表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/7

第一章 蘇る過去

 I


 ギャーギャーと自分の目の前で続く言い合い。

 離れることのないだろうしっかりと腰に回されている青年の手と、ベッタリと身体ごと抱きつくかのように右手にくっついている女性。

 そして、時折同意を促されるかのように呼ばれる自分の名。

 理世は早くもこの終わりが見えない言い合いに疲れ切っていた。

 自分はといえば、この言い合いには一切参加していない。まず、現状を見極めようとすること自体に集中したいところだ。言い合いは確かにしていないのだが、第三者の視点からこの言い合いを見て聞いているだけでも知らず知らずに疲労は溜まっていくわけで。

 理世は思わず一つ息を吐き出していた。

 兄妹はといえば、言い合いに夢中になっている。間に挟まっているもとい挟まれている理世が抜け出すことは容易ではなかった。おそらく、抜け出そうと動いたところで、この兄妹らしき人物たちは反応を示すだろう。ならば、そんな無謀なことはすることなく、この二人を観察して見定めるほうが自分には向いている。そう理世は考えて二人を観察することにした。

 この二人、お互いにお互いが相手より自分と親密であることを主張したいらしい。どちらもがベッタリと自分にくっついているため、観察するにしても見にくいものの、今自分ができることはそれぐらいだと言い聞かせて。まずは青年へと視線を向けることにした。

 毛先にかけて蒼が濃くなっている薄いアクア色の髪、瞳はペリドットを思わせる煌めく緑。騎士なのだろうか豪奢で堅苦しい服装に、細くも鋭い刃が収まっていそうな細身の鞘。それに加えて体つきはたくましいようだ。細身でありながら引き締まっているのがよく分かった。

 ……まあ、これだけ、密着されていれば嫌でも分かるがな。

 がっしりと腰を掴んでいるたくましい手の力が弱まることはなさそうで。骨ばっている手は剣を扱っているからなのか、尚のこと目に付いた。逃さない、そう言われているかのように抱き寄せている手は、視線を落とせば嫌でも目に入るのである。

 しかし、こうして観察していれば、確かにいくつか既視感があった。

 自分が家で一時的に預かっていた兄妹の兄と、髪の色や瞳の色が合致するのである。だが、騎士をやっている、などという話はなかったし、何よりもっと身体は細かった。まだ成長過程の途中と言えそうなほど、筋肉はついていなくて。一五ほどの年齢だった少年だったのだから、似ているだけかととりあえず一旦保留にしておく。断言できない以上は様子を見るに限るのである。

 次いで、青年の妹だろう女性に視線を移した。

 蒼く煌めくサファイアを瞳に宿し、一束だけ浅葱を取り入れた白緑の髪。揺れるたびにふわりと動くその姿に、思わず草原を思い出しそうであった。顔立ちはよく似ていて、それに加えてスラリとした女性らしい体つきに目がいく。

 それにしても、と思う。

 ……妹のほうが、判断することが難しいな。

 理世の脳裏に蘇る兄妹の妹。その姿はとにかく幼かった。とは言っても一〇に満たない年齢だったわけではあるが。その妹は少女と呼ばれるに相応しく、理世に慣れた後はとにかくベッタリと雛鳥のように後を着いてきて、懐いてくれたものだった。

 青年同様、瞳の色や髪の色には既視感があるものの、やはり確証は得られなかった。

 そもそも、なぜ俺の名前を知っているんだ……?

 確かに、一時期面倒を見ていたもとい預かっていた兄妹だというのであれば、自分の名前を知っていてもおかしくはないと思っているし、納得がいくだろう。

 だが、もしそうだとするのであれば、年齢に納得のいく理由がないのである。

 なにせ――。


 ――理世が兄妹たちと別れたのは、ついひと月前のことなのだから。


 たったひと月のこと。理世が離れていた期間はたったそれだけ。それだけでこれほどに成長するなど誰が考えようか。他人の空似、と考えたほうがまだ納得がいくというものだ。

 だからこそ、理世は確証を得られず、断言すらできない状況にあった。

 周囲に視線をやってみれば、見慣れない景色が広がっている。ヨーロッパの街並みを思い出させる景観に、少なくとも自分は別の国にいるということを肯定しなくてはいけないのだろう。自分はどこへ飛ばされたのだろうか、そんな現実離れした思考しか思い浮かばなかった。

