第七話「ユグリート城」
国境の街オルクトを離れ、なごむ達は更に東へと飛翔していた。暗闇は穏やかに拭われ、黄金色のふたつの太陽が世界を鮮やかに綾なす。次第になごむは空の旅路に慣れ、景色を楽しめるようにまでなってきた。
ユグリートは広大だった。煉瓦で緻密に作られた大きい街もあれば、藁屋を組んだ数軒だけの集落もある。生活水準は各々差があるようであったが、共通して水が多く緑豊かだ。
季節は夏の終わり、なごむの世界と同じく収穫の時期らしい。早朝の爽やかな日差しの中、人々は農作具を手に田畑に出ていた。薄紅色の絨毯のような田畑に体を埋める人々。家族ぐるみ、集落ぐるみでしているのだろう。みな笑顔で和気あいあいと語らいながら、稲穂に鍬を入れている。
昔の日本も、こんな感じだったんだろうな。なごむは思い、なんだか日向にさらした石を抱くような、温かい気持ちになった。
小さな子どもが天を指差す。人々が手を振る。人々の上空で翼を広げ、双頭の竜は優美に飛行する。
「気持ちいいですね。みんないきいきしていて」
朗らかな心地で緊張が少し緩み、なごむはラシャに話しかけた。
「今年は稀にみる豊作の年だ……このまま続けばな」
しかしなごむとは対照的に、ラシャは苦虫を噛んだようだ。
「どういうことですか?」
「お前は異世界の住人だからな。どこから話せばよいか……」
ジャルグボールグの「国が滅びる」という物騒な言葉を思い出す。
「エン・リーテの穴を北方のアルケアの屍が塞いで、発見が遅すぎて……でしたよね」
「ああ。覚えていたか。……エン・リーテは分かるのか?」
聖ア王国の教会で手に取った本で、少し学んでいる。
「えっと、ワイミールの魂で、意思?」
「……双聖教においてはそうだな。エン・リーテは世界の血液のようなものと考えていい。エン・リーテは全ての命の源で、どんな動植物にも共通して宿り、循環している。エン・リーテには力がある。火を起こし、風を巻き、大地を育み……すべてにエン・リーテが関係しているな」
「世界の血液……」
上手く想像できず、なごむは首を傾げた。元素のようなものだろうか、と。
ラシャはなごむを一瞥すると、手のひらを虚空へ翳した。五指が緩やかに舞う。まるで何もない空を攪拌するように。
「お前も視えるだろう、この無数に点在し舞いゆく光の粒が……」
きょとんと目を丸めると、ラシャは顔を歪めた。
「視えないのか、エン・リーテが」
ラシャの口ぶりから察するに、水か砂のように視るものらしい。しかし、なごむには幾ら目を細めても開いても、エン・リーテが視えない。
諦めて、首肯する。
「はい」
「カラドホルグが契約をしているはずなのにか。お前はアルクトテロスじゃないのか?」
ラシャの詰問に、どぎまぎする。
「アルクトテロスじゃなくて、中学一年生です」
「チューガクイチネンセイ……一年生? 学生か」
なごむの回答にラシャは目線を宙へ泳がせると、
「なるほど。契約というより、ただ守護されているだけか」
納得したらしく、閑話を収めた。
「続きを話そう。エン・リーテを多く蓄え力となし、古から生きるモノが存在する。それがアルケアだ。私のジャルグボールグ、お前のカラドホルグ。アルケアとアルクトテロスは互いの命を強く結び付け、契約する。一度契約するとどちらが死ぬまで契約を解くことはできない。が、契約することによって、力を高めあうことが出来るのだ」
ラシャはジャルグボールグを撫でた。くすぐったーい、と双頭の竜がふたつの首をくねらせる。
