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妹に聖女の座を奪われ極寒の地に追放されましたが、冷酷公爵様の不器用な溺愛と巨大もふもふ精霊王に囲まれ幸せです  作者: 黒崎隼人


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第13話「雪解けの誓いと春の玉座」

 春の柔らかな日差しが磨き上げられた窓ガラスをすり抜け、執務室の分厚い絨毯の上に四角い光の模様を描き出している。

 開け放たれた窓の向こうからは、雪解け水が小川となって流れる涼やかな水音と、新緑の青々とした匂いが絶え間なく流れ込んできた。

 ルシエルは窓辺に立ち、目の前で静かに言葉を紡いだカリスの広い背中を見つめ続ける。

 彼の黒い髪は春の陽光を受けて微かに透き通り、かつての凍てつくような冷たさはもうどこにも感じられない。

 しかし、彼が先ほど口にした言葉だけが、春の暖かさから切り離されたように冷たくルシエルの耳の奥に残っていた。


「契約の期間は1年だが、この土地の冷害はすでに完全に解消された」


 カリスの声は低く落ち着いており、そこに感情の揺らぎを見出すことは難しい。

 彼は大きな机の上に置かれた羊皮紙の束から1枚の書類を抜き出し、ゆっくりとルシエルの方へと向き直った。


「お前はもう、俺の妻という偽りの立場に縛られる必要はない」


 その言葉は、ルシエルに対する最大限の誠実さから出たものだった。

 カリスは、ルシエルが真の聖女としての力を取り戻し、北の領地を救ってくれたことに対する深い感謝と、彼女の未来を何よりも尊重するがゆえに、自ら身を引こうとしているのだ。

 ルシエルの視線は、カリスの手に握られた契約書へと注がれる。

 そこには、あの吹雪の夜に震える手で書き記した自分の署名が、黒いインクで鮮明に残っていた。

 王都から追放され、死を覚悟してこの地にたどり着いた自分に、温かい食事と安全な寝床、そして何より生きる目的を与えてくれたのは、他でもない目の前の不器用な男だ。


『私は、ここから離れたくない』


 ルシエルの胸の奥で、その思いはすでに揺るぎない確信へと変わっていた。

 彼女は春の訪れを告げるような薄緑色のドレスの裾を指先でそっと持ち上げ、織り込まれた滑らかな絹の感触を肌で確かめながら、分厚い羊毛の絨毯に革靴の踵をゆっくりと沈み込ませて一歩前へと踏み出した。

