第一話「はじまり」
暗闇に灯火だけが浮かんでいる。寂しげに艶を出し、一筋の黒煙が天へと上っている。
静かに燃える、親指の爪ほどの何も照らさず誰も照らさない小さな火。それまで一定の火力を保っていた火が突然、油でも投げられたかのように勢いを高め始めた。
火は炎となり、黒煙とともに倍々と肥大していく。炎も煙も細胞増殖を思わせる不気味な動きで膨れ上がると、恐るべきことに変容し始めた。四本足の獣、まるで象のような形へと。
大きさは象よりも一回り大きい。火の粉を撒き散らし爆ぜるそれは、今にも動きだしそうな躍動感を持っている。
――否。驚愕にもそれは、動き出した。
神が何かを生むとき、このように作りだすのだろうか。火炎を掻き消して抜けだす巨大生物。脱皮を彷彿させる出現、ぬるりと炎から出でる。
四肢のひとつが地面に下ろさ、重苦しい轟音が響いた。圧巻の姿に大地が悲鳴をあげて震える。
突如出現した獣は、実に奇妙な姿をしていた。重力をも恐れぬ巨躯を灰色の長毛が覆い、銀色に輝いている。頭部と思われる部分には大人の人間ほどの黄金色の鋭い一角が伸びている。長毛から僅かに覗く目は三つで、額にもある瞳は意外にもつぶらに黒い。口は豹のようで、だが角と同じ色の牙が天に向かって二本、地に向かって二本生えていた。そして尻には尾の代わりに、黒い大蛇。チロチロと赤い舌を動かし、艶めかしく地面を這っている。
こんな生き物は、どこの動物園にもどの博物館にも辞典にも辞典にも存在しはしない。まるでそう、これは“異世界の生物”。
どこぞから太鼓の音が響いてきた。幽かな音はだんだんと己を主張し、激しく鳴動する。
太鼓の音が緊迫を誘い、緊迫が戦慄をもって最高潮に達する――――。
次の瞬間、異形の巨体は一瞬で消え失せ、黒煙の中から燕尾服を着た男が跳躍した。
暗闇からの来訪者、その出現と同時に闇から歓声が湧いた。それまで暗がりにまぎれ、我忘れ押し黙っていたのだろう人々からあがる感嘆。彼らの視線は一身に向けられる。
歳は二十代前半か。深々と被ったシルクハットで半ば隠れた顔、その唇の端は勝気に上がっていた。シルクハットに添えた右手、その中指には小さなリング。はめこまれたダイヤモンドは瞬く星のように輝いている。
男が人々に応えるように両手を掲げると人々の興奮は更に高まり、悲鳴のような歓声と豪雨のような拍手となって溢れた。
四方のライトが点灯し、暗闇に覆われていた舞台が露わになる。画面が切り替わり、舞台から観客席へと向けられた。
割れんばかりの喝采。五千人ほどの観客は総立ちし、皆々感激したように頬を紅潮させている。感動と興奮の大音声が飽和する。
燕尾服の男は会場をぐるりと見渡すと紳士よろしく一礼し、それから手で埃でも払うように燕尾服を整え、舞台の下手へと消えた。まるで何事もなく日常を終えたかのように。
そして踊る“天才マジシャン露頭・今世紀最大のマジック炎の獣”の文字――――、
そこで、三分足らずの動画は終わった。
フローリングに簡素なベッド、漫画の並んだ本棚、子供向けアニメのイラストがついた学習机。ごくごく普通の子供部屋を包んでいた緊張がふっと緩む。部屋の主であるなごむが、パソコンから視線を外して深い息を吐いた。
「やっぱり、すごいや」
少し早い呼吸を喉元に、呟く。マジックの流れを瞼に浮かべ、うっとりと夢見心地になっていると、
「なごむ~、ご飯冷めるよ! 本当いいかげんにして!」
叱責で意識を叩かれて、ぱっと現実に引き戻された。なごむはパソコンに表示された時刻を見やり、
「もうこんな時間!?」
慌てて机から立ち上がると、バラバラとトランプが膝から落ちた。パソコンのマウスをいじって動画サイトを閉じ、パソコンの電源を落とす。床に散らばったトランプを引っ掻くように集めて机の引き出しの中へと突っ込んで押しやる。
そこまでやってから、なごむは自室から飛び出した。
「お母さんどうしよ!」
リビングへと走り、なごむはサッと椅子へと座った。食事の並んだテーブルを前にして、まず先ほどまで焼きたてだっただろう食パンを口に頬張る。
「どうしよじゃないよ。お母さんは知りません」
リビングから覗くキッチン、そこでなごむの母親である理沙が食器を手早く洗っていた。エプロン姿の下は濃紺のスーツでかっちりと決めている。
「なごむ何時に起きてたの?」
「六時」
「呆れた。お母さん今日は早いから車じゃ送れないって言ったよね? どうするの、遅刻したいの?」
「遅刻したくありません……」
叱責にしょぼんと眉を下げると、理沙は深い溜息を吐きながら自身の腕に巻いた時計を確認した。
