第五章 新しい景色と絶句
I
シリウスとサフィラに連れられて、理世は見慣れない街の中を歩くことになった。
歩けば歩くほど、ヨーロッパの街並みを思い出した。とはいっても、理世自身はその街並みを目の前で見たことがあるわけではない。テレビや雑誌で見かけただけである。それでも、記憶に残っている景色と変わらないことだけは理解できた。
しかし、こうして見ると、本当に別世界に来ているんだな……。
シリウスとサフィラの話からしても、理解していたことではあった。なんといっても、別れたはずのシリウスとサフィラがいるのだから、疑う余地もないことも理解している。
それでも、実際に街の中を歩いてみると感じ取る雰囲気や空気、人々の様子などが違ってくる。自分のいた国とは違う雰囲気も、テレビや雑誌で見た街並みの雰囲気とも違うのだ。
まさに、「百聞は一見にしかず」とはこのことなのだろう。
理世は見慣れない街に、雰囲気にキョロキョロと周囲を見渡してしまう。落ち着かないのもあるが、興味が勝っているのだ。
すると、自身の腰に手が回ってくる。視線をそちらに向ければ距離が随分と近くなったシリウスがいて。
「ぼけっとしてんな。危ねぇだろうが。怪我でもしたらどうするつもりだ」
厳しくも優しさが滲み出ている言葉が飛んできた。理世の身を案じているからなのだろう、危険だと告げてくるものの、怪我をするなとも告げてくれる。
理世はそれを聞いて苦笑してしまった。立場が完全に逆転してしまって、自分のことながら内心呆れてしまう。
「……まさか、シリウスに子ども扱いされる日が来るとはな」
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
シリウスも、サフィラも、出会った時は自分よりもいくつも歳下で、自分からしたら守ってやらなくてはいけない対象だった。
自分が守ってやらなくては、そう決意していたというのに、あろうことかシリウスは自分よりも歳上になってしまっていた。
世間の一般常識から考えたら、ありえない出来事だ。年齢が逆転するなど、そんなこと起こる可能性のほうがかなり低い。
それでも、ありえないことはありえないらしい。実際にシリウスは自分よりも二つ、三つ歳上になってしまっている。たったひと月会わなかっただけで、これほど変わってしまった、それは否定の仕様がない事実だ。
歳下だと思っていたのが、歳上になってしまうとそれだけで大きな違いが生まれてくるようだ。
やれやれ、本当に困ったな……。
ただでさえ、自分の知っている兄妹たちが大きく成長しすぎていてどう接すれば良いか分からないというのに、さらに扱い方まで改めなくてはいけない。
それは、すぐに慣れる話ではない。
そして、いちいち驚いていても仕方がないのも理解している。
そう、頭では理解しているのだ。だが、実際に見て体験すると、どうしても驚いてしまうし、困惑してしまう。
すると、やはり「慣れない」の一言に尽きてしまうのだ。これでは堂々巡りである。
ポツリと呟いた理世の言葉は、至近距離にいたシリウスに届いていたらしい。シリウスは綺麗な眉を寄せて、怪訝そうな顔をして。
「ガキ扱いじゃねえ。俺の女扱い、に決まってんだろ」
シリウスは引き寄せる力を強めて、キッパリと言い放った。
これに驚いたのは理世だ。キョトンとしてから、三拍きっちり空けて。シリウスの言葉を耳にしてから内容を理解して、噛み砕いて、飲み込んで――。
そして、首を傾げた。
「……誰が?」
理世の言葉に、黙ったのはシリウスだ。そして、呆れたように告げてくる。
「……リゼって、そんなに天然だったか?」
シリウスの口元がひくついているのが分かる。なんだか納得のいっていないような表情であった。
理世はふむと頷いて。
「……天然、とは違うと思うが。そんなこと一言も言われたことないしな」
「これが天然じゃなけりゃ、何が天然だってえの」
「俺に聞くな」
シリウスが目の前で肩を落としてそういう姿に、理世は「知らん」と付け加える。
そんなに言われることか。
理世はそう思いつつも、口に出すことはなかった。ここでシリウスに言い返すのはなんだか大人気ないような気がして。
年齢が逆転しているものの、やはり自分が先に大人だったからか、どうしてもまだ彼らを子ども扱いしてしまう理世がいた。