 カリスの凍てついた湖面のような青い瞳が、わずかに見開かれる。

 ルシエルはカリスのすぐ目の前まで歩み寄り、彼の手からその古い羊皮紙を静かに抜き取った。

 羊皮紙は乾燥して硬くなっており、指先にかさかさとした乾いた感触を伝える。

 カリスは抵抗することなく、ルシエルの行動をただ黙って見守っていた。

 ルシエルはカリスの目から視線を外すことなく、両手で持った契約書の中央に力を込める。

 厚い紙が引き裂かれる鋭い音が、静寂に包まれた執務室の中に響き渡った。


「ルシエル、何をしている」


 カリスの声に、隠しきれない動揺の色が混じる。

 ルシエルは真っ二つになった羊皮紙をさらに細かく引き裂き、春の風が吹き込む窓の外へとためらいなく放り投げた。

 細かくなった紙片は、白い蝶の群れのように風に乗って空高く舞い上がり、やがて新緑の庭園の彼方へと姿を消していく。

 ルシエルは空になった両手を胸の前で組み、背筋を伸ばしてカリスを真っ直ぐに見上げた。


「契約は、今この瞬間をもって破棄いたしました」


 ルシエルの声は澄み切っており、そこには一片の迷いも存在しない。

 カリスは眉間に深いしわを寄せ、何かを言いかけようとして口を半開きにするが、言葉を見つけられないように再び唇を強く引き結んだ。


「カリス様は、私に自由を与えようとしてくださっているのですね。ですが、私の居場所は、私が自分で選びます」


 ルシエルはさらに半歩だけ距離を詰め、カリスの分厚い胸板にそっと両手を這わせた。

 上質な白いシャツ越しに、彼の力強い心臓の鼓動と、燃えるような高い体温が手のひらを通して伝わってくる。

 カリスの大きな体が、ルシエルの接触によって微かに強張るのが分かった。


「私は、王都の偽りの温かさよりも、カリス様の不器用で誠実な優しさに救われました。あなたが私を必要としてくれたから、私は自分の力を信じることができたのです」


 ルシエルの瞳の奥に、強い光が宿る。

 彼女は背伸びをし、カリスの冷たい頬に自らの額をそっとすり寄せた。


「どうか、私をこの城から追い出さないでください。私はこれからも、あなたの妻として、この美しい北の地で共に生きていきたいのです」


 ルシエルの切実な願いが、春の暖かな空気の中に溶けていく。

 カリスは長い間、彫像のように身動き一つしなかった。

 しかし、彼の青い瞳の奥で、長年彼を縛り付けていた孤独という名の厚い氷が、音を立てて崩れ去っていくのをルシエルは確かに感じ取っていた。

 カリスの大きく無骨な両手が、ためらいがちに宙をさまよい、やがてルシエルの細い背中を包み込むようにして強く抱き寄せた。

 彼の腕の力は驚くほど強く、ルシエルの体の中の空気がすべて押し出されてしまいそうになるほどだ。

 カリスの顔がルシエルの首筋にうずめられ、彼の熱い呼気が直接肌に触れる。


「……俺は、口下手で、愛想もなく、お前のような美しい花を飾るには不釣り合いな男だ」


 カリスのくぐもった声が、ルシエルの耳元で低く震える。


「お前が俺の元を去る日が来れば、俺は二度と元の孤独には耐えられないだろう。だから、手遅れになる前に、お前を手放すべきだと自分に言い聞かせていた」


 それは、冷酷公爵と恐れられた男の、あまりにも人間らしくて弱い本音だった。

 自分を卑下し、愛する者を遠ざけることでしか自分を守れなかった不器用な男の告白に、ルシエルの目から熱い涙があふれ出す。

 彼女はカリスの背中に腕を回し、その分厚い布地を強く握りしめた。


「もう、どこにも行きません。私は、あなたにほだされたのです。この冷たい北の地を、世界で一番温かい場所にしてくれたあなたに」


 ルシエルが涙声でそう伝えると、カリスはゆっくりと顔を上げ、ルシエルの濡れた頬を大きな手のひらで包み込んだ。

 彼の親指が、こぼれ落ちる涙の軌跡を優しくなぞる。

 カリスの青い瞳には、もはや過去の恐れも迷いも一切残されていなかった。

 そこにあるのは、ルシエルという一人の女性に対する、深く、燃えるような真実の愛情だけだ。

 カリスは顔を傾け、ルシエルの唇に自らの唇を静かに重ね合わせた。

 触れ合うだけの柔らかなくちづけは、やがて深い熱を帯び、二人の体温を完全に溶け合わせていく。

 ルシエルは目を閉じ、カリスから伝わってくる圧倒的な愛情の重みに身を委ねた。

 窓の外では、春の訪れを祝福するかのように、庭園に咲き誇る無数の花々が一斉に甘い香りを放ち始めている。

 風が通り抜けるたびに、薄桃色や黄色の花びらが宙を舞い、光の粒のようにきらきらと輝いていた。

 部屋の隅では、巨大な銀狼であるブランが、二人の姿を満足げに見つめながら、大きな尻尾を床に打ち付けている。

 偽りの契約から始まった関係は、厳しい冬の寒さと数々の困難を乗り越え、今ここに真実の愛へと昇華されたのだ。

 カリスがゆっくりと唇を離し、ルシエルの額に再び深い口づけを落とす。


「愛している。俺の命が尽きるその日まで、お前を必ず守り抜く」


 カリスの誓いの言葉は、ルシエルの心の中に深く、永遠に消えることのない温かい火を灯した。

 ルシエルは満面の笑みを浮かべ、再びカリスの広い胸の中に顔をうずめる。

 北の大地に、完全なる春が訪れていた。

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