 理世は日本という国の出身だ。国外にはあまり興味がなかったというのもあって、一度たりともパスポートは発行したことがない。発行しようとも思ったことはなかった。そもそもである。飛行機に乗った記憶などないし、誰かに拉致された記憶もなかった。

 理世の記憶では、ただベッドで就寝をして、気がついた時には見慣れない景色の中で呆然と立っていた、というだけであった。しかも、なぜか普段着を着て、である。そして、呆然としていれば声をかけられ、挙句の果てにこの兄妹と思わしき男女に取り合われていたのであった。

 ……こういう話、どこかで聞いたことがあるような。

 創作の話だっただろうか。主人公が別の世界に飛ばされてその世界で生き抜いていくという話。よくは知らないが、最近は転生後の話とかも流行らしいとは、理世の記憶に新しいものだった。

 理世は冷静に考える。もはや、兄妹の言い合いは耳に入ってくることはなかった。

 俺は寿命をまっとうした記憶もないし、灯火が尽きた記憶もない……。

 となれば、考えられるだろうことは――。

 ……トリップ、とかいうやつか。

 いや、逆トリップだったか、なんて曖昧な記憶を呼び起こして首を傾げる。どちらにせよ、自分が一時的に保護した兄妹たちと状況が似ているのだろうと結論付けた。

 彼らの時はどうだったんだっけか……。

 理世は少し記憶を遡ることにした。

 目の前で言い合っている男女のことは放って、である。



 Ⅱ


 ――それは、今から三ヶ月前のこと。


 理世は家の中である場所を見てぱちくりと目を瞬いた。予想外の出来事に呆けてしまったがためである。

 両親が残した一軒家。一人で使うにはどうにも広すぎて。余っていた部屋がたくさんあったことも確かではあった。

 勿体ないよなあ、そんな他人事のように思っていたのはつい最近のこと。今までそう気にしていなかったが、目につけばやけに気になってしまうものであった。

 そんなことを思っていてしばらくすれば、なぜか目の前には見知らぬ子どもたちがリビングにいたではないか。一人は中学生ぐらいだろうか、少年がしっかりと腕に誰かを抱いている。もう一人はまだ幼い、小学生になったかなっていないかぐらいの少女が少年の腕の中で泣いていた。泣きじゃくって顔を埋めて、それだけで痛々しい姿に思えたのである。

 少年がギュッと腕の力を強めたのが見ていても分かった。少女はそれに縋り付くようにさらに顔を埋めてしまって。

 それでも、家の中に少女の泣く声が響く。

 理世は思わず頭を抱えてしまった。

 どういうことだ……。

 なぜ、自分の家にこの子どもたちはいるのだろうか。

 つい先ほどまでは確かに自分一人だった。リビングを通って、戻ってきて。たった数分の出来事、その短い時間で彼らは現れた。

 音もなく、声もなく。気がついた時にはこのリビングにいて、少女の泣き声だけが響いていて。

 そんなことがあるのか?

 現実離れした出来事に思考は停止する。だが、と理世は切り替えた。

 俺よりも、彼らのほうが不安だろう。

 理世はさてどうするかとしばし悩み、ある程度距離を空けた状態でその場にしゃがんだ。目線を少年に合わせるようにかがめば、少年はキッと鋭い視線を理世へと向けてくる。ペリドットがやけに印象に残ったが、理世はそれに触れることなく。ただ尋ねてみることにした。

「なあ、ここは俺の家なんだ。お前たちはどこから来たんだ?」

「……妹を、どうするつもりだ」

「……は?」

 理世は予想外の言葉が返ってきて、首を傾げてしまう。少年の声変わり前だろうか、まだ幼い声が耳元に届いたが、内容が理解できずにいた。

 いや、どちらかと言えば俺のほうがお前たちに聞きたいんだが……。

 そう思いつつも、余計な言葉は飲み込んで。理世は次の言葉をどうしようかと悩む。

 理世が何も言わないからか、少年は少女を抱き締めて理世をキッと再度睨みつけて。そして、食ってかかるように言葉を発した。

「俺たちには何も残っていない。俺には、妹だけだ。両親がいなくなった今、何も渡せるものなんかない」

「……あのなあ、」

「妹に手を出すというのなら、その時は絶対に許さねえ」

 理世が口を挟もうにも、それすらも許さないとばかりに少年は捲し立てる。理世の言葉を聞こうとはしないのだろう、聞く耳を持たないとはまさにこのことだ。

 それにしても、と理世は思う。

 なるほど、兄妹か。

 この少年は少女のことを「妹」と呼んだ。その妹は何も話さない。泣いているからなのだろうが、話す気配はなさそうであった。

 彼らの関係性が見えたところで、理世は肩を落として話をすることにする。どこまで聞いてもらえるかは分からないものの、話をしないと進まないことは目に見えていた。

「……あのなあ、先に言っておくがお前たちをどうこうするつもりはないぞ。どうこうするなら、とっくに何かしているだろうが。大体にして、もしそうだとするなら俺がお前たちにどこから来たかなんて尋ねると思うか?」

