第四話「スニフォンの町」
月の浮かぶ夜空は、賢者のように厳かだ。しかし浮かび流される雲は忙しなく、風は怯えるように吹き荒れている。
少女は崖の上に立ち、ざわめく夜を感じていた。
艶やかな火焔色の長髪が舞う。纏う服は純白。簡素な作りで彼女の肩から膝上までを隠しているが、月光を弾く衣の質は高く、金糸で所々に施された薔薇の刺繍は気品を感じさせる。
可憐な服装であったが、不釣り合いなことに胸から腰までは黒色の皮で覆われていた。一見、コルセットのように思えるそれは、皮鎧であった。
更に、腰や手首などの急所を覆う帯状の装飾品は、漆黒の石を組み立てて作られていた。強固だが軽い素材で出来ており、彼女を彩りながらも守る、見事な装備だった。纏う全てが、高貴且つ合理的な品である。
ただならぬ身分と一目で分かる出で立ちの、麗しい少女。しかしその瞳は、戦士のそれであった。
「……感じる」
睫毛が深紅の蝶のように瞬く。
「間違いなくこれは、叔父様のエン・リーテ。そして従順なる誇り高きアルケア」
少女は鍾乳洞のように白く小鹿のように細い腕を虚空へ伸ばした。
「邂逅の時は近いようだ……。ジャルグボールグ!」
飛び出すは巨大な影。少女の背後より猛然と浮上した姿を月光が写し出す。
それは翼をもった双頭の竜だった。少女は赤竜が空へと身を踊らせるのを認めると、大地を蹴り崖から飛び降りた。赤竜が滑空し、背中に少女の小さな体を受ける。
「国境を越よう!」
少女の命に赤竜は地が割れるような雄叫びで応じると、翼と四肢を折り畳んだ。巨大な玉となり岸壁を滑空する。
そして真夏の太陽のように、燃え上がった――。
◆
深海に沈んだように重い。意識がうつろいで上手く纏まらない。途切れ途切れに、映像だけが浮かんでは消えていく。誰もいない教室、闇に浸かった土手、薄暗い洞窟、そして。
老婆。
「うわあッ!」
弾けるように目覚めた。鈍く重苦しい痛みに貫かれ、再び倒れこむ。背中を打ち付けるかと思いきや存外な柔らかさが背中を押して、なごむは息をのんだ。
白い天井、光差す窓、全身を包む布。恐る恐る辺りに目を配り、なごむは見知らぬ寝室のベッドに横たわっていることを知った。
あの悲劇は夢だったのだろうか。ここは何処なのだろう。
自身に掛けてある布をはいで、なごむは目を剥いた。痣だらけの白く華奢な体は、あろうことか裸だった。
「起きましたか」
ぎょっとして布を掻き抱く。首を向けると、これまた見知らぬ男性が立っていた。目鼻立ちが濃く、青い眼をしている。歳は三十かそこらか。深い紫色のローブを着込んでいた。
「驚かずとも。私の名前はロンカ。スニフォンロンカです。神に仕える者です。ここはスニフォンの町の、教会なのですよ」
「神に、仕える……」
「覚えていませんか。あなたは森で倒れていたのです」
そんなはずはなかった。なごむは確かに洞窟にいたのである、そして。
思い出して、吐き気を覚えて両手で口を塞いだ。吐くものもない空っぽの胃が痛む。
「落ち着いて。よほど恐ろしい目にあったのですね。安心なさい。ここは安全です」
ロンカは穏やかな口調で言うと、なごむの傍に座り背中を撫でた。その掌の暖かさと、安全という言葉に自然と涙が溢れた。安堵が胸に広がって、心が軽くなる。
「差し支えなければ、名前を聞かせて下さいませんか。どこから来たのかも」
優しく尋ねられ、
「二子玉なごむ。来たのは……」
日本と答えそうになって、それでは通じないだろうと思い至る。あの老婆は、何と言っていたか。
なるべく惨劇を思い出さないようにして思考し、
「確か……黒狼山脈の……ジグ?」
なごむの言葉にロンカが呻く。
「なんと……」
はっとして、なごむは後悔に血を凍らせた。警戒を解きすぎたろうか。
「ジグから、命からがら逃げてきたのですね!」
ロンカの瞳は憐れみに染まっていた。彼は顔を紅潮させると、なごむを掻き抱き涙声を張った。
「ナゴムよ。ジグの村の者を許してほしい。彼らは貧しさのあまり邪教に手を染めたのだ。同じ国の者として、心から謝ろう!」
はらはらと涙するロンカに抱き締められながら、なごむは考えた。分からないことだらけだ。
