第八話「護る者護られる者」
「第一の姫君、来訪なり!!」
ラッパの音がさめざめと泣くなごむの背中を叩いた。ユグリート王の胸元に埋めていた顔をあげると、一人の少女が扉の向こうからこちらへと歩いてくるところだった。
なごむは兎のように赤く充血した眼を丸くし、辛うじて飲み込んだ。御姫様だ、という呟きを。
小さな宝石が幾つも嵌めこまれた銀のティアラに、緩やかなウェーブを描いて長く伸びる艶やかな赤髪。黒蝶のように可憐な睫毛と瞳に、不幸事の一切を知らないような柔らかな頬。光沢のある明るい橙が見るも鮮やかなドレスを纏う、姫君だ。
姫君の登場に、ラシャが狭まりがちな額を広げた。
「姉様」
その言葉に改めて姫君へと視線を戻す。なるほど、ラシャに似ていた。そればかりか、同じような格好をさせれば全く見分けがつかないだろうほど酷似している。双子なのだろうか。とはいえ、表情から受ける印象はラシャの真反対だ。
実に姫君らしい姫君の足取りは踊るように軽やかである。丈の長いプリンセスラインを孔雀の尾のように滑らかに揺らし、歩み寄る。彼女はユグリート王を眼前にすると、王としゃくりあげるなごむに春を呼ぶ女神のように微笑み、小首を傾げた。
「皆さま、ごきげんよう」
まるでテレビから出てきたみたい、となごむは瞠目する。これほど美麗な少女がいただろうか。
「お客さまもいらっしゃいますのね。お初にお目にかかります。ユグリートが第一王女、ソアラ・ギブリット・ユグリートにございます。貴方様が、カラドホルグ様?」
漆黒の美しい瞳を投げかけられ、なごむの心臓は一気に沸騰した。赤面しながら目を瞑り、ぶんぶんと首を左右に振る。
そんななごむの鼓膜を、再びラッパの音が叩いた。
「失礼いたします!」
ソアラに引き続き、現れたのは謹厳そうな老女だった。シルバーグレイの髪を纏めて、後頭部の部分で玉にしてある。ワインレッドのスカーフに菫色の服という慎みを具現化したような装いの老女は、恐縮した面持ちでソアラの背後に回ると、膝を折った。
「あら、ルシオラ。勉強部屋で待っていても良かったのに」
おっとりとしたソアラに、ルシオラは眉根を寄せる。
「申し訳ありません、国王陛下」
「ルシオラが謝るなんておかしいわね。お父様、私、ラシャさんが戻られたと聞いて、勉強どころではなくなってしまったの。いてもたってもいられなくなったのよ!」
高らかに歌い上げるように、ソアラは目を潤ませた。興奮ぎみに両手に拳を作り、ふるふると肩を揺らすと、くるりとドレスを翻す。小鹿のような足はラシャへと向く。
「おかえりなさい、ラシャさん」
ステップを踏むように近寄ると、ソアラは飛び立つ蝶のように手を広げた。
「抱擁!」
感極まって飛び付く華奢な腕――、を、ラシャは猛牛を避けるエルマタドーレの如くかわした。
標的を失って、赤ん坊のような足取りで数歩進み、止まるソアラ。くるりと振り向いて、彼女は上品に微笑んだ。
「さすがの身のこなしですわね」
ラシャはあえてソアラから距離を置くように片手を突きつけると、
「姉様。カラドホルグはこちらに」
興味を自身からそらすように指差した。
「あら。大柄な方ですのね。お初にお目にかかります、ソアラと申します。よしなに」
カラドホルグを背筋を伸ばして仰ぎ、ソアラは小首を傾けた。そして素早く駆け寄り、
「抱擁!」
しかし怯えたような表情で下がったカラドホルグによって、またしても抱きつくことは叶わず、ソアラはたたらを踏んだ。
「ごめんなさい。御嫌でしたか。失礼を」
「姉様……」
呆れたようにラシャが頭を抱える。
困り顔のラシャとお気楽なソアラ。顔はそっくりだというのに、こうも違うものを見せられて、なごむは不思議な気持ちになる。本当に姉妹なのだろうか。
困惑していると、
「ラシャさん、私、カラドホルグ様にお会いできて嬉しいわ。でも、カラドホルグ様の他にも、興味のある方がおりますの」
