プロローグ - ここから受難は始まった - <1>
── 斜に構えた仏頂面。
── 眉間にくっきりと刻まれた二本の深い立て皺。
……はっきり言おう。今日も俺は機嫌が悪い。
仲間内から最近益々キツくなってきているぞ、とはやし立てられている目つきは確かに一段と鋭さが増しているような気がする。それは不承不承ながら認める。
俺の不機嫌の原因はただ一つ。
それはここ数日欠かさず見るようになってしまった朝の情報番組、『 モーニング・スクランブル 』中に放映される、
【 ミミ・影浦の愛の十二宮図 】 。
こいつが俺の心の平静をいつも乱しやがる元凶だ。
……とはいっても星占いに興味があるわけではない。むしろ占いの類は昔から蛇蝎の如く嫌っている。
“ 自称 ” も含めればそれこそ途方も無い数が存在すると思われる占い師共。
奴さん達は明日やほんの一週間先の近未来から、迷う魂が天に還るまでに辿るであろう遠い未来までを、さも親身になっているような物言いで予言する。
しかし俺はその予言を信じない。
「惑う子羊達の足取りがもう乱れないように」
という大義名分の下、占い師共はカードや水晶などのそれぞれが得意とする手段と千里眼を駆使し、より良い人生を送る為の助言とやらをご大層に指南してきやがる。
俺から見りゃあそんなことは余計な世話だと頭のてっぺんから怒鳴りつけてやりたい助言の数々も、悩める者にとっては遥か先の道筋を煌々と照らし出す、“ 希望 ” という名の灯のついた特大カンテラに見えるらしい。まったくもってアホらしい。
占い師達が言葉巧みに紡ぎ出す予言の数々は確かにもっともらしい響きに聞こえる。
が、考えようによっては何通りかに解釈することの出来てしまうあんなあやふやな言い草を、どうして世間の奴らは簡単に信じ、そしてまたそれを己の未来の糧にしようとすることが出来るのか、まったくもって不思議でならない。
だがいくらそう苦々しく思っていても、こちらにはそれに科学的に反論するだけの確たる物証が無いのが業腹だ。
どっかの科学者がタイムマシンでも実用化してくれればそれで自分の未来を見に行き、
「おい違うじゃねぇか!」
と奴らの胸倉掴んで怒鳴りつけてやることもできるんだがな。
しかし敵も去るもので(いつの間にか敵扱いだが)、
『 限られたデータのみの科学的根拠だけに思考を縛られ、この殺伐とした時代を孤独に生きていくのでしょうか? 一を三で割ることは永久に出来ませんが、一つのお煎餅を人の手で三つに分けることはできるのですよ 』
とすかさず反撃してくる。よく分からねぇが何か頷けるものがその中には確かに存在して、思わず納得してしまいそうになる。
ま、量りで正確に計測すれば手で割ったその煎餅も完全な三等分ではないだろう。
でも確かに三つに分けることは出来、三人の人間に煎餅を与えてやることは出来るもんな。
……ってなんだよ、もしかして俺も結構暗示にかかりやすい型なのか?
── 人は悩みを抱えると何かすがるものが欲しくなる。それはよく分かる。
そしてそれがヘビーな悩みなら悩みであるほど、尚更占いという物に傾倒し、そこに束の間の安寧を求めて疲弊した心を委ねたくなる気持ちも分かるような気がする。
だがそれがあまりにも不確かな予言で本当にいいのかよ、と天邪鬼な俺は思うわけだ。
まぁ俺がいくらこんなにひねくれた考えを持っていても、実際の所「占い」というジャンルはこの荒んだ世の中に、どんな強風でも決して揺らぐ事などのない大木の根っこのようにしっかりと定着、繁栄していやがるし、もちろん需要もある。
年末になれば書店には『来年のなんちゃら星人の未来・丸分かり!』なんていう本がうず高く平積みにされ、それなりにバカスカと売れていくのを目の当たりにする光景はもうお馴染みだ。結局はあちらさんの大勝なんだよな。
……少々、暴言が過ぎただろうか。さて、ここからが本題だ。
これだけ占いの類を馬鹿にしまくっているこの俺が、何故 【 ミミ・影浦の愛の十二宮図 】 を毎朝欠かさずチェックし、しかもその結果に密かに一喜一憂しているのか?
理由は至極単純明快。
── それが異様に当たっちまっているせいだ……。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもんだと苦々しく思う。
原田柊兵、ここで華麗に敗北宣言だ……。