「あの……ロンカさん」
「何だね?」
「ティマトのカケラって何なの?」
ロンカは涙を拭うと、深く頷いた。
「なるほど。ジグの者はティマトのカケラを作り、この国に反旗を翻すつもりだったのか」
ふむふむと納得したように首を上下に振ると、ロンカはついとなごむの顎を指で引き上げた。
「ニコタマと言ったね、ナゴム。この顔形は……北国にも近いし、こちらにも見えるが……君のご両親は旅商人か何かかね。ニコタマという土地はどこにあるんだい? 君の着ていた服も、あれは民族衣装かな?」
ロンカの思案ぎみな様子に、なごむは情報を整理する。老女のことやロンカのことを思い出すに、なごむの顔立ちは珍しいのだろう。そして名前とロンカの口ぶりから推測するに、この世界の人々は土地を名前に含めている。話は合わせた方が無難かもしれない。
「はい、旅の者で。ジグの村で色々あって。父はニコタマという、ずっとずっと北にある村の出身で。母はこっちの生まれなんです」
「なるほど。やはり混血なのだね。どおりで」
得心がいったのか、ロンカはにこりと微笑むと腰をあげた。
「今は休めるときです。服を持ってきましょう。あなたの服はボロボロでしたので洗っています。食事もご用意しますからね」
ロンカはきびきびと部屋を出ると、ほんの少しの間を置いて戻ってきた。
「私が小さい頃に着ていたものです。それと、この黄色い塊もあなたのものですね」
麻のような固い質感の、灰色のシャツとパンツ。木と布で出来たブーツのような靴。ポケットに入れていた携帯電話は、触れると何ともいえない安心が滲んで、わずかに心が癒される。
しかしその一方で、心に引っかかるものがまだいくつも残っていた。
「着替えたら出てきてください。食事がありますから」
「あの」
なごむは足りないものに気付いて、外に出ようとドアノブに手をかけたロンカを呼びとめた。
「指輪……ポケットに入っていませんでしたか?」
家を出る前に、ついつい手に握りしめ持ち出してしまった指輪がない。
ロンカが、はてと首を傾げて視線を宙へ泳がせる。しばらくそうしていたが確信を得たように、頷き、首を振った。
「いいえ。あなたがもっていたのはそれだけでしたよ。指輪をお持ちだったのですか」
あれは死んだ父親が理沙に送った唯一無二の結婚指輪だ。最悪の答えになごむは青ざめる。無くすわけにはいかないものを無くしてしまった。
「大丈夫ですか」
血の気を失い震えるなごむに、ロンカが心配そうに眉を下げる。
なごむは唇を噛んでから、
「……あ、はい。あの、もしかしたら落としたのかもしれないです」
思えば異世界に来てからリングの所在を確かめていなかった。心臓が次第にテンポを早めていく。
「逃げてくる途中で落としたとすると、探すのは難しいでしょうね」
洞窟での騒動、そしていつの間にやら森で倒れていたというロンカの発言から考える。あっちの世界なのかこっちの世界なのか、落とした場所の見当が全くつかない。絶望的だった。
「大切なものですか?」
冷や汗をかいて狼狽しきるなごむの手に、そっと手を重ねるロンカ。その熱には押し付けがましくない素朴な温かさがある。
少しだけ気持ちが落ち着き、目を閉じる。
リングはなごむのものではない。父からの愛の誓い、母であり妻でもある理沙のもの。かつて理沙は、肌身離さず大切にしていた。
だが今はどうだろうか。理沙は最近、指輪をしていなかった。それがいつしか当たり前となっており、たまに指輪をしていない理沙を目にしても、なごむは疑問に感じたりはしなかった。
心臓が重くなる。
三人で鍋を囲んだ夜、化粧台の上で置き去りに指輪。思い出のものには違いない。しかし大切かどうかと問われると。
「……分からないです」
正直に答えた。きょとんとするロンカに、
「えと、探していただかなくて大丈夫です。……着替えます」
「そうですか、では」
ロンカが立ち去ったのを目で追ってから、なごむは
ベッドから出た。
指輪のことはあとで考えよう。