シリウスもそれ以上は何も言わなかった。ただ、チラリと理世を見て、腰に回している手を外すことなく前を向く。
街中を歩いていれば、この兄妹はとてもよく目について。
横顔ですら整っていることがよく分かるシリウスやサフィラに向かって、黄色い声が飛んでいく。特に、シリウスは仕事の話から推測するに、騎士団長を勤めているらしく、名前すら有名であった。
それと同時に、隣にいる理世に対してはヒソヒソと囁かれる声が飛んでくる。聞こえてくる言葉は、あれは誰だや、何あの隣にいる女、などの言葉で。はっきりと聞こえているわけではないが、どうにも否定的な言葉が飛び交っている様子。
まあ、そうなるわな。
理世はどこかあっけらかんとしているものの、やはり居心地は良くない。噂話というもの自体が、理世自身好きではなかった。
それが自分のことなら尚更だ。
過去のことを思い出してしまうから――。
シリウスの隣にいるから余計なのだろうが、やけに声がたくさん飛んでくる。ヒソヒソと話しているものでも、多くなってこればいつしか騒音となる。それに、中には聞こえるように言っている者もいるようだ。
人間って、こういうところだよな……。
シリウスから離れようにも、腰に回された手はそのままだ。振り払うことはできればしたくない。
だが、このままいたら自分のことはさらに言われるだろう。
離れたほうが、自分のためにも――。
そう悲観的に考えたところで、グイッとシリウスに強く抱き寄せられる。その手によって、マイナスに走りかけていた思考は停止した。
それと同時に耳に入ってきたのは、言うまでもなく隣にいる彼で。
「好き勝手言ってんじゃねえぞ、ゴラ! こいつのこと何か言った奴、俺に喧嘩売っているのと同等だと思いやがれ!」
シリウスは足を止めることなく、鬼の形相で言い放つ。さらに追加で、「次行ったら容赦しねえからな!」と告げていた。
周囲はあまりの剣幕に静まり返ってしまう。
理世は目を瞬いた。だが、シリウスの言葉がすごく自分のことを思ってくれているのだと理解して、胸が温かくなる。
シリウスが俺のことを大事に思ってくれている、それで十分ではないか。理世はそう思って、自然と口元が緩んでいたのであった。
Ⅱ
街からそう離れていない場所に、彼らの家はあった。森で囲まれている中に、なんとも不自然な大きすぎる門扉が姿を隠せずに現している。
まだ家の全貌が見えていないものの、門扉の大きさからやけに大きいのではないかと想像ができて。
理世は思わずぽかんと目の前に佇んでいる門扉を見上げてしまった。
「また、随分と……」
理世はそれだけを言うことがやっとであった。
見上げたまま固まっている理世に、サフィラが声をかけてくる。
「リゼさん、入るよー」
サフィラの言葉でようやく我に返る。よく見れば、シリウスが門扉に何か話しかけていた。インターホンでもあるのだろうか、二言、三言話していればゆっくりと門扉が開いていく。
開いたと思っていれば、シリウスもサフィラも迷うことなく足を踏み入れて。理世も促されるがままに足を踏み入れることとなった。
三人で足並みを揃えて領地らしき場所を歩いていけば――。
「……おいおい」
着いた先には、遠くから見てもかなり大きい、まさに屋敷と呼ぶに相応しい建物が待ち構えていたのである。
理世はまたしてもぽかんとしていた。
しかし、それと同時に思い出したことが一つある。
「……お前ら、確か、すべて失ったって――」
理世はそれだけしか紡げなかった。
理世からしたらまだ三ヶ月前のこと。
シリウスが家庭のことを口走ったことがある。後に詳しく話そうとしたシリウスを、理世は「無理に話さなくて良い」と宥めたことがあった。だから、理世自身は口走った内容のことしか知らなかった。
話をぶり返すことではなかったのかもしれない。
わざわざ聞くべきことではなかったのかもしれない。
それでも、理世は聞かなくてはいけないと思ってしまった。
もし、まだ彼らが困っている状況にあるのだとしたら。
もし、彼らを苦しめている内容があって、それでも言ってはいけないと思っているのだとしたら。
もしそうだというのなら、自分が動く理由は十分にあるはずだ。理世はそう考えたのである。