ちらりと、ソアラと視線が重なった。
「……お父様が私より先に抱擁されているのがなんだかとっても気になるお方なのだけれども。ロト伯父様かしらとも思いましたけど、ロト伯父様にしては、とても可愛らしいように思えて」
見詰められると妙にどぎまぎしてしまう美貌。無意識に逃げ腰となってしまったなごむの代わりにラシャが答えた。
「これは、二子玉なごむ。ロト叔父様の息子で、カラドホルグの守護を受けている」
目をしばたくソアラに、ラシャは今までのことを説明する。話に少しの区切りがつく度に、ソアラの大きな瞳はより開かれ、可憐な唇からは感嘆が零れた。
「ロト叔父様が亡くなられたのは残念だけれど、我々には可愛らしい希望が残されたのね」
意外と肝が据わっているらしい。突拍子もない話のはずなのに、ソアラは一通り驚くと、しっかり納得したように頷いた。加えて、長い睫毛を小枝にとまる鳥の羽のように下ろす。
「まるで神の導きのよう」
頬を熱っぽく朱に染めて、うっとりと囁くソアラ。そんな彼女に、
「……神の導きですって?」
それまでの沈黙に波紋をたてるように、疑問を投げた人物がいた。教育係のルシオラである。
「あら、ルシオラ。どうしたの?」
「お言葉ですが姫様、申し上げます。あまりにも楽観すぎるのではないでしょうか。ラシャ様の言葉が本当であれば、なごむ様はこの国の者でなければ、この世界の者でもありません。そのような方に、国の運命を託すなど……」
「なごむさんはロト叔父様のご子息よ。他人ではありません。協力して下さるというご厚意を、お前は信じられないというの?」
ソアラの口調は穏和であるが、やや棘を含んでいた。しかしルシオラは鷹のような姿勢を崩さない。冷静に彼女は続ける。
「信じる、信じないではなく確証の話です。ロト様は陛下の兄上に当たる方、私もよく存じ上げております。それ以上に……、教育役を賜りましたのも、私でございます。私が知るロト様はアルクトテロスとしてカラドホルグに与えられた力を、王族として使われたことがありませんでした」
鋭く、冷たく、
「王族として国に尽くすことのなかったお方。そればかりか、ロト様はあろうことか国を捨てたお方です。……ご子息のなごむ様から、本当に協力を得ることができますでしょうか」
「口を慎みなさい、ルシオラ」
ついにルシオラの言葉をソアラが諌めた。
ラシャのためであった。ラシャはアルクトテロス探しに国中を駆け巡ったのである。王族の、姉妹の勤めに泥を塗られたのだから叱責は当然のことであった。
ラシャはというと、真一文字の唇で表情を変えていない。だが彼女の心が僅かに陰る反論には違いなかった。
「私の浅考は愚かな非礼でしょうか」
姫君の言葉は予測の範疇であったのだろう、ルシオラは堂々としたまま、問う。彼女は唇を噛むソアラ、無表情のラシャ、気まずそうなジャルグボールグ、眉をひそめるカラドホルグ、そして狼狽するなごむに視線を巡らせ、最後になごむの脇に佇むユグリート王を仰いだ。
「……間違いではない」
ユグリート王は叡知の光る黒曜石の瞳になごむを浮かべながら、静かに訊ねた。
「私も私の耳で確かめたい。なごむよ……、協力してくれるのか?」
威厳のある声に射られて、なごむの心は揺れた。自分は本当に協力をすべきなのか、否か。決断するときは殆ど、人の考えに乗ってきたなごむである。正直なところ何が最善なのか検討もつかない。
が……、俊巡はそれほど長くはなかった。臆しながらも、ゆっくりと縦に振る。決意というには弱い、承諾。心が穏やかな方を選択した結果であった。
そんななごむの心理を見抜いたのか、それとも疑問に感じたのか、
「意思があったとして、戦えるとは限らない。なごむは、戦いに耐えうるか?」
王はラシャに、次にカラドホルグへ顔を向けた。暫し無言の二人であったが、
「分かりません」
