第一四章 兄妹の印
I
……困った。
それが理世の現在の心境であった。
シリウスとともに屋敷に帰ったところで、まさかの展開が起こったのである。
どうして、こうなった……。
理世の中には次々と疑問が浮上してくる。止まる気配がない。目の前で起こっている様子が変わることもなく、答えのない空間でその状態で耐えることしかできなかった。
理世の疑問が増え続けている状況には、疑問が解消されないことももちろん原因のはずだ。だが、それよりも現状を生み出した本人が説明するつもりがなさそうで。余計に状況が逼迫しているように思えた。
理世はじっと自身の腹部の辺りに視線を落とす。ソファに座っているから背中は優しく包まれているものの、背後に逃げ場はない。それに加えて前からはぎゅうぎゅうと容赦のない締め付けが与え続けられている。圧迫感が強く、理世が身じろぐことも許してはくれなかった。
理世は一つため息をついて。
「……どうしたんだ、サフィラ」
自分の腹部にガッシリと抱きついたままでいる、この屋敷の妹へと声をかけた。
屋敷から帰ってきてすぐにシリウスの横から掻っ攫われるかのようにして連れて来られたのは、サフィラの部屋。現在の状況になってからはかなりの時間が経過しているが、本人はまったく離れる様子がなく。むしろ、理世の腹部に顔を埋めてからは一言も発さずにじっとその場所に居座っていた。
それにしても、息苦しくはないのか……。
ずっと顔を埋めたまま、動かない。苦しくないのだろうかとつい心配してしまう。
ちなみに、理世はといえば正直苦しかった。この状態になって、かれこれ一時間ほどの時間が経過しているだろうし、身動きも取れない。しかも、サフィラが抱きしめてくる力は強く、振りほどこうにも叶わないし、何より理世からしたらそんなことできるわけがなかった。
相手がサフィラじゃなければ、気にせずに振りほどいていたが……。
サフィラに対して腕を振りほどくというのは、やはり気が引ける。どうにもまだ理世の中では幼かった頃の印象が強く、それでいて大事な妹のような存在だ。そんな彼女に対して手荒なことはしたくなかった。
理世は何度目か分からないが声をかける。
「おーい、サフィラ。どこにも行かねえから、そろそろ離れてくれ」
せめて、力だけは緩めて欲しい。
次いで告げれば、サフィラがピクリと反応をする。だが、顔は上げないし、声も発しなかった。
理世の切実な願いをどこまで聞き入れてくれるだろうか。
そんな心配は杞憂に終わる。多少なりとも腕の力が緩んだのだ。理世はようやく解放された気になった。
おっ、と理世が思ったのもつかの間、サフィラがゆっくりと顔を上げた。腕は腹部にいまだ回っているものの、力が緩んだからかサフィラの顔をしっかりと見ることができた。
ズレ落ちそうになっていた身体を、身じろいで座り直してサフィラの顔を見ていれば、彼女の頬はぷくーっと膨らんでいて。いかにも不機嫌ですって表情をしていたのである。
態度に出やすいところはシリウスに似ているな、そんなことを思いつつ、理世はサフィラの頭に手を伸ばした。そして、ゆっくりと頭を撫で始める。
サフィラはその手に頭を擦り寄せるものの、機嫌が直る傾向はないらしい。
理世は首を傾げつつ。
「どうしたんだ、サフィラ。ずっとその調子だと俺も心配になるだろう?」
理世は問いかける。
だが、サフィラは不機嫌なまま、今度は口を尖らせて。そのまましばらく無言が空間を満たした。
……これは、中々口を割らないかな。
時間が解決してくれれば良いのだが、理世はそう思いつつサフィラの頭を撫で続けた。
理世の家にいた頃の、幼いサフィラもそうだった。理世がサフィラに手を焼いたのは、記憶に新しい。
あれは、理世の家に彼らが来てしばらく経った頃のことだっただろうか。
理世が家事で少し目を離した隙に、兄妹が大喧嘩をしたようで。兄妹で喧嘩をしているところを見たことがなかったし、まずシリウスがサフィラに怒るようなことをするだろうかと理世は驚いたものである。その後、二人に何があったのかと尋ねるものの、二人ともギュッと口を引き結んで何も言おうとはしなかった。そのうち、シリウスは別の部屋へと頭を冷やしに行ったようだったが、サフィラは理世にギュッと抱きついたまま離れようとはしなかった。理世が何をしようにもずっとくっついて来ていたので、まるで刷り込みが完了したアヒルの子どものようだったのだ。
ようやくサフィラが口を開いたのは、寝る直前のことであった。半日以上何も言わずに理世にくっついているだけであった。
逆にシリウスのほうが説明したそうな表情をしていたものの、サフィラがずっといたからか気を遣ってようやく説明したのはサフィラが眠ってからであった。
