記憶のしこり
卒業式に校長先生が話した内容に学生が突っ込むだけの体験談です。
100%持論ですので予めご了承ください。
卒業式に参加する生徒は大きく3種類に分けられると思う。
1種類目は、クラスメイトや友達との別れが悲しく、誰よりも「青春」を体現する人。
2種類目は、1番目ほどでは無いにしろ思う所が無いわけでもなく鼻をすする人。中間的存在でもある。
3種類目は、式含め学校そのものに大して思い出や何か感情を感じないもの。
この文を書いてる私は残念ながら3番目の人間だ。退学にならない程度に出席し、補習が嫌だからテストは平均点プラス1〜5点辺りをうろつき、面倒くさい授業は再低限の出席で保健室に入り浸る。
書いていて自分でも思ったが、たちの悪い学生だ。まぁ、そんな人間でも卒業出来るのだから学校の様子も察せる所があるだろう。
学校行事に欠かせないのは校長先生の有難いお話である。生徒の耐久力を鍛える目的でもあるのではと疑う位には長い。そしてつまらない眠気を誘う何とも興味の惹かれない話題の数々、国会の生中継を流したほうが面白みがあるだろう。
卒業式ももちろん例外ではない「桜の花が」で始まりお馴染みの挨拶の後退屈で素晴らしい時間がやってきた。その話の中珍しく記憶に残ったものがある。
「冷たい理解」と「温かい誤解」である。校長先生曰く、人との繋がりは温かい誤解であるべきだ。誰よりもその人を温かく誤解し信じてあげてください。と言った内容の話だ。
ここからは私の持論であり、100%校長先生への反論だ。
どんな形であれ誤解はダメだろう。誤解したまま相手に踏み込むのは、踏み込む側も踏み込まれる側にとってもたまったものじゃない。
友情も愛情も劣情も相手を「理解」して初めて抱くことのできる感情じゃないか。相手を誤解したまま目に映った偶像を慕うのはいささか無謀で、盲目にも程がある。
校長先生はポジティブな意味でその言葉を捉えたようだが「信じる」つまり「信頼」も「信用」もある程度親しくないと成り立たない。なぜなら「信じるに足る人間か」を見極めるのは私達の本能だから。
それなら私は「冷たい理解」であり続けたい。
相手の長所も短所も限界も全てを知った上で、冷たく傍観していたい。
共感しない事で相手に示せる可能性が、道がある。
だが私は、背を押すことは絶対にしない。道を指で指し示すまで、その道を選んで進むかは当事者である相手が選ぶべきだから、選択の自由を奪うのはどんな罪よりも重いから。
長くなったが、私は相手に誠実であるためにはある程度の冷たさと最大限の理解が必要だと考えた。
いかがでしたでしょうか。
拙い文章に感情的で支離滅裂、とても読めたものではなかったでしょう。
この文章をどれだけの人が読むのか少し楽しみにしています。
最後に人生経験も考えも浅い1人の人間の愚痴に付き合ってくれてありがとうございました。