ラシャが深紅の髪を揺らした。ラシャがそう答えるのは当然のことだった。彼女がカラドホルグの力と接したのは一度だけ。スニフォンの町での一件、僅かな時間にあったあの時しかない。甲殻乱走でも、カラドホルグはなごむの守護に回っていたのだから。知るよしもない。
正直なところをユグリート王へ伝えた後、ラシャは思案げに表情を曇らせると、唇を開いた。
「もし許しをいただけるなら……、手合わせをさせてくれませんか」
思いもよらぬ提案。ラシャの真面目な顔がより真剣さを帯びる。
「共に戦うとなれば、私は力を知りたい。カラドホルグとアルクトテロスの力というものを」
◆
手合わせの場所として宛がわれたのは兵士たちの訓練場のようだった。丁度ユグリート城の裏手にあり、地平線上に湖畔が広がっている。砂地は整地されており、様々な形の仕掛けがある。練習用のものだろうか、鎧を着た案山子が並んでいる他、用途の分からない池のようなもの等、実に多くのものが設置されている。
中央には、柱を東西南北に置いただけの屋根のない闘技場が置かれていた。石で出来た円卓を彷彿とさせる。闘技場の上で、対峙しながら時を待つ四人がいた。ラシャ、ジャルグボールグ、カラドホルグ、そしてなごむ。
なごむは顔を日射病患者のように赤く染めていた。激しい動悸に襲われてマグマのような熱が全身に流れる。その一方で、流れる汗は氷のようだ。
余裕のない様子のなごむにカラドホルグが、
「なごむ、本当に良いのか?」
「……………うん」
頭は極度の緊張で白くなっており、鼓膜も水か何かが入ってしまったかのように音が遠い。辛うじて出た声は蝉のようだ。そんななごむに、カラドホルグが呟く。
「なごむだけは必ず護るから」
落ち着き払った、優しい響きで。
「それでは、始めよう。剣に体を楯に魂を込めよ。剣と楯とに誓い、健闘を」
闘技場の脇で見守る者たち。その最前列に立つユグリート王が、片手をあげた。威儀を正し、悠然と放つ。
「――――始めよ!」
鬨の声と共に、ジャルグボールグが紅の球体に変わり、ラシャを包む。光が四散し、現れたのは雄牛のような角をもつ猛々しい赤い騎士。巨躯に相応しい漆黒の大剣を握りしめた屈強の、ラシャ。人間の背丈ほどの剣を悠々と持ちあげると、ラシャは絶叫した。
気合いと同時に繰り出される一振り。あまりの迫力に怯え、目を瞑ることすら出来ないなごむの周囲から猛然と風が吹き荒れた。烈風により、刃が壁に当たったかのように止められる。
「カラドホルグさん!」
風は球体の防壁となってなごむを包み込む。カラドホルグの姿はない。風そのものとなって、なごむを護っているのだ。ラシャは次々と刃を繰り出す。まるで舞のようだ。轟音が辺りに爆ぜる。
「頑張って……」
なごむは薄目になりながら拳を握った。
「下らない、護るだけか!?」
ラシャが大きく剣を振りかぶり、一気に落とした。
「わぁ!」
防壁に刃が突き刺さる。なごむの眼前で止まる。しかし、ラシャの猛攻は続く。振り落とした剣に、更に力が込められた。じりじりと、刃がなごむへと近づいていく。
「頑張ってよ……」
呻きながら、なごむは腰を落とした。にじりよる刃から逃れるように尻を大地に付けて、体を丸める。風の防壁が金切り声をあげて力を増す。しかし、ラシャもまた抵抗する。二つの力は押しあい、拮抗する。
「うおおおお!」
ラシャが更に雄たけびをあげた。刃が静かに沈み始めた。なごむに徐々に近づく。距離がどんどん縮まっていき、そして。
なごむの叫び。
烈風が吹きおこり、なごむの体が上空へと攫われる。ほぼ同時に、石畳が剣檄に突かれて拉げた。破片を撒き散らしながら逃げるなごむを剣が追う。振り上げられた剣はなごむの靴先を掠った。
「空に逃げるか!」
頭上に浮かび上がったなごむに、ラシャが叫ぶ。
「逃げても無駄だ。こちらには翼があるのだから!」
赤い騎士の背中、鎧がむくりと隆起する。まるで飴細工のように伸びると、蛹のような形へと変貌し、表皮が破けた。中から現れたのは、双頭の赤竜が持っていたものと同じ翼。
