第六話「甲殻乱走」
黒狼山脈は国と国とを隔てるほどに高く屹立した山々だった。麓は緑に溢れて温暖である地域が殆どであるのに対し、山頂に向かうにつれてどんどんと気候は厳しくなる。その頂きに到っては年中凍てつく寒さで、溶けることを忘れた雪が覆う。
そんな黒狼山脈を、ジャルグボールグは悠々と越えてゆく。雪化粧で色づいた山を眼下にして、しかしなごむは寒さを感じていなかった。そればかりか、巨体がバランスを崩さずにいられる飛行速度であるにも関わらず、風による抵抗すらない。なごむ達を薄い桃色の結界のようなものが囲っており、それが防御壁になっているようだった。もしかしたら翼で飛んでいるのではないのかもしれないと、思う。
とはいえ、高い位置で飛んでいるという感覚は内臓の縮むようなものがあった。浮わついて定位置を失った心臓や胃やらが、妙に気になる。恐れはないが、お世辞にも居心地は良いと言えなかった。
「もうちょっとかな。山脈を越えるのは。昼ぐらいには目的地周辺ですっ、なんてねぇ」
ジャルグボールグが高揚したように笑う。彼の軽口に、相変わらず時おり伺えるラシャの横顔は堅い。笑顔という表情を子宮に忘れてきたような彼女。内臓不振も加わって、なごむは語る言葉を失っていた。
早く着かないかな、その思いは念じるに等しかった。心の中で数字を数えたり、羊を転がしてみたり、童謡を歌ってクマとこんにちわを何十回と繰り返していると、
『あれは……あの方向は、国境の街オルクトか?』
カラドホルグが声を響かせ、ラシャが視線をある一点に落とした。
「何?」
なごむもまた二人に倣い、ラシャの肩越しに眼下に広がる風景のある一か所を認める。黒狼山脈を越え、平原が広がり始めたその麓。ちょうど国境の端に当たるだろう場所で、無数の蛍火が明滅していた。
どうやら、街のようだった。近づくにつれ肥大化する街は、大量の光を散り散りにしながら、もうもうと煙を吐き出していた。
「襲撃されている……」
ラシャの言葉に耳を疑い、目を凝らした。夜ゆえにぼんやりとしているが、街を囲う外壁、東側に火が集中している。外壁では、黒っぽい何かが蠢いていた。
色素を混ぜているのだろう、赤い狼煙が立ち昇っている。
「どうするの、ラシャ。守護隊への狼煙はもう上がっているようだけれど」
「下降する」
「了解」
ラシャの指示を受け、ジャルグボールグが体を傾ける。猛烈な勢いで一気に下降すると、現状が更に詳しく目に飛び込んできた。街の外壁を、蟻のようなフォルムの生物が襲っているのだ。目を橙色に光らせた暗赤色の巨大な虫たち。人の一回りも二回りありそうなそれらが、何十匹も集まり、がりがりと街の外壁を噛み砕いているのだ。
「甲殻乱走か……。もう夏も終わりだというのに」
ラシャが舌打ちをした。
外壁の上では、人々が喚き叫びながら矢や岩を放っている。しかし強固な甲殻虫はそれらをはじき返し、石で組み立てられた外壁に歯を立て続けていた。
「油を注げーー!」
人々から怒声が沸いた。風呂釜ほどの大鍋がひっくり返され、煮えたぎった油が鍋から虫たちの頭上へと注がれる。更に投げられた松明が油に着火し、灼熱の火炎が黒煙と共に高々と上がった。さすがの虫たちも、これは効いたようだった。焼け死んだ仲間を盾に一度後退し、群れを乱した。しかしすぐさま体勢を立て直すと、再び壁に激突した。
激震に足場が割れ、何人かが犇めく虫の群れの中へと無惨にも落下する。骨と肉のの咀嚼が辺りに響く。
映画でしか見たことのないような光景に、なごむは戦慄した。視線を逸らし、体を伏せる。
激戦は勢いを増す。虫の体当たりに、歴戦を耐えてきたであろう外壁もヒビが目立ち始めた。人々と虫との熾烈な戦い、勝敗は今、虫に下ろうとしていた。
「これでは守護隊が間に合わないな。オルクトは外壁が強靭だから、局所的に崩されると虫には弱い。内からやられたら逃げ場を失うね。どうする?」