一時とはいえ、シリウスもサフィラも俺が預かっていたことに変わりはない。ならば、保護者としての立場は十分にあるはずだ。困っていると言うのなら、隠しているのであれば、俺が動いてやらねえと。
できることは少ないかもしれない。自分がいた世界とは違う。それでも、少しでもできることがあるというのなら、彼らのために動くことは惜しみたくない。
理世が密かに覚悟を決めていれば、目の前の二人はあっけらかんとしていて。
「話すと長くなるから、中に入ってからな」
「安心して、リゼさん。私たち困ってることはないから。心配になることも、気負うこともないよ」
二人の表情は柔らかい。理世を安心させるような表情であった。
理世は納得がいかないものの、ここで言い合うことでもないだろうと、二人に促されるままに足を踏み出す。
彼らが言っていることは、おそらく本当なのだろう。嘘偽りを言っているようには思えなかった。
理世は一時的に彼らを保護したからか、その期間で彼らの表情や雰囲気から何かしらを察することに長けていた。とは言っても、彼らが幼かった頃は特に分かりやすかったことももちろんあるだろう。そうなれば、多少話は変わってくるだろうが。
理世にとって、彼らについて分かってることは多いようで少ない。自信満々に何かを断言できること自体少ないはずだ。
……まあ、話していれば多少は察することができるだろうし。焦ることもねえか。
彼らが嘘をつくとは思っていない。
自分に対して何かを隠すこともないだろうとも思っていた。
それに、先ほど簡単に近況報告や確認をした時でさえも、嘘偽りはなかったように思えた。
大丈夫だろうと思いつつ、理世は自分のこともうっすらと考える。
……さて、俺も今後のことを多少は考えるか。
どうしてここに来たのか、どうやってここに来たのか、原因は相変わらず分からない。それでも、来てしまったことは仕方がないし、考えるとしたら今後のことだ。
理世は思うことを密かに抱え込みながら、二人の後を追うことにしたのであった。
Ⅲ
シリウスたちに連れられて、屋敷の中へと足を踏み入れれば。
「お帰りなさいませ、シリウス様、サフィラ様」
丁重に出迎えられている二人の姿があって。
しかも、二人は抵抗することなくすんなりと受け入れ、しかも慣れたように「ああ」だの、「ただいまー」だの返事をしているではないか。
煌びやかな屋敷の中。
高価な家具や装飾の品々。
そして、たくさんのメイドや執事たちの姿。
理世はそれを眺めやって、ポツリと思う。
……これが、異世界ってやつか。
理世はここに自分がいることが場違いだとしか思えなかった。
そして、結論を出す。
……帰るか。
どこに帰るというのだろうか。どこに行けば良いと言うのだろうか。
すべてが分からないままだ。それでも、理世がこの場にいることが、いたたまれない気持ちでいっぱいになるのだ。
ならば行動は一つ、立ち去るのみ。
理世は誰にも何も告げずに背中を向けて外へと向かおうとした。だが、その背中にドンッと衝撃が走る。理世がチラリと視線を向ければ、そこには必死に抱きついて引き留めようとしているサフィラの姿があった。
「リゼさん、どこに行くの?」
サフィラは笑っていたものの、その瞳には有無を言わせない何かが垣間見えて。
理世はグッと押し黙った。そして、張り詰めていた空気を吐き出すように息をつき、それから静かに告げる。
「ここにいる俺が場違いな気がして仕方がないから、帰ることにする」
「どこに帰るって言うの! 帰り方分からないって言ってたじゃない!」
「俺は平凡の一般人なんだよ。一軒家があるだけで贅沢だと思っているのに、こんな豪華な屋敷に俺がいられるか」
理世はサフィラをそのままに扉から出ていこうと動く。ずりずりとサフィラは引きずられる形となっているが、それでも手放そうとはしなかった。
その間、ずっと執事やメイドたちに指示を出していたシリウスがついに気がついた。ここまで押し問答をしていれば気が付かれるのは時間の問題だと思っていたが、やけに早すぎたのである。
シリウスが駆け寄りながら声を荒らげた。
「ああ゛!? リゼ、てめえ勝手に出ていこうとしてんじゃねえぞ、ゴラア!」
「口悪いな、シリウス。多少直しとけよ。俺は帰る」
理世は頑なに帰ろうとした。