頭を切り替え、次に携帯電話を開くとやはり圏外だった。時刻は不思議なことに夜八時で止まっている。ちょうど、なごむが家を飛び出した時刻だ。カメラ機能を起こして、一度だけシャッターを切る。映像がしっかりと残っている。つまり通話や時計の機能は望めないが、カメラなどは使えるということだ。なごむは携帯電話の電源を切った。
用意された服を着る。少しチクチクした。靴は少し歩くと靴づれが起こりそうだが、贅沢はいわない。ロンカの好意が嬉しくて、なごむの心は少しだけ軽くなった。
亡くしてしまった指輪のことや、自分がこれからどうなるかということについて、不安がないわけではない。しかし理沙や克明、そして老婆達を思えば、異世界の教会という場所にいることは幸福に感じられた。なごむを悩ませるものは、ここにはない。
……そういえば。
服についたポケットへ携帯電話を滑り込ませながら、なごむは声のことをふと思い出していた。土手から異世界に来る前と、洞窟で訳も分からず襲われた時、誰かの声を聞いた。心をそっと包んで安寧を生む、男声。しかしその姿はなかった。まるで、視えないものに守られているようだ。
「守護霊みたいな……」
少考してから、
「あの、誰か、いるんですか?」
もう一度、
「いるんですよね。僕を守ってくれたんですよね」
空しい閃きとなってしまった。受け取る者のない問いが何もない空間に消える。聞こえるのは窓の外で戯れる鳥の歌だけ。
ばつが悪くなって、なごむは衣を整えると、ロンカの元へと向かった。
廊下を渡り案内された部屋に入ると、食卓に料理が並んでいた。
「やあ、早く食べないと冷めてしまうよ」
パンをつぶしたような塊が乗ったバスケット、鮮やかな色合いの野菜を混ぜたサラダ、切って白いシチューのようなスープ。とても簡素だが、ほかほかとたつ湯気には食欲をそそる匂いが含まれ、胃をきゅっと刺激する。存外に空腹だったらしく、痛いほど唾液が出た。
「おかわりして良いからね」
にこりとするロンカに会釈しつつ席につく。木でできたフォークが置かれている。食器はなごむの世界と変わらないようだが、肝心の食事はどうだろう。異世界の食べ物は当然ながら初めてだった。食感は、味は、体には悪くないだろうかという不安が頭を過る。
小さな頃、黄泉の食べ物を食べてしまったために生き返ることが出来なかった人間の話を絵本で読んだことがある。異世界の食べ物を口にすることで予想だにしなかったことが起こるかもしれない、だが。
胃が拡大と収縮を繰り返す。空腹感は強く、吐き気も段々と出てきた。
「どうしたんだい?」
訝しげなロンカ。このままでは怪しまれる。
腹をくくって、なごむはフォークを手にすると、まずサラダに刺した。串刺しになった野菜を、恐る恐る口に運ぶ。
青菜に、これはカブだろうか。赤もあれば青も黄もある。しゃくりと、瑞々しい感触が歯に嬉しい。味付けは少し酸味がある。
食欲のスイッチが入って、なごむはあっという間にサラダを食べ、パンのような塊を噛んだ。ぱんというより、甘くないクッキーのようだ。美味しいというに味がそっけるぎる感のある食べ物である。が、今のなごむにとって空腹が最高の調味料。次々と口に運ぶ。
「これは何ですか?」
「何って、手作りのスクだよ。スクルの実を砕いて、窯で焼いただけ」
冗談のような質問だったのだろう、ロンカが目じりを下げた。その表情に、スクとはパンと同じように親しまれた食べ物なのだと知る。
スープを手にとって、軽くフォークでかき混ぜた。甘い匂い。乳が入っているのだろうか。白い豆がころころと踊る。
「これは?」
「毛長牛の乳と、百夜虫の幼虫だよ」
ようちゅう、という言葉に手が止まった。ということは、豆でなく虫なのか。
「百夜虫ってあの、虫の?」
「うん、虫の」
急に石像のようになってしまったなごむにロンカは、
「珍しいね。百夜虫は苦手かい? 百夜虫が嫌いな子は初めてだよ」
カルチャーショックとはこのことだった。一匹をフォークでさらい凝視すると、確かにそれは虫だった。白くぷにぷにとした体、八本の小さな足、黒い頭。カブトムシの幼虫に似ている。
「その、……に、ニコタマでは虫を食べないんです」
