちゃん」なんて呼ばれちまったぞ……。
そういえば昔から怜亜が俺の事を「柊ちゃん」と呼ぶから、小さい果歩も真似してそう呼んでいたっけなぁ。
「お願い?」
オウム返しに答えると果歩がコクリと首を縦に振る。そして眼鏡をそっと元の位置に押し上げながらもじもじと体を動かし始めた。
……しかし動きまでも姉にそっくりなんだな、お前……。しゃあない、とりあえず中に入れるか。
「今出かける所だったんだけど、まぁいいや。入れよ」
「は、はいっ。失礼します」
果歩は遠慮がちに部屋に入って来たが、途中で急に足取りを速めて吸い寄せられるように本棚の前に行っちまった。
「わぁ~、本がいっぱいある!」
熱心に上段から順に本の背表紙を見始めた果歩を俺は後ろから黙って見ていた。
小さな頭が忙しく何度も左右を行き交う。どうやら本が好きらしいな。
「柊ちゃんの読むジャンルって随分多岐に渡ってるんですね!」
「そうか?」
「はい! もうちょっと見てもいいですか?」
「あ、あぁ」
……そう返事はしたが、もし万一、本棚の一番下にあるアルバムに果歩が手をかけたら話は別になる。あの奥には昨日美月に見つかった例の写真集が潜んでいるからな。小学生の果歩には見せられねぇ。
だからもし果歩がその禁断の場所に手を伸ばそうとした場合、後ろから羽交い絞めにして場合によってはそのまま床に組み伏せ、それを断固阻止しなければならん。
俺がそんな危険なラフファイトの決意を固めているとはいざ知らず、果歩は目を輝かせながら本棚に収めてある本のタイトルを読み上げだした。
「えっと、『戦う身体の作り方』に『筋力アップ・トレーニング法』、『灼熱の烈風ファイター』……、そうか、この段は全部格闘技系のご本なんですね。じゃあこっちの段は……」
小さい頭が隣の棚に移動する。
「『ブルースギターコード・おいしいフレーズ特集』、『ザ・ロック・ラプソディ』……、あ、分かりました! ここは音楽関係のご本の段ですね? そして次の段が………エッ?」
驚いた果歩の声が一オクターブ上がる。
「『意外と知らないはず、葬儀のマナーってものを』、『やり直せないから後悔しない遺言書を作ろうよ』、『住宅ローンをゼロに! 借り換えないのはバカで負け組』? ……柊ちゃんってこういう世界にも興味があるんですか?」
「そ、それはだな……」
言い訳をしようと思ったが、その小柄な体をさらに小さくかがめて果歩が本棚の中段を深々と覗き込む。
「それにこの、『もう一つのアジアの夜・魅惑のムーディナイト』ってなんだか面白いタイトルですね」
── あ?
『もう一つのアジアの夜・魅惑のムーディナイト』?
それ、読んだ覚えがねぇな……。
俺がそう考えている間に果歩はその本を手に取ってしまった。そして中を見て絶句している。
取り出されたそのカバーを見て、その本がどういう本なのかを思い出した。
「そ、それは、俺の本じゃないぞ! 親父のだ! ついでに葬儀関係の本の辺りも全部そうだからな!?」
すると果歩は強張った顔をわずかに俺の方に向けて聞き返してきた。
「で、でも、この本がこうやってここにあるってことは、柊ちゃんもこれに興味があったからおじさんの所から持ってきたってことですよね?」
くっ……果歩の奴、痛いところを突いてきやがる……。
果歩が今開いている本は、あっちの国の、まぁ、その、なんだ、男が遊びに行く夜のスポットを分かりやすく紹介してある本だ。女の顔写真とか、店の場所とか、明快な料金体系とかな。
勤続二十五年祝いだか何だかで、会社が旅費を持ち、親父は去年アジアに三泊四日で旅行をしてきた。その旅行準備期間中に親父が大量に買い込んできた旅行書の中の一冊がこれだ。
艶っぽい題名と、中に綺麗な女がたくさん載っていたので目の保養になるかと親父の本棚から持ち出してはきたが、結局ろくに中を見ずにそのままそこに置きっぱなしにしていた本だ。
「ほとんど見てねぇよ、そんな本!」
「で、でもあちこちにいっぱい折り目がついてますけど……」
「それは俺じゃなくて親父だ!!」
── おい、親父、随分その本を熟読したらしいな……。
「この中の女の人達、みんな綺麗な人ばっかりですよね。そっか、おじさんはこういうタイプの女性の方がお好きなのですか……」
中のページに目を戻し、果歩が呟く。
エロ本と違い、夜のスポットをただ紹介してあるだけなのでたぶん際どい写真は一つも載っていないはずだ。中に書かれてあるサービス内容や料金体系の意味は果歩にはまだ分からないだろう。それでも小学六年の果歩には充分妖しげで刺激的な本に見えているんだろうな。もし果歩に昨日美月に見つかったあの写真集を見せたら卒倒するかもしれん。
「い、いいからその本、早くしまえ」
「は、はい。あれっ、こっちの段にあるこの厚い本も変わってる……。えっと、『 愛と幸せに満ちた惑星の上で 』……これって星占いの本ですよね?」
── ヤバいっ! それはあのチビ女に強引に押し付けられた本だ!
