第九話「修行の始まり」
日差しの眩しいカラリとした晴天である。ユグリート城にある澄んだ湖畔の傍らに、訓練場はあった。城に駐在する兵士達の剣檄と居合の声が響いている。鍛え上げられた肉体をしなやかに動かし、ウッドソードを用いて互いの技を競い合う兵士たち。その中に、幼くも激しい居合の声はあった。
「どうした? それでも男か!」
赤い長髪を後ろで縛り、甲高い声を張り上げながら木刀を奮うラシャ。対するのは、疲れ切りふらふらになったなごむだった。
まだ日の昇りきらない朝靄漂う早朝よりラシャに案内され、なごむは初めてウッドソードを持たされた。王に告げた答えを、ラシャの前での誓いを、なごむは握りしめている。
「とにかくかかってこい」
といわれ、がむしゃら遮二無二に振るう。柔らかな木を削り作られた練習用の簡素な十字長剣であるが、不馴れななごむが振ると体ごと持っていかれそうになる。
ふらふらとした足取りで檄を飛ばされながら取り掛かり、どれだけの時が経ったろうか。双子の太陽は既に天高く、鮮烈な太陽光によって生まれる影はくっきりとして小さい。かかり稽古の勢いで立ち向かっていくというよりも、がくがくと震える手足を何とか動かし近寄り、吹き飛ばされるだけになっていた。
「軟弱だぞ!」
するりとラシャに避けられて、なごむはそのまま膝から崩れた。体力の限界がきてしまい、電池が切れたように体が動かなかった。
「起きろ!」
叱咤を浴びても、疲れ切った体を動かすことは出来ない。そればかりか、返事をする力もなく、ひたすらぜいはぁと荒い呼吸をするのみだ。ようやく擦れそうな声で繕ったのは、
「もうむり……」という言葉だった。
なごむがもう立てないと理解し、ラシャは溜め息をついた。その整った顔は涼やかで、汗など殆どかいていない。そんなラシャの余裕な姿に唖然とする。体力の桁が違うのだ。なごむにはラシャが化け物のように思えた。
こんなに体を動かしたのは、いつぶりだろう。なごむは運動が苦手で、体育などで全力を出したことが殆どない。罵声を飛ばされ戦々恐々動き続けたが、これほど疲れたのはもしかしたら生まれて初めてかもしれなかった。
「なごむ」
ふいに視界が暗くなった。カラドホルグが心配そうに覗いていた。
「飲んで」
木彫りのコップに注がれた一杯の水を手渡され、途端に口渇感が喉に貼りついていることに気付く。なごむは焼けつくような喉に水を一気に流し込むと、豪快に咳き込んだ。
「しょっぱい……」
「鍛練時の休憩用だから。でも普通の水よりか飲みやすい」
確かに、染み渡るような味わいがあり、体が喜んでいるように感じる。とはいえ、筋肉や骨に澱のように沈み込んだ疲れを溶かすには到らない。
「もう良いか?」
「え……」
ラシャに声をかけられ、思わず狼狽える。この赤髪の戦乙女が求めている、いや最低限必要とされているものは想像以上に過酷なのだ。それを初めて痛感した体は酷く重かった。まるで泥人形だ。
なごむの困惑に気付いて、ラシャの顔色が暗く陰る。それに対し、カラドホルグの眼は冷たい。カラドホルグはなごむがこうしてラシャに従うことを好んでいないのは確かだった。
二人に漂う歪な空気になごむが本格的に窮していると、
「基礎ですな」
いつの間にやら灰色の影がぴょこんとなごむ達を覗いていた。つんと立った耳を可愛らしく揺らし、長い尻尾を踊らせている黒服の猫。ロシアンブルーを彷彿とさせるその姿に深みのあるバリトン。
「ヨーゼルじゃないか、どうした」
「先程まで遠くで見ておりまして、いてもたってもいられなくなりました」
「ほぅ、三番隊隊長からご助言頂けるのかな」
ラシャの言葉にヨーゼルは大きなアメジストの瞳を細めると、針金のような髭を軽く引っ張ってみせた。
「無理に剣を振るだけでは負担にしかなりません。そればかりか、無駄な筋肉を使ってしまい体を痛めるだけです」
「基礎……」
「ラシャ様の体には既に刻み込まれています。それに貴女は才がある、器用です。しかしなごむ様は」
ごほんと咳込むと、
「失礼ながら、些か不器用な方に思える」
ヨーゼルに見詰められ、なごむは生唾を飲み込んだ。値踏みでもされているような気分だ。
「ラシャ様のかわりに、私が基礎からお教えしましょう」
「……何」
ヨーゼルの提案にラシャが闇色の瞳をしばたかせる。
「若い兵に技を教えることは少なくありませんので、慣れております」