「……しかし中には、契約までに至らないアルケアも存在する。契約するための知能がもともとないのだ。ユグリートの北にはイノシシに似たアルケア・エルマチアンと土蜘蛛に似たアルケア・ネクアラがいる。このアルケアは、契約する知能がなく、獣と同じように生きていた。普段は互いの領域を侵さないのだが、昨年の秋の実りが少なかった所為もあるんだろうな。珍しく争ったようだ。ネクアラは深手を負ったらしい。まぁこれはあくまで、学者たちの推測なのだが」
一呼吸置いてから、
「エン・リーテは全ての命の源だ。アルケアはエン・リーテを大量に浴びることで、どのような致命傷でも癒すことができる。エン・リーテを大量に噴き出す場所は聖域といって、大抵は穴だな。それが我が国にはひとつある。その聖域、エン・リーテの穴へネクアラは移動し、エン・リーテに浸った。しかし、そこで力尽きてしまったのだ」
忌々しげにラシャは俯いた。
「ネクアラが地下を潜って向かったために、監視をしている兵士たちはネクアラの屍に気付かなかった。周囲の草木が枯れ始めたことで異常が判明したが、全ては遅かった。屍は噴出して土地を潤すエン・リーテを塞き止め吸って膨らんだ。挙げ句、憎しみだけの塊となってしまっていたのだ。土地は少しずつ恵みを減らしていくだろう。動物たちは強い憎しみを感じて不穏になり凶暴化している。私はジャルグボールグとともにネクアラの屍と戦ったが……」
「ぶっちゃけ三回くらい死んだよね。目を覚ましたらベッドの上でした、そんな三カ月」
「黙れ」
間に入ったジャルグボールグの軽口を氷の舌で一蹴して、ラシャはため息をついた。
「情けない話だ。首都守護隊の実に四分の一が死傷し、我々は同盟国である聖アやソラングールに助けを求めた。アルケアの力を貸してほしいと。しかし、断られたよ。……もともと期待はしていなかった。アルケアは貴重な戦力。その手の内を明かし、ましてや危険を冒させるわけにはいかない、というところだろう。我国がアルケア退治に疲れ弱体化するのは福音だろうし」
人差し指と中指の二指を伸ばす。人差し指を揺らしながら、
「残った手はふたつだけ。ひとつ、アルケアを使わない総力戦。対ネクアラに全守護隊を送る。国防能力はゼロに等しくなる。勝利が観測されているが、戦力の回復には時間がかかる。他国に侵略される危険が極めて高い、正に最後の方法だ。もうひとつは」
人差し指を折り、中指を突き出すラシャ。
「国内のアルケアを複数合わせて戦わせる。契約能力のないアルケアを無理やり引っ張るのは無理だ。……行方をくらませたアルクトテロスとアルケアを探すしかない。生きているかも分からない者たちを」
ラシャは静かに目を閉じた。瞑想するような横顔。まるで自身の中に湧きあがった怒りを諌めるように長く息を吐いてから、
「残された期間は二カ月だった。一カ月国中を探し、国外探索を各国へ依頼しようとした矢先、……お前たちを感じたのだ。カラドホルグ、そしてロト伯父様のエン・リーテを。それが……」
ラシャの視線がなごむにぶつかる。長い睫毛の下の黒い瞳から、鬼気迫るものが覗く。猛々しい感情が少女の中に渦巻いていることを悟り、なごむは畏怖を感じた。冷たい汗が脇腹を伝う。
「話はもう、いいか」
「あ。はい」
「本当に協力をしてくれるんだろうな」
「……それは……」
疑いを隠さない問いに、なごむは思わず口を閉ざした。
迷いが体を駆け巡る。ラシャが対峙してかなわなかった強敵に、対峙させられることが想像できない。
カラドホルグの力は強大だ。異世界へと瞬間移動をする、大きな風を巻き起こして洞窟のありとあらゆるものを吹き飛ばす、兵士の首を絞める。……カラドホルグがいれば、なんとかなる問題なのだろう、とは思う。