捨てちまおうかと思ったが面倒で結局その本棚に突っ込んでおいたんだった!
「柊ちゃんって星占いにも興味があるんですか……?」
俺を見る果歩の視線が明らかに変わっている。
ど、どうする!?
し、仕方がない、ここは我が身を守るためにスケープゴート作戦でいくしかねぇっ!
「そっ、それも俺の本じゃねぇっ! お、親父のだ!」
「えぇーっ!? これもおじさんの本なんですかっ!?」
「そ、そうだ! 親父の本棚が一杯だからそこに突っ込んでるだけだ!」
呆然とした顔で果歩がミミの本に目を落とす。
「柊ちゃんのおじさんがこんな本まで…………!」
済まん、親父……!
俺は贖罪の羊となっちまった親父に内心で手を合わす。
たぶん果歩の持つ親父のイメージは今日で大きく変わっちまったはずだ。
必死に住宅ローンの返済を終えた後、後腐れ無く黄泉へ旅立つ為に遺言書を作成する責任感のある男かと思いきや、夜が更ければ妖しげなスポットで艶めかしい女達を侍らせる煩悩の固まりと化し、しかしなぜかその一方では輝く星々に己の運命を重ね合わせる可憐な乙女心も有しているという、意味不明の変態親父のイメージがついちまったに違いない。
もうこれ以上は心臓に悪い。それに果歩に見られたくない本もまだ数冊ある。よって即刻、果歩の行為を止めさせることにした。果歩の手からミミの本を取り上げて乱暴に棚に戻し、要件を再度尋ねる。
「果歩。そんなことよりさっき言っていたお願いってなんだよ?」
すると急に果歩の顔がタコのように真っ赤になった。そしてすがるような目で俺を見る。
「あ、あのですね、今の私には柊ちゃんしか頼れる男性の方がいないんです! 柊ちゃんを頼れる男性と見込んで是非にお願いしたいんです!」
「だから何をだよ?」
「あ、あの、ふ、服を買いに行くのに付き合って欲しいんです……!」
「服? お前の服をか?」
「違います! だ、男性のです。ブランド名は……」
果歩が口にしたそのメンズブランドは俺も知っていた。
二十代半ば以降がターゲットのブランドで、メンズ雑誌にもよく取り上げられている。
「で、その服を買ってどうすんだよ?」
すると果歩の顔がますますタコ化し、さすがに俺も気付いた。
そうか、果歩の奴、それを好きな男にやろうとしてるんだな。
「……誰かにやるつもりか」
「は、はい」
「相手は誰だよ」
「た、担任の五十嵐先生ですっ」
担任か……。
その相手が変なオヤジだったりするのなら協力はできねぇと思ったが、一体幾つ離れてるんだ? かなり無謀だと思うんだがな……。
「そいつ、独身か?」
「も、もちろんですっ! 当たり前じゃないですか!」
何を言い出すのかと言わんばかりの勢いで果歩が俺に噛み付く。
しかしこれから協力を仰ごうとしている相手だということを思い出したのか、慌てて口をつぐんだ。
「ダ、ダメですか、柊ちゃん?」
俺が黙り込んだので果歩がおずおずと確認してくる。
「いや別にヒマだから付き合っても構わないけどよ」
「本当ですか!?」
果歩の声が弾む。
「あぁ良かった……。一人でお店に行く勇気も無いし、かといって他に頼れる男の人もいないし、困ってたんです! 柊ちゃんは先週発作を起こしかけたお姉ちゃんを家にまで運んでくれたんですよね? お姉ちゃんにその事を後から聞いて、すぐ側に頼れる人がいたって気付いたんです!」
俺が買い物に付き合うのをOKしたせいで果歩は急に饒舌になった。よっぽど悲壮な決意で俺の所に来たんだな。
「そうだ! 柊ちゃん、あの晩にお姉ちゃんが言ってましたよ! 柊ちゃんにはいつも色々助けてもらったり、優しくしてもらったりしているの、だから私は柊ちゃんが大好きで、柊ちゃんしか見えてないのよ、って! …………あれっ、どうかしました?」
俺が顔を背けたので果歩がそう尋ねてくる。
「……なんでもねぇ」
妙に照れくさい。
今の果歩を見ているとなんだか小学生時代の怜亜に告白されているような気分になっちまった。
「じゃあさっさと行くぞ」
「はいっ!」
果歩の行きたい店も駅前にあるらしいからちょうどいい。こいつの買い物に付き合った後、そのままそこで別れよう。そう考えながら俺は果歩を連れて一階へと降りた。