ジャルグボールグが喉を鳴らすと、
「……時間はまだある。決まっているだろう。なごむ、カラドホルグ!」
「はい!」
「少し寄り道をする、いいな?」
「あ、はい!」
ラシャの問いかけは、有無を言わせぬ気迫のあるものだった。なごむが素直に従ったのを横目にすると、ラシャはジャルグボールグの体を強かに蹴りあげた。
「ひゃっほう!」
ジャルグボールグが一気に下降する。滑空しながら二つの頭を掲げると、大きく息を吸い込んで、一気に虫たちへと吐き出す。
するとどうだろう。ジャルグボールグの唇の先から、驚くべきことに火焔の玉が噴出し始めた。双頭の竜から放たれた幾つかの火球は虫たちを包み込み爆裂する。
火柱が次々とあがる最中、隙間を縫うようにジャルグボールグは器用に飛ぶ。その動きは華麗だった。まるで甲殻乱走を楽しむ、妖艶なる舞踏のように。
――――蝗害という災害がある。
蝗害とは、大量群生したバッタなどの虫が地域のありとあらゆる草木を食べつくしてしまう災害のことである。その害の後には、水は汚れ切り、草木一つも残らない。必然的に、その土地に住む人間や生き物は飢えに苦しむこととなる。
ラシャ達の世界には甲殻乱走という災害が存在した。大量の虫が襲うという点で蝗害と似たこの災害。しかし、蝗害とは一線を画したおぞましい特徴があった。
それは、雑食の虫が草木だけでなくありとあらゆるものを食べてしまうという特徴であった。草木どころか家畜も、建物も、人さえも食べてしまう。
加えて、甲殻乱走を起こす虫たちは蝗害同じで、孤独相という普段の体から群生相へと変貌を遂げる。群生相とは、移動に適した体に自身を作りかえること。そうすることによって、虫たちは恐るべき速さで移動し、何でも貪欲に喰らった。そして何より、普段よりも巨大で強固な甲殻を纏った。
例年よりも暑い日が続く涸れた夏の年。突然雨が降ったその翌日起きる甲殻乱走は、人々にとって正に恐怖そのものであった。
「守護隊か!?」
頭上から突如飛来した双頭の竜に、人々はどよめき、歓喜の声をあげた。
「違う……あれは、ラシャ様だ! 深紅の姫騎士が救済に来たぞ!」
ラシャの姿に覚えがあったのだろう、戦いに疲れを感じ始めていた兵士たちが表情を変えた。疲労に侵食された体を奮い立たせ、虫たちへの攻撃の手を強める。
一気に高まった士気。それを背後に、ラシャがジャルグボールグの背に屹立する。
「火に耐性のある奴が何匹かいるな……」
ラシャの言葉通り、虫の中には火にもろともしないモノがいた。甲殻の表面がぬらりと照る。粘着質な体液を分泌し、甲殻に絡ませているのだ。そうすることにより、炎から耐えているようだった。
討ち取る手は、ひとつ。
意を決すると、ラシャは低空飛行の状態を見計らい、ジャルグボールグから飛び降りた。
「カラドホルグ。そいつを守っていろ!」
『当たり前だ』
ラシャにカラドホルグが答える。
距離を置いて、ジャルグボールグが地に足をつけ、なごむを下ろした。
「出来るだけ遠くへ走って。ちょっと待っててね」
そう言うと、ジャルグボールグは体を低くし、口を大きく開けて無数の鋭い牙を晒しながら、一気に虫たちに突っ込んだ。
轟音があたりに飛び散る。ジャルグボールグの捕食、双頭でバリバリと虫たちの頭を噛み砕く。弱肉強食の摂理に下された虫たちは、突然の襲来に群れを崩すしかなかった。
「一気にカタをつけようじゃないか!」
猛然と走り出すラシャ。その細い体のどこに、勇ましさを隠していたのか。彼女は一切の恐怖を見せずに虫たちと対峙した。
「ジャルグボールグ!」
ラシャの絶叫が木霊する。途端に、虫たちに牙を向けていたジャルグボールグが喉を鳴らしながら猛々しく雄たけびをあげた。するとどうだろう、ジャルグボールグの体がみるみるうちに溶け、凝集し塊り、ひとつのルビー色の球体となったではないか。
ジャルグボールグの変化はそれだけで終わらない。球体となったジャルグボールグは軽々と飛び跳ねると、ラシャの体をぱくりと丸々飲み込んだ。