「それ自体がてめえの作戦かもしれないだろうが」

「……ま、警戒心が強いのは良いことだ。今は簡単に信用しては痛い目を見ることもあるからな。だが、かと言って俺は敵ではないぞ」

「誰がそれを信用すると!」

「それもそうか」

 理世は少年の言葉を聞いてもあっけらかんとしていた。むしろ、納得してしまっているからか、少年のほうが呆気に取られているように見えた。

 何から言えば彼らに信用してもらえるのだろうか……。

 理世はふむと考えて、そして名乗っていないことに気がついた。

「名乗っていなかったな。俺は理世、蓮水理世だ。この家の家主、と言ったところか。お前たちは?」

 理世は名乗った。だが、少年は疑っているようで、返ってきたのは無言だった。

 仕方ない、とばかりに理世は話を続けることにする。

「ここは日本、って国だ。俺が生まれて住んできた国だ。まあ、この国自体は戦をしていないから安心、と言ったところか」

 理世が淡々と説明をしていれば、少年は怪訝そうな顔をする。そして、訝しげに聞いてきた。

「……ニホン? 聞いたことがない。どこだ、それは」

「おいおい……」

 理世はまさか、と思った。耳を疑いたくなる。確かに、この国自体は小さい。海に囲まれた島国だ。だが、国名自体は有名なはずだ。最近は海外の旅行客も増えてきている。

 だが、そうだとするのならなぜ言葉は通じている……?

 理世は不思議で仕方がなかった。少年とは最初から言葉が通わせていた。何か言葉を交わすのに疑問が生じたことはなかった。

 一体、どういうことだ……。

 理世は再度問いかけてみることにした。

「……お前たちがいた国は?」

「……パイース」

「聞いたことのない国だな……」

 理世は立ち上がってスマートフォンを手にすると、その言葉を検索してみる。だが、国名だとは表示されなかった。

 理世はふむと顎に手を添えた。

 考えられることは二つ。彼らが別の世界から来たか、いまだに見つけられていない国があったか。現実離れしているとはいえ、どう考えても、前者のほうが可能性が高いか……

 理世は一つ息をついて。このまま放っておくわけにも行かないだろうと考える。ただ、今の話を聞く限り、警察に届け出るのはやめたほうが良い、そう判断した。

「……とりあえず、しばらく行く先もないのだろう? 俺の家を好きに使って良い。どうせ部屋ならたくさん余っているしな」

 服とかは買わないとダメか、そう思っていれば少年が反論してくる。

「そんなことを言って、俺たちをどうにかするつもりなんだろう! 金もない、地位もなくなった! 俺たちにはお互いしか残っていないんだ! 家族も――」

 少年が勢いのまま語ろうとするのを、理世は咄嗟に割って入って制止する。

「別に詳しく話さなくて良い。俺がここで見放すのは胸糞悪いと思っているだけだ。金がないとは言うが、そもそもお前たちの金が使えるかも分からないだろう。金だって好きに使えば良い。今まで一人だったからそう使ってもいないからな。必要なものを買えば良いだろう、その感じならいつ帰れるかも分からなさそうだしな」

 理世は気にすることなく淡々と告げた。少年の言葉をどうこう言うつもりはなかったし、理世が口にしたことも本心だ。もともと一人でこの家を使っていたから勿体ないほどに部屋は余っている。しかも、金もそんなに使っていなかった。生活費ぐらいにしか回していなかったようなものだ。物が多いことは好きではなかったし、必要なものしか購入しないようにしていなかった。だからこそ、部屋は使われていないところも多い。

 それを使ってくれるというのなら、願ってもないことだ。

 使わない部屋のほうが勿体ないのだ。むしろ、部屋だって使われることを望んでいることだろう。ならば、この兄妹に使ってもらおうではないか、それが理世の考えだったのである。