「三分で食べたらお母さんの車乗れますけど、どうする?」
「もう食べる! もう食べるから!」
食パンをざっとコンソメスープで流し込み、サラダにむしゃぶりつき、空になった皿をシンクに滑り込ませる。歯ブラシを手に、寝ぐせの跳ねた黒髪を撫でつつ、なごむはリビングに置いていた鞄を握った。こんなこともあろうかと前日から用意していたあたり、用意周到というのか。
走りながら歯ブラシを済ませ口をゆすいでシンクに吐き出すと、
「準備万端!」
「準備万端じゃないの、はしたない! 曲芸師じゃないんだから」
苦笑いしつつ、理沙もまた動きながら長い黒髪を束ねて後ろでひとつにまとめ、車のキーを掴んだ。
二人が玄関を出ると、青ざめるような空と強烈な太陽光が瞳と肌とを貫いた。夏の間に伸びた前髪の向こうにある小高い丘、そして住宅街。地平に見下ろせる海は、澄み渡っている。
その色合いに、何故か胸が疼いた。夏はもう終わりだというのに、まだ夏の匂いが残っている所為だろうか。景色に少し寂しげな暑さを感じながら、なごむはモスグリーンの軽自動車に乗り込む。
「もう九月なのに、夏っぽいね」
「そういえば、もうちょっとで誕生日ね」
運転席に坐した理沙が、唇を尖らせながらエンジンをかける。
「もうすぐ十三なんだから、もうちょっとしっかりとね」
「分かってるよ」
「そ」
理沙の手がギアを引き、アクセルが踏み込まれる。ゆっくりとモスグリーンの車体が動き出す。
アスファルトは朝の陽ざしに焼けて、空気を歪ませている。
のんびりと下りゆく通学路。
ふいに、車を運転させながら理沙がぽつんと呟いた。
「……今日ちょっと話あるから、寄り道しないで帰ってね」
「話って?」
くるんと視線を向けたなごむに、
「その時にね。急がなきゃ」
理沙は横顔で答え、アクセルを更に踏み込んだ。車が加速する。海と丘の街を滑るように走っていく。
どこかで、生まれる時期を僅かにたがえた蝉が、はかなげに鳴いていた。
◆
「じゃあ、合唱を候補に入れまーす」
日の傾いた夕暮れ時、橙色に染まり始めた教室で少女が声をあげた。ホワイトボードの前に立っていた少年がマジックペンで“がっしょう二曲”と書く。クラスの委員長と副委員長である。
二人が司会をする姿を、なごむは後ろの席で眺めていた。頬杖をつきながら、早く終わらないかなと思う。
なごむの気持ちを億劫にさせる学級会議の議題は、文化祭で何をするか、だった。
学校では十一月に文化祭がある。舞台に上がってクラス毎に様々な出し物を発表する。発表する内容は何でも良いといわれているが、文化的で健全な学生らしい内容が基本であると定められていた。これが意外にもクラスを悩ませる。文化的で健全な学生らしい内容など、合唱か演劇と相場が決まっている。生徒も合唱か演劇で良いと思っている。しかし、大人はそうではない。
「他に何かやりたい人いない?」
隅のパイプ椅子に腰かけていた女教師が、少々批判気味に口を尖らせた。個性を重視した教育方針に無個性にも盲目な女教師の問いかけは、机に座っていた生徒たちをざわめかせるに十分だった。お前やれよ、嫌だよ、そんな掛け合いがあちらこちらで跳躍する。
ああ、時間がかかりそう。つまらなさを凝縮させた会議に嫌気がさしたなごむは、時計の針を速めるべく、様々なことを思い出していた。出来事を淡々と振り返っていると、なごむの頭の端で、ふいに理沙が呟いた。
『もうすぐ十三なんだから、もうちょっとしっかりとね』
もうすぐ十三歳、もうすぐ終わりを告げる十二歳という年齢。
思えば十二歳という年齢は、なごむにとって特別なものだった。小学校から中学にあがる区切りの年齢であったし、心のどこかで何か新しいことが起こるような気がしていた。
なごむが小学生に上がった頃、近所に住んでいた中学生はとてつもなく大人に思えた。幼いなごむと比べて身長は高く、知識に富み頭がよく、運動能力が高く、堂々と歩く。
彼らのようになるんだろう。自然とそう思えた。
十二歳とは、自分が一際輝く人間になれるような、新しい世界へ行けるような、そんな希望を覚える年齢だった。特別な存在である自分が殻を割って羽ばたける、抽象的で確証もない、しかし妙に説得力を持った夢。しかし自分が同じ年齢になってみて、どうだろう。大人になれたろうか。
なごむには、けして自分が思ったような大人になれたとは感じることが出来なかった。知識はついたが賢さとは別で、体力もあるが能力とは違う。中身は何も変わっていない。変わることが出来ず、変われるような自信だけが埃を被ってしまっている。
