第六章 記憶と認識の違い
I
理世は二人と向かい合う。今からの時間は二人の過去に触れる時間だ。気を引き締めなくてはいけない。
シリウスたちからしたら、話したくないこともあるだろうから、無理には話させたくないが……。
理世はふむと頷いてから二人を交互に見つめる。それから、遠慮気味に声をかけた。
「言いたくなかったら無理に言わなくて良い。ただ、詳細はなくても結果ぐらいは教えて欲しいと、俺は思っている」
先ほどとは違うことを言っているかもしれない。それでも、理世は伝えておかなくてはいけない。彼らに無理をさせたくないということだけは。
だが、そんなことは知っているとばかりにシリウスは肩をすくめる。
「分かっている、リゼはそういう奴だからな」
シリウスはククッと笑ってから、楽しそうに告げた。お見通しだと言われているかのようだった。
しかし、理世からしたら意味が分からない。
そういう奴って、どういう奴……?
理世は首を傾げる。
すると、それを見ていたサフィラがふふっと楽しそうに笑った。
「だって、リゼさん、私たちと初めて出会った時も同じようなことを言っていたよ?」
「……そう、だったか?」
「てめえ、人の額にデコピンかましやがっただろうが」
「それは覚えているが」
理世はふむと頷く。目の前でシリウスが怒っている声が聞こえてくるが、それよりも自分の記憶に自分が何を言ったのかは残っていなかった。
自分が何を言ったかなんて、あまり覚えていないものなんだな。
二人に似たようなことを言われたと告げられたものの、自分の記憶には残っていない。自分が何を二人に言ったのか、二人に何を伝えたのか、いまいちピンと来ずに首を傾げるだけしかできなかった。
まあ、確かに伝えるならそういうことだとは思うが……。ここまで覚えていないとは、自分のことながら呆れるしかないな。
以前、シリウスが口走った過去はおそらくだが壮絶な内容だろう。自分の家庭事情よりも大変なことだっただろうと推測できる。
「すべてを奪われた」、シリウスのその言葉はそう簡単に吐けるものではない。
重く、冷たく、悲しみと絶望、怒りが混ざり合った言葉。
あの時――、理世の家にいた時に、確かにシリウスはその言葉を口にしたのだ。
俺の想像が乏しいのもあるが、すべて分かるなんて軽率なことは言えない。シリウスやサフィラの苦しみは、二人にしか分からないんだからな……。
言葉というものは特に難しい。
己が本心から思っていることも、上手に伝えられているとは思っていない。どこかしら上手に伝わっていないと思うところがある。
自分たちは人間だ、無理もない。自分たちの意思疎通はどうしても言葉に頼ることしかできないのだ。それ以外の手段を持ち合わせてはいない。
相手の頭の中を見ることはできないし、自分の心の中を見てもらうこともできない。
音として言葉を発するか、文字として書き起こすか。
そういう手段しか自分たちは取ることができないのだ。
きっと、二人の話を聞けば共感してやりたいところも出てくることだろう。
「大変だったな」と辛さを分かってやりたいところも出てくるはずだ。
果たして、自分は彼らに大変だった思いを、辛かった心を分かってやれる言葉をかけることができるのだろうか。
理世はそれを思うと急に不安になってくる。
かけた言葉によって、逆に傷つける結果になってしまっては二人に申し訳ないし、そんなことは絶対にしたくない。
自分自身、言葉が上手なわけではない。そんなことはよく分かっている。
どうするべきか……。
理世がそう思っていれば、二人は理世が考えていることを察したらしく、朗らかに笑って。
「大丈夫だよ、リゼさん」
「ああ、そう気にするな。何も問題ねえよ」
二人の言葉に、理世はキョトンとして。
理世が首を傾げている中、シリウスは気にすることなく淡々と過去を話し始めたのであった。
Ⅱ
シリウスは静かに語り始めた。その声は本当に何事もなかったかのように冷静で、感情は一切籠っていなかった。
理世はそれに少し驚きながらも、話の腰を折ることなく話に耳を傾ける。
目の前にはいつの間に出したのか、シルバーが用意してくれたカップが三つ。紅茶の良い香りが漂ってくる中、シリウスの声が静かに流れてくる。
理世はその姿を見て、シリウスが成長したのだろう、そう思うだけに留めたのであった。
