第十四部 第2話 シュレディンガーの猫だ
「話が逸れたわね。ウテナ神様説はちょっと置いておくわ。進化に話を戻すわよ?」
ウテナの思考が〝神〟と等しいという話に十分な衝撃を受けたボルドールとロンだったが、どうやら受け止めるべき衝撃はまだ続くらしい。
「神様だから生物の進化・・・ってのは抽象的過ぎるわな」
「そうね。じゃあ、〝進化〟ってそもそもどういうこと?」
「う~ん、NEXTですか?」
口にはしてみたものの、ボルドールにそれが答えだという確信は無いようで、腕組みしたまま小首を傾げ、ようやくに絞り出したといった表現がピタリとくる。
「それはどちらかと言えば〝進歩〟ね。と言うより・・・人間はもともと持ってた力ね、アレは。それが特出して現れるようになったってことかしらね」
あまり褒められた居住まいではないが、ディスクに腰を掛ける(というより預けるといった方が適切だろうか)姿勢で顎の辺りにやっていた手を唐突に離し、パチリと音を立てさせた指をそのままミリアークの方へ向けながら、ロンが口を開いた。
「例えば、カエルか」
生物は海で発生したと考えられている。仮にそうでなかったとしても、水中に生きる生物はそこでしか生存できず、当然、陸に生きる生物が水中で生きることは出来ない。今でこそ両生類は存在するが、原初にその存在は無かったはずだ。陸と海、どちらの生物からソレが生まれたのかは説があるだけだが、両生類が誕生したことこそがこの場合の〝進化〟だ。それは言い換えれば、それまでの常識を覆す存在に成ることを指す。
「つまり、人間の常識を覆す存在に成るということですか。・・・ああ、なるほど。だから彼だけが進化に影響できる存在だと」
「そういうことね。さっきアナタの言ったことはあながち間違ってなかったのかもね。これこそ、シュレディンガーの猫だわ」
シュレディンガーの猫。簡単に言えば、猫と1時間に1回猫を死に至らしめる装置を一緒に箱の中に入れ30分経過したとき、箱の中の猫の生死は50%対50%であるため、生きている状態と死んでいる状態が同時に存在した状態となる。そのどちらなのかは、箱を開けて猫の状態を認識するまで確定しないという理論だ。
「認識出来なければ成ろうとする存在に成り得るはずもない。というコトですか・・・そして彼は誰も認識できないコトを認識することができる。と」
「そう。それにね?ついでに言えば、反物質は彼の認識を具現化したものよ?」
「アレには〝時間〟というものがそもそも作用しないってことかい?」
ミリアークに目を向けたままのロンには、「ヤレヤレ」と言う言葉が噴き出しで見えそうな表情が浮かんでいる。そんな様子を目にしたボルドールはと言えば、まるで同意したと言わんばかりに目を閉じた。
「ザンネン。作用もなにも、そもそも時間が存在しないのよ、あの物質には」
最早何を言っているのか分からないとばかりに、ロンの両掌だけが天井に向けられた。
「彼の認識が世界に認識されれば、正しい意味で世界が変わるわ。他の人間全てが進化することは無いでしょうけど、進化によって生み出される恩恵は享受できたはず。それこそ、本当の意味で世界が平和に成る可能性すらあったのよ、ウテナ・アカホシという存在にはね」
ミリアークの眼に虚偽や捏造と言った雰囲気は微塵も見えない。どうやら誇張でも何でもなく、それは真実味のあった可能性なのだ。ミリアークもまた、何も世界を支配しようなどとは考えていない。自身の目的を優先してこそいるが、ソレを成すには世界が〝安定的〟である必要があり、結局のところ平和な世界を願っている。ただその過程や方法が他と異なるだけに過ぎない。
「ってことはナニかい?世界は先導者と成り得る存在を失ったのに、そのことに誰も気付いてないってことか?」