なごむの困惑を感じ取ったのだろう。それまで沈黙に徹していたカラドホルグが、
『僕はなごむの意思に全てを任せる』
そしてはっきりとした口調で言い切った。
『必ず守る』
カラドホルグの言葉に安堵する。カラドホルグは絶対に自分を守ってくれるだろう。彼は完全無欠の守護者なのだ。
「……うん」
少しの心の乱れを内に、なごむは顔を下げた。
空の旅路は牧歌的に過ぎていく。
やがてふたつの太陽が天中に登り、ジャルグボールグの影が最も小さくなった真昼。次第に建物と人の数が増えていき、畦道や獣道ばかりだった大地に、轍が刻まれ始めた。石畳の舗装された道も、目立つようになってきた。
ロンチャー(ヤギに似た縞々の毛並みの生き物)や、毛の長い牛によく似た動物が、大きな布張りの荷車を引いている。何台も並んでおり、脇を人々が囲っている。
「あれは、隊商ですか?」
「あぁ。首都には国内最大の市場があるから……」
なごむの質問にカラドホルグが答えた。
「もう首都が視えるよ、ほら!」
意気揚々と、ジャルグボールグが翼を動かす。地平線に、きらりと銀色に輝く棒状のものがあった。
「あれは……」
赤ん坊の腹のようになだらかな丘を越えると、大地に巨大な剣が突き刺さっていた。まるで大樹のようなそれを中心に、白を基調とした背の高い塔が身を寄せる。全体を眺めるとちょうど円錐の形をした――――、城だった。
城の周囲には放射線状に建設された街。計算に計算を重ね石を組み作り上げたのだろう、均整のとれた円形をしていた。中心に聳える城と合間って、生クリームでたっぷりコーティングしたワンホールケーキのようだ。
道路は向日葵のような放射線を描く。天から落ちてきた巨大な剣が生んだ美しい罅の跡に、丁寧に家々を立てたようにも思える。
また、首都の北側には首都とほぼ同じ大きさの湖畔があり、蒼い宝石のように光を踊らせている。
「ユグリート城だよ、なごむ」
ジャルグボールグの嬉しそうな声色。なごむは静かに、感嘆した。
綺麗だ――――。
蒼穹の袂に佇む、解けだした白雪のような都市。ユグリートの首都は、見るものの心を簡単に奪う筆舌に尽くしがたい壮麗さを持って照り映えていた。
「やっと着いたー、さぁ寝るぞー」
ジャルグボールグはふにゃふにゃと欠伸をすると、翼を畳んで着地に備える。滑るように下降しながら、なごむたちを乗せた双頭の赤竜は、城へと爪を反らせた。
中央に屹立する剣の真横には、空中庭園を広げた塔があった。ジャルグボールグは滑るように降下すると、空中庭園の芝生に爪をたてる。少しの衝撃のあと、空の旅路は終わった。
「着いたよ。降りた降りた」
なごむ達を急かすと、羽根を折り畳む。早々に人型へと姿を戻すと、ジャルグボールグは溜め息混じりに腰を揉んだ。
ラシャはその年寄り染みた所作に睨みをきかせた。
「しゃんとしないか。ここはお前の自室ではない!」
齢十二の少女にたしなめられ、へいへ~いと衣を正すジャルグボールグ。次にラシャの標的となったのは、なごむとカラドホルグだった。
なごむは神兵に捕らえられた際に服が土で汚れてしまっていた。指輪から人型へと姿を変えてなごむの後ろに控えるカラドホルグに到っては、髪はボサボサ、“EAT ME”という滑稽なセンスのTシャツが全く似合っていない、一見浮浪者の装いである。
「これから国王陛下にお会いする。その酷い格好をなんとかしなきゃならないな」
ラシャの嘆息に、
「なごむが望むなら」
カラドホルグがじっとなごむを見下ろした。
「え……僕、ですか? えっと、ちゃんとした格好の方が良いですよね」
王様に会うというのは初めてだ。どんな格好をすれば良いのか検討もつかないなごむであったが、素直に頷いた。