埃を被った自信は少しずつ化石になっていく。そればかりか、自分はけして特別な人間ではないだろうという予感を覚えることの方が多くなってきた。
ふと、心が乱れた。居心地が悪く、心臓が重たく沈んでいくようだ。そのくせ、妙にふわふわとした浮遊感がある。走り出したいような、逃げ出したいような。
それが焦りだと気づいて、なごむは悲しくなった。
悲しみを塞ぐように、今度は朝に観た動画を頭で再生する。
この世には魔法はないが魔術や奇術といったものがある。カラクリを隠し、魔術やら奇術やら表面上の奇跡を起こす者をマジシャンというが、なごむはマジシャンに憧れていた。その中でも一番の憧れは露頭という若いマジシャン。
現実とは思えない奇術を生みだす技術、高度な技術を生みだす想像力、そつなくこなしてしまう度胸。
露頭の活動期間は八年と短かったが、彼はその八年で世界に名を残した。たった八年で、最高のマジシャンに贈られる名誉であるマジシャン・オブ・ザ・イヤーに輝いたのである。正に、天才だった。
なごむの部屋には彼に焦がれて買った手品用の道具が、机の中や箪笥の中や鞄の中に仕舞われている。
授業に飽きたり、テストが早く終わったときなどに、小さくシャープペンシルを走らせては、オリジナルの手品を想像するのが好きだ。いつまでもそうしていたいと思う。手品のことを考えると、それだけで堪らなく興奮するのだった。
いつか、彼のように。
密やかな思い。胸に潜む蝋燭のような熱い気持ち。そして。
なごむがマジックに、露頭に夢中になるのは、彼が天才マジシャンであった理由だけではなかった。
「ねえ。本当に他に何かないの? うちのクラスだけよ、合唱しか出し物がないの!」
甲高い声に、なごむはハッと顔をあげた。女教師が腰をあげて、教壇に立つ。その姿に不味いと思ったのだろう、委員長は声を張り上げた。
「他にやりたいことありますかー? 自薦他薦問いませーん」
教室がしんと静まり返る。他人事のように皆々視線を下げる。なごむもまた同じだった。催し物など出来ない。全校生徒の前に出て、何かをするなどそんな度胸はないし、準備だってしたくない。言葉はないが満場一致の思いである。
そんなことは教師も気付いているはずなのだが、彼女は教師という立場上、それを認めようとはしない。拮抗、平衡、皆が動かない。
早く終われば良いのに、合唱だけで良いと思うけど……。
興味のないことで椅子に座らされていなければならない束縛感と、他人事を決めながらも互いの腹を探り合うような緊迫感が妙に冷たい汗を流させる。早く帰りたいという苛々が募る。
それはなごむ以外も等しく。俯いていた視線を横にずらすと、皆同じように俯いていた。騒々しかった教室が嘘のように、静かに責任を押し付けあっている。
と、一人と目が合った。
小学校の頃、同じクラスだった松葉潤だった。同じ性別、男同士だったが仲は良くなかった。なごむは寡黙な性格で、彼は真逆なタイプ。良く言えば元気、悪く言えば騒がしい。そんな彼はなごむからサッと視線を外し、しかしまた戻した。茶色い猫っ毛から、黒い瞳が覗く。
それまでの無表情を思案顔に変貌させると、
「二子玉なごむ君はどうですか?」
堂々と自分の名前をあげられ、なごむは殴られたような衝撃を受けた。
「二子玉なごむ君はマジックができます! お父さんが昔マジシャンでしたー!」
冷たく粘っこい汗が一気に噴き出る。なごむは眩暈と既視感を覚えていた。前にも同じような言葉を聞いていた。次に出てくるだろう名前は予測できた。
「露……、露頭っていう、有名な人でーす!」
教室がどよめいた。露頭というマジシャンの映像は、今でも時折テレビで取り上げられる。知名度は高く、子どもでも知っている名前だ。
「え、あの……」
心臓が早鐘のように打ち始める。教室中の視線がなごむに集中していた。
「二子玉君、マジックが出来るの? じゃあ、お願いしちゃっても良いかしら?」
刺々しい表情をころりと変えて、女教師がなごむに微笑みかけた。柔らかな笑みであるのに、重苦しい圧力がある。なごむは脂汗をかいて、ぐちゃぐちゃに混乱した頭で現状を考える。
なんと言えば良いのか。表には出たくないのだ。絶対に嫌なのに。
視線が突き刺さる。それとともに、教室の全員の声が聞こえた。やれよ、やりなさいよ、そんな声が。誰も声にしていないが、なこむには痛いほど響いてくる。先ほどのなごむと同じ、皆が他人事なのだ。
心臓が握りつぶされる、肺が凍りつく。鼻の奥まで込み上げる拒絶の痛みを飲み込んで、なごむはついに絞り出した。
「やります……」
白々しく拍手が沸く。なごむは無理やり笑みを繕いながら、震える両手を机の下に隠した。