その時の喧嘩の原因は些細な言い合いで。時間が経ってからは何を言い合ったのかも覚えていなかった、という結果であった。
理世はそれを思い出して肩を竦める。
これは、長期戦になりそうだな……。
Ⅱ
理世はサフィラの相手をしながら、ふと思いに耽る。
そういや、シリウスはどうしたんだっけか。
玄関先で半ばサフィラに連行されるように連れて行かれ、背後でシリウスの怒号が飛び交っていたことはよく覚えている。だが、その後追いかけてくる素振りもなく、今ですら姿を見ていない。
何かしているんだろうが……。
理世が疑問を覚えていれば、サフィラはそれに目敏く気がついたようで。
「……リゼさん、何か余所事考えている……」
ようやく話した内容はそれであった。
理世はサフィラに向かい合ったまま、おっ、と一瞬驚く。思ったよりも早くに口を開いたな、と思ったのである。そう思いながらも、すぐに肯定した。
「ああ、シリウスのことをな」
とは言っても、シリウスの行方を気にしていただけだ。他に何か気にしていることはなかった。
それに、理世からしたらシリウスを心配することも、サフィラを心配することも同等のことだ。何か違いがあるわけではなかった。
だが、サフィラはそれが大層納得がいかなかったようで。
「……」
また沈黙して口を尖らせた。ムッとした表情を見せてから、また理世の腹部に顔を埋める。
……あ、失敗した。
理世には何が原因か分からなかったものの、会話を失敗したことだけは理解した。サフィラの機嫌はさらに急降下しているようである。
さて、どうするか。理世はそう考えた。
要は、サフィラの機嫌を取ることがさらに難しくなったということで。ようやく口を開いたと思ったのに、結果はこれだ。
どうにかしなくては、そうは思うものの、理世の中で何か良い案が思い浮かぶことはなく。ただ、サフィラの好きなようにさせるしかないように思えた。
しかし、と理世は思う。
シリウスのことですら、機嫌が悪くなるのか……。
お前の兄のことなんだが、そうは思うものの、それを口にすることはなく。ただただ理世は内心で驚いていた。
兄妹なのだから、兄のことに関しては気にしない。そう考えていたが、どうやら兄を優先することですらサフィラにとっては嬉しくないことのようで。
難しいものだ……。
どうやら、サフィラは機嫌が悪くなると独占欲が強くなるらしい。
屋敷内で理世が誰か別の者と話していても、会話に乱入してくるぐらいだ。幼かったサフィラも、理世が来客と会話していればギュッと足にしがみついていた。
もしかしたら、まだ幼かったサフィラにとっては、俺の存在が母親のように大きかったのかもしれないな。一時はそう思っていたものの、どうも違ったらしい。
大外れした予想は、どうにも理世を不利な状況に立たせたらしかった。
理世は再度肩を竦めて。
「……サフィラ、教えてくれ。俺も何時までもお前の気分が悪いのを見ていたくはないんだよ」
理世はぽんと軽くサフィラの頭に手を置く。撫でていた手を止めたからか、サフィラは小さく身じろいだ。
理世はさらに言葉を続ける。
「どうしたら、許してくれる? お前を怒らせたというのなら謝りたい。お前が気分を良くしてくれるのなら何かしてやりたいんだ。ダメだろうか?」
理世が尋ねれば、サフィラは黙ったまま顔を上げる。
やがて、ぽつりと言葉を零した。
「だって……」
理世は予想とは違う出だしに面食らった。キョトンと目を瞬きながらも、サフィラの言葉をじっと待った。
すると――。
「……だって、リゼさんが兄さんのこと考えているから」
「……は、」
「私が今、目の前にいるのに」
サフィラはそれを告げると、また沈黙した。
つまり、である。
嫉妬した、ということなのだろうか……。
この場合、「ヤキモチ」という言葉のほうが当てはまるのかもしれない。
そうだとしてもだ。
……兄妹で、対抗することなのか。
思った以上に、サフィラはかまって欲しがりなのかもしれない。
理世は少しズレたことを思いつつ、とりあえずとまたサフィラの頭を撫でるのであった。
Ⅲ
とりあえず、サフィラの好きなようにさせていれば、突如扉が蹴飛ばされそうな勢いで開け放たれた。開いた扉の先をよく見てみれば、シリウスが右足を高々と掲げていて。
「おい、サフィラ! いい加減にしやがれ! どれだけ独占してやがる、てめえは!」
「とりあえず、シリウスは扉の心配をしろ」
理世は思わず口を挟む。よくあれで扉が壊れないものだと逆に感心してしまった。それだけ頑丈に作られているのかもしれないが、それにしてはおかしくないだろうか。
何か特別なことでもしているのか……?