「まぁ、そんなトコロね・・・もっとも?ウテナ本人にそんな思惑は微塵も無かったでしょうけど」
まだ半分ほどのアルコールが残されているグラスを持ち上げたミリアークは、その中で揺らぐ液体をじっと見つめた後、一息でグラスを傾け飲み干した。それもまた、普段のミリアークには見られない光景だ。
ボルドールにとっては内心複雑な思いが募った。人は対人関係において様々な感情を抱く。その根底には〝好き嫌い〟が存在するが、男女間において必ずしもその果てが恋愛感情に帰結しない。むしろ、恋愛感情というものはその正体が極めて不明瞭なもの、つまりは曖昧な感情だとさえ考えている。
恋愛感情は異性に対してのみ発露されるモノではない。同性はもちろん、例えばAIやなんなら映像の中のキャラクターにすら好意を寄せる者も居る。だが、ソレが間違いだと誰が断言できる?感情はその個人だけが持ち得ることが出来る唯一のモノだ。当人ではない他者がそれを否定できる道理はどこにもない。例えソレで誰かに被害が及ぼうと、ソレは行動の果ての結果であり、好意を抱くことそのもので被害を及ぼすことは有り得ない。
恋愛感情とは結局のところ〝個への執着〟だ。本人もそうだと自覚していないだけで、ミリアークがウテナに抱く感情はその種類が何であれ〝恋愛感情〟という総称を使うに差し障りが無いように思えて仕方がない。
ミリアークに対して〝執着〟のあるボルドールとしては、神とまで揶揄されたウテナの存在をミリアークの内から追い出すことが容易でないことなど、想像しなくとも解る。
「彼の意志は彼らに受け継がれているのでしょうか?」
ミリアークの様子や表情を直視できないボルドールは、そこに答えがあるワケでもないが、視線をロンに移した。それでも、その口調でミリアークに向けたものだと解る。
「ウテナのやろうとしたことは受け継がれてるでしょうね、間違いなく。でも、彼の考え方となるとそうもいかないでしょうね・・・彼を理解するには人間ヤメる必要があるのだもの。まぁせいぜい、影響があるぐらいじゃないかしらね」
A2が何をしようとしているのかはまだ分からない。〝アタマのイカレた〟ウテナの目指したことなど、もしかしたら結果を目にするまで解らないのかもしれない。少なくとも、そんな男の影響を受けたであろうA2という存在が、場合によっては(おそらくそうなるだろうが)敵対するとなれば、世界がどう展開しようとも脅威と見るべきだろう。
「なぁ?間違ってたら教えて欲しいんだが、今の世界も結局、さっき言ってたシュレディンガーの猫と同じ状態だってことだよな?」
空になったグラスに注がれた視線を移すことなく、その表面にわずかに写っているミリアークの眼が見開かれた。その開かれた眼は大きさを変えることなく、驚きを携えてロンの方へと向きを変えた。
「驚いたわ・・・ロンの言うとおりね。そう考えるとその猫、そこら中に居るのね」
〝結果を確認するまで事象は確定しない〟という一点にのみ着目するのなら、世界は正にロンの言うとおりだ。今の世界は戦争という箱の中に入れられた猫だ。誰もが箱の中に居るにも関わらず、誰も結果を見ることができない。これが単純な〝猫の生死〟というのなら、それは二択に過ぎず、中に居ればそのどちらの状態にあるのかは一目瞭然なのだろうが、戦争という箱の中にあって求められている結果とは何なのだろうか?もしかしたら世界は、シュレディンガーが考えたよりも複雑な状況にあるのかもしれない。
「個人の生き死にか、人類の生末か・・・求めるべき結果すら定かじゃないのなら、シュレディンガーの猫だってどうしていいのか分からないわよね」
それぞれに目指すモノ、果たすモノはあれど、現状で万人に共通なことが1つある。世界は〝混沌〟に向かって歩を進めているという〝事実〟だ。