シリウスの話した内容は、想像を絶するものだった。
もとはシリウスとサフィラの両親が事故によって急逝したことから、遺産相続の話がでたことが始まりだったという。
貴族という立ち位置あったシリウスたちには莫大な資産があって。相続される遺産自体も、長男であるシリウスにすべてが相続されるはずだった。
だが、それを聞き付けた親戚たちがまだ幼いシリウスやサフィラを引き取ることを条件に遺産を譲れと言い出したという。両親が亡くなった今、幼い彼らだけでは不便なことだろうと、決まり文句のように同情している様子をチラつかせながら。だが、その奥の瞳が笑っていないことに、シリウスもサフィラも気がついていた。
シリウスはもちろん抵抗した。幼いと言われながらも、すでに一七だった彼はどうにかすると言い張った。資産にはもとより眼中になかったものの、両親の資産に目が眩んだ親戚たちに腹が立ったのだ。しかも、よくよく聞いていれば、シリウスとサフィラはバラバラに引き取ることになると言うではないか。この土地自体も売り払ってしまうのだと言うのだ。
最終的にはすべてを奪っていこうと計画していた親戚たちに、シリウスは何としてでも自分の身とサフィラの身を守ることを決意した。両親と過ごした土地自体も手放したくはなかったが、まずは自分たちが生きていなくてはと思ったらしい。
そんな矢先だった。親戚の一部が、抵抗された時ようにと雇った賊たちが乗り込んできたのだ。
そこからは場は騒然とした。賊たちは雇った彼らの命も奪い、さらには屋敷内のすべてを掻っ攫おうとしていた。
賊が屋敷内に目を奪われている隙に、シリウスはサフィラを抱えて逃げ始めた。
そして、一目散に逃げている中で、何故か理世の元に辿り着いていたのである――。
一度区切られた話に、真っ先に口を挟んだのは理世だった。深く長く息を吐き出す音が、静かだった空間を制圧していく。
シリウスとサフィラ、少し離れた場所でたっていたシルバーが彼女を見守る中、理世は息を吐き出し終わると、低い声で告げる。
「……おい、その親戚どもの居場所を細かく教えろ」
「……何する気だよ、リゼ」
「決まってんだろうが、お礼参りだ」
理世は問いかけるシリウスに対しても低い声を発した。いつもの何倍も低い声だ。まさに地を這うような声と言っても過言ではない。顔は普段見たことがないほどに険しくなり、眉間の皺は深く刻み込まれている。
シリウスとサフィラが目を瞬く中、理世は腸が煮えくり返る思いだった。
二人の目の前だということもすっかり忘れ、理世は怒りのままに言葉を吐き出す。
「上等だ、馬鹿野郎ども。人の大事な弟と妹に手え出しやがって。少なくとも一発は殴らねえと気がすまねえ」
「……おい、サフィラ。こいつ、本当にリゼか?」
「こんなに怒っているリゼさん、初めて見たよ……」
二人は怒っている理世を見ながら、顔を見合せて感想を各々述べる。
二人が驚くのも無理はない。理世は基本的に二人の前で怒ったことがなかったのだ。
「叱る」ということはあっても、「怒る」ことはほとんどなかったと言っても過言ではない。
そんな理世が二人の目の前にいることすら忘れて怒りを顕にしている。二人は目を瞬く他なかった。むしろ、別人ではないかと疑うほどである。
一方、理世はどうしようもないほどの怒りに襲われていた。どう押しとどめるかに全神経を注ぐしかなかったのである。
腹が立つ、その思いが沸騰したお湯のように次々と沸き起こってきてしまう。
そして、これほどまでに無性に腹が立ったのは初めてのような気がした。
今の今まで彼らの過去を知らなかった自分にも腹が立つが、シリウスたちが話したくなかったことなら無理に話を聞くのは違うと、おかしな話だと思っていた。その選択自体は間違っていなかったと思いたい。
「つーかよお、俺は弟じゃねえんだけどよ」
「それを言ったら、私も妹じゃないよ? 狙っているのは別の立ち位置だしね」
「だから、サフィラに渡すつもりはねえって言ってんだろうが」
勝手に喧嘩を始めた二人の言葉は、理世の耳に届かない。
理世の頭の中は、別の思いで埋まり始めていたからである。
シリウスやサフィラが大変なことに遭っていた。それは他人の俺だから、聞くのが遅くなった……。
なら、本当の家族だったら――。
「……本当の家族だったなら、お前らが辛い時も傍にいられたのにな」