「分かった」
カラドホルグがそっと目を閉じると、火種のないはずの地面からシュルシュルと蔦のような炎が燃え上がり、なごむの足にまとわりついた。
「わっ!」
飛び上がって避けようとし、やめた。熱くない。炎とは異なる、異質なものであった。
「大丈夫」
見上げるとカラドホルグがふんわりと口角を上げていた。
どうやら彼の術のらしい。なごむは納得すると、火炎が全身を包むことを許した。眩しさに瞑目する。ほんの僅かな時間だけ燃え、すぐに火は消えたようだった。
恐る恐る開眼し、
「わぁ……」
なごむは意表を突かれた。なんとも不思議な驚き。なごむの服装が変わっている。滑らかな肌触りの純白の布で出来たフードつきの長外套、黒い半ズボン、そして黒皮のブーツ。全てに金糸で細かい刺繍が施されており、一目で最上級の代物だと分かる。
なごむは嬉しくなって顔をカラドホルグに向け、
「ありがとうござ……」
固まった。
そこにいたのは、見知らぬ男性。逞しい浅黒い肉体に軍服に似た濃紺の服。ジャルグボールグが着ている服とは色違いになるだろうか。
見事な、勇ましい青年の姿である。白銀色の短髪の下の優しそうな瞳。精悍であり、温厚そうな印象もある。
まさか、
「カラドホルグ……さん?」
「……駄目、か?」
馬子にも衣装。いや、今までの姿があまりにも酷かったのだ。
暫く唖然とした後、
「似合いますっ、似合いますっ!」
やや悲しそうな瞳のカラドホルグにぶんぶんとなごむは首を振った。
「ふむ、良いな」
姫君のお眼鏡にもかなったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしていると、
「丁度良い。迎えのようだ」
ついとラシャが視線を傾けた。美しく剪定された木々に、彩り鮮やかな無数の花で出来たアーチ。美しい庭園の向こうから幾つかの足音が響いてくる。
スッとした上品な足取りで現れたのは、猫だった。
「……ロシアンブルーの二足歩行だ」
なごむの呟き通り、猫は二足歩行であった。
しかもカラドホルグが着ているものと同じデザインの服を纏っている。腰にはサーベルが一本、繊細な金の装飾がされた鞘に収まっている。身分を表す正装なのだろう。やや異なるのは、右胸に剣を象った刺繍が縫いこまれていることだろうか。
青みがかった灰色の短毛と紫の瞳が実に麗しい。なごむと同じくらいの背丈だろうか。気高さを自然と醸し出す佇まいである。身分が高いのか、兵と従者を引き連れていた。
響いたのは、味わい深いバリトン。
「久方ぶりですラシャ様。お迎えに参りました。遅れて申し訳ありません」
「ヨーゼルか。お前が迎えに出るとは、珍しいな」
ラシャの回答にヨーゼルは微笑すると、
「空中庭園には見張りが一人しかいませんし、迎えの出来るような者ではありません。狼煙をあげてくだされば、音楽隊でも並べて、盛大にお迎えいたしますのに……」
「興味がないよ」
「でしょうな。冗談はここまでにして……丁度この下で守護三番隊の会議を行っていたのです。先日、首都で甲殻乱走と獣の暴走と、立て続けに騒がしいことがありまして」
「何……?」
表情を曇らせるラシャにヨーゼルは首を左右に振って、
「ご心配には至りません。どちらも軽傷者のみで被害は少なく抑えました。問題はありません。……それはさておき、この方々は?」
なごむとカラドホルグの姿を捕えて、アメジストの瞳が薄く伸びる。射抜くような眼差し、透視でもされているような感覚になごむはたじろいだ。自分たちは面識のない不審者なのだ。
「お前より先に会わせたい方がいる。陛下は何処に?」
