訪れた二者択一 【後編】
「怜亜、お前は来なくてもいい。伝染るとヤバいし、寒いから教室に戻ってろ」
美月を背負い直した後、肩越しに振り返り、そう告げる。だが怜亜は強く首を横に振った。
「ううん、行く! だって美月のお母さんに連絡しなくちゃいけないし」
あぁそうか……。なら仕方ねぇか。
「どこの病院に行けばいいんだ?」
「ここから一番近いのって向坂病院じゃない?」
「げ、あそこのヤブか」
「何言ってるの。私達小さい頃は病気になったらみんな向坂先生の病院にお世話になっていたじゃない」
「でも多分もう相当の年だぜ、あの爺さん。美月の診察中にそのままポックリ逝ったら洒落になんねぇぞ」
「もう柊ちゃんたら……。失礼よ、そんな事言っちゃ」
一応俺をたしなめはしたが、怜亜自身も不安になったのだろう。その場で少し考えている。
「でも大きな病院だと待ち時間が長そうだし……。早く美月を診てもらいたいからやっぱり向坂先生の所にしましょ。ね、柊ちゃん?」
「分かった」
そうと決まればもう迷わない。美月を背負って小走りで駈け出す。
はぁはぁと背中から断続的に聞こえてくる美月のくぐもった吐息が胸を締めつけた。
もうちょいだからな、頑張れよ、美月……!
「しゅ、柊ちゃん」
数分後、後ろから俺の後を追って走っていた怜亜が息を切らせて足を止めたので、俺も立ち止まった。
「私走るの遅いから、柊ちゃん先に行って。早く美月を連れてってあげて。私も後から行くから」
「分かった。じゃ先に行ってるぞ」
怜亜がそう言い出してくれて助かった。正直もう少し早く走りたかったところだ。
その場に怜亜を残し、走り出す。
角を二度曲がった後、病院まではずっと登りの坂道だったが、スピードを落とさずに登りきる。さすがに少々息が切れた。
やがて坂の向こう側に病院の看板が見えてくる。
「美月、病院に着いたぞ!」
そう声をかけたがやはり背中から返事は戻ってこなかった。
坂を登りきってすぐの場所にある「向坂病院」と看板のある小さな個人病院に駆け込む。待合室にいるのは老人ばかりで、病院独特の消毒薬系の匂いが鼻をついた。健康優良児の俺には少々苦手な匂いだ。
受付に走り寄ろうとしたその時、診察室から出てきた鬼瓦を顔面にベタリと貼り付けたかのような形相の桑原婦長に出くわす。
おい、まだいたのかこの婦長……!
美月を背負い、スリッパも履かずに中に飛び込んで来た俺をみて鬼瓦は状況を察したようだ。女とは到底思えぬドスの利いた声で「急患かい?」と尋ねてくる。
「あぁ。インフルエンザかもしれないって保健の教師が言ってた」
「そりゃマズいね。婆さん達に感染したら大変だ。こっちに連れておいで」
お前も婆さんだろ、と内心でツッコみつつ、後に続く。
小さなベッドが一つだけある隔離スペースに俺らを迅速に誘導すると、鬼瓦は次の命令を下した。
「さっさとそこのベッドに下ろしな」
……なんつー言い草だ。本当にこいつは看護師か。
海賊船の鬼船長にこき使われている愚鈍な手下のような心境になる。とにかく言われた通りに美月をゆっくりと下ろし、ベッドに横たわらせた。
マスクをつけ、目を閉じ、意思の無い人形のような状態の美月。
爆弾みたいにうるせぇ、いつもの元気な様子は微塵も感じられない。まるで別人のようだ。
フフンフンフン、と気色の悪いフシをつけながら鬼瓦は手馴れた様子で美月のカーディガンを脱がし始め、俺を相手に愚痴りだした。おかげで隔離室から出て行きそびれる。
「しかし今時の娘は本当に発育がいいねぇ……。あんたもそう思わないかい? もし私らの若い頃にこんなでかい胸の娘がいたら目立って目立ってしょうがなかったろうよ。サラシは必需品だったろうね。…………どぉっこらしょぉぉっと!」
うぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?