予想されうる攻撃に、なごむは取り乱す。心臓はより激しく肋骨を打ち、体を恐怖が締め上げる。
「飛べるの……!? 飛ばないで!」
『なごむ!』
恐慌状態に陥りかけているなごむに、
『ジャルグボールグは飛行に特化している。空に移されれば、君を護りきれない。今から言うことを、よく聞いてほしい』
カラドホルグは子供に言い聞かせるように言った。
『今から現れるものを、どうか怖がらないで』
落ち着き払った声。しかし何処か、切ない色が混じっていた。
これから何が起こるというのか。分からなかったが、護るためにするのだろう。なごむは見えないカラドホルグに伝わるよう、しっかりと頷いた。
瞬間、内臓の持ちあがる感覚が貫いた。落下だ。
「うわあああ!!」
落ちる、ぶつかる。
なごむは反射的に目を瞑り、頭を抱えた。……しかし。
痛みはなごむを殴らなかった。衝撃はなく、なごむは背中に冷たい地面を感じた。
――――目を開ける。
そこにいたのは、獣だった。
覚えにある獣。空想上の存在のような。夢にまでみた、あの獣。
重力を恐れぬ巨躯。全身を覆い銀色に輝く灰色の長毛。黄金の一角。漆黒のみっつの瞳。豹のような唇に伸びた四本の牙。尾の部分に這う、黒い大蛇。
父が、マジシャン露頭が、蛍火の中から出してみせた存在。
「あなたが、炎の獣……」
ずっと憧れていた今世紀最大の手品。その種あかしが眼前にいる。
なごむは立ち上がることが出来なかった。驚きに足が動かない。腰から力が抜けてしまっていた。
『懐かしいねえー、その毛むくじゃら』
ラシャの鎧から気楽な口笛が鳴り響いた。ジャルグボールグが陽気に口ずさんだのだ。ジャルグボールグ、とラシャが制す。それから、彼女は剣を掲げると、その切っ先をゆっくりと炎の獣カラドホルグへと向けた。
「お手並み拝見といこうじゃないか」
『……』
カラドホルグはラシャの挑発に口を閉ざすと、身を沈めた。カラドホルグが大地へと腹を近づけていくにつれ、辺りが昼間だというのに暗くなり始める。
「何……?」
まるで闘技場だけ曇りにでもなってしまったかのような景色。異常な光景に怯えるなごむに、カラドホルグが囁いた。
『大丈夫。必ず君を護る。どんなことをしてでも』
カラドホルグが言い終わるか言い終わらないか、その直後に暗闇が一気に開けた。まるで霧が風に吹き飛ばされたかのように、いや。
暗がりが収束し、矢のようにラシャへとぶつかったのだった。
「くぅ!」
突然の攻撃に、剣で守りの構えをすることも出来なかったラシャの体が吹き飛ぶ。
轟音。土ぼこりを撒き散らし、転倒するラシャ。
「おのれ……」
カラドホルグの追撃は続く。再び暗がりに染まる周囲、光が弾け、明滅する。闇の矢が次々とラシャに襲いかかる。叫びながらラシャは剣で矢を耐え、あるいは弾く。避けた矢が大地に突き刺さり、瓦礫が爆ぜる。
怒涛の猛攻の中、なごむは風の球体に守られていた。破片がなごむを避けて飛んでいく。それでも、不思議と顔を庇ってしまう。自身の腕によって狭まった視界で、なごむは激戦を窺っていた。
接触の悪い電球のような世界。光と闇が瞬き、輝く。踊る。
「……?」
なごむは目を擦った。視界の端に、妙なものが映ったからだ。砂の粒のような何か。ラメのような粒子。しかし目で追おうとすると、消えてしまう。
「何……?」
粒を明確に掴もうとして、突然視界が暗闇に落された。まるで夜にでもなったかのように。そして夜は瞬時に玉へと姿を変えると、ラシャへと跳躍する。
ラシャはカラドホルグの激しい一撃を辛うじて刃に受けた。しかしその勢いは増し、刃へとめり込もうとする。
「ならば――!」
気勢をあげて耐えていたラシャが、吠える。咆哮しながら、刃を徐々にずらしていき、跳ねあげた。
矢が方向を変え空を切り裂く。弾かれたカラドホルグの攻撃が敵から主へと標的を変え、貫く。
――――額へと!