すっとラシャが前に出る。ヨーゼルは視線を元に戻すと、
「謁見の間にいらっしゃるかと。すぐに会えましょう」
「よろしい」
ラシャの口ぶりに自身がすべきことを悟り、ヨーゼルはくるりと靴先の方向を変え、歩き出した。すたすたと歩き出すその背に、ラシャが付いていく。
「さぁ、行こう行こう」
ジャルグボールグに促され、なごむも空中庭園を後にした。花と緑のアーチを抜け、下界へ続く螺旋階段を下りる。いくつか階を通り過ぎ、踊り場に出ると、脇の扉から先へ行く。重苦しい鉄扉を抜けると、その先は廊下だった。
窓はなく、灯りは左右の壁についた蝋燭だけである。灯りも火のついてないものが多く、石畳の床は薄い闇に半ば沈みかかっている。長く歩いていると陰鬱な気分になりそうだった。
そんな廊下が全く同じ作りでえんえんと続く。加えて、右へ行ったかと思えば左、左へ行ったかと思えば右と、迷路のように複雑であった。
よく使う者でなければ簡単に迷ってしまうところだ。下手をすれば、何時間もさ迷うことになる。意図としては、侵入者が現れた際に迷わせ疲れさせ、攻撃の時間を稼ぐためだろう。
不気味さに怯えながら付いていたなごむであったが、やがて疲労が勝り、それどころではなくなってきた。ふぅふぅと息が荒くなり、声をかけまえか考えあぐねていると、
「では」
漸く着いたらしくヨーゼルが足を止めた。扉だ。うねる風を題材にしたのだろうか、ゆるやかなウェーブの装飾が細かく施されている。
左右には白銀の鎧を纏った者が、斧を手にしていた。彼らが扉に手をつくのをヨーゼルが制する。
「私が」
そう言って、ヨーゼルは桃色の肉球で扉を押した。そっと、綿毛にでも触れるような動作であったのに、すんなりと軽やかに開く。
「お入りください」
射し込む光は明るい。ヨーゼルたちに引き続き、なごむは恐る恐る入室した。
途端に辺りが開けた。閉塞した場所を渡ってきた分、まるで草原にでも出たかのように心は拡散する。
なごむは感嘆した。広壮とした内部には、見たことのないものばかりがあったからだ。
左右には巨大なステンドグラスが並んでいる。モチーフは人で、それも王族のようであった。王冠を頭に、手には様々な武器あるいは本や杖といった知恵をさす品を持ち、威厳ある瞳でなごむたちを見下ろしている。
上部には城を模したのだろう、美しく絢爛なシャンデリアが流星群のように瞬き垂れ下がっている。天井画もあり、それは緻密な麗筆をもって描かれている。人や、鳥や、虫や、馬や、山や、緑や、花や、数多くのものが散り散りに描かれているのに、まとまりを感じる。確かな技術をもった美術家の技術なのだろう。
あまりのことに圧倒されて、なごむは自分が置かれている状況を悟るのに一拍遅れた。
「王の剣、赤の者来訪なり!!」
猛々しい一声と甲高いラッパの音。
なごむは我にかえると、突き刺さるような視線を浴びていることに気付いた。左右に一列ずつ並んだ、濃紺の服の者たち。ヨーゼルと同じ身分なのだろうか。右胸に剣の刺繍がなく、代わりに盾の刺繍が刻まれている。堂々とした彼らは鋭い視線でなごむが何者なのかを見定めようとしているようだった。
ラシャの迷いのない背中についていく。恐縮しながら人々の間を通り過ぎ、今度は開け放たれた扉を前にする。
「それでは私はここで」
ヨーゼルが足を止める。凛と立つ彼を横目に、扉を潜り抜けた。
同じように開けた空間――――、中央に玉座があり、一人の男が坐していた。
滑らかに胸元まで下りる黒髪に、金銀宝石が精緻に組まれた冠。金糸の刺繍が襟を鮮やかにする濃紺の正装。滑らかな光をにじませる深紅の長外套。まるで古い物語から飛び出してきたような鷹揚とした王がそこにいた。