「ラシャさん!?」
なごむの悲鳴に気付いて、虫たちの気が逸れる。集中が外壁から途切れ、簡単に腹を満たせそうななごむへと寄せられた。虫達のうろんな瞳を感じて、なごむは一歩後じさる。
それが刺激となってしまった。虫達はざわりと産毛を逆立てさせると、なごむへと突進してきた。
「うわぁ!」
反射的にしゃがみこんだなごむの足を虫たちの歯が砕かんとした瞬間、鉄が弾けるような音と共に歯が飛散した。
虫の巨躯が浮かび上がり、その胴体が専断される。黄緑色の体液がばしゃりと地面に降り、空中で二分された胴体がなごむを横切った。砂をまきあげて落下する。
「ごほ……」
土煙を吸い込んで、なごむは咳き込んだ。口の中に土の味が広がる。顔をあげると、砂に霞んだ視界を深紅の物体が遮っていた。
「下がっていろ」
ラシャの声に、なごむは括目した。だが目の前にいるのはラシャではなかった。確かにラシャの高く可憐な声色である。しかし、そこにいるのは二本の角を持った赤い鎧の騎士。中に豪傑な戦士を隠すかのような重厚さに、深紅色の鋼がまるでマグマのように鮮やかな色合いを浮かべている。隙など見当たらない、何処から刃を打とうとも跳ね返すだろう強さを称えた騎士がそこにいた。
その手には墨を塗りたくったような漆黒の大剣。何者でも容易に両断しそうな業物が鈍く輝いていた。
赤い騎士は確かにラシャの声で高々と虫たちに面す。
「お前たちの敵は、この私だ!」
バッファローを彷彿させる二本の角を生やし、厳めしい外貌を闇に晒す騎士。身の丈は三メートル近くあり、装備しているのは巨人だと言われた方がよほどしっくりくる。
ラシャなのだろう緋色の騎士は、群れに躊躇いなく入りこんだ。隙を突いて大剣を振り、頑丈な甲殻をいとも簡単に両断する。
重苦しい装備であるのに素早い。加えて、動きに無駄がない。
研ぎ澄ませた五感で暗闇を迷わず疾駆し跳躍し、一振り一振りで確実に敵を薙ぐ。鍛錬を組んで編み出されているのだろう剣さばきは鋭い。
残酷であり不快であるはずの殺陣になごむは目を奪われた。ラシャの戦う姿に、優雅ささえ感じられたからだった。
外壁を喰らうほどの牙をもち、炎に全身を焼かれても戦闘を止めなかった巨大な虫たちが、地を揺らしながら腹の中身を露にする。
巌も砕く虫の突進を刃で流し、首を刎ねる。飛び上がる首は虫たちにぶつかり、隊列をますます乱した。ガラ空きになった虫の脇腹に入り込むと、刃を突き付け斬り伏せる。
まるで粘土細工だ。虫たちはひしゃげ、騎士の猛攻に次々と屈服した。
瞬く間に数十匹が十数匹になり、十数匹が数匹になる。
そして残された最後の二匹。二匹は武装したラシャに対して、後退し尻を仲間たちの骸につけ、力なく頭部を下げていた。触角を互いに絡め合っている。
「戦意を失ったか……」
ラシャは一歩後退した。二匹は彼女の慈悲に牙をカチカチと鳴らし威嚇すると、一定の距離を保ったまま外壁に背を向け、そのまま森の方へと逃げ出した。
完全に二匹が去ったのを認めてから、
「ジャルグボールグ!」
「はいはい」
再び球体となり、二分した。いつものラシャと、人型のジャルグボールグに。
「もう良いぞ」
ラシャがなごむの方を振り返った。なごむはそれを合図に歩み寄ると、ラシャの頭からつま先を注視した。
「さっきの赤い騎士は……、ラシャさんとジャルグボールグさんが合体? したのですか?」
「合体、なのかなぁ。俺が重装甲の鎧になって、ラシャがその中に入り込んでる。……子供と合体する趣味はなかったはずなんだけどねぇ」
ジャルグボールグが唇の端を二ミリ上げる。
「下品な」
眉間に皺を寄せたラシャ。
どこからどうみてもラシャは少女の体つきだ。細い体躯のどこに、先ほどの鎧を纏う力があるのだろうか。いやなによりも、あの俊敏な戦闘をする能力が。一切の迷いもなく剣を振るう勇気が。