叫喚、地響き。血のしぶき。巨躯が倒れ、大地が揺れる。
「カラドホルグさん!」
なごむは悲鳴をあげ、地に伏せるカラドホルグへと走った。いつの間にか風の結界は壊れていた。なごむはカラドホルグに抱きつくと、血の流れる傷口を見やる。どくどくと、湧水のような流血である。
「なごむ、まだだ!」
顔をあげると、ラシャがまだ剣を構えていた。戦いはまだ終わっていないのだ。
「やめて、やめて」
涙の痛みが鼻をついた。首を振りながら、ラシャを睨みつける。怒りが沸く。震えるような激しい憤怒が。そして視界に、血のように赤い粒子が広がっていく。ラシャが踏み出す、攻撃のための一歩を。
「やめてよ!」
その刹那、ラシャの顔の傍を炎が爆ぜた。前触れのない衝撃に、ひるむラシャ。
「……お前ッ」
激昂したラシャが剣を振り上げる。振り下ろさんと握りを固めた直後、
「それまで!」
ユグリート王が制止した。
誰の目にも明らかな勝敗が決したのだ。王女ラシャの勝利、しかしそれは、喜ばしいものではない。
「これでは……」
傷を負ったカラドホルグ、立ち尽くすラシャ、びくびくと慄いているなごむ。ユグリート王は慙愧に堪えないといった表情で、唇を噛んだ。
「これでは、エンリーテの穴にすらいけないだろう」
王の言葉になごむは王を、そして周囲を見渡した。傍観していた者たちの表情は暗い。絶望に沈みこんだような目をしている。
「アルケアとアルクトテロスは高めあう存在。もし契約者の片方の精神力が足りなければ、力は高めあわず、寧ろ弱まっていく。なごむがカラドホルグと契約している以上、カラドホルグは力を出せない。カラドホルグ、君は鎧にはならなかったね。……鎧にならなかったのではなく、鎧になれなかったのじゃないかい? 鎧となり契約者を護るのには、契約者の力が必要となる。なごむでは、君の力にはなれないんだろう」
カラドホルグが沈黙する。
「君は守護だけで、攻撃が出来ない。違うかい?」
カラドホルグは無言のまま、姿を変えた。人間の姿に変えたカラドホルグの額はぱっくりと割れている。
なごむはカラドホルグの傷に、心臓を抉られた。戦いに応じなければつかなかった傷である。自分を護ろうとしたから出来た傷から、自分の浅はかさによって血が流れている。激しい後悔が浮かび、ユグリート王の言葉が追い打ちをかける。
「ごめんなさい」
カラドホルグの手を握る。
「ごめんなさい、僕のせいだ。僕のせいで……」
「なごむ」
カラドホルグの大きな手が、なごむの頭を撫でた。
「大丈夫だ」
その優しさが、痛い。肺がちぎれそうなほど。苦しい。呼吸が辛い。
「しかし、これで決まりましたね」
王の背後から、ルシオラが出でる。
「なごむ様に、この国の運命を託すことは出来ないと!」
怜悧な教育者は口火を切る。カラドホルグではいけないと、なごむではいけないと、新しいアルケアを探さなければならない、計画を練らなければならない、訴えかけるように語る。そんなルシオラの言葉を、なごむは他人事のように聞いていた。言葉が頭に入ってこなかった。どうしようもない後悔ばかりが体中を駆け巡って、涙がとまらない。
「……待て」
凛として、響いた。打ちひしがれるなごむにも通る、凛々しさ。
ラシャだった。
「早計だ」
「早計ですと?」
「ああ」
変身を解いて、ラシャとジャルグボールグが立つ。赤髪を靡かせて、麗しく戦乙女はルシオラに向かった。
「時間をくれないか?」
「時間?」
「ああ。なごむはエン・リーテが見えなかった、つい先ほどまでは」