「まさか、虫を食べないって? 何を食べてるんだい?」
どうやらこの国では、虫を食べるのは一般的なようだ。
「野菜とか、魚とか、家畜の肉とか……」
ロンカもまた、目を丸めた。
「天候が悪いときはどうするんだい。家畜だって、祭りじゃああるまいし。不作の時は?」
「不作? えっと。少しだけ、高くなりますよね。お値段が」
なごむの発言に、ロンカは度肝を抜かれたようだった。眉間を寄せてしばらく思案顔になった後、なるほど、と小さく呟く。
「分かった、君のご両親は大商人なんだね」
そして残念そうに、スープ皿を端に寄せる。その動作に、
「待って!」
なごむはスープ皿に両手を添えた。
見ず知らずのなごむを拾い、優しくしてくれている恩人の手料理。無碍にしたくないと、自然と体が動いてしまった。
「食べてみるかい?」
「…………」
沈黙しながら、じっとスープを凝視する。沢山の幼虫たちが、はいコンニチワと見つめ返す。食べたくはないが、好意を考えると食べないなど言えない。ロンカには悪気がないのだ。
郷に入っては郷に従え、従うんだと念じる。ゆっくりと、ゆっくりとスープを口に近付けて……。
「君は良い子だね!」
可笑しくて仕方ないという風に噴き出すロンカ。目じりに涙を浮かべ笑いつつ、ひょいとスープ皿を持ちあげた。
「大商人のご子息に、普段食べないようなものを食べないものを食べさせるわけにもいかないよ。でも、これで君の身元が分かりそうだ」
そう言うと、堪らなくなったのか、今度は腹を抱えるのだった。
なごむの身元捜しに妙案が浮かんだらしく、ロンカは教会になごむを残して何処かへ行ってしまった。留守を頼まれたなごむは一人、絵本でも見て暇をつぶすといい、そう案内された書庫にいた。
さほど広くない書庫の中には、まるで迷路のように本棚が置かれている。全部で千冊ほどだろうか、分厚い本が並べられ、あるいは重なっている。古いものから新しそうなものまで様々だ。小さな窓から注ぐ光が埃を浮かばせる。あまり使われていないのだろう。
「何を読んだらいいかな」
読めと言われても、食事さえも異なる世界。文字は当然、分からないだろう。絵を見れば、この世界の何かが分かるかもしれない。書庫をぐるりと見回って、なごむはいくつかの絵本を手に取った。暗闇に光が漂う絵の彫りこまれた版画が表紙になった一冊を、開く。
「えーと……」
一ページ目の見開きは真っ暗で、右端に二行の文章。案の定、見たことのない記号のようで、
「わかんな……い?」
見たことのない記号の文章が、ふいにふわりと浮かびあがった。まるで立体映像だ。浮かび上がった記号はぼんやりと靄がかかったように蠢く、と。
『最初にくらやみ色の、ひとつのワイミールだけがあった……』
ふっと、頭に言葉が浮かんだ。頭の中のなごむが自然と喋り出す。まるで、文章を読むかのように。
「読める……?」
なごむは愕然とした。見たことのない記号の羅列であることは確かだった。しかし、驚いたことに読める。リンゴを見てリンゴだと考えずとも分かるように、文章の意味がすらすらと頭に入ってくるではないか。
気味が悪い。
だが、それ以上に興味深かった。
読み進めると、それが世界の創世記だと分かった。なごむは真剣な眼差しで絵本のページを捲る。
『――ワイミールは耳障りな声でわめき、叫んでいた。
赤ん坊の体に老人の顔。とてもとてもみにくく、汚らしいその姿、その声。
ワイミールという混沌は、やがて小さな粒をふたつ吐き出した。
きらきらと光り輝くそれらは、アレプとタウの美しき双子だった。
次にワイミールは、自分の指を噛み切って、更に泣いた。指はティマトとなって、ワイミールを愛した。』
「ティマト……ティマトって、ティマトのカケラのこと?」
きらきらと輝く双子の傍らで窮屈に身を丸める黒い泥人形のような物体、ティマト。なごむは更に、読み進めた。
『双子は生まれながら静寂を好み、ワイミールを憎んだ。双子はワイミールを殺した。
ワイミールはやつざきになった。
切り刻まれた肉は大地になり、血は海になり、骨は樹と動物を作った。
そして魂は、無数の意思となってエン・リーテと呼ばれた。
