第六部 第2話 不幸
アン・ハートレイはN3-systemによって見出された存在だ。彼女は2カ月前まではセウの印象どおり、IHCで勤務する一般人だった。人にも動物にも優しく、おっとりとした雰囲気を持っている彼女は、その容姿も可愛らしく、22歳だというのに学生に間違われることもしばしばあった。どう考えても戦争とは無縁だと思われていた彼女が、今こうしてNoah’s-Arkの軍服を着て歩いている。
戦争に参加することは不幸なことなのだろうか?そう問われれば、戦争に直接的な関与を持たない者は「yes」と答えるだろう。それが彼女にとっても真実であるならば、彼女の不幸はどこにあったのか。
N3-systemはNEXTの持つNEXT-Levelを詳細に分析し、数値化し、可視化する。そしてNEXTたちは往々にして他者とのつながりを(本人たちの意思とは無関係に)NEXT-Levelの領域で強固にしている。N3-systemは正確に個人を特定するまでには至らないが、その繋がりを大まかに辿ることが可能だった。N3-systemの存在は、彼女にとって不幸の始まりだったのかもしれない。
アンには軍人である兄が居る。軍人と言ってもMhwパイロットではなく、Mhwの整備士である兄は、過去にAttisの整備を担当していたこともある。その際、Attisのパイロットであるヴォルフゲン・フロイトと親しくなり、アンも含めて兄のように接していた。本人も未だ自身がNEXTだと知らされてはいないが、N3-systemがフロイトからつながりを辿り、アンにたどり着くまでにそれほど時間は必要としなった。もしかしたら、フロイトや兄といった存在が、彼女の不幸の始まりだったのかもしれない。
N3-systemがアンを見つけ出したのは、システムが稼働して間もなくのことだった。試験的な運用だったにも関わらず、フロイトからアンへ辿りつたのは一見すると奇跡のようにも思える。事実、本格的にNEXTの捜索を開始していないN3-systemはその当時、アン以外のNEXTを発見していない。逆に言えば、そんな状態の中、アンは見つかったのだ。
彼女が最も不幸だったことは、アン自身がNEXTたちの中でも圧倒的なほどの高い数値を示すNEXTであったことだろう。その唯一とも言えるほどの存在がIHCの内部に居ることを、N3-systemがミリアークに告げた。ミリアークがアンにたどり着くのはむしろ容易なことだった。
アン・ハートレイという強力なNEXTの存在が表面化したことは、戦争という世界においてN3-systemが完成したとき、それは必然であった。だが、それが必ずしもアンを軍人に変えてしまうことにはならない。
Noah’s-Arkはアイレス・セウやニキ・アウラによって、NEXTの有用性を知っていた。ミリアークも自身の目的の為、アンの存在を無視できなかったとは言え、Noah’s-Arkがアンの戦力化を望まないわけがない。
その日、アンはいつもどおり出勤し、勤務開始前に兄と電話で週末のことを話した。いつもどおり同僚に「彼氏?」と聞かれ「兄貴だよ!」と答える。それは部署内でも見慣れた光景だった。その風景に異変が生じたのは、午後1時を少しすぎた頃だった。
「ハートレイくん、少しいいかな?」
アンの属する課のトップである課長がアンのディスクに寄り、声をかけた。いつもどおりの光景だったなら、その場で何かしらの仕事を持ちかけられたはずだ。課長と視線が合ったとき、アンの胸中には不安が広がった。課長の眼に〝混乱〟を見たことが原因だ。
N3-systemによって明らかとなったことではあるが、アンのNEXT-Levelは他者の感情を受け取る能力に特化している。長い年月をかけて、アンはその力をコントロールする術を兄と一緒に身に付けていたが、他者の感情がある一定よりも高ぶっている場合、そのコントロールを無視して彼女に届いてしまう。