「なんと! それではますます……」
ルシオラの口を人差し指で閉ざす、ラシャ。
「お前は先ほど、なごむがふいをついてエン・リーテを使ったのに気がつかなかったのか?」
かっと、ルシオラの目が見開かれた。
「なんの訓練もせず、なごむはエン・リーテを使ってみせた。本能的に。エン・リーテもまた、それを許した。……教育者のお前なら分かるだろう。この事実がさす意味を」
ラシャの眉が力強くあがり、舌に熱が込もる。
「なごむには可能性がある。奇跡を起こす可能性が」
言い切ると、ラシャはユグリート王へと歩み寄った。そして膝をつくと、
「国王陛下。無理なお願いであるとは分かっています。ですが、私となごむに時間がほしい。強くなる時間が。ひと月、いや十日で良い。どうか時間を!」
ラシャの懇願。頭を垂れ、長髪が地につく。それすらいとわずに頭を更に下げる。
そんな実娘の姿に髭を押さえ、暫し考えぶかけにすると、ユグリート王は静かに首肯した。
「分かった。良いだろう。……最善に、掛けるべきだ。しかし、決断するのは私ではない」
ユグリート王はそう言い放つと、カラドホルグにすがり付くなごむを見下ろした。真剣な眼差しで、唇を開く。
「なごむ。明日の朝、答えを聞かせてくれるね」
決断を促す台詞がなごむの華奢な体にずしりとのし掛かる。命令に近い重みのある言葉に、なごむはカラドホルグの手を握る力を、無意識に強めていた。
◆
カーテンの隙間をぬぐって降り注ぐ月光によって、白い天井に吊られた豪奢なシャンデリアが満天の星となる。闇に慣れてきて、覚えるのは違和感ばかりだ。疲れを癒すようにと宛がわれた寝室に寝台、どこまでも覚えのない、記憶の何処にもない場所に何故か横たわっている。
まるで脳味噌だけ宙へ舞っていきそうな不可思議な感覚にたゆたいながら、なごむは異世界に来てからのことを振り返っていた。
続いたのは不思議で現実離れした出来事。五感がなければ、確実に夢といえてしまう空想じみた現実。
突きつけられた親の都合。異世界に来て邪神だと追われ、不思議な理に触れ、従兄弟や叔父と出会い、父親の秘密を知り、力を貸してくれという。
そして、必ず守ると誓う怪獣のような守護者カラドホルグ。
理解しがたいことばかりで、溺れてしまいそうだ。いや、もう溺れてしまっているようだった。重力を僅かに失ってしまったようであり、体をぬるま湯のようなものが覆っているようでもある。酷く鈍麻しているのだ。世界が異なるために、思考が、感覚が、自分が人生で培ってきたものが通じず、解離していくようだった。
自分はどこにいるのだろう。現在地は認識しているはずなのに、迷宮を彷徨っている旅人のような疑念が沸いて払うことが出来ず、胸がしくしくと痛む。心臓に絡みつく柔らかな棘から逃れるように、なごむは寝返りを打った。
寝室の脇ではカラドホルグが椅子に深く背中を預けながら、緑色に淡く発光する石板を抱きかかえていた。
アルケアを癒す石板なのだという。濃縮されたエン・リーテが注入された石板で、一晩抱えていれば疲れが癒えるだろうとラシャが用意してくれたものだった。確かに効果があるようで、カラドホルグの表情は木漏れ日で昼寝をする赤ん坊のように穏やかだ。
ふいに、忘憂の佇まいのカラドホルグが、
「なごむ。眠れないのか」
漆黒の瞳にぶち当たって、虚を突かれながらも首を垂れる。
「う、うん」
「そうか……。子守唄でも歌おうか?」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「いくつか知っている。なごむの世界の子守唄だ」
