第五話「出会い」
少女と、長身の男。
赤い髪を靡かせ、大きな漆黒の瞳になごむを映す、齢十二かそこらの少女。そして後方に控える長身の男は、深紅の服を着ていた。歴史の教科書の最後辺りに出てきそうな軍服だ、となごむは思う。
赤という共通のカラーを持つ二人であったが、受ける印象は二分していた。少女は美しい容姿をながらも生まれてこのかた笑ったことがないような仏頂面で、男はというと肩までの柔らかそうな金髪を豪快に掻きながらニヤニヤとしている。軍服を着るべきは逆だろうと思わせる組み合わせだ。
少女がワンピースのような純白の服をはためかせながら、
「全く。聖アの神兵を殺すおつもりですか。どこぞで身が知れて国際問題にでもなったらどうするおつもりですか?」
呆れたような口振りに、なごむは首を傾げた。
「……どなたですか?」
「どなた?」
ぴくんと、少女が眉根を寄せる。
「そりゃそーだ」
男が噴きだすのを冷たい視線で遮ると、
「お初にお目にかかります。私の名はラシャ・ギブリット・ユグリート。ゼフィ・ギブリット・ユグリートの次女にあたります。ロト伯父様、以後お見知りおきを」
凛々しく自信たっぷりに紹介されるも、名前に覚えはなかった。
父の秀は親戚がいない。二子玉家の長女である理沙の兄弟は、みな日本人と結婚していていて、子どもはなごむより小さい。なごむの姪など、ありえない。そもそも、なごむはロトという名前ではない。
少女ラシャの言うところが全く理解できず、なごむはポカンと口を開けた。
「…………はぁ」
なごむの態度に、ラシャの眉根がますます狭まり、男の膨らんだ頬が勢いよく萎む。
「さすがだよ、ロト! しばらく見ない間に笑いのセンスを磨いたね!」
男が爆笑する、その沸点も分からず、
「………………はぁ」
「え。何それ。何その反応」
なごむのさっぱりな表情に、
「ジャルグボールグですけどっ。俺の顔忘れたわけ?」
どんと胸板に拳を入れつつ尋ねる男。まじまじと凝視するも、やはり覚えはなかった。
首を傾げてみると、
「伯父さま、噂通りですね。分かりました。せめて変身を解いて頂けますと助かるのですが」
ラシャが顔を顰めながら請う。しかしその願いすら、意味が分からなかった。
「どうされましたか」
ごくりと生唾を飲む。緊張のため極端にか細くなった声帯で、
「恐れ入りますが、その、変身って、何のことでしょうか? それに、人違いだと思います。僕の名前は二子玉なごむです。ロトという人では、ないと思い……」
最後には肺に空気がなく、語尾が薄くなってしまった。一息ついてから、ごめんなさいと頭を下げるなごむに、ラシャは血を抜かれたように蒼白となった。
「……何を言って」
拳を握り、唇を噛んで押し黙る。灼熱の憤怒を露わにして震えるシャ。
予期せぬ怒りになごむ怯えた。初対面の人間にこれほどまでの敵意をむき出しにされるのは、波風立たせぬように目立たず生活してきたなごむにとって初めてのことだった。
蛇と蛙のような二人に、ジャルグボールグは思案し薄目になる。それから思いついたように、ラシャを引っ張り後ろに退けさせた。なごむの眼前に立ち、
「カラドホルグ!」
ジャルグボールグは地に響きわたるような大声で叫ぶと、
「出てきなよ。感動の再会にしようじゃない。じゃなきゃ……」
腰に下げていた細身の剣、サーベルであろうか。その切っ先を天に掲げると、一気に振り下ろした。
なごむの華奢な首に刃が深々と刺さらんとした寸前、弾けた。サーベルが円弧を描いて宙を切り、地面に突き刺さる。
「うおう、やっぱり君には敵わないなあ」
軽口を叩くジャルグボールグの傍らに、
「……なごむに手を出すな」
見知らぬ大男が佇んでいた。
その場にいる誰よりも背が高く、がっしりとした体つきをしている。そればかりか、これほどに大柄な男をなごむは見たことがない。
なごむの二倍はあるだろうか、まるで動物園にいる白熊のよう。灰色の髪は鳥の巣のようにボサボサで、肩まで伸び、男の表情を裕に隠す。ちらりと伺える瞳は漆を思わせるほど黒く澄んでいる。