鬼瓦の渾身の気合と共に美月のシャツが大きく開けられた。
目に飛び込んできたそれを見て、真っ先に思いついたのは、恭しい桐の箱に入れられたマスクメロン二玉。推定だがサイズはたぶん2~3Lクラスに相当するに違いない。
美月はどうやら着やせするタイプらしく、肉眼で見たその贈答用の肌色メロンは俺が予想していたよりもさらに大きかった。
…………どうでもいいがここに救心は置いてあるか?
鬼瓦がいるので何とか必死に平静を装っているが、そろそろMy心臓がデッドライン限界だ。向坂のジジィの前に俺がポックリ逝ってどうする。
「今先生を呼んで内診してもらうからあんたはもう出ておいき。急患を運んできた苦労に免じて特別にここまではサービスで見せてやったんだからありがたく思うんだね。このままそこでこの娘っ子の診察を見たいんだろうがそうは問屋が下ろさないよ。ヒヒッ」
振り返った鬼瓦が魔女のような笑い声を上げてニタァ、と笑う。
……チッ、胸クソ悪ィ! てめぇの胸でもねぇくせに何がサービスで見せてやっただ!
「だっ誰が見たいか!」
「ハッ、本当は見たくてたまらんくせにやせ我慢すんじゃないよ。あたしはちゃーんと分かってるんだ。お前ぐらいの年の男の頭ん中は、四六時中夢の中でも女の乳のことしか考えてないもんさ。そういうもんさね」
勝ち誇ったようなその顔に向かって、「このくそババァ!」と叫びたいのを何とか飲み込む。このババァ婦長の恐ろしさを子供の時からよく知っているからだ。
この鬼瓦顔でニヤリと不気味に笑い、
「ヒヒヒッ、クソ坊主、覚悟はいいかい……?」
と、太い注射器片手にペタペタとナースサンダルを鳴らしてにじり寄ってくる当時の姿は、幼い頃テレビで見た、唸るチェーンソーを手にしたあの殺人鬼と真正面からタメを張るぐらいの強烈なインパクトだった。思えばよくトラウマにならなかったもんだ。
しかし一方の鬼瓦は俺のことを全然覚えていないようだ。そういや最近病院の世話になったことなんてねぇしな。
「桑原さん、急患はこっちかい?」
カーテンが揺れ、その隙間から向坂のジジィがふらふらと現れた。頭髪は真っ白で身長は昔に比べて十センチ以上小さくなっている。
チッ、思ってた以上によぼよぼしてやがる……。こんな老いぼれに美月を任せて大丈夫か?
「この娘っ子ですよ」
と鬼瓦に言われ、ジジィはベッドに目をやった。
「おぉ!」
ジジィがベッドに寝かされた美月を見るなり感嘆の声を上げる。
そして感動なのか老衰なのかは知らねぇが、ふるふると震えながら「ごっつぁんです」と美月の胸の上で中央、右、左、と続けざまに手刀を切った。………おい! なに考えてんだ、このくそジジィ!
しかしジジィは相変わらず「こいつは見事だ。生きててよかった」と手刀を繰り返している。
いっそのこと俺がこの場でジジィを冥土に送ってやろうかと思ったが、鬼瓦に急き立てられた。
「さぁさぁ部外者はあっちの待合室でおとなしく待っといで。それとこれをお履き」
ババァのくせにぐいぐいと凄まじい力で背中を押され、鬼瓦の言う通りに渡されたスリッパを履くと美月を隔離室に残して待合室に戻ることにする。
……まぁとにかくこれで俺の役目は無事に終わったな。
暇になったのですぐ横にあったマガジンラックから週刊誌を取り出し、長椅子に腰をかけてパラパラと眺め出す。そろそろ怜亜も来る頃だろう。
二十分後、入り口のガラス扉がキィと開く音がした。怜亜が来たか。
しかし入ってきたのは怜亜ではなかった。でも見知った顔だった。
慌てたようにガラス扉を押して入って来たのは美月の母親だ。久しぶりに見たな。手に保険証を持っているところを見ると、あの後怜亜がまた連絡を入れたのだろう。看護師の誘導で隔離室の中へと消えて行く。
よし、これで美月はもう大丈夫だな。良かったな美月、ゆっくり休め。
そう思いながら再び雑誌に視線を落とそうとして気付いた。
……しかしそれにしても怜亜、遅くねぇか?