理世は無意識にそう呟いていた。
本当の家族だったのなら、まずその親戚たちの行いを止めることができたかもしれない。
シリウスとサフィラの傍で、安心させてやることもできただろう。
他人だから、知ることも遅くなるし、その領域に入り込めない。
保護したからと言って、俺が彼らの傍にいられるわけではないんだがな……。
分かってはいたが、それでもしばらく一緒にいたのだ。情が移るというもの。自分の中では家族同然だったが、確実に線引きができてしまうことに、今さらながらに気がついてしまった。
だが、そんな時にガチャンと食器が当たるような音がする。
周囲に視線を走らせてみれば、どうやらシルバーがお茶のお代わりを入れようとしていたところで手が滑ったようだ。茶器が壊れようが、紅茶が零れていようが、動くことはなくただじっと理世に視線を向けていた。
なんだ、そう思って今度はシリウスとサフィラに視線を向けてみれば、二人は固まっていて。シリウスはカップを手に硬直していて、サフィラは目を輝かせながら両手を口元に当てていた。
「……どうかしたのか?」
理世は何かしただろうかと首を傾げる。頭をひねらせて考えてみるも、思い当たる節はない。
しばし黙って考えていれば、サフィラが立ち上がって机を挟んで顔を近付かせる。そして、うんうんと何度も頷きながら嬉しそうに告げた。
「そっか、リゼさんにその意思があるなら喜んで受け入れるよ! すぐにでも式を上げようね! あ、それよりも先に籍を入れた方が良いかな!?」
「? 何の話だ」
「そうか、外堀から埋めていくつもりだったが、リゼがそのつもりなら話は早え。任せろ」
「だから、何の話だ」
話がおかしな方向へと進み始めている。
理世は頼みの綱としてシルバーに視線を向けたが、シルバーは何故か泣いていて。
「ついに……、ついにシリウス様とサフィラ様にこの時が……!」
「いや、何か分かってねえけど、とりあえず止めろよ」
理世は思わずツッコミを入れる。
だが、話がおかしな方向へと進んだ原因が自分であることに、理世は一生涯気がつくことはなかったのであった。
Ⅲ
とりあえず話を戻して。
シリウスは理世の元から戻ってきた頃のことを話し始めた。
結論から言えば、すべてを取り戻した結果が今である。
シリウスは腕を組む。
「どうもな、リゼの元から戻ってきた頃、俺たちが居なくなってから半日も経過していなかったようだ。しかも、親戚どもはおおかた賊にやられていた。その賊たちは逆に取り締まられていたがな」
「ようだ、ってそんな簡単に……」
「シルバーたちに聞いただけだからね。けど、残っていた親戚たちにやり返せたのも、この家を取り戻すことができたのも、リゼさんのおかげなんだよ」
「……俺?」
サフィラの言葉から唐突に自分の名前が出てきて、理世は目を瞬く。
あまりにも予想外の展開だ。
……俺は、関係ないはずなんだが。
なんと言っても、自分はこの世界では何もしていない。
短い期間、自分の世界で彼らを保護しただけだ。特に何かしてやったわけでもなく、何かを与えてやったわけでもない。
だというのに、自分のおかげというのは一体どういうことなのだろうか。
理世が分かっていないことを察したのか、シリウスがニヤリと笑う。その顔はしてやったりとでも言いたそうで。
「俺に言ったろ、リゼ。生きていくために利用しろ、ってな」
「……」
それは何となく覚えている。理世はシリウスの言葉を聞いて、そして彼の表情を見て何か嫌な予感がした。何が、と具体的には言えないものの、冷や汗が背中を伝っていく。
すると、兄に次いでサフィラが人差し指を立てながら説明するようにいい笑顔で告げる。
「ふふっ、リゼさんの言葉に従って、兄さんと一緒に親戚の人たちを利用したの。みんな、いい大人ばかりだったからね。立場を利用して賊たちと共倒れしてもらったんだよ」
シリウスもサフィラもやけにいい顔をしている。
理世は思わず問いかけていた。
「……お前ら、何したんだよ」
聞くのは何となく恐ろしかったが、念のため確認してみることにした。
おそらく親戚たちと賊たちを何かしらではめたのだろう、と推測する。
ただ、それは推測に過ぎない。そのため、真実を知りたいと思ったのだ。
理世がおそるおそる聞く中、兄妹は顔を見合せた。それから、二人揃ってニヤリと笑って楽しそうに告げる。
