第9話「枯れゆく王都と忍び寄る影」
厚く重たい雲が公爵邸の空を覆い隠し、数日前から続く吹雪がようやく小康状態を保っていた。
応接室の暖炉には大きな薪がくべられ、赤い炎がパチパチとはぜる音を立てている。
ルシエルはカリスが座る長椅子の隣で、小さな布に刺繍を施していた。
手元を照らすランプの光が、金色の糸を淡く光らせている。
足元ではブランが巨大な体を丸め、一定のリズムで穏やかな寝息を立てていた。
カリスは分厚い本を開き、静かにページをめくっている。
古紙の匂いと薪の燃える匂いが混ざり合う、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。
その静寂を破るように、重厚な扉が控えめにノックされる。
執事が静かな足取りで部屋に入り、カリスの前に深く頭を下げた。
「旦那様、王都より使者が到着いたしました。至急、お耳に入れたい件があるとのことです」
その言葉に、ルシエルの手の中で金色の糸がぴくりと止まった。
針先が指に触れ、微かな痛みが走る。
王都という響きが、封じ込めていた暗い記憶を呼び覚まそうとしていた。
カリスは本を閉じ、ゆっくりと視線を執事に向ける。
彼の瞳の奥に、氷の刃のような鋭い光が宿った。
「通せ」
カリスの低い声が部屋の空気を一瞬にして凍らせた。
執事が一礼して下がり、しばらくしてけばけばしい赤いマントを羽織った男が足音荒く入室してきた。
男の靴底には泥がこびりついており、公爵邸の清潔な絨毯が無遠慮に汚されていく。
使者の男は傲慢に顎を上げ、部屋を見渡した。
その視線がルシエルを捉えた瞬間、彼の口の端が下品に歪む。
王都の人間特有の、濃厚で甘ったるい香水の匂いがルシエルの鼻をついた。
ルシエルの胃の奥が冷たく縮み上がり、手足の先から急速に血の気が引いていくのが分かる。
「カリス公爵閣下。王太子フェリクス殿下からの親書をお持ちしました」
使者は形ばかりの礼をし、懐から羊皮紙の筒を取り出した。
カリスは長椅子から立ち上がることなく、冷ややかな視線を使者に浴びせる。
「読め」
使者はカリスの不遜な態度に一瞬顔をしかめたが、わざとらしく咳払いをし、封を切って親書を広げた。
「『北の地の領主カリスへ。余の慈悲により追放を命じた罪人ルシエルであるが、直ちに王都へ返還することを命ずる』」
使者の硬く金属的な声が、部屋の隅々にまで響き渡る。
ルシエルの心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなった。
「王都は現在、深刻な飢饉に見舞われております。大地の土はひび割れ、井戸の水は干上がり、作物は一日として育ちません」
使者は親書から目を離し、嘲笑を含んだ目でルシエルを見下ろした。
「マリアンヌ様のお力が及ばない今、この枯渇を招いたのは、悪女ルシエルが王都の土地に呪いをかけたからに他なりません。殿下は、その呪いを解かせるために、ルシエルを直ちに連行せよと仰せです」
ルシエルは震える両手でスカートの布地をきつく握りしめた。
呪いなどかけていない。
ただ、ルシエルが命を注ぐことをやめた大地が、本来の枯れた姿に戻っただけのことだ。
彼らは自分たちの過ちを認めることなく、すべての責任をルシエルに押し付け、再び力を奪い取ろうとしている。
過去の記憶がフラッシュバックし、ルシエルの視界がぐらりと揺れた。
その時、大きな手がルシエルの震える両手をそっと包み込んだ。
カリスの手だった。
彼の体温が、冷え切ったルシエルの肌から心臓へと真っ直ぐに伝わってくる。
カリスはルシエルから視線を外すことなく、低い声で使者に告げた。
「親書は受け取った。置いて帰れ」
使者はカリスの言葉を理解できないというように目を瞬かせた。
「お待ちください、公爵閣下。私はルシエルを連れて帰るよう命じられております。この場で身柄を引き渡していただきたい」
「断る」
カリスの声は決して大きくはなかったが、部屋の空気を震わせるほどの圧倒的な重みを持っていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、使者の前に立ちはだかる。
カリスの長身から放たれる威圧感に、使者は思わず数歩後ずさりした。
「ルシエルは俺の妻だ。王都からの理不尽な命令に従う義務はない」
「妻、ですと? 殿下の決定に逆らうおつもりですか! 北の領地ごと反逆罪に問われますぞ!」
使者が声を荒らげた瞬間、足元で眠っていたブランがむくりと起き上がり、喉の奥で低く唸り声を上げた。
巨大な銀狼の殺気に当てられ、使者の顔から完全に血の気が引く。
カリスは使者の手から親書をむしり取ると、暖炉の中で燃え盛る炎の中に無造作に投げ捨てた。
羊皮紙は一瞬にして黒く焦げ、赤い炎に飲み込まれていく。
「王太子に伝えろ。ルシエルには指一本触れさせない。力ずくで奪いに来るというのなら、北の地のすべてを敵に回す覚悟で来いと」
カリスの瞳には、一切の迷いも恐れもなかった。
使者は腰を抜かしかけながらも、逃げるように応接室から転がり出ていった。
扉が閉まり、再び部屋に静寂が戻る。
暖炉の中で、親書の灰がはらりと崩れ落ちた。
カリスは深く息を吐き、ルシエルの元へと戻ってくる。
ルシエルはカリスを見上げ、大粒の涙を瞳に浮かべていた。
恐怖の涙ではない。
自分を守り抜くと宣言してくれた彼の言葉が、冷え切っていた心を底から溶かしてくれたのだ。
王都の脅威は迫っている。
しかし、この温かな手と、頼もしい精霊の王がそばにいる限り、ルシエルはもう何も恐れることはなかった。