アンのコントロールを突き抜けて刺さった〝混乱〟という感情は、すぐに〝言葉〟となってアンの耳に聞こえるようになった。「この子、何をしたんだ?」「ウチの最高幹部と軍の将官が呼び出すなんて、ただ事じゃないぞ」頭の中に届いたその声は怯えているように聞こえた。それはアンにとっても同様の感情を引き出した。
突然の出来事(聞こえた心の声も含めて)に正常な反応が出来なかったアンに、課長の心内はさらなる追い打ちを加えた。「わ、私の責任問題とかはゴメンだぞ!」アンは他者に対して優しい。それは自身のNEXT-Levelが知らずの内にそうさせてきたことだ。
「はい、今、大丈夫ですよ」
アンは震えそうになる自分を必死に抑え、表情に異変が出ないように願いながら腰を上げた。課長の後ろをついて部署を出ると、廊下の先にある別室へと向かう。その部屋まではそう遠くはない。しかしアンにとってはたどり着かないのではないかと思いたくなるほどの距離があった。聞こえてくる声を聞かないようにとあがき続けるアンは、止まりそうになる足を必死に交互に動かし続けた。
いつ、どうやってその部屋に入ったのかは覚えていない。気が付くとアンは1人その部屋に取り残されていた。むしろ、気が付いたのは課長の存在が自分から離れたからだとも思う。そして改めて、部屋の中に3人の人物が居ることを知った。1人は見たことがある。IHCの最高幹部ミリアーク・ローエングラムだ。彼女はソファに腰かけず、窓際の壁に寄り添うように腕を組んで立っていた。ソファに座る2人に見覚えは無い。それでも、その2人が軍人であり、相応に階級の高い人物であることが軍服で解る。「こんな子が強力なNEXTだと?」「使い物になるのか?」2人の思考がアンに突き刺さった。
アンはNEXTという言葉を知っている。その存在を理解できている。そして何より、自身がそうであることを知っていた。これまで兄とともに努力し、NEXT-Levelを隠して生きることに成功していたはずのアンの世界は、この瞬間、音も無く崩れ去ったように感じられた。
それ以降、ソファに座る2人の軍人と交わした言葉をアンは覚えていない。結果から言えば、2人はアンをNoah’s-Arkへ勧誘する言葉を並べ立てていたのだろうと思う。そう言えば、窓際に立つミリアークは何も言葉を発さなかったように思う。
音声としての2人の言葉は耳に、脳に残っていない。だが、彼らが心の中で発した言葉は強烈な痛みとなって残っている。「いざとなれば兄を使えばいい」「兄を戦場に送り込むと言えばどうだろう?」「血縁は兄だけのはずだ」まだ彼らの口から聞いたワケではないその内容に、アンの精神が抗えるはずもない。彼らにとっては呆気にとられた解答だったかもしれないが、アンは彼らから言葉として発せられた最初の勧誘を、いとも簡単に承諾していた。つまり、アンには2人の軍人と交わした言葉が記憶に無いのではなく、そもそもほとんど言葉を交わしていなかった。
アンを襲った不幸は確かにあったのだろう。だがその正体とは何か?〝不幸〟という言葉は実に便利なものだ。それは〝総称〟であり、不幸というものは人によってその正体が異なる。確かに回避する手段の無かった不幸もあるのだろうが、ほとんどの場合において、降りかかった不幸を覆すだけの力を人は自ら手にしている。だが、それは困難なことであるがために、〝不幸〟という言葉を巧みに使い、〝仕方の無い事〟として置き換えてしまう。
アンはその不幸を寄せ付けないための努力を重ねてきた。自らの力をコントロールする術を身に付けた。本来ならば、その努力によって、小さいかもしれないが幸せを享受した人生を送れるはずだった。しかし戦争という世界は、彼女からそれを取り上げてしまった。抗う力を自らの意志で維持することが出来なくなった彼女は、世界に数多蠢く不幸に飲まれた。




