番外編「春の陽だまりと銀色の護衛」
柔らかな朝の光が、寝室の厚い遮光カーテンの隙間から細い糸のように差し込み、豪勢な天蓋付きベッドのシーツを淡く照らしている。
ルシエルはまどろみの中からゆっくりと目を覚まし、微かに開いた視界の中で、自分のすぐ隣にある確かな熱源の存在を感じ取った。
彼女の腰には、カリスの太く力強い腕がしっかりと巻き付いており、彼特有の落ち着く香りが寝具に深く染み込んでいる。
カリスの規則正しい寝息がルシエルの髪をかすかに揺らし、その心地よいリズムが彼女の心を深い安らぎで満たしていく。
かつての凍りつくような北の城の朝とは違い、今の空気は芯から体を温めてくれるような優しさに満ちていた。
ルシエルはカリスを起こさないように慎重に腕を抜け出し、ベッドからそっと床へと降り立つ。
毛足の長い絨毯は素足に心地よく、冷たさは微塵も感じられない。
身支度を整え、薄紅色の春らしいドレスに着替えたルシエルが部屋の扉を開けると、そこにはすでに待ち構えていたように、巨大な銀狼のブランが座っていた。
ブランはルシエルの姿を認めるなり、短い歓喜の声を上げて彼女の足元に大きな顔をすり寄せてくる。
その銀色の毛並みは朝の光を弾いて美しく輝き、触れると極上の絹のようになめらかだった。
「おはよう、ブラン。今日もいい天気ね」
ルシエルがブランの耳の後ろを優しく掻いてやると、彼は目を細めて喉の奥で満足げな音を鳴らした。
彼らはそのまま連れ立って、1階の広大な食堂へと向かう。
食堂の長いテーブルには、領地で収穫されたばかりの新鮮な春野菜のサラダ、香ばしい匂いを立てる焼きたての白パン、そしてとろけるような甘さを持つ果実のジャムが所狭しと並べられていた。
ルシエルが席に着くと、ほどなくしてカリスも食堂に姿を現す。
彼はすでに領主としての黒い執務服に身を包んでいたが、ルシエルと目を合わせた瞬間に、その口元が微かに、しかし確かな優しさを伴って緩むのを彼女は見逃さなかった。
二人は向かい合って座り、静かに朝の食事を楽しむ。
カリスは相変わらず口数は少ないものの、ルシエルの皿のパンが少なくなると無言で新しいものを切り分け、彼女の好物である蜜果のジャムをたっぷりと乗せてから差し出してくれる。
その過保護なまでの不器用な気遣いに、ルシエルは思わず柔らかな笑みを浮かべた。
食事が終わると、カリスは執務室へと向かい、ルシエルはブランを連れて街へと降りる準備を始める。
今日は、領民たちが新しく開拓した農地の視察と、街の子供たちが通う孤児院へ差し入れを届ける予定になっていた。
公爵邸の門を抜けると、以前の殺風景な雪道はすっかり姿を消し、道の両脇には青々と茂る草花と、これから花を咲かせようとする木々が立ち並んでいる。
春の風が吹き抜けるたびに、土の香りと花の甘い匂いが混ざり合い、肺の奥まで清々しい空気で満たされていく。
ルシエルが街の中心部に入ると、すれ違う領民たちが次々と足を止め、彼女に向かって深い敬意と親愛の情を込めて頭を下げた。
「奥様、おはようございます。今日の奥様も春の妖精のように美しいですね」
果物屋の主人が、荷車に山積みになった色鮮やかな果物を磨きながら朗らかな声をかける。
「ありがとうございます。そちらの果物も、太陽の光を浴びてとても美味しそうですね」
ルシエルが足を止めて言葉を返すと、主人は嬉しそうに一番大きな果物を一つ手に取り、ブランの鼻先へと差し出した。
ブランは匂いを嗅ぎ、ひとくちでそれを飲み込むと、美味しかったと伝えるように尻尾を大きく振る。
街の空気は活気に満ちており、人々は寒さに怯えることなく、明るい声で笑い合いながらそれぞれの仕事に精を出している。
広場に到着すると、遊んでいた子供たちがルシエルの姿を見つけ、一斉に歓声を上げて駆け寄ってきた。
彼らは巨大なブランを見ても全く怖がることなく、そのふかふかの毛皮に抱きついたり、背中に乗ろうとしたりしてはしゃいでいる。
ブランも子供たちの相手をするのが好きなようで、決して怪我をさせないように力加減をしながら、一緒になって広場を駆け回っていた。
一人の小さな少女が、ルシエルのドレスの裾を恥ずかしそうに引く。
彼女の小さな手には、野の花を編んで作った不格好な花冠が握られていた。
「これ、奥様にあげる。いつも、あたたかい春をくれてありがとう」
少女の純粋な言葉に、ルシエルの胸の奥が熱くなる。
ルシエルはひざまずき、少女の目線に合わせて微笑んだ。
「ありがとう。とても素敵な花冠ね。大切にするわ」
ルシエルが頭を下げると、少女は背伸びをして、ルシエルの美しい金糸の髪の上に花冠をそっと乗せた。
その様子を少し離れた場所から見守っていた人物がいることに、ルシエルはすぐに気がついた。
黒い毛皮の外套を羽織ったカリスが、腕を組んで広場の入り口に立っていたのだ。
執務が忙しいはずの彼が、わざわざ街まで下りてきた理由など一つしかない。
彼はルシエルが心配でたまらず、仕事の合間を縫って様子を見に来たのだ。
ルシエルが立ち上がり、カリスの方へと歩み寄ると、彼は微かに嫌な顔をして視線をそらした。
「……警備の騎士から、お前が街に出たと報告があったからな。変な虫けらが寄り付いていないか、確認しに来ただけだ」
カリスの言い訳がましい言葉に、ルシエルは声を出して笑いそうになるのを必死にこらえた。
これほど平和で、精霊の王まで護衛についているというのに、カリスの過保護ぶりは春になってからさらに拍車がかかっている。
カリスはルシエルの頭に乗せられた花冠を見ると、大きな手でその花びらにそっと触れた。
「悪くない。お前によく似合っている」
彼の低い声に込められた真っ直ぐな称賛に、ルシエルの頬が熱を帯びる。
カリスは自然な動作でルシエルの手を取り、自分の腕に絡ませた。
「帰るぞ。少し風が冷たくなってきた」
まったく冷たくなどない春の風の中で、カリスはルシエルを庇うようにして歩き出す。
ブランも二人の後を追い、大きな足音を響かせながらご機嫌な様子でついてくる。
王都での冷たい記憶は、もうルシエルの心を苛むことはない。
彼女の隣には、不器用で優しく、誰よりも自分を愛してくれるカリスがいる。
ルシエルはカリスの腕の温かさを感じながら、この穏やかで満ち足りた日常が永遠に続くことを、心から願うのだった。