学校からここまでは大して遠くない距離だ。事実、俺はすぐに着いたしな。
美月の家に連絡を入れていたとしてももうとっくに来てもいい頃だ。第一、美月の母親はもうここに来ている……。
「!!」
一筋の戦慄が背中を走り抜ける。顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。こんなに焦燥感が湧き起こるのはいつ以来だ!?
雑誌を横に投げ捨てて長椅子から立ち上りダッシュしようとした瞬間、左膝をマガジンラックにぶつけたせいでそいつは騒々しい音を立てて派手に倒れる。その拍子に綺麗に陳列されていた様々な種類の雑誌が我先にと飛び出し、待合室の中に大雪崩のように散っていく様はかなりの圧巻だった。
一瞬足を止め、どうしようか考えたが、結局すぐに身を翻して玄関へと走る。
「こっこらあっ! このクソ坊主──ッ! ちゃんと元に戻してお行き──っ!」
後ろで鬼瓦が憤激しているダミ声が聞こえたが、構わずに病院を飛び出した。
まさか…………っ!
予知能力なんてものは一切持ち合わせてはいないが、嫌なことに悪い予感だけは昔からよく当たる方だ。この感が当たってないように、と必死で祈りながら俺は今来た道を全力で戻り出した。
長い坂を下り切ってもまだ怜亜の姿は見えない。焦りがより一層増す。更に走る。必死に走る。次の角を右に曲がった。
「…………怜亜ッ!」
くそっ、やっぱり悪い予感が当たりやがった!!
「おいっ怜亜っ! 大丈夫か!?」
人気の無い細い路地。
大量のピンクチラシと賃貸物件情報がベタベタ張られた電柱に身を寄り掛かからせ、うずくまっている怜亜の姿が目に飛び込んできた。
── 十月間近、秋から冬への季節の変わり目、この底冷えする外気温と、乾燥した湿度、そして急激な運動……! 畜生ッ、俺の馬鹿野郎! 何故もっと早く気付かなかったんだ!
側に駆け寄り、もう一度怜亜の名を呼ぶ。
「だ、大丈夫よ、柊ちゃん……。もう治まったから……」
俺の顔を見上げて怜亜が無理に微笑む。その弱々しい笑顔に自分を殴りつけたくなった。
―― 軽度ではあるが怜亜はたまに喘息の発作を起こす。
小学生の時、目の前で発作を起こした怜亜を初めて見たあの時の衝撃はまだこの脳裏に鮮明に残っている。背中を大きく波打たせ、首を絞められた狼の遠吠えのようにヒューヒューと喘鳴を続ける、苦しそうなその発作に遭遇した俺達にしてやれることは何も無かった。
全長十センチほどの緑色の容器に詰められた気管支拡張剤。悔しいがあの薬剤だけが、当時の怜亜を呼吸困難から救う唯一の主役だった。こいつを噴霧した後、ケロリとした顔で微笑んだ怜亜を見て子供心にホッとしたことをまだ覚えている。
今、怜亜の手の中にあの用具がないかを俺は無意識に探していた。しかし見当たらない。今は持ち歩いていないのか?
もう症状はだいぶ落ち着いているようだが、地面に片膝を着き、小さな背中をさすってやる。昔発作を起こす度に俺達が代わる代わるやっていたように。
「ちょっと待ってろ」
角を曲がる前にあった大きめの自販機に駆け戻る。
良かった、水があった。
本当は白湯があれば一番いいのだが、この状況では白湯をすぐに手に入れるのは難しい。エビアン水を買うと怜亜の所に戻り、差し出す。
「飲め」
「ありがと、柊ちゃん……」
コクン、コクン、と少しずつ水を飲み込む怜亜を見て、やっと俺も落ち着いてきた。
「寒い空気の中を走ったからきっと発作が起きそうになったんだな……」
「ん……そうかもしれない。でもここしばらく発作は起こしてないのよ? 中学の時に一度だけ。その後は無いわ」
「……怜亜ももう今日は家に帰れ。送ってやるから」
「でも美月と私のバッグ、学校に置いたままだし……」
「後で俺が届けてやるから。ほら」
「え?」
しゃがんで背中を向けた俺に怜亜は目を見開いている。
「背負ってやるから早く乗れ」
「ううん、いい! だ、だってもう治まったから。大丈夫、自分で歩けるわ」
「いいから早くしろ」
「で、でも柊ちゃん……」
「いいから乗れって」
「…………」
だがこれだけ再三言っても怜亜の奴は俺の背に乗ろうとはしない。恐らく俺に迷惑をかけたくないと思っているのだろう。
まったくよ……本当に変わってねぇな。遠慮のしすぎだ。こういう時何事にも常に一歩引いちまう、控えめなこいつの性格に苛立つ。でもどうすればいいんだ?