 少年は驚いて固まっていた。理世を見てポカンと口を開けて、さっきまでの威勢はどこへやら黙ってしまって。唇が戦慄いているようで、震えていた。何かを言おうとして、けれど一度言葉を飲み込んだようだった。そして、それを隠すかのように奥歯をギリッと噛み締めていた。

 感情を爆発させるかのように、少年が口を開く。それでも、妹から手を離すことはなかった。

「ふざけるな! お前のことは信用していない、信用できない! 信用できない者からの施しなど、受けねえぞ!」

 ペリドットが怒りでギラつく。

 理世はそれを見て、一つ息をついて。少年の元まで歩み寄ると。


 ――迷わずに、少年の額へデコピンをかました。


「いっ!?」

「おにいちゃん!?」

 お、初めて妹が喋った。

 理世はそう思いつつも、それには触れることなく。少年の前にしゃがみこむと、目線を合わせて口を開いた。

「一つ、教えておいてやる」

「ああ!?」

 少年が額を押さえながら怒る中、理世は気にすることなく告げる。ただ、少年には聞いておいて欲しいと思った。

 自分の、考えを。

「お前からしたら、納得がいかないかもしれないがな。良いか、少年――俺のことは信用しなくて良いから、てめえが生きるために俺を利用しろ」

「……っ!」

 少年が息を呑んだのを、理世は見逃さなかった。だが、まだ言わなければいけないことがある。

「てめえが他人を信用しないのは理解した。だが、今のてめえが何をしなきゃいけないかは、てめえが一番分かってんだろうが」

「しなきゃ、いけないことって……」

「妹、守るんだろう?」

 少年はまた息を呑む。そして、少女を抱き締める力が強くなっていた。

 少女はキョロキョロとしてから、兄を見上げる。だが、何も言わずにキュッと兄の服を掴んでいた。

 不安だろうな、そう思いつつつも、理世がすることは妹を安心させてやることではない。自分が声をかけたところで、逆効果なのは目に見えていた。

 ならば、やることは一つ。

 理世は少年の瞳を覗き込んではっきりと告げる。

「だったら、妹を守るためにも、そして妹と生きていくためにも俺の金と家を利用しろ。衣食住は揃えてやる、あとはてめえ次第だ。それと、何度も言うが信用はしなくて良い。俺のことが信用できると思ったなら、その時で良い。それと、」

 理世はぽんと少年の頭に手を置く。触れても、手を振り払われることはなかった。

「てめえも、妹と生きることを、生きて帰ることを考えて優先しろ」

「……っ!」

「妹にはお前しかいないんだろう、ならばお前が一緒に生きなくてはな。家の物は好きに使え。俺はしばらく家を留守にするからよ」

 理世はぽんと少年の頭に自分の手を弾ませてから外す。そして、チラリと少女が自分のことを見ていることに気が付き、安心させるように口元を緩めた。

 だが、少女は顔を少年に埋めてしまうだけの結果となってしまった。

 理世はクスリと笑って、立ち上がる。そして、簡単に財布とスマートフォンだけを持つと、家の鍵を念の為にかけて出かけたのであった。




 Ⅲ


 うーん、家の鍵はやめたほうが良かったかなあ。

 閉じ込めたつもりはなかったが、それでもそう思われても仕方がなかった。だが、やはり鍵をかけないというのは不用心だったし、もしかしたら侵入されるかもしれない。最近は物騒だ、ならばできることはしておきたい。

 信用しなくて良い、とは言ったが、俺が信用を失う行動をしてはいけないよなあ……。

 家の鍵だけは許してくれ、そう思いつつも、帰ったら一応謝罪ぐらいはしとくかと考える。

 仕事のことはそう心配しなくて良いだろう。有難いことに在宅ワークだ。家からも基本出なくて良いだろうから、兄妹のことにも目を光らせておける。

 さてと、どうするかな……。

 妹はともかく、兄は何か並々ならぬ事情を抱えていることは理解した。妹に関してはほとんど何も分からないが、兄は見ている限り借りてきた猫のようだ。威嚇しまくって他人をよりつけない、そんな様子であった。

 懐柔する、というよりは、多少心が癒えると良いんだが。

 何かあったのは間違いない。その証拠に兄のほうは何かを途中までいいかけていた。ただ、それを聞くのは今じゃない気がして、理世は意図的に途中で遮ったのである。

 他人を信用していない、と言うよりも、大人を信用していない。理世は兄の様子をそう感じ取っていた。勢いよくつい家のことを口走ってしまったというところを見るに、ここ最近で何かが起こったに違いない。