思考がズレるものの、それどころではなかった。
シリウスが怒ったまま部屋に入ってきたかと思えば、サフィラの機嫌はまた急降下した。
理世は二人を交互に見比べて。
「おい、喧嘩するなよ」
一応、止めることにした。
理世の家にいた頃と似ている状況だ。だが、その頃よりタチが悪いのは、シリウスの怒りが真っ直ぐに向いていることと、サフィラが幼かった頃よりも不機嫌さが増していること。
幼かった兄妹は大きな喧嘩じゃない時でも、だいたいシリウスが何か言って、サフィラが拗ねるパターンが多かった、と理世は記憶している。
……そう考えれば、意外と喧嘩はしていたのか。
理世はそう気にしていなかったが、改めて思い返してみればそうかもしれなかった。
シリウスは態度に特に出やすい。キッパリと発言するし、怒りは特に表に出やすかった。
対して、サフィラは普段が明朗快活だからか、機嫌が悪かったり、不満があったりすると、黙る傾向があった。サフィラも態度には出やすいものの、基本的に不満を言わない。
多少は変わったと思ったんだが……。
理世の思い過ごしだったらしい。
理世がこちらの世界に来てからすぐにサフィラを見た時、サフィラは兄のシリウスに対して強く言い返している印象があった。自分の主張が言えるようになった、成長した、そう思っていたのだがどうやら違ったらしい。
理世が思案していれば、シリウスは不機嫌さを隠しもせずにあろうことか舌打ちをして。
「大体にして、サフィラ! てめえ、普段は言い返すだろうが! 昔の癖をここぞとばかりに出しやがって! リゼに甘えているんじゃねえよ!!」
その言葉に理世は耳を疑った。聞き間違いかと思ったのである。
シリウスの言葉が本当だとするのなら……。
理世は考える。
シリウスは今、サフィラが普段言い返すと告げていた。ならば、理世がこちらの世界に来てすぐに見た光景は、今ではすっかり普通の光景だということ。
だというのに、今は黙っていた……? その必要は何だ……?
理世が考えている中、サフィラがピクリと身体を反応させる。どうやら、シリウスが告げた内容が図星だったらしい。
サフィラは理世に手を回したまま、怒りを露にした。そして、首だけを兄のほうに向けて言い返す。
「何よ、兄さんだってリゼさんのこと独占するくせにっ! 何かとすぐに自分のところに連れて行くじゃない!」
「ああ"? 俺はいいんだわ!」
「どこから来るのよ、その根拠! 私だって独占したいもん、私が独占するんだもんっ!」
「上等だ、サフィラ。表出ろや」
「やめろ」
ヒートアップしてきた兄妹の言い合いを耳にしながら、理世は待ったをかける。これ以上、言い合いが酷くなれば何が起こるかは分からない。そろそろ終止符を打つべきだろう。
だが、次の瞬間だった――。
――何を思ったのか、サフィラが突如腹部から離れて理世の首筋に噛み付いたのである。
IV
「……は、」
「っ、おいっ!」
理世とシリウスの言葉はほぼ同時であった。
理世の思考が停止する中、サフィラによって首筋にチクリと痛みが走る。噛み付いた、と言うよりは吸い付いたと言うほうが正しかった。歯は立てられておらず、強く唇が押し付けられている。
理世はそれを理解しつつも、身体を強ばらせ気を張ることを意識することしかできなかった。
そうでなければ――。
や、べえ……、気を許したら変な声が出そうだっ……!
むず痒いような、擽ったいような。何か変な感じが込み上げてくる。初めて襲いかかる感覚に、理世は戸惑いとともに恐怖を覚えていた。
だが、やはりサフィラを強く振りほどくなんてできるわけもなく。ただただ理世は奥歯をぐっと噛み締めるだけだった。
現実はそう長くない時間、だが理世には一生のように長く感じた。
しばらくしてサフィラが離れ、満足そうな表情で理世を見つめる。
理世の口からようやく息が零れた。張り詰めていた空気が抜けて、力が抜けそうになる。ソファから落ちなかったのは、理世の意地だったのかもしれなかった。
首の状態が見たい。そうは思うものの、理世の視界には限界がある。見下ろしたところで視界には入らなくて、ただ首筋の感覚が残っているのをなんとも言えない感情で噛み殺していた。
サフィラがふふっと笑う。
「付けちゃった、リゼさんが私のものって印」
サフィラが印の場所を指で撫でていく。それだけでも身体が反応しそうになって、理世は身じろぐだけに留めようと必死だった。
サフィラが嬉しそうに笑う中、今まで固まって見ていたシリウスが身体をワナワナと震わす。そして、ついにシリウスの中でブチッと切れた音がして。
シリウスが足早に理世の背後に回ったかと思えば、次いで走る首への痛み。
今度は、シリウスが理世の首筋に噛み付いたのである。
「いっ――!」
先ほどとは違って歯を立てられたことにより、理世の口からは痛みに耐える声が零れる。強く噛み付いているようで、感じたことのない痛みに理世の表情が歪んだ。
長く感じた短い時間は終わりを告げる。理世が息を零している中、シリウスが理世の顎を掴む。そして、上から理世の瞳を覗き込みながら、ペロリと唇を舐めて。
「俺の印、強く深くつけてやった。逃げんなよ、リゼ」
シリウスの言葉に、今度はサフィラが怒りを露わにする。文句を言うサフィラに、シリウスが満足そうな表情を見せていた。
シリウスの手が離れ、理世はポカンとする。この十数分程度の間に何が起こったのか、何をされたのかをようやく噛み砕いて、理解して。
そして――。
「……こ、のっ……、いい加減にしろ、バカ兄妹!!」
――初めて、兄妹に拳骨を食らわせるのであった。