普段はサボりっぱなしの怠惰な脳細胞に渇を入れる。するとその衝撃で各細胞に積もっていた埃でも吹き飛んだのか、いいアイディアを思いついた。
「いいから従えっ! これは “ 王様の命令 ” だっ!」
通りに俺の怒声が響き渡る。強い口調でそう叫んだ瞬間、怜亜の表情にハッと驚きの色が浮かんだのを俺は見逃がさなかった。すかさず畳み掛ける。
「まだ覚えてるな!? あの時の命令権を今使う! 拒否は許さん!」
「で、でも柊ちゃん……」
「うるせぇ! 命令だ! さっさと乗れ!」
「は、はい……」
もじもじしながら立ち上がるとようやく怜亜はおずおずと俺の背中にもたれかかってくる。
「立つぞ」
ゆっくりと立ち上がった。
つい先ほど美月を背負った時その軽さに驚いたが、怜亜はさらに軽かった。怜亜から漂う香水か何かのいい匂いが俺の身体を包み込む。
「柊ちゃん、ごめんね。迷惑かけて……」
背中から済まなそうな声が聞こえてくる。
やっぱりそう考えていたのか。わざと聞こえない振りをする。
「……懐かしかった。柊ちゃんが今言った王様の命令」
もうあれから四年半も経ったのね、と呟く声が聞こえる。
「ね、柊ちゃん……、私達のクラスの女の子ったらね、柊ちゃんのこと、ケンカ好きな乱暴者で、ぶっきらぼうで、冷たくて怖い人だって言うの。そんなことないのにね。何も知らないのよ。だって柊ちゃんは優しいもん、いつだって」
また俺は聞こえない振りをした。ひたすら黙々と歩く。
「柊ちゃんの背中、とってもあったかい……」
怜亜の片頬が背中に密着したのが分かる。
「……大好き、柊ちゃん…………」
そう呟いた言葉を最後に、しばらく経つと背中からすぅすぅと微かな寝息が聞こえ出した。
……寝ちまったのか。でもな怜亜、頼むから背後でそんな事を囁くな。俺はお前が思ってるようないい奴じゃない。
歩きながらそっと後ろを振り返り、俺に全幅の信頼を寄せながらすやすやと心地良さそうに眠っている無邪気な寝顔をしばらく眺める。…………ったく幸せそうな顔して寝やがって。
怜亜を家まで届けた後、学校に戻ってこいつらの鞄を持って、もう一度家に行くはめになっちまったな。面倒だが自分で言い出したことだ、仕方ない。
授業はあと一時間で終わりだし、今日はこのままサボッちまおう。
・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・
その後再び学校に戻り、美月と怜亜のスクールバッグを同じ建物内のそれぞれの家に届け、逢魔が時の中を歩いて家路に着く。日が暮れるのが早くなったな。
赤紫のグラデーションに染まった水平線を眺めながらふと思う。
……ミミが占った 【 訪れる二者択一 】 という未来。
あの占いがもし当たっているとしたならば、俺の予想ではたぶんそれは今日のこの出来事なのだろう。
高熱でフラフラの美月を病院に送り届けるのを断ったり、発作を起こしそうになった怜亜を見捨てていれば、俺は数々の悩みから解き放たれ、自由の身になったのかもしれない。
しかし同時に思う。
確かにあいつらに俺は悩まされている。
最近不整脈を打ちっ放しの心臓も正直限界を告げている。
だが、そんな非人道的な真似までしないと得られない自由なのであれば、それならばいっそのこと、俺は今のこの状況を甘んじて受け入れてみよう。その方が数百倍、いや数千倍マシだ。
そう思いながら上空を見上げると、紫の空に浮かぶ星々が「それで正解だ」と言いたげに一瞬強く煌めいたような気がした。