どの世界の、という話ではない。そもそも子守唄を歌われる歳ではない。
「だ、大丈夫」
なごむは気恥かしさを感じながら断った。
「そうか」
カラドホルグの瞳に存外にも哀愁の色を漂い、なごむは焦って、誤魔化すように布団をあげた。
「ちょっと、トイレに行ってくるね。気晴らしに。夜の散歩、というか……」
「うむ」
石板を床に置こうとカラドホルグが動く。
「一人で行けるから!」
ついてくる気満々のカラドホルグを声で制して、なごむはベッドから起きあがった。
「大丈夫だから!」
夜着のままドアノブに手を掛けて、念を押す。それからなごむは一人、夜のベールに包まれた城の廊下へと出た。
煌びやかな文様の刻まれた絨毯がえんえんと続く廊下。窓からの月光だけが光源の、コバルトブルーに闇に沈んだ城をなごむは歩き出した。窓の外では兵士たちが庭を徘徊している。侵入者を逃すまいと目を光らせている。庭へ出る道は教わっていたが、出るのは躊躇われた。
透明な棘に囚われないで済むような場所を求める。出来るだけ人目につかないところを。
そうして見当をつけたのは、廊下の果てにある広く張り出した露台だった。人もいなければ何もない。簡素過ぎて目的の分からないそこが魅力に見えて、なごむは扉を開けた。
「寒……」
外は意外にも冷えている。夜風に触れて、鳥肌がぞわりとたつ。
「昼間はあんなに暑かったのにな」
体を擦りながら手すりへと近づく。広がる夜の景色は澄み渡っていた。幾つもの高い塔から覗く二つの月は、女性の爪跡のように細く頼りなく浮かび上がっている。少ない雲の流れは早い。上空では猛烈な風が吹いているのだろう。
顔を真正面にすれば、遠くには街の明かりがある。それが湖畔に反射して、街がふたつあるように映る。
音楽が聞こえる。眼下に舞踏会場があるのだ。ドレスを着た人々がくるくると踊っている。まるで映画のように。
「まだやっていたんだ」
ラシャを迎えるための夜会が夕方ごろから開かれるといっていた。なごむは疲れ切っていたので会場には行っていない。行かなくて正解だった、と思う。あんな華やかな場所で立ち回る術などなごむは持っていない。いや、立ち回るどころか、ただ立っているだけで苦痛だったに違いない。この城にいるだけで、様々な視線が刺さって居心地が悪いのだから。目立つ場所などいれるはずもない。
「父さんが、生まれたところ、なんだよね……」
仏壇の父を思い出す。顔は整っているが何処か純朴そうで、柔らかな印象を人に与える父。それほど思い出もない。普通のサラリーマンだった。元マジシャンの、普通の、生きていれば中年オヤジと間違えなく言われるだろう父。もしかしたら、反抗期なんてもので鬱陶しかったかもしれない父。そんな父が異世界の住人で、王子様だった。
失笑するしかない。
「お母さん知ったら、びっくりするだろうなあ」
母親の理沙が頭の中で目を丸くする。その傍で、克明が狸の置物のようにぽんと出た腹を抱える。
なごむはぶるんと頭を振った。考えたくもないことを、考えてしまう。
裏切られたようなものだ。二人がどうなったかなど、知りたくない。想像したくない。関わりたくない。なのに、何もしないと彼らはやってくる。困惑していたり、怒り狂っていたり、あるいは心配していたりする。異世界になごむがいるなど、知りもしない彼らは、或いはなごむを置き去りにして食卓を囲っている。
