第10話 温度差百六十日(前編)
今回はホット・コールド共感ギャップを扱っています。
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二月の学園には、独特の空気が流れる。
三年生の教室は受験前の張り詰めた静けさに沈み、その一方で、一・二年生の廊下には、そわそわと甘い気配が漂い始める。原因は分かりきっている。廊下の売店にすら特設コーナーができる、あの行事だ。
「バレンタイン企画の申請が購買委員会から来てます。『友チョコ交換用ラッピング資材の臨時販売』。例年通りなら許可でいいと思いますが」
「はい許可。戸井くん、商売上手になったわねえ」
生徒会室では、籠宮 沙知代が鼻歌まじりに決裁印を押していた。受験生のはずだが、この人の辞書に緊張の二文字はないらしい。ちなみに籠宮グループのお嬢様は内部推薦だの何だのの話を全部蹴って一般受験するらしく、それでいて模試の判定は盤石だというのだから、世の中はなんとも不公平である。
と、生徒会室の戸が遠慮がちにノックされた。
「失礼しまーす……あのさ、さっちー、ちょっといい?」
顔を出したのは恵だった。それは別に珍しくない。珍しいのは、その後ろに見知らぬ女子生徒を一人引き連れていたことである。ショートカットの活発そうな子だ。どこかで見た顔だと思ったら、マラソン大会で名前を聞いた記憶があった。二年の真田である。
「うちのクラスの真田さん。ちょっと、相談っていうか……ね?」
「え、あ、うん。……あの、変な相談で、ごめんなさい。生徒会って、その、なんでも解決してくれるって聞いて」
「誰ですか、そんな看板掲げたの」と明。
「巷の評判よ、いいことじゃない」と籠宮。
「で? 何かしら。予算? 部活? 行事?」
真田さんは、しばらく口ごもってから、意を決したように言った。
「告白の返事が、三ヶ月できません」
生徒会室の時間が、二秒ほど止まった。八田の電卓の音だけが少し遅れて止まった。
「はっ?」と八田。
「……………恋愛相談は生徒会の管掌外です」明は即答した。
「色恋沙汰等 プライベートは生徒会の管轄外ですので」
「面白いじゃない、詳しく聞かせてちょうだい」と籠宮が乗り出す。
「会長!?」
籠宮は決裁書類を脇へ押しやり、身を乗り出していた。
目が輝いている。トラブルの気配に反応する時と、寸分違わぬ輝き方だった。
観念した明が議事録を(なぜか)取らされる中、真田さんの事情聴取が始まった。整理すると、こうである。
告白されたのは、十一月の文化祭、二日目の夜。謎解きラリーのゴール、あの五十個の提灯の回廊でだった。相手は同じクラスの男子で、ラリーを一緒に回った実行委員仲間。提灯の灯りの下で「ずっと言おうと思ってた」と告げられ、真田さんは頭が真っ白になり、「ちょっと、考えさせて」と答えた。
それから、三ヶ月。
「考えたんです。ちゃんと、冷静に。感情に流されて決めるのは嫌だったから。……これ、見てもらえますか」
真田さんが鞄から出したのは、一冊のノートだった。開いたページには、几帳面な文字で表が書いてある。
『検討表:柴くんについて』 優しさ、八点。誠実さ、九点。面白さ、六点。身長、六点。学力、七点。将来性、不明。減点事項:優柔不断(△)、姉に頭が上がらない(△)……
「点数表だ……」恵が呻いた。「早紀、あんたこれ三ヶ月これやってたの……」
「だって! 冷静に比べないと分かんないでしょ!? でも、変なの。データはどんどん積み重なるのに、答えは全然出ないの。合計点は悪くないのよ? でも『じゃあ好きなのか』って自分に聞くと、しんとしちゃう。……それでね、一番怖いのが」
真田さんは、声を落とした。
「あの夜のこと、思い出せなくなってきたの。告白された瞬間、確かにすごくドキドキした。嬉しかった、と思う。
でも今、思い返すと、あれって提灯のせいだったんじゃないかって。文化祭の夜で、灯りが綺麗で、雰囲気に呑まれてただけなんじゃないかって。あの時の自分の気持ちが、今の自分にはぜんぜん信用できないの。
だから返事ができない。雰囲気で頷いて、あとで冷めたら柴くんに失礼だから……」
生徒会室が静まった。恵が困った顔で明を見る。八田は「恋愛は管掌外」の顔で帳簿に戻っている。籠宮はなぜか、少しだけ真顔になって、真田さんを見ていた。
「……なるほど。状況は分かりました」
沈黙を破ったのは、意外にも明だった。議事録のペンを置いて、検討表のノートを手に取る。
「管掌外って言いましたけど、前言撤回します。真田さん、これ、恋愛相談というより、僕の領分の問題です。あなたが三ヶ月動けないのは、優柔不断だからじゃありません。もっと普遍的な、人間の設計上の欠陥のせいです。
今の真田さんと、提灯の下の真田さんは、お互いのことが原理的に理解できない仕組みになってるんですよ」
「……え?」
「温度が、違うので」
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