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プロローグ

「雨だ」

 鎧を纏った兵士達の誰かが、空を仰いでそう呟いた。

 薄く塗ったようだった灰色の雲が陰鬱と重なり始め、静かに唸りをあげて雷雲へと変わる。湿り気が漂い始めてすぐに、真珠ほどの雨粒が天から降り注いできた。

 ますます地獄絵図のようだと、その場にいる誰もが思っていた。


 そこは不気味な地だった。

 大地は老いたようにひび割れており、雨を吸うことすら出来ない。かつては力強く根付き青々と萌えていただろう大樹が、一枚の葉もなく枯れ、黒ずんでいる。

 まるで火を放たれたあとのようなそこには、巨大な穴がすっぽりと開いていた。

 総勢五千人の屈強な戦士達は確かな指揮のもと、その穴を囲い、刃を向けて機を待っていた。

 ――――それに。誰が掘ったわけでもない異質な穴にいる、それに。


 不気味な地獄の大穴には、更に奇怪なものが蠢いていた。

 古い血の塊。形容するならば、そんな言葉が浮かぶそれは、あまりにも大きく、あまりにもおぞましい姿を晒していた。

 はらわたに似た赤黒い皮膚はぶよぶよと震えながら薄い緑色をした粘着質の体液を分泌し、肉や魚、ありとあらゆる生き物の亡きがらを寄せ集めて腐らせたような酷い臭気を放っている。


 兵士達は鼻が曲がりそうな悪臭に顔を歪めながら、懸命に吐き気と、そして恐怖を押し殺していた。みな総じて、生命の危険を感じていた。ここにはいてはいけないと、彼らの中にある本能が警告していた。


 彼らの生まれ住んでいる国はもう何年も争いをしていない。良き時代と良き王と良き隣国に恵まれ、命を削るような戦いに身を投じたことがない。故に兵士でありながら彼らは、死と遠かった。

 しかし。

 今まさに、この場所で、誰もが生まれてこの方味わったことのない戦慄を覚えている。それは彼らが初めて出会う死の化身であった。


 兵士達の肉体を怖気が舐めあげ、彼らの正義感が軋みをあげ、魂が逃避へ向けて高まり始める。

 畏怖がせり上がり、頂点へと達しようとした、その時。

 烈風が頭上を駆けあがった。

「顔をあげよ!」

 凛とした声が雨と共に降り注ぎ、兵士達の肩を強かに叩いた。見上げると、そこには大きな影が翼を広げて雄々しく飛翔していた。


 双頭の竜。

 瞳は青い炎を巻き上げ、赤い鱗は紅玉のように艶めいては金色にも輝く。躍動する筋肉は厚く神々しく隆起していた。口を開けば獰猛な牙が、てらてらと怪しげな光を放つ。

 巨躯を豪雨に晒す竜の背には、驚くことに人間が乗っていた。

 強風に煽られ、さすらう髪。左右の髪で小さな三つ編みを耳の上まで結わえて残りを垂らした頭は、まるで子犬の耳を思わせ愛くるしい。後ろの髪はそのまま下げられ、肩甲骨を隠していた。その、艶やかな火焔色。

 少女だった。

「兵士よ、顔をあげよ! お前達の背後にあるのは逃避ではない。国である。神に愛され、豊饒な大地に恵まれ、親兄弟友人が時を刻み命を燃やす、愛に満ちたお前達の母国である! その母国を護りたくはないか!」

 純白の服を着た可憐な少女。その闇色の瞳の雄々しさ、猛々しさ。

「私は護りたい!」


 ビスクドールを思わせる整った顔立ちには似合わない荒々しさが、赤髪の乙女のその双眸にあった。

「護りたい者は、私に続け!!」

 戦乙女の言葉に、兵士達は恐怖を振り払い、絶叫し答えた。士気が高まる。五千もの猛りが燃え上がる。それを少女は認めると、竜の背を蹴りあげた。


 双頭の竜が咆哮と共に穴へと飛び込んでいく。

 それに兵士達が続く。

 無数の矢が黒い物体に向けて放たれた。放射線状に矢が落ち、続けとばかりに穴へと縄が投げられ兵士達が下りていく。


 竜は滑空し、喉を鳴らすと巨大な異形に獰猛な爪をたてた。

 爪はおびただしい体液を貫き、気味の悪い皮膚へ突き刺さる。竜の腕の剛力が確かに肉を掴み、引き上げ、飛翔して異形を切り裂いていく。血が噴水のように噴出し、少女の服の端を赤く染め上げる。


 竜に続けと、矢の林と化した皮膚に降り立った兵士達も剣を突き刺す。

「ゆけ! 進め!」

 少女の鼓舞が響き、血しぶきがあがる。赤い雫が雨をすり抜けて舞い上がる。

 その一粒が、まるで矢のように竜を追っていることに、誰も気づかなかった。


 瞬間、竜の毛色の違う咆哮が木霊した。

 剣を止めた兵士達は、翼や四肢を乱して暴れるように竜が落ちていくのを見て、驚愕した。

 兵士の一人が剣を鞘に納めて兜をずらす。

 灰色の毛並みに紫の瞳をした短毛猫。鎧を着た猫は、叫びながら落ちていく竜へと走った。


 竜が落ちていく。少女が落ちていく。猫は豪雨と血の雨の中で、喉を振り絞る。

「ラシャ様ああああ――――ッ!」

 絶望と憤怒に揺れ、統率を失った兵士達の背中に、血の矢が次々と飛んでいった。

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