掘りの深い整った顔立ちは美術品のよう。黒い明眸からは気品が溢れ、視線が不思議と吸い寄せられる。口髭が鼻梁の下にあるが、それを剃ってしまえば意外にも若いのではないかと思えた。
「父上……」
ラシャの呟きに、なごむは交互に二人を見た。眉目秀麗な容姿は、なるほど、どことなく似ている。
だが、それ以上になごむには惹かれるものがあった。何故か懐かしく、胸が熱くなる。
一度この人にあったことがある気がする――――、そう思考を巡らせる。が、これほどの美形の男には会ったことがないはずだ。映画か何かからの記憶だろうか、いや……。
「お父さん、だ」
ふいに口にした言葉が思ったよりも大きくなり、反射的に唇を押さえたが、遅かった。
王の目がなごむを鷹の爪のように捕える。
「父上、話せば長くなるのですが」
庇うように、そっと前に出るラシャ。雄々しく黒い双眸をやや困惑の色で曇らせながら、ラシャはこれまでのことをゆっくりと語り始めた。
旅先でのこと、ロトのこと、カラドホルグのこと、そしてなごむのことを。
王は表情を変えずに耳を傾けていたが、なごむの説明に入って、徐々に眉をひそめ始めた。
「そうか……、御苦労であったな」
眉間を揉んで暫く間を置いた後、
「なごむ。兄上の……」
そう言って、王は立ち上がった。玉座の積まれた檀を下りて、滑るような動作で進む。そしてなごむの前に聳え、驚いたことに膝を折った。
なごむは息をのんでカラドホルグを一瞥した。カラドホルグは怪訝な顔をしながらも、小さく首を左右に振る。大丈夫というカラドホルグの言葉が聞こえたように思え、なごむは身を任せることにした。
目を丸めるなごむ。その頬を、王の大きく温かい手が包む。
「そう怯えなくても良い」
間近に目にして、なごむはますます王と父とに重なるものを感じた。写真や動画でしか顔に覚えのない父と確かに似ている。胸の熱さがますます高まり、喉元から鼻腔へふいに貫く。
はしなくも。なごむの目が潤み、滴が王の手にぽとりと落ちた。無意識のことに、何よりも他人に涙をつけてしまったことになごむは動揺した。
「ごめんなさ……」
王の手から後ずさろうとして、しかしそれは叶わなかった。王が後退しようとしたなごむを、ぎゅっと抱きしめたからである。
事態になごむの心臓が跳ね上がる。バクバクと肋骨を叩く。緊張に逆上せ上りそうになっていると、王の力が更に込められた。そして、
「……兄は死んだのだな」
酷く寂しげな囁きだった。
なごむは王の言葉に、自分の涙の理由を知った。
王となごむの父親は血を分けた実の兄弟で、遠い記憶の父に似ている。なごむと王は伯父と甥の関係であり、なごむは王の兄の忘れ形見なのだ。
理屈ではない、肉親の絆を初めて感じて、ふいに出た涙であった。
感極まって、なごむの目からボロボロと涙が溢れた。それまで意識していなかった異世界へ来たことの孤独感や寂しさ、裏切られたことや乱暴にされかけたことの恐ろしさ、未知なものばかりの不安が、なごむを激しく襲う。こんな感情が自分の底に隠れていたことに驚き、慌てる。
理沙の顔も浮かんだ。喧嘩をして逃げるように出てきたが、いま理沙はどんな気持ちだろう。なごむと理沙は、ふたりだけの家族なのだ。望郷心も沸き上がり、なごむは感情の発露が抑えられなくなった。涙は後から後から溢れて、頬はマグマのように熱くなり、肺と心臓は針で刺すような痛みに震える。
止めようがない――――。
号泣するなごむの背を、王は何も言わずに擦った。なごむも王にしがみついて、その胸に涙を預けた。