しかし、シリウスとサフィラも負けていない。必死に引き止めようとしていた。
確かに、帰り方は分からねえが、ここにずっといられるか。
理世は我が家のことを思い出す。あの一軒家はもともと両親のものであった。それを譲られた形になって、一人にあの場所ですら広いと思っているのに、この我が家の何倍あるのか分からない屋敷に長くいるなど正気の沙汰ではない。
さて、どう説得しようか。そう思って三人で引かない戦いをしていれば、割って入ったのは第三者であった。
「リゼ様、とおっしゃいましたか」
「……はあ」
長年執事をしているのか、貫禄のある白髪混じりの男性が重々しく口を開く。
理世は内心、様ってなんだと思いつつも、返事をする。気の抜けた返事しかできなかった。
すると、その執事はさらに続けた。
「申し遅れました。私、執事長を務めております、シルバーと申します。リゼ様のことは――」
「遮って悪いんだが、俺に様は不要です。普通に理世と呼んでください、性に合わないので」
「なりませぬ」
シルバーと名乗った執事はキッパリと理世の言葉を否定した。
理世はきょとりと目を瞬いた。まさかそんなに間髪入れずに断られるとは思っていなかったのである。
まあ、遮った俺も良くないんだが……。
だが、理世は言ってしまえばただの一般人だ。敬称など不要である。しかも、彼らが仕えているのはシリウスたちだ。自分ではない。
そう思って、再度口を開いた。
「いや、俺は一般人――」
だが、今度は理世が遮られる結果となってしまう。
「シリウス様及びサフィラ様より、リゼ様のお話は何度もお聞きしております。大変お世話になった方で、しかも今後を共にする大事なお方であるとお聞きしておりますので」
「……は? なんて?」
理世は一瞬聞き間違いかと思った。シルバーと名乗った男性の告げた内容がまったくもって処理しきれていなくて。聞き返してみるも、それには返答はなく。
シルバーはいまだに何かを話しているが、処理しきれていない内容が頭の中でぐるぐると回っているからか、次の言葉が入ってこなかった。
というか、シリウスとサフィラはどんな説明をしているんだ……。
二人にチラリと視線を向けてみるが、二人は先ほどまでの焦った様子もなく、ただニヤリと笑うだけだった。
あ、なんか悪いこと考えてやがる。
理世はそれだけを理解して肩を竦めた。
ようやく入ってきたシルバーの言葉は終わりに差し掛かっていたものの、なんとも狂気じみたもので。
「そのような大事なお方をみすみす帰らせるわけには参りませぬ。何としてでも、ここにおります我々一同、全力でお引き止めさせていただきますぞ」
言い終えたシルバーの目がキランと光ったと思えば、周囲に控えていた執事やメイドたちが身構えにじり寄ってくる。ジリジリと距離を詰めてくるその目は、完全に据わっていた。
……俺は逃げ出した猫かなんかか。
理世はジリジリとにじり寄ってくる執事やらメイドやらを眺めて、自分に抱きついているサフィラを見て、そして腕を組んで様子を見ていたシリウスを見やって――。
「……分かった、いればいいんだろ」
――潔く降参することにしたのであった。
IV
「お前ら、一体全体、彼らにどんな話をしたんだよ……」
予想外の展開に理世はげんなりとしながら、通された客間で二人に文句を告げる。
シリウスとサフィラは満足そうに笑っていた。
「残念だったなあ、リゼ。そう簡単に帰すと思うなよ」
「この屋敷にいる人、みんな私たちの仲間だからね! リゼさんに恩を返さないとって思っている人ばかりだから、すぐには帰させてくれないよ」
「……どう考えても悪役のセリフだろ、それ」
理世はため息をつく。
育て方、間違えたかなあ……。
出会ってたった三ヶ月、しかもその間に保護していた期間はもっと短い。それでもすっかり理世は彼らの保護者の気分だった。
しかし、途方に暮れている場合ではない。
気を取り直して、理世は二人と向き合う。
「……まあ、俺のことはともかくとしてだ」
「おい」
「リゼさん、そういうところだよ……」
「ちゃんと聞かせてくれ。まだ納得のいかないことばかりだからな」
理世の言葉に、二人は真剣な表情で頷く。
まだまだ今日という長い日が終わるのには、どうも早すぎるらしかった――。