サーベルを下げた猫騎士に、ラシャは考え深げに口を閉ざす。
「……分かった。ただし、私にも教えてくれないか」
「光栄です」
ヨーゼルは右胸の剣を縫った刺繍に右手を置く。
「なごむ様、よろしいでしょうか」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
静かに会釈され、なごむは朦朧とした頭を秋の稲穂のように垂れた。
「この国にはいくつかの剣術流派がございますが、最も知られているのはユグリート剣術と呼ばれるものです。初代ユグリート王が完成させたといわれるこのユグリート剣術は、片手剣と盾とを使用します。主な動きは突きとなります」
穏やかな口調で語りながら、ヨーゼルは腰に下ろしていたサーベルとダガーを外すと、無造作に転がっていたウッドソードと盾を手にした。ウッドソードを右手に、盾を左手に握る。
「戦場において、大きく振るのは確実に仕留めるための渾身の攻撃であり、通常の攻撃は突きです。ユグリート剣術には基本動作が十二、ございます。これを形と呼びます」
ビュウ、と一陣の風が吹いた。目にも止まらぬ鮮やかな突きが、虚空に放たれる。なごむの手ではゆらゆらと頼りないウッドソードが、同じ剣とは思えないほどの軽やかな動きをする。まるで鳥のようだ。
ヨーゼルは十二回、剣を動かす。
「大きく振る動作がみっつ、突きに適した動作がむっつ、小さく振る動作がみっつです」
上から振り、横に振り、下から振りあげる。頭にめがけて払うように振る。細かく手首を返して払う。
その動きは、もう一人、ヨーゼルに対する敵がいるようだった。きびきびとした、剣使い。それは十二の振付のようにも見えた。十二の動作を、同じ速さ、同じ位置、同じ角度、同じ距離で放つ。それを何遍も、ヨーゼルは繰り返す。寸分の狂いもない、完璧な運動。
「形とは、剣を使うための全ての無駄を排除した動作です。この動きを体に染み込ませ、極めていけば、戦いの動きが速くなっていく。相手の隙など、いくらでも作り出せるのです」
機械的な美しさのある剣術に、いつの間にやら観衆が集まっていた。健康的に肌を焼いた剛悍そうな兵士達が、玩具に目を奪われた子供のような表情で立っている。羨望の眼差しの中でも狂うことなくヨーゼルは剣術を暫くの間繰り返すと、剣の手を止めた。
「基本動作、やってみましょうか?」
ラシャも加わり三人で、形と呼ばれる十二の剣技をひたすら行う。剣の持ち方から、どう腕を入れるのか、どう足を進めるのか、筋肉の動かし方までを学んだ。休憩を挟みつつ何度かこなす内に、よれよれで纏まりのない振りしか出来なかったなごむでも、段々と様になってきたようだった。とはいえ、幼い頃から剣術に打ち込んできたであろうヨーゼルやラシャとは比べようがないが。
日が傾き、強烈だったその瞬きも少し翳り始めた頃、なごむの体力は最後の塵の一粒もなくなった。
足元がふらついて、ついに尻餅をつく。するともう、足腰はたたなくなった。芯の芯まで、へとへとだ。
なごむの完全な限界を悟って、ヨーゼルはなごむの手から離れたウッドソードを片付けた。
「今日はここまでですね」
ヨーゼルの和やかな微笑みにラシャが頷く。
「ふむ。久しぶりに基礎をするのも良いものだな。気持ちのよい疲れだ」
ラシャの額には、なごむに無計画な指導をしていた時にはなかった汗が浮かんでいる。
「基礎でもしっかりとしたものならば、全身が疲労するものです。今日はぐっすりと眠れるはずですよ」
「ありがとう、ヨーゼル」
「いいえ。それよりもなごむ様が。大丈夫でしょうか?」
「無理をさせすぎてしまったようだ」
地に伏せって懸命に呼吸するのに精一杯で、なごむは二人の心配に声も出せず頷いた。疲れのせいだろうか、冷たい大地に背中を預けているのが心地よい。植物にでもなったような気分だ。床に根が下りるという感覚と共に、どっと眠気が押し寄せてきて、なごむは欠伸を噛み締めた。気を抜けばすぐに、睡郷に墜落しそうだ。
うとうとしていると、ふいにふわりと体が浮いた。
驚いて開眼すると、カラドホルグだった。がっしりとしたその腕に包まれて、思わず赤面する。
「熱もある?」
「だっ、大丈夫、歩けるから」
慌てて手足をばたつかせ、下ろしてもらう。その足が地につくも、ふにゃりと腰から再び落下してしまった。
「…………うぅ」
