第2話「氷雪の境界線と黒き城」
部屋の中には暖炉があるものの、火は入っておらず、底冷えのする空気が満ちていた。
窓の外では、狂ったように雪が舞い狂い、厚いガラスを叩き続けている。
カリスはゆっくりと振り返り、ルシエルへと視線を向けた。
彼の髪は夜の闇のように深く黒く、瞳は凍てついた湖面を思わせる冷たい青色をしている。
長身で、厚い毛皮の外套越しにも分かるほど肩幅が広く、強靭な肉体を持っていた。
顔立ちは彫りが深く美しいが、表情の筋肉が完全に凍りついているかのように微動だにしない。
彼が放つ気配は、巨大な獣を前にしたときのような本能的な恐怖を呼び覚ます。
ルシエルは思わず後ずさりそうになるのを堪え、その場に踏みとどまった。
凍りついた床を蹴る足先に、わずかな痛みが走る。
「……王都からの罪人、ルシエルだな」
カリスの声は、地鳴りのように低く、そして驚くほど静かだった。
怒りも憎しみも含まれていない、ただ事実を確認するだけの響きだ。
ルシエルは両手を前で組み、静かに頷く。
「はい。この度、領地への追放を命じられました」
ルシエルの声は寒さでわずかに震えていたが、真っ直ぐにカリスの目を見つめ返した。
カリスの青い瞳が、わずかに細められる。
彼は無言のままルシエルに近づき、その周囲をゆっくりと歩き始めた。
革靴が石の床を踏む硬い音が、部屋の中に響き渡る。
ルシエルは心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、ただじっと立ち尽くしていた。
カリスの視線が、ルシエルの薄いドレス、青ざめた肌、そして震える指先をなめるように動く。
彼の大きな手が突然伸びてきて、ルシエルの肩に触れた。
ルシエルはビクッと肩を跳ねさせたが、カリスの手は驚くほど熱を持っていた。
冷え切った彼女の体を、毛皮の外套ごと包み込むような強い力が伝わってくる。
「……こんな薄着で、よく生きてここまでたどり着いたものだ」
カリスの言葉には、呆れたような響きが混じっていた。
彼はすぐさま手を離し、部屋の隅に控えていた執事に向けて短く命じる。
「火を入れろ。それと、温かい茶と毛布を持て」
執事が一礼して部屋を出ていくと、カリスは再びルシエルに向き直った。
彼は部屋の中央にある黒い革張りの長椅子をあごでしゃくる。
「座れ。話はそれからだ」
ルシエルは言われるままに長椅子に腰を下ろした。
革の表面は冷たかったが、先ほど触れられた肩には、カリスの体温がわずかに残っているような気がした。
すぐに暖炉に火がくべられ、パチパチという薪の爆ぜる音が部屋に響き始める。
炎の明るい光が、石の壁に揺らめく影を作り出した。
乾いた松の木が燃える匂いが鼻をくすぐり、凍りついていた感覚が少しずつ戻ってくる。
執事が戻り、ルシエルの肩に分厚い羊毛の毛布をかけた。
さらに、目の前の低い机に、白い磁器のティーカップが置かれる。
立ち上る湯気が、ルシエルの冷え切った顔を優しく撫でた。
ルシエルは震える両手でカップを包み込むように持ち上げる。
陶器越しに伝わる熱が、手のひらから全身へと血を巡らせていく。
口をつけると、豊かな茶葉の香りと共に、蜂蜜の甘さが喉の奥へと流れ込んできた。
温かい液体が胃の腑に落ちた瞬間、ルシエルの目からふいに涙がこぼれそうになった。
王都を追放されてから、これほどまでに人間らしい温もりに触れたのは初めてだった。
カリスは反対側の椅子に深く腰掛け、ルシエルが茶を飲み終わるのを静かに待っている。
彼の視線は相変わらず冷たいが、急かすような素振りは一切見せなかった。
『この人は、噂に聞くような冷酷な怪物なのだろうか』
ルシエルは心の中で疑問を抱く。
確かに表情は乏しく、威圧感はあるが、その行動には乱暴なところが一つもない。
ルシエルが呼吸を整え、カップをテーブルに戻すと、カリスがゆっくりと口を開いた。
「少しは落ち着いたか」
ルシエルは小さく頷く。
「はい、ありがとうございます。……その、お心遣いに感謝いたします」
カリスは微かに眉を動かしたが、表情は崩さなかった。
彼は組んだ両手に顎を乗せ、真っ直ぐにルシエルの目を見据える。
「王都からの通達は受けている。妹を虐げた悪女として、この死の土地で朽ち果てることを命じられたとな」
カリスの口から発せられた言葉に、ルシエルの胸がチクリと痛んだ。
しかし、彼女は目を伏せることなく、静かに答える。
「私は、そのようなことはしていません。ですが、誰も私の言葉を信じてはくれませんでした」
言い訳めいた言葉になってしまったと後悔したが、カリスは鼻で短く息を吐いただけだった。
「王都の連中が何を考えていようと、俺には関係のないことだ。俺が興味があるのは、お前が隠し持っている力だけだ」
ルシエルの心臓がドクリと大きく鳴った。
彼女は目を丸くし、カリスの凍てついたような青い瞳を見つめ返す。
『力……? まさか、私の魔力のこと?』
誰も気づかなかったはずだ。
マリアンヌでさえ、ルシエルが真の聖女であることに気づかず、ただ結果だけを奪い取っていたのだから。
カリスは立ち上がり、窓際へと歩み寄る。
彼は猛吹雪の吹き荒れる外の景色を見つめながら、低い声で言葉を紡いだ。
「お前が王都を去ったその日から、王都周辺の土地が急激に枯れ始めたという報告が入っている。偽りの聖女には、大地を潤す力など最初からなかったということだ」
カリスは振り返り、ルシエルに向かって鋭い視線を投げかける。
「お前こそが、枯れた大地に命を吹き込む『春の息吹』を持つ、真の聖女だろう」
ルシエルは息をのんだ。
自分の秘密が、こんな遠く離れた氷の地で、見ず知らずの男にあっさりと見抜かれてしまったことに動揺を隠せない。
カリスは再びルシエルの前に歩み寄り、彼女を見下ろすように立った。
「この北の地は、長年続く呪いのような大寒波によって死にかけている。作物は育たず、領民たちは飢えと寒さに苦しんでいる。俺には力で魔物をねじ伏せることはできるが、大地を蘇らせることはできない」
カリスの声には、領主としての深い苦悩と責任感が滲み出ていた。
冷酷公爵という呼び名とは裏腹に、彼は領民のことを誰よりも深く考えているのだ。
ルシエルの心の中にあった恐怖が、少しずつ形を変え始めていた。
「私に、この土地を救えと言うのですか?」
ルシエルの問いかけに、カリスは重々しく頷く。
「そうだ。お前の力が必要だ」
カリスの言葉は、命令ではなく、切実な願いのように聞こえた。
王都では誰からも必要とされず、ただ利用されるだけだった自分が、この冷たい土地で求められている。
ルシエルの冷え切った胸の奥で、小さな火種が灯ったような気がした。