棘が鋭さを増した。思わずぐっと胸元を掴むと、
「どうしたんだ、こんなところで」
予期せぬ人物の登場に声をかけられ、勢いよく振り向いた。
ソアラだった。薄紅色のドレスを纏うその姿はやはり、女神のように美しい。しかしその表情には鋭いものがあった。ピンときて、
「もしかして、ラシャさん?」
「ああ。夜風に当たりたくなってね。少しの間、ソアラに私の真似をしてもらっている」
なるほど、ドレスアップしたラシャは度肝を抜かれるほどに麗しく、ソアラにそっくりだ。いつもはサイドに纏めている髪を下ろし、巻き毛にしている。艶やかな姿なのに愛想は微塵もないあたりがラシャらしいが、もし微笑まれでもしたら、ソアラとは全く見分けがつかないだろう。
「具合が悪いのか」
胸を押さえて俯くなごむに、ラシャが尋ねる。
「や、眠れなくて……。いろんなこと考えちゃうんです」
「いろんなこと?」
「家出したから」
つるりと舌が滑った。言おうとは思っていなかったのに。はっとして顎をあげると、ラシャは平然としていた。顔色一つ変えずに、
「何か事情はあるとは思っていた」
静かに手すりへと右手の五指をかける。ピアノでも弾くように滑らかになぞると、
「巻き込んですまない」
「え?」
謝罪の言葉に目をしばたく。ラシャは目を伏せることなく続けた。
「お前とロトは関係がない。ましてや、この世界と関係はない。お前の父は、異世界で生きると決めたのだから。息子のお前の、知るところではないのだ。本当はお前を頼るべきではない。自国のことは、自国の力で解決すべきだ。……私の責任だ」
そう言って、頭を下げるラシャに、なごむは動揺した。
「そんなことないです! その、ラシャさんは立派だと思うし……」
「私は、立派な人間ではないよ。お前が断ることを苦手とする人間であることに、私は気付いている」
思わず、言葉を失う。
「卑怯だと思うだろう」
「それは……」
戸惑いながらもなごむは自身が告ぐべき言葉を探した。自分がどうすべきか、どう答えるべきなのか。
「正直なことを話してくれていいんだ。なごむが、どうしたいのか。どうありたいのか」
――――どうしたいか、どうありたいか。
ラシャの声が、心を貫いた。意思を尊重するような物言いをラシャがするとは思っていなかった。強引に何かが決まっていく、そんな流れを作りだした一因である怜悧な少女が、まさか遮るとは。
「僕は……」
なごむは考える。自分はどうするべきなのか。どうありたいのか。振り返り、反芻し、頭を回転させて心を掘り下げるようにあなぐる。
どうしたい? どうするべき? どうこたえる?
本当の自分の感情とはなんなのか。
「僕は…………」
心の中に輪郭を現したのは、
「力になりたいです」
露頭への憧れだった。
くっきりと浮かび上がる。露頭と、死んだ父と、自分とを繋ぐ一本のか細い糸。血の繋がり、或いは記憶の繋がり。自覚して、なごむは頷いた。
憧れと、夢へと、懐かしい温かさへと紡がれていく願い。自分はやはり、この世界で父と繋がっている者たちの手助けをしたいのだった。少しでも力になり、感じたいものがある。
露頭という存在を――――。
「分かった」
ラシャは目を軽く伏せると、ゆっくりと手を伸ばした。
「ラシャ・ギブリット・ユグリートとして剣と楯とに誓う。ニコタマナゴムを絶対に、強くすると」
気品のある、王族たる、獅子のような威風ある眼差し。ふたつの月を背後に、鮮やかな赤髪が炎のように靡いて揺れる。焼きつくような妍姿の少女は、力強く言った。
「共に闘おう」