浅黒い肌を覆う服はまっさらな白いTシャツだった。見ると、“EAT ME”というユニークなゴシック体の黒い文字がプリントされた簡素なデザイン。なごむの世界のものだ。
そして、雨に濡れた庭のような匂い。苔むした巌にうっすら浮かぶ朝もやの匂い。生き物が放つことのできない匂いを持っている。
実に奇妙な大男である。彼は丸太のような腕を水平にし、大きな手のひらでジャルグボールグの頭を包んでいた。いつでも砕けるぞ、そう脅すかのように。
粗暴な印象を与える巨躯、それなのに、なごむの心は穏やかだった。懐かしいような切ないような、日だまりに似た感覚が胸を締め付ける。姿に覚えはない。たが、声を知っていた。なごむを落ち着かせる穏やかな声。庇護の決意が滲む言葉。
――カラドホルグ。この人が。
緊張しきって凍りついたはずの体が、ゆるゆると融点に達し、更に熱を帯びる。感情がわっと噴きだし皮膚にぶつかって渦となる。鼻腔が、唇が、胸が、痛いほど温かいものに痺れる。
――この人が。
なごむの頬を、ついと涙が伝った。
静まり返った場で、
「なごむ? ロト伯父さまではない?」
最初に言葉をついたのは、ラシャだった。
なごむは片手で誤魔化すように涙を拭ってから顔をあげる。
狼狽するラシャが瞳に映った。酷く衝撃を受けたらしい彼女に、
「大丈夫?」
「黙れ!」
なごむの呼びかけを乱暴に跳ねのけて、サシャはそのまま俯き押し黙った。
不安げにラシャを心配するなごむの服の袖を、優しくカラドホルグが摘まんだ。膝を折って大地に付けても尚、カラドホルグの目線はなごむよりも上にあった。
「ごめんなさい、なごむ。君を巻き込むつもりはなかった」
「あのっ、そのっ」
声の主、カラドホルグ。なごむを異世界に導き、そして見守る存在。
「貴方は……、その……。ごめんなさい、僕、全然分からなくて、その……」
なごむもまた、口を噤んだ。訳の分からないことばかりだ。とても知りたいことばかり。しかし、言葉にしようとすると喉に詰まってしまう。大量の疑問が出てくる歪な形となって気道をふさごうとする。息苦しくなる。
「うん。もう、隠すことは出来ないよね。今から話すこと、今まであまり聞いたことのない話だと思う。なごむの世界でいうならば、おとぎ話やゲームのような、現実に存在しない話。あり得ない話。その話を、今からしよう。その前に、言ってほしいことがある」
「え?」
藁のような髪に僅かに隠された瞳が、線になる。柔和に微笑んでいるのだ。なごむを恐がらせまいという配慮が伝わってくる。彼の髪が吐息で揺れて、薄い唇が露わになる。
「カラドホルグ、と、言って」
静かに反芻する。
「カラドホルグ……」
なごむが言葉にした瞬間、カラドホルグが小さく微笑んだ。ぎゅっと拳を握りしめたかと思うと、ドンと自身の胸を叩く。そうしてから、
「……じゃあ、何から話そうか」
彼は穏やかに語り始めた。
「僕の名前はカラドホルグ。なごむも読んだろう、この世界にはエン・リーテというものがある。それはありとあらゆる、森羅万象の中に混在して、いろんなものを生かしているんだ。そしてその塊をアルケアという。アルケアは周囲のエン・リーテに影響を与えることが出来る。僕はね、アルケアなんだ」
「ある、けあ……」
「なごむがこの世界の言葉を理解し、この世界の文字を読めたのも、アルケアが傍にいるからなんだ。……僕は君のアルケア。アルケアは重なるように、繋がっているから……なごむの世界でいうところの、守護霊みたいにね」
「アルケア……僕の?」
「そう」
そこで一呼吸置いてから、
「エン・リーテを生まれながら或いは勉強をして操れるようになった人をアルクトテロスという。君のお父さんのもうひとつの名前はロト。この世界でアルクトテロスだった」
「え?」
思わず耳を疑う。想像だにしていなかった告白に、唖然とする。
ラシャもジャルグボールグも同じく、表情を驚愕の色に染めていた。