エン・リーテはありとあらゆるものの魂となった。
嘆き悲しんだティマトは悪意となって、双子に毒を盛ったが、清い双子の舌の上で毒は水となった。
ティマトは双子に殺され、同じように刻まれてカケラになり、大地に埋められた。
双子はエン・リーテを操る動物をアルクトテロスと名付け、
ティマトのカケラを封じるように命じると、天に昇り太陽になった。
世界はこうして創られた』
最後のページ。ふたつの太陽が天に昇り終わったのを見やってから、なごむは静かに目を閉じた。
静かに体を打つ驚き、不思議な感動が雨のように注ぐ。
文字が読めるという事実は、まるで自分がこの異世界において他人ではないという証明のように感じられた。異世界の中心人物となるべく、そう、選ばれたような。
小さな感激は優越と変わってなごむの不安を拭い、満たした。誇らしい感覚に背筋が伸び、頭がクリアになる。腹の底から快哉を叫びたくなる。
来て、良かったんだ。僕は守られている。そして、変われるんだ。
なごむはぎゅうっと、絵本をかき抱いた。
どれくらい書庫で没頭していたのだろう。文字が読みづらいと感じて顔を上げると、周囲が薄暗くなっていた。窓から外を伺うと、庭が橙色に沈んでいる。太陽が傾き、夜へと変わろうとしているのだろう。
ロンカはまだ戻らないのだろうか。心寂しさがゆっくりと増え始めたとき、
「いま戻りましたよー」
間延びした声に、なごむは書庫を出た。足を玄関先に向けると、ロンカの他に一人の中年男が佇んでいた。
紫色の長外套に同色のローブには、金色の紋様が縫い付けてある。
教科書のあるページが頭に浮かぶ。中世の時代、免罪符を掲げて男が叫んでいるイラスト。
なるほど、ルターに似ているんだ。そう思いながら凝視していると、中年男が咳き込んだ。
「役人を見るのは初めてかね」
「すみません」
なごむの視線で気を悪くさせてしまったようだった。素早く頭を下げると、
「まぁまぁ……」
ロンカが片手をあげながらなごむの脇に立つ。
「彼がニコタマナゴム君です。ジグから逃げてきたという」
腕を組み、薄目になる役人。今まで生きていて取られたことのない蔑みを帯びた冷たい視線だ。
なごむは寒気を覚えつつも平静を装い、微笑んだ。
「よろしい。ご両親が捜索願いを出していないか確認を取ろう。外に出なさい」
嫌な汗が背中を伝った。ロンカが出掛けたのは、そういう理由だったのか。生まれがそれなりにしっかりしているのならば早い段階で役所が動いているだろうと、ロンカは考えたのだ。
――どうしよう。
激しい動悸がした。心臓が勢いで破裂しそうだ。すぐにでも逃げ出したい衝動を飲み込んで、ロンカに背中を押されつつ、なごむは歩みを進める。
出やると、役人の肩越しに鎧を着た戦士を認めた。どっしりとした体は、なごむの何倍だろうか。まるで熊のようだ。背後に男達を控えさせ、冷たい視線を落とす。
なごむの体を激震が貫いた。その皮鎧に覚えがあったためである。
――神兵。
「なごむ?」
膝が震え、ぐらりと揺れる。ロンカに支えられ、そのまま身を預ける。体が縮み上がり、足を動かすことができなかった。
「……邪教徒か?」
なごむの反応に覚えがあったのか、神兵は躊躇いなく剣を抜くと、その切っ先を向けてきた。
驚いて反射的に後じさると、両肩を掴まれた。はっとして仰ぐと、ロンカが口を真一文字にしてなごむを見下ろしていた。
ロンカならば助けてくれるに違いない。なごむがすがるように瞳を潤ませると、彼はまるで何事もないというかのようにふっくらと微笑んだ。
「……あ」
胸に温かさ広がり、期待が目頭を熱くさせた瞬間。
なごむは背中を押された。唐突すぎて手で衝撃を受けるも出来ず、膝を打ち付け前のめりに倒れ込む。
「え……?」
平伏しながら、なごむは首だけをもたげてロンカを見上げた。彼はべっとりとした無表情を投げ掛けたかと思うと、
「この邪教徒め!」
唐突に激昂し、侮蔑を露にした。
頭を殴られたかのような戦慄。それまでの優しい彼からは想像すら出来ない態度に、なごむの心臓が凍りつく。
「ロンカ、さん……?」