 ただ、それは理世の推測でしかなかった。出会ってまだどれくらいだろうか、一時間ようやく経過しただろうか。それぐらいの短い時間で、彼らのすべてを理解できているとは思っていない。

 ただ――。

 俺も、よく分からねえんだけどな。

 家族との思い出は、理世自体少ないほうだった。物心つく頃はまだ両親といた。だが、運命は残酷だ。一瞬にして理世の家族は奪われてしまった。

 一軒家、そこで過ごした記憶は、一人の記憶のほうが圧倒的に多い。両親が共働きだったのもあるだろうが、一人の記憶しかないように思えた。

 ……何年経とうが、慣れねえ話だな。

 理世は自分のことながら他人事のように思った。

 あの時の絶望感は忘れない。頭が真っ白になったことも、この世界に希望なんてないのだと思ったことも、一度ならずに何度も思った。そして、その時の記憶は今もなお褪せることなく鮮明に覚えている。

 唯一救いだったのは、記憶が残っている家を遺して貰えたことだ。それだけでも自分の居場所はここにあるのだと思えた。辛い記憶だけじゃない、微かでも幸福(しあわせ)な記憶が残っている場所があるだけで、自分にとっては相当な救いだったのだ。

 おそらく、先ほどの話を聞く限り、家すらも奪われてしまったのだろう。となれば、あの兄妹に関しては自分よりも辛い経験をしたはずだ。自分と同じことを思ったかもしれないし、酷い経験ももっとあったのかもしれない。

 だが、理世が気にすることはそこではない。

 それよりも――。

 あの兄妹が、人間不信にならないかのほうが重要だな……。

 理世が気にしているのは、そこである。

 あの兄妹が帰る場所も、彼らが何を思っているのかも、はたまた何を味わってきたのかも、理世にとっては重要ではなかった。

 話したくないことがあるのならそれは本人たちが話すまで聞かずに待っていれば良い。

 自分にかかわりたくないと言うのなら、場所だけ使えば良い。

 それで良いと思っていた。

 それよりも重要だと思うのは、彼らの傍にいてやることだ。傍にいて欲しくないにしても、彼らが多少なりとも自分の家にいることで心の傷が癒えるようになれば良い、理世はそう考えていた。

 ただ、と思うのは。

「……そんなこと、俺には向いてねえけど」

 自分には自分の生き方がある。

 自分の考え方がある。

 あの兄妹と生き方や考え方が一緒なわけがない。そんなことは十中八九、分かりきっている話のはずだ。

 自分の生き方を、彼らに押しつけるつもりはない。

 自分の考え方を、彼らに知って欲しいとも思っていなかった。

 それでも、このまま見放して、後で悔いるぐらいなら。

 ……俺のやれることを、やるだけだよな。

 人は助け合わないと、限界が来る。

 一人で生きることもできるはずだ。だが、やはりどこかしら誰かに協力してもらうことになるだろうし、必要な場面も出てくる。そして、その人の温かさにありがたみを感じ、助け合いの大切さが分かるというもの。

「多少なりとも、力にはなってやらないとな。ここで会ったのも何かの縁だし」

 理世は歩きながらグッと伸びをして。

 ……よし。

 これから買わなくてはいけないものを頭の中で整理することにしたのであった。




 IV


 理世は一通り必要でありそうなものを購入してから帰宅した。鍵を開けてリビングに進んでみれば、兄妹はいまだに抱きしめ合ったままであった。動いた様子はなさそうである。

 もしかしたら、理世がいない間に話はしたかもしれないが、戻ってみたら無言のままであった。少女の泣く声も落ち着いたようで、静寂が包み込んでいるだけである。

 妹はやはり顔を見せない。兄の腕の中で顔を埋めているだけだ。家を出る前にチラリと見ただけで、なかなか顔を上げることはなさそうだ。

 対して、兄は警戒心が最大と言ったところか。少しの物音ですらキッと睨みつけてくる。

 これは……。

 理世はやれやれと首を横に振る。これは一筋縄ではいかない、最初から分かっていたような気もするが、今さらながらに再確認した気持ちでいっぱいだ。

 どうにも、できないかもなあ。さてさて、どうしたもんか。

 理世は肩をすくめる。それでも、焦る様子はなくて。

 とりあえず、とばかりに買ってきた食品類を冷蔵庫へと移すことにするのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