「つまり、この子は……」
口を開こうとしたジャルグボールグを、カラドホルグは片手で制した。話はまだ終わってない、そう怒りを露わにするように。
「なごむ……、君のお父さんは地球の人間じゃない。異世界の、この世界の住人なんだよ」
頭を殴られたようだった。しかしその一方で、納得がいくことでもあった。天才的なマジックの才能を持っていた露頭と、どこか夢見がちなことを言う父親とが、なごむの中で初めて結びついた。
そしてその事実が本当ならば、なごむは、
「お母さんは?」
カラドホルグは首を左右に振った。
「このことを知らない。君のお父さんと結婚する時に、この世界のすべてを捨てることを決めたんだ」
なごむには異世界の住人の血が半分ながれているのだ。そのことを知り、なごむは驚きながらも、どこか他人事のように聞いていた。なごむはこれまで、自分と他人とがそこまで違うと感じたことはなかった。
いつも穏和で、自分の意志を伝えることが苦手。勉強やスポーツはそれなりに出来るが、誰かより秀でたことはない。
友達といえる交友関係も少ない。それなりに親しかった友人もクラスや学年が変わるごとに交流が絶えてしまうことが殆どで、今のクラスに到ってはいじめはないが孤立している状態に近い。だがそれは、違いには入らないだろう。なごむのような人間はクラスに一人や二人はいるものだ。
特別なことなど、一度も――。
そう思い、はたと到った。
「もしかして、マジックって……?」
なごむの呟きに、今度は頷くカラドホルグ。
「お父さんのマジックは、エン・リーテの力のお陰だよ。彼はマジシャンじゃなくて、アルクトテロスなんだ」
なんということだろう。誰にも思いつかないだろう斬新な露頭のマジックの数々はすべて、種も仕掛けもない、ということになごむは再び衝撃を受けた。なるほど、そうであれば父親との思い出にマジックが一切ないのは当たり前のことだった。彼はマジシャンではなかったのだ。
憧れが思いもよらない形で否定され、頭が白くなる。体の力が抜けかかり、ふらりとしたところで、カラドホルグに手を握られた。
無骨だが温かい手。その熱が伝わってきて、なごむはぐっと膝に力を込めた。
なごむとカラドホルグの対話。そこに、俯いて話を聞いていたラシャが、声を震わせて割り込んだ。
「ロト伯父様ではない? アルケアとアルクトテロスは一心同体。どちらかが死ぬまで離れることはない……。ロト伯父様は、亡くなられたのか?」
カラドホルグが腰を伸ばし、ラシャを睥睨しながら頷く。ラシャは衝撃を受けて大きくカッと目を見開いた後、
「何故だ! アルケアがいて、何故? 殺されたのか?」
「事故だ。事故で死んだ。どうしようもなかったんだ」
カラドホルグはサラリと告げると、
「もう良いかな。つまりもう……関係がないのだから」
なごむの服をまた摘まみ、ゆっくり踵を返すカラドホルグ。
「ちょい待ちーの!」
立ち去ろうとするその行く手を、ジャルグボールグが両手を広げ阻んだ。
「こっちの話を聞いてよ。何で君とロトを探していたのかを。エン・リーテがアルケアのせいで大変なんだよ。あのね、エン・リーテの穴を北方のアルケアの屍が塞いで、発見が遅すぎて…俺たちだけじゃ対処できない。君の力が必要なんだ」
訳を語る瞳は真剣そのものだった。しかしそんなジャルグボールグに、冷たく言い放つ。
「関係がないよ」
「関係がない? 関係がないだと!」
そっけないカラドホルグの返答に獣のように噛みついたのは、ラシャだった。赤い髪を逆立て、瞳を猛々しく燃やし、絶叫する。
「ロトはユグリート王国の元王位継承者、現ユグリート王の実の兄。関係がないはずがないだろう! そしてお前はロトのアルケアであったろう。関係がないなど、どの口で言う!」
王位継承者という言葉に、度肝を抜かれてなごむは足を止めた。
ラシャは怒りに任せて続ける。
「そもそもお前は、アルケアとして古からユグリートを護ってきたはずだ。そのユグリートが、滅びようとしているというのに!」