「ナイショ」
その語尾は音符でもつきそうなほど軽快なものであった。
理世は思わず頭を抱えてしまう。
確かに自分は言った、信用しないと言ったシリウスに「生きるために自分を利用しろ」と。彼らが生きなくてはいけないと、そのために自分の持ち物を利用して欲しいと思って言った言葉だ。それだけはよく覚えていた。
それにしても、と思う。
「……育て方、完全に間違えたなあ」
理世は完全に親心が芽生えていた。ため息混じりに言葉を告げれば、兄妹はそんなことはお構いなしに先ほどの話を知らぬ間に蒸し返していて。
「で、リゼさん! 式はどんなものが良いかな!? やっぱりウエディングドレス?」
「東洋にワフクとか言うのもあんだろうが。何なら全部着せりゃあいい」
「もう、何言ってるの、兄さん! わざわざ全部をみんなの前で披露することもないでしょ! リゼさんだってたくさん着せられたら疲れちゃうし、わざわざ綺麗なリゼさんを全員の目に映すことないんだから! モブの目に映すなんて、もったいないじゃない!」
「モブ言うなよ。だが、それもそうか。自慢してやりてえとは思うがな」
「激しく同意。でも、そんなことしたら絶対リゼさん人気出ちゃうよ! 良くない! 私たちで囲っとかなきゃ!」
「そうだな。そのほうが良いな」
「何の話を勝手に進めているんだ」
兄妹がどんどん話を進めていくのを窘める。何の話かよく分かっていないが、とりあえず止めておくに限るだろう。
すると、シルバーが口を挟む。
「シリウス様、サフィラ様。式を上げるとするなら、来賓を呼ばないほうが良いのでは」
「それはそれでと思ってよ」
「うーん、難しい! 自慢したいけど、したくない」
「こら、あんたも混ざるな、入れ知恵しようとするな。止めろ」
理世は何度目か分からないため息をつく。
どうやら、育て方を間違えたことに加え、自分の味方はここにはいないらしかった。
Ⅳ
「で、結局リゼも分かってねえんだろ、ここに来た原因は」
「まあな。気がついたらこの世界にいてお前たちと再会していたな」
「うーん、何だろうね……。もしかしたら、私たちの思いが強く伝わったのかも」
唐突に確認されたが、理世はそれを肯定する。
すると、サフィラが何か嬉しそうに語って。
理世はそれに対して「どういうことだ」と尋ねた。首を傾げて聞き返すも、サフィラの言葉にどうも繋がりが見えない。
すると、サフィラはふふっと笑って。
「リゼさんに会いたいって気持ちが、さ! 一〇年間ずっと願っていたんだからね!」
「だな。片時も忘れたことはねえよ。リゼのことを思わなかった日は一度たりともねえ」
次いでシリウスがククッと笑って告げる。
二人が愛おしそうに自分を見てくるのが、何だか擽ったくて、恥ずかしい。
だが、それに関しては自分も頷けることがある。
それは――。
理世はクスリと笑う。
「――それは、俺も一緒だ。お前たちよりも短い期間ではあるが、このひと月間忘れたことはねえよ」
「忘れるわけねえだろ」と続けて告げる理世の表情は柔らかくて。
その優しい表情に、二人が今度は照れたように目を背ける。
そうだ、俺も忘れるわけがない。
理世は瞳を伏せる。
「お前たちと過ごした時間が、俺の人生で一番楽しかったと思うからな」
そう告げれば、二人が固まった気がした。
だが、理世の中では本当に二人がいた時が一番家に明かりが灯っていた気がしたのだ。
親との思い出はほとんど記憶にない。一人だった空間が、一人じゃなくなっただけで、あれだけ明るくて賑やかになるなどと、この二〇数年生きてきて初めて知ったのだ。
「シリウスとサフィラに出会わなかったら、きっと知らなかったことだろうな」
理世がそう言えば、いつの間に近付いてきたのか号泣しているシルバーにガシリと両手を掴まれて。
「や、やはり、シリウス様とサフィラ様が認められたお方……! このシルバー、全身全霊でリゼ様に仕えさせていただきますゆえ!」
「いや、おかしいだろ」
「シルバー、そのままリゼを引きずり落とせ」
「こっちに引き込めれば勝ちなんだから!」
「主人が主人なら、執事も執事か。そんなところ似るなよ」
理世はシルバーに掴まれた手をそのままに、盛大にため息をつく。
そろそろデコピンぐらいかましても文句は言われねえだろう、そんなことを思いながらこのどうしようもない状況に途方に暮れるのであった。