額を青ざめさせながらロンカの足元へと手を伸ばすと、彼はさっと身を引いてますます嫌悪を示した。
信じられない、これは現実なのか。
絶望のあまり身を震わせるなごむから視線を外すと、ロンカは飴細工のように眉ねと口とを曲げた。そしてその場に膝まづきいたかと思うと、
「どうかお許しを! 私は騙されていたのです。こいつは嘘をつき、私に取り入り、逃れようとしていたのです。なんとおぞましいことかっ! ああ高貴なる魂を持つ神兵さま。まんまと卑劣な騙りに転がされた愚かなこの私に、どうかご加護を!」
被害者を装い泣き崩れた。
ロンカ、その手のひらを返すような裏切り。
受け入れがたい現実を脳は拒む。思考能力が低下していく中で、身体だけが希望の無い未来を予見する。痛いほど縮みあがる鼻腔。激しく肋骨を打ち付ける肺。がらんどうになった骨盤。痺れて乱れた指先。
なごむは呆然としてただただ目が潤せた。慈悲を乞うロンカが涙で歪む。一筋の涙が頬を濡らして落ちる。
「なんだ。今さら罪を悔いているのか」
にじりよる神兵の気配。顎下に感じる冷たさ。
気付くと刃を向けられていた。切っ先に顎を持ち上げられ、自然と汗が吹き出す。
「……隊長」
後ろの隊列から一人、前に出て剣を向ける神兵に耳打ちをする。神兵はぴくんと眉根を寄せると、
「先の戦いで前線に立っていた者がこう言っている。……ティマトのカケラ、お前を見たとな!」
神兵の件から暗赤色な物質が放たれ、なごむの首に絡んだ。
蛸の足にも汚泥にも見える触手。なめくじが這うようなおぞましい感覚が舐めたかと思うと、触れた皮膚から痺れて頭が朦朧とし始めた。
五感の全てを不気味な何かに掌握され、なごむは呻いた。
「力が出まい。お前を聖都まで引きずってやる。お前は大神官様に懺悔するのだ、生まれたことをな!」
神兵、兵の群れ、役人、ロンカ。みなの高笑い。
耳を塞げたらどれほど楽か。身動きを取れないなごむの鼓膜を引き裂かんばかりの哄笑、ぐるぐるとなごむを掻き回す絶望。それらが境地に達し、なごむの中の何かが今正に壊れんとした、その時。
神兵が忽然と消え、途端になごむを捕らえていた不気味なものがどろりと蕩けた。
「助けてくれッ!」
頭上からの悲鳴。見上げると、空に神兵が浮かび上がっていた。四肢をばたつかせ、必死に足掻いている。纏う鎧が歯軋りをする。まるで吹き荒れる嵐のただ中にいるように。
なごむは思った。ああ、あの声の主だ、と。今起きていることと起こしている者。なごむには分かる。やはりいたのだ、そして守ってくれていた。正体不明の守護者が。
「助け……」
神兵が喘ぎながら首根を抑えた。次第に苦悶の表情へと変わっていく。
驚いてなごむは口を開いた。このままでは死んでしまうに違いない、だが。
あの人が死んだら、助かるかもしれない?
頭をかすった迷いが、出かかった制止の言葉を喉で堰き止める。言うべきか言わざるべきか、思いあぐねるうちに、神兵の鎧から覗く皮膚の部分がみるみるうちに赤く染まっていき、唇から蟹のように泡が溢れ始めた。瞼を剥き、白目になり、右往左往する四肢が弱まっていき――、
『ロト伯父様!』
打ちすえるような高音の叱咤。どこからか突然に烈風が疾駆し、なごむの足を絡めとった。
「わっ!」
なごむの体が強風に攫われる。バランスを崩す。砂が目に入り、瞼を瞑る。視界は閉ざされたが、自分が空中へと投げ出されたのをなごむは感じた。ひゅっと内臓が重力に逆らって浮かんで冷える。体を丸めて、なごむは衝撃に備えた。
が、なごむが地面に叩きつけられることはなかった。思いのほか優しい感覚で腰が持ち上げられたかと思うと、すとんと軽やかに足がついた。
「……へ?」
目に入った砂が涙で零れ落ちて、なごむはゆっくりと瞼を開いた。
そこに神兵はいなかった。そればかりか、役人もロンカもいない。街の中でもない。景色が全く違う。
崩れた玉子のような夕日が二つ、茜の空に浮かんでいる。山に落ちかかり、山稜が黄金色の境界線を画いていた。そして夕焼け色に染めされた広い草原を背後に、目の前に佇む人物が二人。
少女と、一人の男だった。