「無理は、するな。なごむは運動が苦手。体育が苦手。運動部には入りたくないと思う。委員会も運動とは関係がないものに入りたい」
小さい頃からの考えそのものズバリを言われて、思わずなごむは窮した。恥ずかしながら、もう無理をしても歩けそうになかった。
「カラドホルグさん、すみません、あの……」
「分かってる」
ひょいと持ち上げられる。なごむは甘えることにした。穏やかな安心感がふわりと浮き上がって、耐えられなくなり、そのまま脱力する。
「おやすみ、なごむ」
無意識の内に、なごむは深い深い眠りの中へとはまりこんだ。
「肉体と共に精神も鍛えられる。精神が鍛えられれば、エン・リーテも見える。エン・リーテは心の深い部分で感じるから……。だから今は、おやすみ」
疲れが呼び寄せた深淵へ。ゆっくりと、ゆっくりと降りていく、その底へと。
なごむは夢も見ずに、朝までひたすら、睡眠を貪った。
◆
開け放たれた窓からは心地よく涼やかな風が吹いていた。切り取られた空は晴れやかで、仰げば心が遠くへ飛んでいってしまいそうだ。
執務室はユグリート城の高い位置にあった。今日のような良い天気の日には、天空に浮かんでいるような風景が見れる。
しかしながら執務室の中は、外のからりとした雰囲気とは反対に、暗い。卓上に積まれた書類が濃い影を作っている。加えて、書類にまとめられた国内の状況はお世辞にも明るいと言えるようなものではなかった。
ユグリート王は紙に刻まれた情報、各地に起こり始めた災害の被害報告のひとつひとつを丁寧に読み、額に深い皺を作っている。無意識に漏れる溜め息は重かった。
そんな王の様子に、執務室の長椅子で寝そべっていた金髪の青年が、ひょっこりと顔をあげた。
「珍しく深刻じゃん」
ジャルグボールグは焼き菓子を口に放り込み舐めるように咀嚼すると、ニタリと笑った。
「深刻だからな」
眉間を揉みながら、王が呟く。
「日に日に、状況は悪くなっているからね。汚染地帯の広がりが加速している。甲殻乱走が、今年に入って三度も報告されている。このままでは……」
「三年後にはこの国ないかもなぁ」
あっけらかんと言われて、王は目を細めた。
「冗談だよ」
「実に笑えない」
普段ならば笑って過ごせる楽観的なジャルグボールグの言葉の数々が、とてもではないが受け止められない。
国を治める立場になってもう二十年近い。いくつも問題はあったが、これほどまでに悩むことはなかった。アルケアの討伐など伝承の中の事柄である。物語の中の悪夢、それが現実に起こってしまっているのだった。とてもではないが余裕を生み出すことなど出来ない。頭が痛かった。
「だが……」
一昨日のこと、ひとつの希望が生まれた。希望は出会った当初どこか迷っているようだった、しかし。その次の日の朝には、少しだけ表情が変わっていた。恐縮しながらも、告げたのだ。力になりたいと。
ユグリート王は長く座っていた椅子から腰をあげると、凝り固まった筋肉を解しつつ、露台へ足を踏み入れた。露台からは城を見渡すことが出来る。王は視線を落とすと、あるものを探した。それはすぐに目にとまり、不思議と疲れが溶けて頬が緩んだ。
「もうすぐで、笑えるだろうか」
「どうだろうねぇ……」
昨日に続き、訓練場には兵士達が溢れている。その中で小さな影がふたつ、剣を重ねあっていた。
◆
「はじめ! 一、二、三!」
ラシャは声を張り上げながら剣術の基本動作に基づき、ウッドソードで空を薙ぎっている。
なごむは同調するようにして必死についていく。同じ角度、同じ力、同じ速度で幾度と繰り返される、形と呼ばれる剣術の基礎。昨日の疲れが骨にまでこびりついた体は重たかったが、少しずつ剣に慣れてきたようだった。
とはいえ、ラシャのように剣が体の一部となってしまったような滑らかな動きではない。操っているというには遠いが、少なくとも昨日のように剣に振り回されるようにしてバランスを崩すようなことはなくなっていた。
「うん。そろそろ休憩に入るか」
「ふあいッ」
肩で荒く息をしながら、なごむは頷いた。ウッドソードを杖がわりに木陰へと移り、倒れ込むように樹へと背中を預ける。
「もー……むり……」
丈の低い草の絨毯が火照った体に冷たく心地よい。
緑の爽やかな香りに混ざり、背筋から汗の臭いがした。燃焼する筋肉を冷ますべく体が滝のような汗を出している。衣服と共にべたべたと不快感が張り付くが、それを拭う活力はない。