少女の必死の訴え。しかしカラドホルグは歯牙にかけない。無表情で歩を進めようとする。ついに怒りが頂点に達し、少女が腰に下げた剣に手を掛けたところで、
「すみません!」
頑ななカラドホルグを留めたのは、ラシャでもジャルグボールグでもなく、なごむだった。
「……えっと、あの……」
待ったをかけてみたものの、その後が出てこない。そんななごむにカラドホルグは、
「なごむ。君には関係のない話だ。君は考えなくて良い。大丈夫だ」
至極優しい口ぶりである。心が僅かに緩んで、今度こそしっかりとなごむは唇で紡いだ。
「でも、お父さんと、関係があるんですよね……」
一拍置いて、
「ラシャさんが伯父さんということは、ロト……お父さんの姪に当たる」
なごむの迷いを好機とばかりに、素早く話に入りこむ。
「そうだ。先ほども話したが、私の名はラシャ・ギブリット・ユグリート。ユグリートの第二王女だ。現ユグリート王であり私の父でもあるゼフィ・ギブリット・ユグリート、その兄弟であるロト・ギブリット・ユグリートの姪だ」
そこまで言って、彼女は唇を噛んだ。ほんの僅かに視線を地に向けると、
「もしカラドホルグの言葉が真実だとすれば、私とお前は従兄弟のようだ」
覚悟をそのまま固めたような黒の虹彩に射抜かれ、なごむは躊躇いがちに零す。
「従兄弟……」
言葉を失いかける。異世界のこと、守護者のこと、神兵のこと、様々な異常事態が立て続けになごむを襲ってきた。そして今度は、父が異世界の王族であり、目の前にいるのは従兄弟だという。困窮するのは当たり前の話であった。
なごむはしどろもどろになりながらも、
「なんか、うまく……頭に入ってこない、です。現実じゃないみたいで、でも」
言いきった。
「親戚だったら、他人事じゃないと思います。だから、お手伝いした方が良いんじゃないかって、そう思うんです」
ぎゅっと瞼を瞑るなごむ。冷や汗をかきながら懸命に告いだ言葉にカラドホルグは、
「分かった」
静かに膝を折った。
「君が望むなら」
澄んだ眼差しで、緊張に体を強張らせるなごむに囁く。それまでの冷徹な態度を嘘のように氷解させ、カラドホルグは頭を垂れた。
「僕はなごむのアルケア。君を護ることが使命。それだけのこと」
結ばれた合意。ピリピリとした緊迫が次第に落ち着き、途切れた。ラシャは剣に触れた手を下ろし、ジャルグボールグが安堵に弛緩する。
「よし! 交渉成立ってやつだな、うん」
ジャルグボールグは恐る恐る瞼を開いたなごむにサッと手を伸ばした。
「さぁ、仲直り、仲直り。ありがとう、なごむ少年!」
「あ、はい」
流れのままに手を握る。ジャルグボールグの手は不思議とごわごわとしていた。なんだか鮫の皮のようだ。
「そうと決まれば、早速ユグリート城に行こうじゃないか。うん、思い立ったがなんとやらだよ!」
ニコニコ顔でジャルグボールグが自身の懐を探る。襟の内側から乾いた音をたてて紙切れが落ちた。
「おっと。まあいいや。このまま見ちゃおう。はい、注目ー、俺に注目ー」
紙切れは折りたたまれた羊皮紙であった。薄茶色に汚れたそれを手早く開く。意外にも大きく、畳み半畳ほどになった。
それは地図だった。左側に鼻を向けた象のような大陸が横たわる。中央には山脈の絵が描かれていた。意気揚々と山脈より西を指さし、
「こっちが聖アね」
東へとずらして山脈を越える。
「こっちが我らがユグリート王国です。黒狼山脈を越えてちょっとのところ。俺に乗れば一日もかかんないね」
「俺に、乗る?」
不可思議で謎めいた発言に、なごむは面食らう。
「そうよ。俺が変身すっから……ん?」
訝しげに顔を歪ませるなごむに、ジャルグボールグはピンと思い至る。
「ははーん。少年、さては俺を知らないな」
今日はじめて会います、という言葉を飲み込んで、なごむは屈伸運動を始めた金髪の男を見守る。ジャルグボールグは肩をそびやかし鼻息を荒くしながら、
「見ててよ! 一瞬よ、一瞬!」