ジャルグボールグとだからこそ出来る技なのか。
「興味あるのか」
「えっ」
気付くとカラドホルグが傍らにいた。
「えっと、すごいなって」
「戦いに憧れるのは、あまり勧めない。なごむは戦いのない国の人間だから……」
表情こそ分からないが、カラドホルグは真剣になごむを心配している。素朴な声から滲む愛情に、なごむは戸惑う。
この人は何でそこまで、そう考えていると、
「開門!」
閉じられていた街の鉄扉が重たい音を軋ませて開き始めた。ややあって、扉から出てきたのは数人の戦士と理智的な雰囲気のある青年だった。
青年は茶色い短髪を乱しながら駆け寄る。ラシャを前にすると物腰柔らかく歩を進め、
「ラシャ様……!」
頭を垂れて膝まづいた。
「久方ぶりだ」
感激したように青年は顔をあげると、
「お久しゅうございます。お恥ずかしい、覚えておられましたか。三年前の建国記念祭以来でございますね」
「ご苦労だった。お父上から領地の管理を任されてから初の災難といったところか。統率がとれた良い戦いであった」
「有難いお言葉。しかしながら、ラシャ様がいなければ今ごろ外壁か門か……破壊され、街の者が骸となっていたことでしょう。誠に、街を代表し、心から感謝の念を。ありがとうございます……」
街の政を任されているのだろう青年は再び秋の稲穂のように深々と頭を垂らした。
ラシャは被害状況の確認のために松明によって照らされた外壁に視線を向けると、
「復旧には時間がかかりそうだな。守護隊がもうすぐで来るだろうから、復旧の間は守護隊の三分の一を街の外に置き、防御を維持しよう。甲殻乱走がまた起こらないとは限らない」
淀みなく発言を続ける。
「今回は人口密度の高い街が襲われたが、防壁も外掘も持たない周辺の村々が襲われる可能性がある。領地内の村々の女子どもに一時的な街への避難を伝達するように。避難が難しいようならば、死骸から抜いた体液を分けるように。体液が虫たちに危険を知らせてくれるから、甲殻乱走を防ぐことが出来るかもしれない」
青年は不安げに眉を下げた。思うところがあるのだろう。何かを言いたげに顎を動かす。
その所作に青年の考えていることを汲んだラシャは、静かに言った。
「甲殻乱走は冬眠する冬には起こらないから、そう期間は長くならないだろうが、その間は減税と食糧資金の援助を行う。私から王へ直接話をしよう。心配しなくて良い。……近隣の村への避難勧告および近隣領地への伝達、被害状況をまとめ国への申し送りを……頼んでも良いか」
さらさらと可憐な唇から出てきた提案と指示に、青年は瞠目する。みるみる内に青年は瞳を潤ませ、紅潮する頬を地につけた。
「……えぇ、勿論でございます! 真心あるご配慮、ありがとうございます。街の者もこの日を忘れることないでしょう」
ラシャと青年が更に具体的な対応と対策を語り合う。なごむは二人の様子に茫然とする。
「なんだ。ラシャに熱視線なんか送って。まぁ笑いに必要な筋肉は少ないけど顔だけは可愛いもんね」
ジャルグボールグに小突かれつつ、
「……え、や、すごいなって」
「そう?」
なごむは頷いた。胸に残っているのは青年より強い感嘆である。
「あんな風に考えて、あんなこと言えて……僕と同じくらいなのに」
「なごむ幾つ?」
「十二歳です」
「じゃあラシャと同い年だ」
「本当に!?」
「あ、来月十三か」
年齢が同じであったことになごむは度肝を抜かれ、再びラシャを凝視した。表情こそ大人顔負けに凛々しいが、そこにいるのは背丈が少しなごむより高いくらいの赤い髪の少女だ。
「本当に、本当に、すごい……」
感激して熱っぽく呟くなごむ。そんななごむの様子にジャルグボールグは、
「そうならざるえないっていうのもあるのさ……」
「え?」
ジャルグボールグの笑みが消えたような気がして見上げると、どすんと背中を叩かれた。
「色々あるって話だよ、なごむ少年!」
ゲラゲラと笑い声が夜空に響いた。