「なごむ、大丈夫か?」
「うぅ~……」
心配そうに眉をひそめるカラドホルグから、震える手で茶色い皮袋を受けとる。中にはたっぷりと水が入っていた。コルク詮を開けた途端にあふれでた水を大きな口を開けて受け止めると、なんともいえない幸福感に包まれた。
「おいしい」
「それは良かった」
カラドホルグはフッと口角を上げると、
「今度はこれを」
手際よくサッと飴を渡され口に含む。塩気と甘味の融合した絶妙な味わいが舌に広がり、これまた至福だった。
「……まるで乳母だな」
ラシャが腰に手を置きながら、溜め息まじりに笑う。ウッドソードを樹にたけかけると、彼女は少し離れた位置に腰を下ろした。
「しかし、水は分かるが何故、飴なのだ」
「なごむの世界ではよくする。疲れを癒して体を作るために、塩と甘味はよい」
ラシャは思案毛に、ふぅんと鼻をならした。
「そうか……。この世界でいうと、ビャクガのようなものか?」
カラドホルグが静かに頷く。
「びゃきゅが?」
聞きなれない言葉に、なごむは飴玉を転がしつつ頭をかしげた。
「……運動をした後に食べると良い」
「美味しいんですか?」
「苦い」
「僕の体にも良いですか?」
カラドホルグの回答に、うつ伏せになっていたなごむは上体を起こした。まさか興味を持たれるとは思っていなかったのだろう。カラドホルグは狐につままれたような顔をすると、少しばかり虚空に視線を泳がせた。
「なごむの世界と、この世界は不思議と似ている」
普段は寡黙なカラドホルグの口が珍しく大きく開かれた。
「……エン・リーテは存在せず文明も異なる、違う。しかし、物の形や理はよく似ている」
カラドホルグは足元の雑草をつまみあげると、指先でクルクルと回す。
「例えば、草木の形や、知能の発達した動物の形は大体が同じだ。命の巡り方さえも。何もかも違うのに、何もかも同じ。なごむの世界にあるお伽噺には、この世界を綴ったようなものもあった」
雑草は風見鶏のように三百六十度に広がる世界を見渡すと、ふいに吹いた突風に飛ばされた。
「元はひとつの世界だったとしたら、……面白い」
「え?」
「昔、ロトが言っていたから」
ふいにカラドホルグの目が細められた。何かを懐かしむような、或いは悲しむような、陰りのある表情にドキリとして、なごむは地面に視線を落とした。覗いてはいけないものを覗いてしまったような後ろめたさが何故だか胸をかすめた。
「つまり物は試しということだ、少年!」
突然、ぐいと首根っこを持ち上げられて悲鳴をあげる。慌てて首を回すと、お気楽そうな顔が目に飛び込んできた。
「ジャルグボールグさん!?」
いつの間にそこにいたのだろう。にやけながら、なごむを立たせるジャルグボールグの右腕には、抱え込まれるようにして大皿をあった。大皿に山の如くこんもりと積まれた食べ物は、甘い匂いを放っていた。焼き菓子だろうか、大小様々な形をしている。その中の端にちょこんと添えられた白い豆のようなもの。
「これがビャクガだよ、少年。さぁ食べて元気になろう!」
異世界に来て数日が経ち、異世界のものは幾つか口に入れて抵抗はない。
「……すみません」
なごむは恐る恐る手に取ると、そのまっさらな球体を凝視した。白い豆のようだが、グミのような弾力があり、力を入れたらプチリと潰れてしまいそうな感触だ。
「あのっ」
「うん? 何を躊躇う、若者よ」
「えっと、その……。苦いんですよね?」
カラドホルグが頷き、ジャルグボールグが目を輝かせている。
「ちょっぴり大人の味だ! さぁ、大人の階段を上ってみようじゃないかぁっ」
「……分かりました。いただきます」
そう言いながら、なごむはグニグニとビャクガを指で弄んでみる。苦いのは苦手だった。大丈夫だろうか、そんな迷いに戸惑っていると、
……ビャクガが動いた。
「!?」
触覚のようなものがビャクガに生え、ワサワサと揺れている。それはまるで、アレのように。
「あれ、生きてる。生焼きだったかなァ」
頭を掻くジャルグボールグに、ラシャが眉間の皺を寄せる。
「また火を通すのを忘れたのだろう。土から掘り起こすだけで満足して」
「生だから苦味が強いかもね。まぁ食える、食える。って、どうしたの。顔まっさおだケド」
「む……む……虫ぃい!!」
なごむは絶叫すると、ビャクガを放り投げた。