大きく体を沈ませると、後方転回した。空中でしなやかに膝を丸め、地へ足をつけると思いきや――、驚くことに赤い球体となった。
非現実な光景に唖然とするなごむを尻目に、球体となったジャルグボールグは宙へと浮遊すると燃え上がる。まるで鬼火のように炎上し、膨らみ始める。炎の細胞分裂。瞬く間に大きく、巨大になり、やがて形を球体から獣のようなものに変えていく。日本の長い首に、四本の四肢に、天を遮るふたつの翼。
――次の瞬間現れたのは、巨大な双頭の赤竜であった。
「「じゃじゃーん、びっくりした!?」」
気楽そうなあの声が獰猛そうなふたつの竜の顔から同時に落ちてきて、なごむは後頭部を殆ど首根にくっつけながら唖然と仰視した。驚愕で目が飛び出そうだ。竜を観るなど初めてで、しかもその竜はなごむを縦に四、五人並べてもなお足りないほどの巨躯である。
鰐のように鋭い歯が無数に並んだ口から、生温かい吐息が肌にかかる。
「「びっくりさせすぎた?」」
「あ……はい」
「「ごめんよ」」
ぶんと振り下ろされた頭で旋風が巻く。ふらついたなごむの背中を、そっとカラドホルグが支えた。
軟弱な態度のなごむを横目に、赤髪の少女は垂れた竜の首に足を掛けると、手慣れた動作でするすると竜の背中に乗った。
「時間がない」
素気ないラシャに、なごむは勇気を振り絞って、竜の皮膚に触れた。堅く、宝石のような手触りだ。どう昇ろうか迷っていると、ふっと体が浮かんだ。慌ててみると、カラドホルグがなごむを持ちあげたようだった。そのままストンと、ラシャの背後に座る。
「ありがとうございます」
尻をしっかりと背中に乗せ、なごむがカラドホルグに礼を言おうとすると、
「あれ?」
カラドホルグの姿はどこにもなかった。
『指にいる』
声が頭に直接響いてきて、なごむは指を眼前に翳した。左手の中指に、金色の指輪が一際まばゆい。カラドホルグは指輪に姿を変えたのだとなごむは理解した。それと共に、その指輪に覚えがあって、なごむは息をつめた。
それは落としたと思われた理沙の指輪であった。
かつて父が理沙に結婚指輪として贈り、理沙の部屋に置かれていた指輪。なごむが思わず握りしめ、持ってきてしまった指輪。
カラドホルグだったんだ。
思えば、露頭のマジックで輝いていたあの指輪に似ている。いや、ふたつはひとつだったのだと結びつく。
――――お父さんのマジックは、エン・リーテの力のお陰だよ。彼はマジシャンじゃなくて、アルクトテロスなんだ。
なごむは想像すらしていなかった事実に驚嘆し、しかし納得してもいた。
――――結婚する時に、この世界のすべてを捨てることを決めたんだ。
異世界の不思議な力をマジックをしていた露頭。彼は理沙の世界で生きると決め、カラドホルグという大切な存在を普通の指輪に変えることを選び、なごむの父親になったのだ。
それほどのものが、部屋の化粧台の上に寂しく影を作っていた。
『なごむ』
いつの間にか震えていた。心を乱すなごむに、カラドホルグは静かに言った。
『大丈夫』
その言葉は、なごむの燻る心を柔らかな繭で包む。守護者の優しさに落ち着きを取り戻し、なごむは頷いた。
「うん……」
理沙の事は良い。ここは異世界なのだ。理沙はここに来れないはずなのだから。
「よし、いいか」
時を見て、ラシャがなごむに声をかけた。
「そのままでは落ちるぞ。私の腹に手を回すんだ」
「え……」
ラシャは厳しそうな性格であるが、女の子だ。女の子の体に触れるなど初めてのなごむは、指示に目を丸くした。
「早くしろ!」
「はい!」
叱咤され、言われるままにラシャへと手を回し、腹の所で組む。
「よろしい」
女の子だけど……どきどきよりも、どぎまぎする。なごむは戦争映画に出てくる鬼教官を思い出しつつ、体を硬直させた。
「「じゃあ、用意はいいね。さて……」」
ジャルグボールグは声高々に、翼を伸ばした。虚空へと首を伸ばし、大地を蹴りあげる。疾風が四散し、草原が悲鳴をあげる。双頭の赤竜の巨躯は沈みゆく夕陽を背にすると、悠然と浮かび上がった。
「「しゅっぱーつ!!」」