第七部 終話 オマエの言葉は何よりも重い
「なぁ、ナナクル・・・ホントに僕じゃなきゃダメなのか?」
「ばぁか、オマエはオマエが思っているいる遥か以上に、ADaMaS内での影響力がデカいんだ。たぶん、ADaMaSで暮らす全員にとってオマエの言葉は何よりも重いと思うぜ?」
Second-ADaMaS-City内にあるホテル(こんな地下のホテルにいったいだれが泊まるのかという疑問はこの際、無視する)にある大ホールに集められた人々の前に、13人が立ち並んでいる。改めて、この戦争に介入することになるだろう経緯を彼らは説明しようとしていた。
「いや、でも僕がうまく喋れるとは思えないんだが?・・・それこそナナクルやローズの方が・・・」
「ナニ言ってるのよ?安心していいわよ。誰もアナタにウマい喋りなんて期待してないでしょうし、ADaMaSの1人残らず、アナタを信用してソコはスルーしてくれるわよ」
「ゴチャうじしてないで、とっとと行く!」
お尻辺りに軽い衝撃を覚えたウテナは、それでもその衝撃をその場で耐えることもできずに2歩前へと進んだ。対面で見ている者たちの視点によっては、まるでウテナが自らの意志で進み出たように見えただろう。最早、ウテナにその大役から逃れる術はないようだ。
覚悟を(仕方なく)決めたウテナは、決して文章の組み立てが上手くなかったとしても、自らの意志を語り始めた。
ADaMaSには世界に対して〝責任〟がある。たとえ生きるためだったとしても、造り出したMhwを実際に使った者ではないとしても、生みの親が自分たちであることに違いはない。それは人生においても同じだ。子供である間は、その子が持つ責任を負うのは親だ。責任の意味を、重さを、そして間違えてしまったときに果たすべき行いを教えるのは親だ。これをADaMaSに置き換えるならば、Mhwを生み出したADaMaSが親であり、それを使用する者が子だろう。そして、ここで言う〝子〟とはパイロットのことではない。パイロットに戦闘行動を指示する者たちのことだ。
ダカールで、新たに生み出された1つのMhwを人々は目にした。ソレは名をPlurielと言った。その機体を実質的に生み出したのがADaMaSでなくとも、現実的にはADaMaSが生み出したと同義だった。その機体を操る者は「一般市民という分類が存在しない」と言った。それの意味するところはつまり、全人類が戦争に介入していると言ったと同じだ。そしてその結果、今でも一般市民のはずな〝Valahllaの使者〟は、武器を手に取り、自ら戦争行為に手を染めた。
Noah’s-Arkは本来の軍の姿を忘れて久しい。本来ならば、人の生を脅かす武力的脅威に対抗することが目的だったはずだ。その〝人の生〟は宙にもある。それが20年という長い歳月の中でいつしか、Noah’s-Arkそのものが〝人の生を脅かす武力的脅威〟へと変わってしまった。そしてその脅威に対抗するために、StarGazerが生まれた。互いに同じ人であることを忘れ、まるで別の星の生物による侵略であるかのように扱い、人同士の争いに終わりは見えない。ダカールでの事件を目にした今、この戦争に終止符を打つためには、どちらかが滅びることしか見えてはいないだろう。
彼らに武器を与える者たちがいる。それは自分たちも含めた軍需産業だ。軍需産業が〝悪〟かどうかの議論は別の話だ。問題は、生み出される兵器の総量と、配分をコントロールする者が存在することだ。これがミシェルの言う〝意志による戦争の永続〟だった。戦争を続けたいと願う者が居るのだろうか?実際に戦場に身を置くほとんどの者は、戦争の終結を願って戦っている。その意志を嘲笑い、操り、殺し合いを続けさせようとする意志の存在は、同じ軍需産業であるADaMaSとしては容認できない。
では、そもそも〝平和〟とは何なのだろうか?争いの無い世界?地球上に生きる生物にとって、争いから切り離された生物は存在しない。それは〝生存競争〟だからだ。よく考えてみて欲しい。〝生存競争〟という文字の中には〝争い〟という文字が堂々と鎮座している。
どんな生物でも、争いの中に生きている。そして、生物の中で唯一異なる存在なのが〝人〟だ。どんな生物であっても、生きるためには食べる必要がある。食べる者と食べられる者が存在し、そこに争いが生まれる。食べる側の生物は、自身の命を維持するだけのエネルギー分を捕食できなければ、先に待つのは〝死〟だ。そして食べられる側は身を護るための手段を獲得していく。この摂理に唯一除外された存在こそが人類だ。
人は食べる物を自分たちで作り出すことができる。農作、家畜、養殖等、その対象は多い。かつては人を襲う生物も存在したが、それらは絶滅するか、または人の手によって駆逐された。人は護るための手段を次々と生み出すことができた。
生命を守るための手段を獲得した人類は、生物の頂点に達したと言っても過言ではないだろう。だが、生物であることは止められず、〝争い〟から逃れるコトだけは出来なかった。そして人は争う相手に〝人〟を選んだ。
争いの無い世界は存在しない。実現させることもできない。人は争うことを止められない。最終的には、殺し合うことを余儀なくされる。食料という観点から見ても、供給が追い付か無くなればソレは待っている。だが・・・同時に人は平和を願う唯一の生物だとも言える。
〝平和〟という概念は実に曖昧なものなのだろう。「平和とは何か?」と問われれば、「争いの無い世界」と答えることができる。しかし、争いの無い世界に至る過程を平和の中で定義づけることはできるだろうか?いずれも出来るかどうかは別として、人類から武器を取り上げればいい?それとも闘争本能を消せばいい?何なら人類が居なくなればいい?
人から武器を取り上げたとしても、次には武器として使えるモノを代用するだろう。それすらも取り上げたとして、人間には人体という武器がある。極論的結論としては、人類から武器を取り上げることは不可能だ。
人の闘争本能を消し去ることができるだろうか?それを実現するとしたならば、人類を1人残さず何らかの装置に座らせ、脳をいじくることになりそうだ。仮にそれが出来たとして、次に生まれて来る子に対してはどうする?出産と同時に処置するのか?そうだとしても、人類の全てが病院で生まれているわけでもない。可能性として見れば、不可能ではないのかもしれないが、限りなく不可能に近いと言えるだろう。
ならば人類という種が存在しないことで平和な世界とすればいいのだろうか?人類以外から見れば、世界は平和になるだろう。だが残念なことに、平和を実感できる人類がそこに居ない。平和という概念を持つ人類が居ない世界は、果たして平和な世界だと言えるのか?理論的には言えるだろうが、誰もソレを望みはしないだろう。
結局のところ平和を実現できない人類は、増え続ける人類を自ら持て余している。今の世界はそんなところなのだろう。
「人が宇宙に出ることを余儀なくされるほど増えたころ、地球にとって人類は〝敵〟になったんだ。なのに人類は自分たちをいくつかに分け、互いにその〝敵役〟を押し付け合ってる。その流れの中で、次はADaMaSを敵役として舞台に上げようとしている」
ウテナはそこで一呼吸置いた。そこに集まって居る人々を隅々まで見渡す。ほとんどが知っている顔だ。
「僕はADaMaSのみんなに約束する。もう糸口は見つけているんだ。必ず地球にとっても人類にとっても、今人類が抱え、今後も抱え続けるだろう問題の解決に至る道筋を見つけ出す。だから僕たちは倒されるわけにはいかないし、このまま人類も地球も放っておくことはできない。それが僕の戦う理由だ。このワガママ、付き合ってくれるか?」
3日後、この時ホテルの大ホールに集まった人々は1人も欠けることなく、それぞれが抱く大切なモノのために、Second-ADaMaS-Cityを後にした。そして3時間後、そこから200キロほど離れた何も無い大地の中から、3隻の戦艦が空へと飛び立った。




